ローマ皇帝伝(岩波文庫)

 スエトニウス著 國原吉之助訳
表紙  紀元二世紀頃、ローマ五賢帝時代の歴史家にして政治家であるガイウス・スエトニウス・トランクイルスが書いた有名な伝記で、帝政ローマの礎をつくった神君カエサルから皇帝ドミティアヌスにいたる12名の記録を綴った作品です。ラテン語の原題はDe vita Caesarum(カエサルたちの生涯)とはいえ、内容としてはあまりに噂や伝聞、醜聞が多く当時の人々がローマ皇帝をどのように評していたかという貴重な史料である一方で、信憑性に疑問を持ちたくなるところが多いのは愛嬌でしょうか。

 同じくローマ時代の人々の伝記として有名なプルタークの列伝に比べてもはるかに読みやすく、それぞれのカエサルについて祖先の系譜から業績に始まり外見の特徴から世間の噂や評価などが整理されて書き連ねられています。問題はこの書き連ねられているというところで、著者が噂で聞いただけという話や推測その他が織り交ぜられており、本来は讃えられてもおかしくないエピソードが悪意をもって書かれていたりする例も多く、真正直に呼んでしまうとローマ皇帝とはなんて酷い連中の集まりだったんだろうと誤解されかねません。特にティベリウスやクラウディウス、ネロやドミティアヌスといった皇帝が長く断罪されるきっかけになったのもタキトゥスと並びこの人の著作も少なからぬ影響を与えたのではないかと思います。

 ですが噂と伝聞、醜聞に満ちたゴシップ誌のように見えるこの作品だからこそ、当時の世相がローマ皇帝をどのように見ていたかが窺えることも間違いありません。例えば大盤振る舞いを行わずに公共のために蓄財に務めたティベリウスは貪欲とみなされ、解放奴隷出身の秘書官を優遇したクラウディウスは他人に流される愚鈍な人物と、皇帝の責務とは別に個人的な趣味に没頭したネロは放蕩者と、風紀を厳格に取り締まったドミティアヌスは残酷と評されていますがこれらは一方的な側面であるとはいえ、当時の民衆にそのような批判が存在したこともまた事実ではないかと思わせます。
 ティベリウスの児童性愛やネロによる暴政など、事実としては疑わしくてもそのような噂がローマで語られていただろうことは想像に難くありません。現代でもありもしない大理石の部屋が庁舎に設けられているに違いないといった、噂と憶測に基づくゴシップは後を絶たないのです。皇帝伝はこれらを集めて当時の好悪の評価に沿って構成された作品であり、アウグストゥスによる粛清は黙認されても、ティベリウスによる粛清は看過できないのが無責任な人々の反応というものでした。

 とはいえそうしたゴシップの集まりであることを承知の上で、割り引きながら読んでみるとカエサルたちの意外な側面が窺えるような気になってくるのもこの作品の面白いところでしょう。例えばティベリウスの言葉にある「私が何を言えばいいのか教えて欲しい」という言葉は統治者の責任放棄のように書かれながらも 揚げ足取りに終始する元老院への苦言が見えますし、怪物のように描かれるネロが愛妾アクテや小姓のスポルス、民衆などにも意外に最後まで好かれていたらしい様子が見え隠れしてきます。
 スエトニウスの筆致も偏ってこそいますが訳文になってなお読みやすく、噂や伝聞はあくまで噂や伝聞だと断ってもいるので、そのまま読んでも確かに面白いし裏面を感じ取りながら読んでも飽きません。有名なローマの大火はネロが火をつけた噂があると記し、再建に尽力したネロの姿を指して貴重だった建物を容赦なく壊したとか、ネロを犯人だとする声は何故か黙殺されたとか、まるでネロが首謀者であるかのように誘導する書き方はよく考えられていていっそ見事なほどです。

 そしてこれらをもって単純にスエトニウスが皇帝たちに悪意をもっていたという印象はあまり感じられず、むしろ面白おかしくカエサルたちの姿を綴ろうとしていく中で、一般的に評判の悪かった皇帝にはスエトニウスが楽しく筆をすべらせすぎたというのが実情ではないでしょうか。実際にはスエトニウスはそれぞれのカエサルたちについて賞賛も批判も双方とも記していますし、その中で評価すべきは評価する態度もとっています。
 特に淫猥な描写に関して、これは単にスエトニウスの個人的な趣味ではないだろうかと思える箇所もありますが、こうした最高権力者の伝記がこれだけ楽しい内容で出版されていたという事実にローマ帝国の寛容さを思わせずにはいられません。ビテュニア王の寵童をしていた神君カエサルのゴシップや、美少年だからそのカエサルに選ばれたのだというアウグストゥスの評判までスエトニウスは遠慮なく書いているのですから。

 ローマ帝国の鷹揚さを感じながら、当時の人々の心情に触れつつ裏面の歴史を探ろうといった、大仰な理屈は必要ありません。はるか昔の無責任な噂を、無責任な噂として楽しく読んでみるという当時のローマ人の感覚そのままに味わって欲しい作品です。歴史史料というものが難しく堅苦しいものばかりではないということを知ってみるのもいいでしょう。
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