赤毛のアン(新潮文庫)

 ルーシイ・モード・モンゴメリ著 村岡花子訳
表紙  先に正直なことを書けば、子供の頃はこの作品のどこが面白いのかさっぱり分かりませんでした。奔放でおしゃべりなアン・シャーリーに、口うるさくて厳しい大人たちの存在で綴られる日常。少女の想像や空想はあってもトム・ソーヤのような血湧き肉おどる冒険が存在しないアヴォンリーの日々が退屈そうなものに見えたのかもしれません。日本では有名なテレビアニメーションですらそれほど見てもいませんでした。
 ところがその後になって、思い返したように当時あまり読んでいなかったお話に手を出してみるとこの「赤毛のアン」、グリン・ゲイブルスのアンという作品が実に面白いではありませんか。奔放でおしゃべりなアン・シャーリーや人々の存在、アヴォンリーの日々の姿が描かれた当時から何かしら変わっている筈もありません。

 舞台はカナダにあるプリンス・エドワード島、なだらかな起伏に覆われているアヴォンリーの村。世話焼きで噂好きのレイチェル・リンド夫人が街道をゆく一台の馬車を見咎めたことから物語は始まります。村はずれに暮らしているマリラ・クスバートとマシュウ・クスバートの老兄妹が孤児院から男の子を引き取って育てようということになりましたが、どうした手違いがあったのか迎えにいった駅でマシュウを待っていたのは赤毛でやせっぽちの女の子でした。
 困り果てながらも少女をグルーンゲイブルスに連れ帰ったマシュウと、驚くマリラの様子に事情を察した少女は大仰に絶望して泣き崩れます。名前を尋ねられるとコーデリアと呼んで欲しいと言い、追求されるとおしまいにeの字がつくアンと呼んでくれと言う少女、アン・シャーリーは幼い頃に両親を亡くして以来愛情に欠けた生活を送っていましたが、想像力と野心だけは誰にも負けることがない少女でした。ささいな間違いによる偶然とはいえ、愛情に飢えたアンの生い立ちと不思議な魅力に惹かれたマリラとマシュウはこの風変わりな少女を育てることに決めました。

 物語は11歳でグリン・ゲイブルスに引き取られたアンが、16歳になって人生の曲がり角に立つまでの5年間ほどのお話です。りんごの花が咲いて羊歯の茂みや樺の林に日が差し込み、小川は静かに流れて池には輝く水が湛えられる情景がひとつひとつ、丁寧な描写で描かれているアヴォンリーでアンはそのひとつひとつに心からの感動を示しながら喜怒哀楽が激しい少女の心を多彩な言葉にして綴ります。時にいくつもの失敗をしながらも友人や周囲の大人たちに感化されて、気がつけば少女はすらりと背の高い女性へと成長を遂げていきました。それでも彼女は、どんな事件が起ころうとも変わることのない彼女はグリン・ゲイブルスのアン・シャーリーなのです。

 奔放で想像力豊かな主人公のアンに心を惹かれながら、そのアンに心を惹かれている周囲の人々も実に魅力的で、誰よりも深い愛情を抱きながらそれを表に出そうとはしないマリラや誰よりもアンの存在を誇りに思っているマシュウ、腹心の友のダイアナをはじめとする多くの人々の姿が「アン・シャーリーを愛する人々の群像劇」として描かれています。アンに惹かれると同じかそれ以上に、アンに惹かれる登場人物たちと思いを共有している感覚が心地よくてたまりません。子供の頃はまるで理解することができなかった、アヴォンリーと人々の魅力が分かってくると彼ら全員に親しみを込めた愛しさを感じさせてもらえます。
 気難しいミス・ジョセフィン・バーリーがアンに惹かれたように赤毛の少女の魅力に心惹かれながらも、にぎやかな少女と別れてから寂しさに涙ぐむ老婦人の姿にも共感を覚えるようになる。登場人物の一人一人が代えようもない、かけがえのない人々であり、美しい情景と人々の心象と、とどまることがないアン・シャーリーの言葉がいずれも見事に描かれている作者の筆致には感嘆するしかありません。

 もしかしたら女の子であれば、アン・シャーリーの持つ女の子らしさにより共感ができるのでしょうか。大人になってみればマリラの厳しさはもちろんギルバート・ブライスの子供じみたいたずらや、レイチェル・リンド夫人の苦笑したくなる親切さなど少女時代のアンが必ずしも受け入れてはいない言動まで彼らなりの愛情であることに気づかされます。血湧き肉おどらずとも彼らの生活がどれほどスリリングで事件に満ちているかを、読者はマリラ・クスバートの視点で知ることができるでしょう。

 すでに発刊から100年が過ぎている、世界中で愛されている名作中の名作ですがそれでもこの作品を男の子に薦めようとは思いません。想像力を失わずにいる女の子か、でなければ大人の人にこそ読んでもらいたい作品です。
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