虹の谷のアン(新潮文庫)

 ルーシイ・モード・モンゴメリ著 村岡花子訳
表紙  新潮文庫の邦訳版ではアン・ブックスのシリーズとして挙げられている作品ですが、原題ではレインボウ・バレーとある通りにアンの名前はなく、モンゴメリ自身の認識でもシリーズとは別に扱われている作品です。物語はセント・グレン・メアリ村、炉辺荘に面している子供たちの「虹の谷」を舞台としており、アン・ブライス夫人も登場しますが中心となるのは彼女の子供たちと、その友人となる牧師館の子供たちになります。
 導入はミス・コーネリアことエリオット夫人と炉辺荘の女中であるスーザン・ベーカー、それに夫婦旅行から帰ってきたブライス夫人を交えた三人の長閑な歓談から始まり、物語の終章も三人の語りで始まりますが、彼女たちが噂にしているのがグレン村に来た新任のメレディス牧師と彼の四人の子供たちの話題でした。若いジョン・メレディス牧師のすばらしい説教は万事に厳しいミス・コーネリアでも称賛するほどでしたが、読書と神学に没頭して子供の世話も自分の世話も忘れてしまう牧師の目が届かないところで、小さな子供たちはグレン村に騒動の数々を巻き起こします。このあたり、噂好きのご婦人方と奔放な子供たちという取り合わせはモンゴメリの十八番でしょう。

 愛する妻を亡くして男やもめの生活を送っている牧師の家で「ツギのあたっていない服」や「指先がつくろわれていない靴下」を身に着けて遊び回る子供たちは村の人々に困ったものだと思われていましたが、ブライス夫人が言うように彼らが愛情と想像力のある魅力的な子供たちであることはミス・コーネリアもスーザン・ベーカーにも異論がありません。長男で責任感のあるジェフ、美人で行動力に溢れたフェイス、大人しいけれど誰よりも優しいユナ、動物を心から愛するカールの四人は炉辺荘の子供たちとたちまち仲良くなると、虹の谷に遊びに来ては陽気で楽しい時間を過ごすようになりました。これに家無しの少女メアリ・ヴァンスを加えた彼らは大人たちの心配を余所にグレン村に多くの事件と騒動を提供していきます。

 ごく平穏に思える素朴な村の暮らしや、傍目には取るに足りないように思える子供たちの日常がどれほど滑稽であっても真摯に営まれているかということと、その根底に想像力や信仰心がどれほど根付いているかということへの描写はモンゴメリの真骨頂というべきもので「赤毛のアン」に共通する素朴な魅力を感じさせてくれる作品です。その一方でアン・シャーリーを中心にして風景描写と心象描写が一体になって語られる「赤毛のアン」では、マリラやマシュウがアンに抱いている愛情を読者が共有して読まなければならない印象がありますが、「虹の谷」ではミス・コーネリアが子供たちの振る舞いに呆れながらも、家族でなくてもごく自然に抱くことができる魅力や親近感で読むことができるので、むしろ本作品の方が普遍的に人に薦められるのではないかとと思わなくもありません。その点ではブライス夫人とミス・コーネリア、スーザン・ベーカーの三人の異なる視点で子供たちの姿を眺めることができるようになっている構成は流石だと思います。

 主役以外の人物描写も巧みなモンゴメリ作品らしく、メレディス家の牧師と四人の子供たちを中心に語られる中で大いに存在感を主張しているのがメアリ・ヴァンスでしょう。孤児院の出身で、港近くの家に引き取られて雇われ人として暮らしていましたが、人が聞けば憤慨するような苦しい生活から逃げ出すと路銀もなく飢え死にしかかっていたところを牧師館の子供たちに拾われます。お節介で噂好き、口は悪いし遠慮も配慮もなく女の子よりも男の子と気が合うような性質で、間違っても他人に気を使うような芸当はできませんが基本的に善人で無類の働き者、家事の達人でもあるというメアリの言動には強烈な個性と奇妙な魅力を感じずにはいられません。牧師館や虹の谷を訪れてはろくでもない噂話を持ち込んで、子供たちの機嫌を損ねて行くにも関わらず、邪気がないどころか自分を助けてくれた子供たちに誰よりもお節介な愛情を抱いているのも彼女なのだと思わせます。フェイスやユナの常識外れな言動を聞いてたびたび説教くさいことを言いに来ながら、いざ村の人たちを前にすれば子供たちをかばってやまず、孤児院に返されると聞けば本気で涙を流してしまう、喜怒哀楽の激しい彼女に惹かれずにはいられません。
 物語の後半では想像力と行動力に溢れまくるフェイスと、気の毒なほどに真面目で優しいユナの二人に主軸が移っていきますが、このあたりは子供たちが日々の暮らしの中で変わったり成長していく中で自然に移り変わっていく様子がいかにもモンゴメリらしく思えます。特に出版100年に合わせて追補訳された新装版では、当初の邦訳時に大きく削られていた子供たちのエピソードも追加されていてフェイスやユナの魅力を改めて見ることができるでしょう。

 作品で欠かすことができないのが終章で語られるウォルターの「笛吹き」の場面。後に「アンの娘リラ」に繋がる未来を予感させる場面ですが、虹の谷を舞台にした子供たちの世界が成長に伴って日々変化していく様と、いつか訪れる未来に対する希望と不安の双方を子供たちそれぞれの視点から感じさせてくれます。遠くから聞こえてくる笛吹きの呼び掛けを聞いて、ダイは子供たち皆で行くことを望み、ウォルターは少女たちは残らなければならないと言い、メアリはそんなことを言わないでと願い、ジェムは未来への強い抱負を語る。それぞれ子供たちが抱くであろう、不確かな未来に対する共通の思いなのではないでしょうか。
 前述の通り当初発刊された村岡花子訳では未訳分とされていた箇所が多かったこともあり、未読の人も既読の人も2008年出版の新装版を読んでみることをお薦めします。個人的にはモンゴメリの作品でも「アンの夢の家」と並ぶ傑作だと思います。
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