ローマ史論(岩波文庫)

 ニッコロ・マキアヴェルリ著 大岩誠訳
表紙  マキアヴェルリというと「君主論」やマキャベリズムの語で有名で、目的のためには手段を選ばない人やその思想を称賛しているかのように考えられがちかもしれません。ですがこの人自身はまぎれもないルネサンス期の政治家にして思想家であり、基本的には共和主義者でさえありました。メディチ家に取り入ろうとして献上したとも揶揄される「君主論」がチェーザレ・ボルジアを称賛していたことや、あまりに現実主義の筆致のせいか冷酷な独裁政治を推奨する人物のように思われれば当人には気の毒でしょうか。

 そのマキアヴェルリが共和主義者として、古代ローマの歴史家リウィウスが記した「ローマ史」をもとに書いた、政治と統治に関する思想を記した論述がこの作品です。原題は「ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考」といいますが、日本では政略論やリウィウス論、本書でもローマ史論として様々な表題に訳されていることもあってなおのことあまり知られていないようです。
 内容はリウィウスの「ローマ史」からの参照や注釈を中心にしながら、国家とはどうあるべきかが古代ローマの共和政を模範にして書かれています。マキアヴェルリらしい現実主義的な筆致もそのままで、人間は心からの善人にも本当の悪党にもなることができない、という視点には理想主義を退けるマキアヴェルリらしさを感じさせてくれるでしょう。ちょっと文体がくどいのは相変わらずですが、それこそ「君主論」ほどではないかと思います。

 この手の作品で面白いのは、当時や古代の評価や視点が現代のそれと異なることを教えてくれる点にもありますが、本書でもそれを感じさせてくれる箇所を随所に見つけることができます。現代では政治体制といえば民主政治と独裁政治しかないようにうたわれることがありますが、マキアヴェルリの記述の中では政治体制は三つに分かれ、君主政治と貴族政治と民衆政治に分類されています。そしてこれらが堕落した僭主政治と寡頭政治、衆愚政治を加えた六つが巡るのが国体というものであり、それぞれを完全に運用することはできないのだから組み合わせるのが賢明だというのがマキアヴェルリの主張になります。

 本書ではロムルスによる建国に始まりながら、その王権を引き継いだ執政官に貴族が集まる元老院、そして民衆の三者が治める共和政ローマを模範的に捉えつつ、それが護民官が創設された紀元前494年に完成したとされています。共和政の礎となった王政にも同様に高く評価する目を向けており、一方でそれを破壊したマリウスやカエサルは暴虐な独裁者として断じていますが、民衆を扇動したグラックス兄弟にも厳しい批判の目を向けているのは人によっては意外に思えるでしょうか。解放運動の祖のように思われがちなグラックス兄弟ですが、マキアヴェルリだけではなく帝政時代の歴史家タキトゥスなどからもむしろ扇動者として扱われているのは面白いところです。
 他にもリュクルゴスによって完成されたスパルタを激賞しつつ、ソローンによるアテネの改革には懐疑的でいる点なども、民主主義が正義という現在の風潮を離れて見れば必ずしも不可思議なものではないでしょう。あるいは現在の政治体制をマキアヴェルリに見せてみれば、侵略政策を取るのでもなければ民衆に肩入れしすぎる、とでも言われたでしょうか。

 著者の主張そのものに対する是非は置くとして、共和国フィレンツェの敗退とメディチ家復帰から生まれたのだろう共和政への強烈な思慕を感じさせる作品であり、それでいて理想に溺れて現実を見失って力を失うしかなかったという、同胞への嘆きを感じさせてくれる作品です。有名な「君主論」もむしろ当時のイタリアの現実を見て、どうせ君主が治めるのであれば優れた君主政治を体現するべきだというマキアヴェルリらしい現実主義が、この作品を基に描き出されたという感がしなくもありません。
 全三冊と、やや長さはありますが論調でも筆致でも読みやすく、むしろマキアヴェルリの政治思想を知るのであればこちらをこそおすすめしたい作品です。
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