狂王の試練場−ある冒険者の手記−


一枚目
 左手に高くそびえる石造りの城壁、狂王トレボーの城塞都市を臨んでいる。先ずは訓練場に赴き、狂王が通告した護符奪回の試練に臨むべく自らの名を記帳せねばならない。自分たちのような無頼の輩には勿体ぶった手続きなど面倒なだけでしかないが、かの魔術師が王の寝室から持ち出したと言われる護符の力がそれだけ強大なものであるという事実を思わせる。周囲には熟練から新米に到るまで数多くの人と亜人とが小さな列を作っていたが、残念ながら自分も新米の一人としてしか数えられない存在に過ぎないのだ。私の傍らを如何にも高貴そうな若者が通り過ぎる様子に注目が集まる。高名なリルガミン地方から来た、生まれながらに君主としての英才を持つ若者という触れ込みに驚きを隠せない。いずれにせよ、私のように多少戦場で剣を握っていましたという程度の戦士は掃いて捨てるほどいる。
 ずらりと居並んでいる連中には傭兵として、衛視として、或いは野盗としてであっても剣を手に握る殴り合いを経験した事のある者が幾人もいるのであろう。だが如何に屈強な戦士でも優れた軍隊であっても、動きの制限される狭隘な地下迷宮の中で自分たちの実力を過信する事はできないのだ。少人数で、且つ充分な力を発揮するには役割を分担する仲間の存在が欠かせない。傍らに立っている同郷の友人を促し、拙い字で記帳を終える。ここでは便宜的に自分の能力を職業として書き入れる。私は戦士、友人は盗賊と書くが実際には私は数回ほど村の衛視をしていた程度だし、友人は森に罠を張っての狩猟が得意という程度で盗みなどしたこともない。手垢と歳月に磨かれている、古びた木机の向こうに座っていた年配の男が言う。ここには日々多くの名が書かれているが、消されることもまた多い。あんたらの名前が消されないことを祈るよ、と。彼の言葉は単純な死を指しているのではない。様々な理由によりこの薄汚れた帳面に記載された名前が消されること、この試練場における存在の消滅−ロスト−を指しているのだ。存在が葬られて人に忘れられる、その中には自らの意思で名前を消す者すらいるという。

 こうして訓練場で書き記した、たった数行の文字のおかげで私と友人は狂王の城塞都市に足を踏み入れる許可証を受け取ることができた。無論、無頼の新参者が王に謁見できる筈もなく、その栄誉はかの護符を手に入れた者にだけ近衛隊の徽章とともに与えられると言われている。高い石壁に囲われている路地も建物も当然のようにごみごみとしていて、歩きやすいとはとても言えないが我々のような者たちのために開かれている幾つかの施設だけは大きく、この町が試練場によって成り立っているという皮肉な現実を窺わせる。噂によれば王はこの町に優れた戦士を集めるために、敢えて魔術師に護符を盗ませたのだと吹聴する者すらいるらしい。
 私たちにはまず地下の試練場に挑む為の仲間が必要だ。鎖かたびらを着込み、頼りない槌矛と丸盾を手にした戦士が一人と、足どりもおぼつかない盗賊の二人連れでは地下に潜った所で数人の野盗にでも出会えば生きては帰れないだろう。ギルガメス、と書かれた銅製の看板を見付けるとぎいぎいと音の鳴る扉を押し開ける。そこはかなり広々とした酒場であり、壁には多くの英傑を称える絵姿が飾られていて詩人が歌を奏でている。私たちのような者が仲間を集うために作られた場所であるとは訓練場の男に聞いていた。

 詩人に吟じられるような、今も迷宮の奥深くに在る生きた伝説はたいていは一度地下に潜れば、合流も解散もそこで済ませることが多いという。彼らでも敢えてギルガメスを訪れることがあり、古くからの知り合いと言葉の花を咲かせるというが私たちが訪れたときにはそのような幸運に出会うことはできなかった。ともあれ、私たちは本来の目的を果たさなければならない。最初の呼びかけに応じたのは剣を一本だけ持った頑丈そうな蛮人と、いかにも世慣れていない魔術師見習いだった。魔術師というものはもっと奇抜な服装をした皺だらけの老人だと思っていた、と私が言うと皆が笑ったものだ。どうやら田舎者の知識よりももう少し、魔法使いというのは現実的な存在らしい。
 私と友人を含めて人間が四人。暇そうにしていた亜人を探してみると、酒杯を手によってきたのはずんぐりしたドワーフと小狡そうなノームである。どちらも小柄で長い顎髭を生やしているが、頑丈そうな胸当てをつけて体格に似合わない剣を持っているのがドワーフ、古い大地神の聖印を握っているのがノームだというように覚える。異種族でも顔くらいすぐに覚えろとどやされるが、彼らにしたところで私と友人の区別がいまひとつついていないのだ。
二枚目
 未だ身体に馴染んでいない装備に身を包むと、酒場を出てぞろぞろと石畳の街路を踏みながら門に向かう。有名な試練場、迷宮への入り口は門を出た町外れにありその階層は地下深くに続いていると言われている。屈強そうなドワーフの衛兵が二人、迷宮の入り口を左右に挟むようにして守っていたが、彼等は私たちの姿を一瞥すると許可証の提示すら求めず顎先と視線だけでいいから先に進め、と促した。ずいぶん無愛想なものだ、と私がこぼすと同行するドワーフが愛想の良いドワーフなど気味が悪いだろうと言う。なるほどもっともな話だ。
 こうして迷宮への第一歩は緊張を解きほぐす軽口から始まったが、薄暗く伸びている回廊は我々の未熟な神経を過剰なまでに尖らせている。周囲はまだ入り口から差し込んでいる僅かな明かりが見えていたし、壁面にも角灯が吊るされていて周囲は夜のギルガメスよりもよほど明るい。何より、仲間を待っているのだろう他の冒険者の姿すら数人見かけられる様子では入り口のドワーフがろくな確認すらしなかったのも無理はないだろう。彼らの存在そのものが、迷宮から怪物があふれないための壁となっている。

