ローマ人の物語(新潮社)

 塩野七生著
表紙  塩野七生の代表作となっている作品で、作者が15年にわたって執筆を続けたという古代ローマの興亡を綴った作品です。歴史書として扱われることもありますが、批判好きな学者や作者自らが公言するとおり基本的には作者の他の作品と同様の歴史小説となっています。
 ラテン語による表題を「RES GESTAE POPULI ROMANI(ローマ人による諸々の所行)」としているように、古代ローマ人の言行を中心にしながら滅亡までの通史をたどるという構成で、全15冊で刊行していますが分冊となった文庫版では更に膨大な冊数になっています。アエネアスの伝説から始まり、王政ローマの建国から共和政ローマを経てパックス・ロマーナを実現したローマ帝政、その後の衰退から東ローマ帝国による西ローマの征服によってSPQR(元老院とローマ市民)が消失するまでの時代が描かれています。途中に一冊、ローマを特色づけるインフラストラクチャーを主体にした巻を用意しているのが作者の視点の一つともなっていますが、現代でもキリスト教的な視点では悪の帝国として扱われることも多い古代ローマに一定の評価を与える主張と、遠慮のない筆致が楽しい作品です。

 作者が自ら公言してはばからない、ユリウス・カエサルへの愛着には時に苦笑したくなることもありますが、それだけに強烈な思い入れを持った作家が書き綴る筆致は力強く、ことにカエサル以外にもスキピオ・アフリカヌスや皇帝ハドリアヌスといった、美しく官能的な人物を語るときの文章には引き込まれずにいられません。一方で歴史としては正確さがあやしくなる記述も見受けられて、ローマで奴隷反乱がほとんど起こらなかったかのように描かれていたりとか、不都合な事象があまり扱われないといった傾向がある点は往々にして批判の対象にされています。とはいえ多くの学者が執筆してくれなかった、古代ローマの通史を作家が書いてしまったのですから、これらの批判を言うならむしろ歴史家は何をしていたのだと思わせなくもありません。
 ですがこうした歴史上の観点とは別にして、作者が好む官能的な人物への筆致に比べると田舎臭く泥臭い人物への記述がややおざなりになる点だけはどうしても気になるところで、端的なところでは大カトーやキケローや小カトー、そして皇帝ヴェスパシアヌスへの扱いや評価が低くなっているのは悪い意味でも作者の思い入れの強さを感じさせてしまいます。内乱を収拾して帝国を再復したフラヴィウス朝の初代皇帝を評価しながらも、「ヴェスパシアヌスは幸運であった」という下りがやけに多い点などはそうした一例でしょうか。

 作者自身がローマの人々を評価する計器として考慮したのが、後世の歴史家による評価ではなく彼の政策が後にどれだけ引き継がれたかによって判断するという視点は興味深いですが、それが徹底していないのもちょっと惜しいところです。ユリウス・カエサルやアウグストゥスへの評価はともかく、皇帝ネロを賢帝とは言わずとも皇帝不適格とまで断ずるのは早計ですし、トラヤヌスによっていくつもの政策が破棄されたネルヴァなどは逆に愚帝として扱うべきかもしれません。
 それでもこれまで固定的な評価となっていた、ローマの歴史に独自の視点から光を当てた作者の所行を批判できるものではないでしょうし、タキトゥス批判を主として、五賢帝時代の評価に疑問を呈している姿勢も面白いところです。ティベリウスやドミティアヌスは恐怖政治を敷いた暴君でありネロはキリスト教徒を虐殺して贅沢と淫蕩にふけった怪獣であるといったような、ハリウッド的な影響を離れてローマを描いている作品はけっして多くないのです。正確で客観的な事実に沿ったローマ通史というものが、歴史家の手によって世に広められていればこの作品への批判は必要ありません。

 全15冊中ではハンニバル戦記とユリウス・カエサルの2冊がやはり白眉でしょうが、分量が多いとはいえ全冊を通してローマの歴史をたどるのであっても充分に名作に値する作品だと思います。この作品を見て疑問を持つことがあれば、今度こそ歴史家なり他の作家なりが記した「より正確な歴史」とやらに触れてみるのもいいでしょうが、まずは当時に残された一級の史料に直接触れてみるのもいいのではないでしょうか。作家が主観で語り、歴史家が固定的な評価を綴るのであれば、一介の読者が古代の史料を自分で読んでもいいのではないかと思います。
>他のを見る