ムーミン谷の彗星(講談社文庫)

 ヤンソン著 下村隆一訳
gif  個人的には「十一月」に次いで好きな作品で、やはりシリーズでも独特の印象がありますが作者自身も特に思い入れの強い作品らしく、他の作品に比べても何度も書き直していたりポーランドで制作されたアニメーション映画にも積極的に関わったといわれています。シリーズでは二作目にあたり、ムーミントロールがスナフキンやスノークのお嬢さんと初めて出会う場面が描かれているのもポイントが高いでしょうか。
 背景は洪水に終われたムーミン一家がムーミン谷にやってきて間もないころで、ムーミンと小さな動物のスニフが近所を探検して海を見つけたりしているころのお話です。秀逸なのはこのわずかな導入だけで海に潜って真珠をひろってくる冒険心旺盛なムーミントロールと、臆病で文句ばかり言っているくせによくばりなスニフの性格があまりにも分かりやすく描かれていることで、それでいて二人の子供っぽさと仲のよさも伝わってくることでしょうか。

 子供たちがムーミン屋敷に帰り、夜になって雨が降ってくると玄関に誰かいるのをムーミンパパ(声・大塚明夫)が見つけますが、それはパパが近所に橋を建てたせいで家を流されちまったというジャコウネズミでした。翌朝、雨が止んで外に出た彼らは谷じゅうがまっくろにすす汚れているのを見て驚きますが、物知りのジャコウネズミに聞いてみると「もちろん、地球がほろびることさ」と言われてみんな怖がってしまいます。怖くて遊ぼうともしなくなった子供たちをムーミンママが心配すると、パパは彼らに天文台に行ってくるようにすすめました。旅の道中で出会ったスナフキンを道連れにして、三人はおさびし山のてっぺんにある天文台にたどり着きますが、学者さんが教えてくれたのはあと4日で彗星が地球にぶつかるということでした。

 作者の戦争体験が反映されているということで、空から降ってくるものへの臨場感がけっこう生々しく描かれていますが、それでいて登場人物たちがいかにもムーミン谷のヒトたちなので読んでいて恐ろしさや悲惨さを感じさせない描写が見事です。この導入でもムーミンたちの旅は勇敢な冒険譚になっていて、筏に乗って洞窟の川を流されたり滝壺に落ちそうになったり、お互いの体をロープで結んで切り立った崖を登ったり、ばけものと勇敢に戦ってスノークのお嬢さんを助けたり、干からびた海を竹馬で越えていったり気球で空に舞い上げられたり、これでもかというくらい読んでいてわくわくする冒険にあふれています。
 勇敢で危険にもたじろがないムーミンと旅暮らしでなんでも知っているスナフキンの二人だけではなく、臆病でよくばりなスニフがいるから旅の怖さや不安を彼がことのほか楽しく語ってくれていて、たとえば彗星が近づいてそこらじゅうの水が干上がってもスニフはジュースの残りが少なくなったことに不平を言ってくれるのですね。ガーネットの谷にもぐり込んだはいいけれどよくばったあげく大トカゲに見つかって逃げ出したり、スニフのわがままな子供っぽさがブレーキになっているおかげでムーミンやスナフキンは「そんなことよそうぜ」と危険を避けることができるのです。

 勇敢なヒトや賢いヒト、わがままなヒトやよくばりなヒトや頭でっかちなヒトもいて、彼らが彼ららしいまま振る舞ってそれで何とかなってしまうのはシリーズならではの魅力ですが、彗星がぶつかることを知らせるためにムーミン谷に帰ろうとする中で、パパとママならきっとなんとかしてくれると当然のように頼りにしていることや、ムーミンとスノークのお嬢さんの芝居がかったロマンスなどところどころに見える子供っぽさが微笑ましく思えます。
 お気に入りの場面はスノークの会議で、みんながそれぞれ好き勝手なことを喋りながら洞窟に隠れることを思いつくところでしょうか。洞窟の場所は子供たちしか知りませんから、急いで帰る理由にもなっている細かい構成の妙にも感心させられました。登場するヒトたちがそれぞれ好き勝手に振る舞って、べつに完璧な答えや方法を選んでいるわけでもなく、それでもなんとかなってしまうのはムーミン谷のヒトたちならではでしょう。より困ったヒトたちばかりだから魅力があるのが「十一月」の楽しさですが、展開がおもしろく構成も見事で、お話の完成度の高さだったら圧倒的にこちらを推します。

 細かいところではムーミンとスノークの種族の違いが描かれていたり、スナフキンの帽子の羽根がおさびし山のオオワシの羽根だったり、家に帰ったムーミンがスナフキンをさっそく親友として紹介していたりとその後の彼らに繋がる描写がこのときからできていたのが分かりますが、洞窟に避難するためにスノークから指示された、持ち物全部の一覧表に、すきでたまらない品物には星を三つ、ただすきだというだけのものには星を二つ、なくてもくらせるだろうと思うものには星を一つつけてくださいと言われたスナフキンの一言が素敵です。

「ぼくのリストは、いつでもできるよ。ハーモニカが、星三つだ」
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