プークが丘の妖精パック(光文社古典新訳文庫)

 ラドヤード・キプリング著 金原 瑞人・三辺 律子訳
表紙  舞台はオールド・イングランドの香りが残っているイギリス南東部の片田舎ペベンシー。ダンとユーナの幼い兄妹は彼らが「野外劇場」と呼んでいる牧草地にあるフェアリー・リングでシェイクスピアの夏の夜の夢を演じていましたが、思いのほかうまくいった演技によろこんでいる子供たちの前に、毛むくじゃらの妖精パックが姿を現します。その時代その人によってフォーンともロビン・グッドフェローとも呼ばれたパックは、驚いている子供たちに妖精の輪の真ん中で夏至の夜の前の日に夏の夜の夢を演じたならば、なにがおこるかわかりきったことだろうと笑いました。彼の仲間たちが去った後もこの地に残っていた、イングランドでもっとも古い妖精は教科書に載っている歴史上の人々を呼び出すとオールド・イングランドの歴史、ヘイスティングの戦いからマグナカルタの成立に至るまでのエピソードを語って聞かせます。イースト・サセックスの片田舎を舞台にして繰り広げられた、魅惑的な事件や冒険の数々にダンとユーナは身を乗り出して耳を傾けました。
 ノーベル文学賞受賞作家ラドヤード・キプリングによる、子供向けに語られるイングランド史で邦訳としては初になるそうですが、英国では児童文学の名作のひとつとして今でも読まれているということです。いかにもノーベル賞らしいと思わせるのは児童文学だからこそ手を抜くことがない歴史考証の徹底ぶりで、そこには当然キプリングなりの解釈が含まれているとしても、しっかりと調査研究された事物がこころよい詩と丁寧な筆致で語られる内容に自然に引き込まれてしまいます。歴史上の出来事や当時の文化、雑多な民族やブリタニアらしい奔放な宗教観の描写はこむずかしい理屈ではなく、事実として描かれているからこそ説得力を伴わずにはいられません。

 子供たちに伝えられる歴史はその当時の人々の口から直接語られて、時折ダンとユーナが首を傾げれば妖精パックが注釈を加えるという方式をとっています。後にローズマリ・サトクリフのローマン・ブリテン三部作にも影響を与えたという、歴史上の人物自身によって語られるイングランドの物語はダンとユーナにはもちろんですが、読んでいて分かりやすく驚くほどの臨場感を感じさせてくれます。読み進むにはイギリス史の予備知識が必要だという声もありますが、個人的には子供に語るお話にそんなものが必要だとは思えません。これを読めばイギリスの歴史と文化が分かるなどと無茶な要求をするならともかく、子供の頃よく知らずに楽しんだおとぎ話が歴史上のできごとだった、という感覚ではいったい何がいけないのでしょうか。
 いかにも妖精らしい楽しさと幻想的な魅力を感じさせるのがパックが使うオークとサンザシとトネリコの魔法で、昔語りを聞いた子供たちは魔法をかけられて家に帰ると、先ほどまでパックや歴史上の人物たちに出会っていたことをきれいに忘れてしまいます。それでもたぶん、間違いなく彼らが語っていたオールド・イングランドの歴史はなんとなく忘れないでいるに違いありません。それはこのお話を読んだ子供たちがなんとなく覚えているであろう、楽しい妖精の姿と語られた歴史の楽しさと同じものである筈です。なにしろイギリス南東部の片田舎というのは、ローマ人が上陸して以来さまざまな人々が訪れたり去って行ったその場所なのですから。

 連作式の短編のように構成されているお話は、詩人キプリングの物語らしくそのつど素朴な詩歌ではじまり詩歌で終わるようになっています。妖精から送られた伝説の剣のお話、騎士たちが繰り広げた冒険、海賊船に乗っての船旅、ハドリアンズ・ウォールを守るローマの百人隊長、イングランドを離れる妖精たちのお話、そしてマグナカルタを認めさせたユダヤ人の物語まで、神話と昔話と歴史がこの地に起きたできごととして一緒に語られる様子に引き込まれていると、もともとおとぎ話と歴史はどこの国でも同じものだったんだと思わされてしまいます。思わぬつながりが明らかになるどんでん返しには、ダンやユーナと一緒になって感心させられてしまいました。
 作者がノーベル賞受賞作家であることと、内容が帝国主義的であるとして批判をされたことでキプリングの作品はむつかしい解釈を試みられることが多いのかもしれませんが、そんなものを作品と結び付ける行為自体がパックに笑い飛ばされる類のものでしかないでしょう。とても丁寧に描かれているペベンシーの風景、ダンとユーナの視線で見る子供たちの生活、そしてホブデンじいさんの姿を見れば、そこに感じることができる素朴なオールド・イングランドの姿こそキプリングと妖精パックが伝えたかったものなのではないでしょうか。

 イギリスの歴史でローマ人も神様も蛮族もバイキングも語らない、というのは無理がありすぎます。ですがそれを語ってくれるのは王様でも議会でももちろん神様でもなく、物好きにもこの島に残ることを決めた妖精パックなのです。子供の頃に読み聞かせられた昔話を楽しむ感覚で、古きよきイギリスの田園風景とそこを舞台にした物語を楽しんでほしい作品です。
>他のを見る