冒険者の帰還(社会思想社・教養文庫)

 ジョン・バターフィールド/デビッド・ホニグマン/フィリップ・パーカー共著 喜多元子訳
ff1  全三部作となるギリシア神話アドベンチャーゲーム、その完結編となる作品です。志半ばで怪物ミノタウロスの手にかかって殺された兄テセウスの偉業を継ぐべく、貴方である主人公アルテウスはアテネの父王アイゲウスに送られて、生贄とされた男女を連れてミノス王が居を構えるクレタ島へと向かいました。首尾よくミノタウロスを倒したアルテウスは、突然の地震に崩落するクレタ島を脱出してミノスの娘アリアドネを連れ出すと祝福の中で故郷アテネへと凱旋する船に乗り込みます。英雄がアテネに戻り、いずれ父の後を継いで王にもなろうというアルテウスの凱旋ですが冒険者の帰還は思わぬ裏切りと罪悪に満たされた、予想もしなかったであろう苦難と遍歴の旅となるのです。

 神話ではテセウスはミノタウロスを倒した後アテネに帰り、父を継ぐと王として数々の戦いや冒険を行いましたがアリアドネのその後については諸説あるものの結局テセウスと結ばれることはなく、ナクソス島で置き去りにされたともデュオニソス神の妻になったとも伝えられています。アルテウスの遍歴はこの兄を辿るものになるかと思いきやそうではなく、かのオデュッセウスもかくやとばかり数年に及ぶ放浪の旅路が彼を待ち構えています。アルテウスが何故アリアドネを置き去りにしなければならないのか、そこにはギリシア神話らしい、人間らしい身勝手さはありますがミノスの娘であるアリアドネは怪物ミノタウロスの兄妹でもあり、彼女と結ばれればアルテウスは兄殺しとなってしまうでしょう。
 後悔と失意を覚えながら帰国するアルテウスですが、彼の帰還と前後して父王アイゲウスが息を引き取ります。これを不吉としてアテネの民衆が騒ぎ出し、貴方は追い立てられるように国を後にしなければなりません。放浪する先で従兄弟アグノステスを競技中の事故で殺してしまい、親族の犠牲に汚された身を清めるためにアルテウスは旅をしながら、やがて故郷トロイゼンを目指すことになります。

 六百に及ぶパラグラフ数と独自のシステムは健在で、これまでの能力や装備をそのまま引き継いでの冒険が可能な点も前作「ミノス王の宮廷」と変わらず、本作品からはじめるのであれば自分の守り神を選んでから与えられた装備や神々との関係を引き継いで冒険に出ることになります。特に守り神の選択はアルテウスの苦難に大きな影響を与えますが、シリーズを通じても尋常ではない難易度を誇る作品だけに選択も慎重に行いたいところでしょう。今回の旅は放浪する中で装備のことごとくを失うことが多く、素手で戦う機会があることを思えば戦神アレスがおそらく最も容易でしょうか。あとはどうしようもない海の危難を避けるためにポセイドンか、ゼウスに嘆願する権利を一度だけ増やすことができるヘラを選ぶのがいいかと思います。
 ですが正直なところ守り神や神々との関係が及ぼす影響は「アルテウスの復讐」に比べて少なく、あまり効果的に使えているとは言えません。クレタにはギリシアの神々の力が届かず、裏切りで始まった旅には助けが及ばないという側面もあるのかもしれませんが、せっかくのシステムが効果的に活かせていないのは残念なところだと思います。例えばエジプトの王に歓待される場面や怪物スキュラに襲われる場面などは守り神によって危難から逃れられても良かった筈ですし、デメテルやヘパイストス、アスクレピオスに復讐の三姉妹といった神々についてもそれまでの友好関係や敵対関係があまり活かされません。できれば神々との関係をもっと前面に押し出して、一方でどれかの神と親しくなるときには別の神と敵対するようにして欲しかったところですし、限られたパラグラフ内に入りきらないのであれば守り神を六人も用意せずにイリアスに倣ってヘラとアテナ、アフロディテの三人くらいでも充分だったのではないでしょうか。

 長大ですが複雑とはいえないこの作品を異常なまでに難しくしている要素はいくつかありますが、まずは先述した通り装備を失う機会があまりに多いこと。必然的に戦闘が厳しいものになりがちで、素手やナイフ一本で獣や複数の相手と戦うような場面があちこちに登場します。名誉点を使うことで戦いを優位に進めることができるとはいえ、戦い以外でも名誉点を必要とする場面が多くあまり頻繁に頼ることはできません。
 そして選択肢を選ぶ際に予想できる要素が少なく、失敗すればただちに命を失う例がままあるのも厳しいところでしょう。右と左を選んで間違えたら死ぬといった例はテーベで鳥人の集落を逃げるときくらいしかありませんが、ヌビア人の仲間になるか奴隷になるかによってたまたまマウンテンライオンに食い殺される結末が決まっている場面などは神々に翻弄されるアルテウスらしいとはいえ、未来を予想できない選択が困難を呼び込むことはあってもそれが死に直結するのはゲームとしては辛いところです。開始直後にアルテウスが絶壁を落ちて死ぬ導入や、ピタロスの一族に会う前に雪に埋もれて息絶える場面はシリーズ特有の「ヒントをつかむ」行為を使った面白い演出となっていますが、効果的に使える場面が少なくなっているのももったいないところです。

 正直なところ執筆期間が短かったのではないかと思わせる、システム面での作り込みの甘さや挿絵の質の悪さが気になりますが、物語としてはまさかの導入から悲劇的なエンディングまで、ギリシア神話らしい理不尽で強い印象を残してくれる作品です。強欲で身勝手なフェニキア商人マルコスに振りまわされながらも調子のいいこの男に奇妙な親しみを覚え、ハデスの国で再開したアリアドネの存在に罪悪感を覚えながらも口論によって別れ、帰ってきた故郷トロイゼンの姿を見て神々の無情を叫ぶ。アルテウスの言行がそのまま読み進める貴方の言行になっている点ではゲームブックというよりもロールプレイング・ゲームとして稀有な作品といえるかもしれません。それまでの二作では「英雄アルテウスを操る貴方」という印象のあった冒険が、この作品では読み進める貴方自身がアルテウスでありギリシア悲劇の主人公となって理不尽な境遇に怒り、泣きながら叩きのめされることになるでしょう。
 独自のシステムを活かしたゲームブックとしては「アルテウスの復讐」の完成度が高く、怪物を倒して王女を迎える英雄譚の魅力であれば「ミノス王の宮廷」が相応しいですが、ギリシア神話らしい悲劇の主人公を存分に味わう、ギリシア神話アドベンチャーゲームの名にもっとも相応しいのはむしろこの作品ではないかと思います。その結末に当時は確かに驚きと理不尽さを感じましたが、時を経てより強く印象に残っているのは三部作の中でも間違いなくこの作品なのです。
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