イルカの家(評論社)
ローズマリー・サトクリフ著 乾侑美子訳
時は十六世紀、大航海時代末期のイギリス。故郷ビディフォドの町で暮らしていた九歳の少女タムシンは、祖母が亡くなったことで遠く離れたロンドンにある鎧師のおじさんの家に引き取られることになりました。イルカの飾りがある、おじさんの家で子供たちと暮らすことになったタムシンはいつか男の子になって海に出たいという願いを抱きながらも、女の子だからきっと無理だというあきらめの思いも胸に引っ掛けながら新しい生活になじめない日々を過ごしていくことになります。時に孤独感にさいなまれたり、不安や悲しみを抱きながらも新しい家族に打ち解けていく中で、彼女の本当の願いを話すことができる相手を見つけたタムシンの毎日は少しずつ喜びや夢、そして奇跡を秘めたものへと変わっていきました。
ローズマリー・サトクリフの初期の作品にあたり、作者の子供時代の姿を色濃く映しているといわれるお話です。孤児となった幼いタムシンが故郷から遠く離れ、彼女があこがれる海や船の姿も見えないロンドンでの生活の中で「海に出たい」という夢を秘めつづける、その思いはやはり船乗りになりたいのに、家業の鎧師を継がなければならないいとこのピアズの思いと重なっていきます。
タムシンとピアズの二人は天井裏に描かれた、彼らだけの「イルカと冒険のよろこび号」に乗って海にこぎだすようになると、新しい生活にも多くの喜びと夢を見つけられるようになりました。あるとき不思議な家を見つけたタムシンは、そこに暮らしていた魔法使いのおばあさんからチューリップの球根を受け取ります。その芽がまっすぐに伸びてクリスマスに赤い花を咲かせたとき、イルカの家には奇跡が訪れるのです・・・。
多くの歴史作品で知られるサトクリフだけに、当時のイギリスの姿を克明に写し出す情景描写はさすがとしか言いようがありませんが、この作品では幼い子供たちが抱いている強烈な願いと、それが決してかなわないことを知っている悲しみが日々の生活の中に描かれる心象描写も見事なものを感じさせてくれます。船乗りになれるはずもないタムシンと、海で遭難した兄に代わって家を継ぐだろうピアズの二人ともがあこがれている、大海原を駆る船の姿がロンドンの町中にある鎧職人の家の屋根裏部屋で語られる様子は手に触れられそうなほどの鮮明さで、愛しいほどに優しく描かれる様子に心を惹かれずにはいられません。
語られる歴史もなければ勇壮な軍靴の響きも戦いの躍動もなく、おだやかで平穏に見える日々の世界はタムシンが出会う新鮮で深刻な事件の数々に満ちています。人が見れば物語を通じて大きな事件も劇的な出来事も起こっていないように見えるかもしれません。ですが幼いタムシンにとって、知っている人や見慣れた風景が存在しない世界に連れて行かれることがどれほど恐ろしいことか、失われた夢がどれほど心を傷つけるかは昔、自分も子供であったことがある人ならきっと共感してくれることでしょう。
タムシンがなじむことができずにいるイルカの家のいとこたちも、皆がごく普通のよい人たちばかりですが、それでもなかなか受け入れることができない事情にもどかしさを感じながら同時に暖かさも感じてしまいます。故郷の風景への思いがあるからこそロンドンの生活になじめない、だけどロンドンにもタムシンの思いが届くようになればそこにもたいせつなものは転がっている。少女が受け取った赤いチューリップの奇跡を目にしたとき、きっといつか「冒険のよろこび号」が彼女の夢をかなえに来てくれるのではないだろうかと思いたくなってしまいます。
奇跡や魔法というものを、もっと信じてもいいと思わせてくれる児童文学の名作です。
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