チグリスとユーフラテス(集英社文庫)

 新井素子著
表紙  時は未来、舞台は移民惑星ナイン。その名前のとおり、九番目に行われた恒星間移民の結実であるこの世界ですが、船が星をこえる時代になっても人類には克服できない問題が存在していました。例えば宇宙船であれ通信であれ、人類はついに光速をこえることができなかったこと。地球から数光年や数十光年を隔てたナインは時間と距離に隔絶された世界であり、地球との交信すらその返信には数年以上も待たなければなりません。もう一つは怪我であれ病であれ、人類はそれを根絶することができなかったこと。そのためナイン入植後に実現されたコールドスリープ技術によって、一時的に病状を止めることが可能になった人々は未来の医療技術によって救われることを願い、永い眠りにつくことを選ぶようになりました。もちろん、例外こそあれそんな方法を選ぶのはそのままでは生存が絶望視されている、しかも特権階級の人々だけでした。

 物語はそうした特権階級の一人であるマリア・Dが目を覚ましたところから始まります。ですが呆然とする彼女の目の前に立っていたのは幼児のような可愛らしいドレスを着てぬいぐるみを抱え、幼い言葉を話す一人の老女。七十は過ぎているだろう彼女は自分を「ルナちゃん」と名乗り、惑星ナイン最後の子供であると語ります。移民から四百年を経て、マリア・Dの時代ですら出生率が極端に低下していたナインはルナを最後に滅びようとしていました。
 ルナによるコールドスリープの覚醒はナインの時代をさかのぼりながらマリア・Dからダイアナ・B・ナインに関口朋美、そして移民船を率いたキャプテン・リュウイチの妻であり惑星ナインの女神とされるレイディ・アカリへと続きます。ルナの目的は復讐、そして問いかけでした。自分はなぜこのような世界に生まれなければならなかったのか、そしてそれ以上に、ルナの母はなぜこのような世界であるにも関わらず、自分を生むことを選んだのか。

 第二十回日本SF大賞を受賞した新井素子の作品として、何も知らずに読んだ人はその文体やその描写、その内容に驚くかもしれません。稚拙としか思えない幼い文体に平然と常識を外れた描写やグロテスクな世界、決して緻密とは思えない設定はおそらく読む人を相当に選ぶのではないかと思います。知っている人であればそれがデビューした当時からの新井素子の文体で、描写や設定の雑さも別に変わってはいないことに気づくでしょうが、それは作者が成長していないということではなく、新井素子の物語は文体や描写や設定ではないというただそれだけのことなのでしょう。
 不気味でグロテスクな世界、滅びようとしている惑星ナインの矛盾は最後の子供であるルナそのものとして象徴されています。子孫を残すことだけが正しいと信じ続けたマリア・D、何よりも惑星ナインを存続させることが重要なのだと考えたダイアナ・B・ナイン、自分が望むことを行うことに意味があると考えて絵筆を取る関口朋美。そしてキャプテン・リュウイチを支えたレイディ・アカリ、それらの結実がルナというグロテスクな存在であり、彼女たちの人生には何の意味もなかったのだということを見せつけることがルナの目的でした。

 ですが本当にそうでしょうか。ルナの問いかけがこの作品を貫くテーマであるにも関わらず、この物語は最後までそれに明快な回答を与えていません。人生に意味なんてないのだという、ルナの言葉に彼女たちはそれぞれの言葉や行動を返します。それは絶望や謝罪や怒りや悲しみ、あるいは達観であるかもしれませんし力強い決意だったかもしれません。ですが滅びようとしている惑星ナインでは動物も植物も育まれていて土を掘れば畑をつくることもできて猫たちは仔を産み、蛍は宵空に灯りをともします。
 作者の他の作品を読んだことのある人は、彼女たちにこれまでの作中の多くの登場人物を重ね合わせるかもしれません。「いつか猫になる日まで」や「通りすがりのレイディ」といった名前を思い出す人もいたでしょう。彼女たちの登場に新井素子の集大成めいたものを感じましたが、それは結局新井素子自身を思わせる存在であり、惑星ナインの象徴たるグロテスクで哀しく、ですが「愛らしく愛しい」ルナそのものも新井素子的な存在なのです。なぜ人はグロテスクで哀しい人生を生きるのか、それはルナが愛しい存在であるかどうかではないでしょうか。

 なぜ、人類はこんな無謀な移民を承知したのか。なぜ、信仰心を特権階級という手段で表現したのか。なぜ、人口が激減してなお人口子宮その他の可能性を否定したのか、なぜ・・・という様々に否定的な可能性に読者は思い至るでしょう。人々が理不尽で愚かな選択をしていることに現実味を感じないと評するかもしれません。ですがそういう人はそれほど賢明な選択を人類がし続けているとでも思っているのでしょうか?多くの生き物を絶滅から救うことができなかった人類が、最後の子供の登場を防げるとはどのような理屈によって考えられるのでしょうか。
 逆さ年代記と称する物語において、滅びようとしている惑星ナインという舞台はすでに与えられてしまったのです。それに対する疑問や嘆きは、どれほど取り繕うとマリア・Dやダイアナ・B・ナインの悲哀と変わるところはありません。新井素子はそのどうしようもない世界に対して、彼女自身の矛盾したいくつもの人格をぶつけることによって彼女なりの方法で、惑星ナインを、新井素子自身でもあるルナを救おうとしています。これはそういう物語、突きつけられた究極の無常に対する作者の思いを描いた作品であり、未来の移民惑星が舞台であるにも関わらず、おそろしく内的な物語なのだと思います。だからこそSF大賞云々ではなく、新井素子そのものであるこの世界になじまない人は最初からこの作品には手を出さないほうがいいと心から思います。

 パステル調の、フリルやリボンがふんだんについた服を着てぬいぐるみを抱えた七十歳の老婆。その彼女に愛しさを感じ、彼女を抱く九十歳の老婆を美しく思える、愛しく美しい世界の物語です。幼いかもしれません、ですが彼女が幼いと思わせているだけかもしれないということに人は気がつくことができるでしょうか。
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