コン・ティキ号探検記(ちくま文庫)

 トール・ヘイエルダール著 水口志計夫訳
表紙  人類学者である筆者のトール・ヘイエルダールが南太平洋にあるポリネシアで暮らしていた頃、太平洋の諸島に住んでいる人々の起源は南米大陸にあるのではないかと考えて、それを実証するために当時のペルーは南米インディアンの乗り物であったバルサ材の筏に乗って貿易風とフンボルト海流に流されながら太平洋横断を試みた冒険の記録です。筏の名は古代インカの英雄である「太陽のティキ」ことコン・ティキ号。
 ポリネシアにまで伝わるティキの名前や、顎ひげをはやした鼻の高い人の肖像が現地に存在すること、数ある太平洋の諸島に人々が拡散した時期がちょうど古代インカ帝国の衰亡した時期と重なると思われること。南米のヤシの実が海流に乗ってポリネシアに流れつくように、当時の人々もまた太平洋を渡ったのではないかと考えたヘイエルダールの主張は学界にはまるで受け入れられず、論文は読まれもしませんでした。何しろ船のない時代、南米インディアンはバルサ材で作った筏に乗ることしかできなかったのですから、そんなもので広大な太平洋を渡れるはずがないというのです。

 ヘイエルダールは自説を証明するために、当時の筏を再現して自ら太平洋を渡るという無謀な冒険に挑戦することになりました。彼と同乗するのは五人の仲間、ヘルマンにエリック、クヌートやトルステイン、それに顎ひげを生やしたベングトです。雨季の増水に苦労しながらもバルサの材木を切り出すところから始まる、波乱万丈の冒険は航海をする前から労苦に満ちたものとなりますが、九本の丸太を綱で結んで帆や竹の小屋を取りつけた筏はコン・ティキの肖像を帆に描いてペルーから勇躍出帆します。

 この本が発刊されて以降、世に冒険家が増えたとまで言われる海上の冒険はトビウオやシイラ、ブリモドキと共に暮らすヘイエルダールたちの生活や、無線通信をひろう世界中のアマチュア技師との交信、ジンベイザメやカマス、空飛ぶイカのような当時は知られてもいなかった海の生き物たちとの接触といった様々な事件に彩られています。出帆時にヘイエルダール一人しか来ていないのに航海させられそうになったことやペルーから乗せていったオウムの悪戯、せっかく見つけた島では筏が流されて下りることができず、現地のカヌーに移っていた乗員が置き去りにされかかったり・・・。
 思いどおりに操ることができない筏の上には多くの事件が訪れますが、それらをユーモラスに書く筆致の力強さは多少の労苦をものともせず、陽気に楽しむ彼らの様子が窺えます。何しろ舵はあっても動力もない筏は海流と風に流されるままで後戻りすることすらできませんが、それはオールを漕がずスクリューを回さずとも、ただ流されるだけで太平洋を渡ることができるということでもあるのです。ティキのように顎ひげを伸ばした六人の白人たちは、百日間にもおよぶ「楽しい航海」を続けていきました。

 大変な冒険に予期せぬ事件、にもかかわらずひたすら陽気なコン・ティキ号の人々が実に魅力的で、無意味な悲壮感とは縁のない力強さには読む者に時間と体験を共有させるような感覚を抱かせます。コン・ティキ号の航海の後にもヘイエルダールは芦製の筏ラー号を組み上げてモロッコからカリブ海への大西洋横断に挑戦、沈没しますが翌年にはラー2世号を作って航海を成功させてしまいます。
 ヘイエルダールの冒険がそれ自体で、ポリネシアの人々が南米からの移住者だという証明にはなりませんが、仮説を証明するために自ら冒険を行った彼らの事績が否定されることはありません。実証することの楽しさを体現する、冒険や探検に必要なもの、そして科学に必要なものが何であるかを教えてくれる作品です。
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