アンの娘リラ(新潮文庫)

 ルーシイ・モード・モンゴメリ著 村岡花子訳
表紙  新潮版で邦訳されている赤毛のアンのシリーズとしては最後となる十作品目にあたりますが、前作「虹の谷のアン」と同じく一般的にはアン・ブックスとは見られていないようです。原題にリラ・オブ・イングルサイドとあるように、前作では虹の谷に集まるメレディス家の子供たちが中心となっていましたが、今作品ではアン・ブライス夫人の末娘であるリラことバーサ・マリラ・ブライスが主人公となっています。前作の最終章でウォルターの耳に届いた笛吹きの呼び声、第一次世界大戦が物語の主軸になっていて、家族や友人たちが戦争へと従軍していく中でリラが子供から大人の女性へと成長していく姿が描かれます。
 虹の谷の子供たちはすっかり成長して若者と呼べる年代になっていましたが、美しくて野心がなく幼いリラは自分も兄姉のように大人であり、社交界の仲間入りをして何人もの崇拝者を抱えて楽しく過ごすのだと考えていました。彼女が初めて訪れた夜会はロマンスを感じさせながらも満足とは言いがたい結末に終わっていましたが、そんな事情も大戦が勃発したというニュースにかき消されてしまいます。虹の谷の子供たちは最早子供ではなく、兄たちは出征して姉たちも支援活動に身を投じ、父や母はもちろん気のいいスーザン・ベーカーらも戦況に一喜一憂する日々が続くことになります。あくまでも炉辺荘を中心とした小さなグレン村を舞台にして、大戦の影響を受けながらも子供から大人へと急激に変わっていくリラの成長があくまで彼女の年代に相応しい変化であるというモンゴメリの筆致は相変わらず見事というしかありません。重々しく深刻に思えるリラの人生が、同時代のアン・シャーリーの人生とはまるで異なっているように見えてどこか重なって見えるのは「アン・オブ・グリンゲイブルズ」に対する「リラ・オブ・イングルサイド」らしさではないかと思います。

 作者の魅力である素朴な日常の描写は第一次世界大戦という非日常的な時代の中でも、あるいはそれだからこそ存分に活きています。銃後の婦女子ならぬ銃後の老女子たるスーザン・ベーカーの存在はその最たるもので、両親の影響を感じさせるブライス家の子供たちに比べても、ごく尋常な彼女の姿に生々しいほどの戦争の姿を見せられる思いがします。作品として単純に愛国心を賛美するでもなく、戦争に反対するのでもなく、時に浪漫や雄雄しさを感じさせて時に恐怖や臆病と戦い、時に悲しんだり嫌悪して勝利には純粋に沸き返る。別に主戦や反戦に明確な結論を出すことが目的ではないからこそ、ごくしぜんに突きつけられる容赦のない現実に圧倒されてしまいます。
 争いは醜く恐ろしいものであることを詩人の魂を持つウォルターは知っていましたが、それを避けることを彼は臆病とも言っています。そしてカナダや連合軍の行く末を案じながらも勝利を信じて疑わない、スーザン・ベーカーの愛国心は家族への愛情と何ら変わるところはありません。炉辺荘の女中である彼女はまさしく素朴な信仰心で、すべての家族を愛しているのですから。

 前作で虹の谷の子供たちへの思い入れがあるだけになおのこと、その時代を過ごした彼らが笛吹きの声を聞いて世界の果てへと向かう姿に、ブライス夫妻やスーザンの感慨を思ってしまいます。その中で炉辺荘に残るリラは彼らの帰りを待っている者でありながらも、素朴で貴重な日常を守るためにそこに残っているのだという思いを強く感じさせてくれます。
 兄たちが戦場に赴いて、姉や友人たちが彼らを見送り、周囲の話題は戦争ばかりとなってリラ自身も赤十字少女団を組織したり、戦災孤児を育てたりと休まらない日々を過ごします。虹の谷で遊んだフェイスがジェムと婚約して彼の帰りを待ち、メアリ・ヴァンスが恋人を戦地に送り出し、ブライス夫人の友人からも息子が出征したという知らせが届けられ、たびたび沈みそうになる人々の中で小さな世界を守ろうとするリラの姿に引き込まれずにいられません。ウォルターが戦場で守ろうとしたものを、彼のリラ・マイ・リラは炉辺荘で守ろうと決意しているのですから。

