何かが道をやってくる(創元SF文庫)

 レイ・ブラッドベリ著 大久保 康雄訳
表紙  ブラッドベリらしさにあふれる、抒情的な魅力と怖さに満ちたファンタジー作品。近づいてくる遠雷を見ることができる、いかにもアメリカを思わせる田舎町が舞台。十三歳の少年、ジムとウィルの二人は万聖節の前夜に奇妙な避雷針売りに出会うと、わくわくしながら、いつものように夜中にベッドを抜け出して町はずれの丘まで走ります。少年たちが見つけたのは、夜中の三時に聞こえてきたカライアピーの音色と、こんな時間にあり得るはずのない汽車や気球の到着、組み上げられるサーカスのテントでした。
 夜が明けて、カーニバル「クガー・アンド・ダーク魔術団」の訪れに、町はにぎわいますが、どこか奇妙で恐ろしい一団を少年たちは怪しく思います。特に鏡の迷路は近づかないほうがいい。夜中にもう一度サーカスを訪れた少年たちは、信じられないものを目にします。それは葬送行進曲をさかさまに奏でながら、逆回転をする回転木馬に乗ったミスター・クガーが、一歳ずつ若返っていくと、少年の姿になるところでした。その少年は、昼間、鏡の迷路で恐ろしい目に遭った、彼らの担任ミス・フォレーの甥でした。彼らは何を企んでいるのだろうと訝る二人は、魔術団の首領で、全身に刺青をしたミスター・ダークに目をつけられるとサーカスの奇型人間たちに追われる身になります。

 物語ではサーカスにわくわくする楽しみと、知らないものがやってくる怖さが、昔ながらの「ひとさらいのサーカス」を舞台にして描かれます。世界中を旅しては、さらった人々を奇型人間にして連れまわす怪しいサーカス。さらった人や、自分自身も、回転木馬で若返らせたり齢をとらせたりして、何百年も昔から彼らは興行を続けています。彼らはとても狡猾で、サーカスが奇妙であることなど誰も不思議には思いませんし、人が若返らせたり老人にしたり、奇型人間に改造したといっても大人たちが信じるはずもありません。しかも、ジムとウィルは十三歳の少年でしかありません。ですが町で図書館長をしている、齢の離れたウィルの父親だけは、少年たちの話を信じてくれました。

 こうやってあらすじを書いてみると、このお話はジムとウィルの二人の少年が、悪いサーカスに勇敢に立ち向かうお話だと思うでしょうか。ですが実際には、このお話は、ウィルと彼の父親の二人が、少年の弱さと愚かさも、大人の弱さと後悔も持っているその姿のままで、悪いサーカスに勇敢に立ち向かうお話です。

 ダークに追われている少年たちは、町のあちこちに身を隠しますが「飽きてしまうから」という理由でひとところに留まってなどいられません。ウィルの父親は少年たちを助けようとしながらも、ともすれば「自分はもう老人なのだ」という思いに囚われてしまいます。彼らは頼もしいヒーロー然としたふるまいに及ぶことはできませんが、それでも邪悪なサーカス団に対抗することができますし、奇型人間や魔女や刺青男と戦うことができるのです。
 子供のころに思い描いたサーカスの楽しさと怖さを舞台にして、少年と大人の弱さを描き、それが少年らしさと大人らしさでもある、と、捨てないままで事件に立ち向かってみせる。よほど心情描写が見事でなければ、このお話は単なるヒーローものの冒険活劇か、単なるファンタジー風味の恐怖小説になっていたに違いありません。その意味では、子供でも大人でも楽しんで読むことができる作品ですが、ウィルと父親の、二人の強さと弱さを知ることができる人であれば、ブラッドベリならではのこの心情描写に圧倒されてのめりこむことでしょう。

 作品の白眉は、すべてが解決して最後に残された回転木馬を前にした場面。すべての原因は、刺青男や魔女ではなく、回転木馬でもなく、この場面で彼らが思った心にこそあるのだと知れば、それを振り払ってみせた彼らはこれからも人間らしい弱さを備えたままで、笑顔を忘れずに齢を重ねていくことができるのだと思います。誰でも楽しむことができる作品ですが、誰にでもすすめられるわけではない作品です。

 余談ですが、創元推理復刊版のカバー絵を藤田和日郎が描いているのは分かりすぎますというか、藤田和日郎がこの作品の影響を受けすぎているだろうと。
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