 おそらく前作を書いていた時点で、モンゴメリにはこの作品を書くつもりがあったのだろうとは思いますが前述した通り「虹の谷のアン」に続く作品であると同時に、どこかにグリンゲイブルズのアンを思わせる作品ではないかと思います。個人的には続編は前作がなくても引き込まれる作品であって欲しいと思いますが、本作品であれば「虹の谷のアン」と「赤毛のアン」の双方に触れておいてもらいたいと思うのは正直なところでしょうか。母のような野心や想像力には欠けていると思わせるリラが見せる、感情的だけれど勇敢な強さは不思議にアン・シャーリーが持っていた魅力と楽しさを思い出させてくれます。ブライス家の子供たちの中でも最も「マリラが愛したアン」らしさを感じさせる娘が彼女なのではないでしょうか。
 その彼女が戦時の情勢の中で、母やスーザン、下宿人のオリバー先生といった世代の異なる大人の女性たちに囲まれて育つ中で、戦災孤児のジムスを世話する姿には象徴的なものを感じます。夢の家でアンとレスリーを祝福したジム船長の姿はシリーズでも最も美しい場面ではないかと思っていますが、それに並ぶ場面を挙げるとしたらケネス・フォードが憧れた、ジムスを抱くリラの姿かもしれません。兄姉と比べても美人だと評されていた幼い頃のリラよりも、成長した気高いリラの姿ははるかに魅力的に映るでしょうし、それを描写してみせるモンゴメリの筆致にも感嘆します。

 そうした物語の全体が重々しく感じられるのは仕方がありませんが、それでも滑稽としかいいようがないエピソードが登場するのもいかにもモンゴメリらしい楽しさを感じさせます。虚栄心を戒めるために被り続けた帽子をリラが踏み潰す場面や、月に頬髭を追いまわしたスーザンの顛末などは最たるもので、隠れて抱腹絶倒しただろうブライス医師の姿が浮かんできます。個人的にはジムスの命を救ったり恋人を誇らしげに自慢するメアリの存在感は相変わらずですが、気の毒なユナの影が薄いのはちょっと気の毒に思えなくもありません。もちろん彼女たちの存在は虹の谷がメインになっているので当然ではありますが、大戦が終わって後のことを考えると帰らないウォルターへの思いを抱き続けるユナにはもう少し描写があっても良かったとは思います。

 いずれにしても大戦の悲惨さ、反戦や愛国心といった思想、そうした視点でこの作品を評価すること自体がたぶん莫迦げているのでしょう。ウォルターが言ったように美しいものを守るために武器を手に取ることと、日常を生きることは同列に語られて何も異なるものではありません。
 作中の白眉は月に頬髭を追いかけるスーザンの姿、ではなくマンデイとジェムの姿とウォルターがリラに宛てた手紙の美しさでしょうか。陳腐かもしれませんが美しさを守る姿、信じる姿にそれだけ純粋でいいようのない誇らしさを感じさせてくれる作品です。ダイは子供たち皆で行くことを望み、ウォルターが少女たちは残らなければならないと言い、メアリはそんなことを言わないでと願い、ジェムは未来への強い抱負を語っていた。「笛吹き」の詩がそこに描かれているかのようにまざまざと頭に浮かびます。やがて大戦が終わり、連絡が途絶えていたケネスがリラの前に現れると彼女が応えた言葉に思わず微笑んでしまいますが、それはこの小さな世界を守り続けてきた彼女がようやく、息をつくことができた場面なのでしょう。ケネスが帰ってきたように、リラもあの頃の時間に帰ってきたのです。
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