 松明の一本と、更に角灯にも火をつける。頼りない二つの明かりが回廊の奥を照らすが、何かがいる様子はない。こんな入り口でも臆病な様子を見せているのは新米だけで、熟練した連中は目をつぶっても回廊を駆け抜けてしまうというが、ならば新米でも構わないというのが我々の共通した認識だった。少なくとも、慎重さを失うのはもっと腕を磨いてからでも遅くはないだろう。回廊の角を曲がってから少し先にある扉の前で足を止める。向こうからはかしゃかしゃという不気味な音が聞こえてきて、私たちは扉を勢いよく蹴り開けた。
 記念すべき最初の戦いの感慨にふける余裕はまるでなかった。ぎくしゃくとした無様な動きで近づいてくる、骸骨たちはどうやら人間ではなく犬頭のコボルドの死体が動いているようだ。私は蛮人と並んでおうおうと叫びながら槌矛と剣を思い切り振り下ろし、ドワーフも身体ごとぶつかるようにして歩き回る骨をばらばらにしてしまう。気がつけばあっという間に戦いは終わっていた。私たちが痛む身体をさすりながら笑顔を交わしていると、友人が部屋の隅に転がっている血のついた箱を見付ける。最初の勝利と最初の収穫に、ぎこちない手つきで蓋を開くが、ばねが弾けるような音とうめくような声に続いて、彼の身体がどさりと倒れる。たった一本の弩の矢が実にあっけなく、友人の命を永久に奪い去ってしまった。

 今なら間に合う。司祭が持つ奇跡の力はすさまじく、迷宮で倒れた者であっても寺院に捧げられる祈りさえあれば失われた命を呼び戻すことができることを私は知っていた。だが私が口を開く前に、ドワーフがゆっくりと首を振って重々しく口を開く。

「彼を生き返らせる金がない」

 そうなのだ。このような危険な地で、好き好んで命を落とそうとする連中を誰が無償で救ってくれるというのであろうか。それに見合う金があれば司祭の時間を割いてもらうこともできるが、駆け出しの新米冒険者には無理な話である。金を稼ぐにはこれからも戦わなければならず、財宝を見付けても同じような罠を避けるには盗賊の助けが必要だ。ならば答えはひとつ、友人の骸は放っておいて新しい盗賊をギルガメスで探すべきではないか。
 せめて埋葬したことがせめてもの誠意である。一度地上に戻り、私は自らの手で訓練場の帳面に書かれていた友人の名前を塗りつぶした。友人の死以上に私を襲った衝撃は、彼のロストがこれほど簡単に行われてしまったことにある。あまりに簡単で、あまりにあっけない。正直に告白するが、私はたぶん消滅した彼の記憶を永くとどめることなどできないし仲間たちであれば尚更だろう。私は死への恐怖ではなく、私が消滅した時に他者が抱くであろう簡単すぎる感慨に恐怖を感じずにはいられなかった。それを避けるためには消滅だけは避けねばならない。強くなり、金をためて、私が死んだら寺院に運ばなければならないと皆に思わせること。それがこのきちがいじみた試練場で最も保障される安全に違いないのだ。
三枚目
 それからの私たちは、しばらくただ戦い続けるだけの日々を過ごしていた。勇敢なためではない。臆病な我々は迷宮の入り口からなるべく近いところで、徘徊する怪物を見付けては襲い掛かると倒れた骸から少ない金貨をひっぺがすのだ。財宝の箱には手を出さない。これなら消滅した私の友人のように、悪辣な罠にかかる心配もないではないか。

 あの記念すべき骨のかたまりだけではなく、狡猾な犬頭のコボルドや不潔な豚頭のオークとどれほど戦ったか分からない。私の槌矛や、蛮人やドワーフが振り回す剣は頼りなくも化け物たちをたたき伏せることができた。だが何よりも心強かったのは魔術師が唱える眠りの呪文と、ノームがもたらす治癒の奇跡だったろう。彼らは未熟だったし、一度か二度で呪文も祈りも尽きてしまうが私たちは眠りこけた化け物を嬉々として殴り殺すことができたし、気休めであっても痛む傷を癒すことができた。魔法や奇跡も存外便利なものだ、と無愛想な蛮人もドワーフも口を揃えて言っていた。
 そのような日々が続き、私たちもようやく新米から駆け出しになることができたろうか。まず思い知らされたことは、この地下浅い場所で恐ろしいのは化け物でも罠でもなく人間であるということだった。私たちのような経験の浅い連中を狙っている野盗がいるのだ。中でも重い蛮刀を振り回している奴らの実力はそこらの戦士に引けをとらない。一撃で半死半生になった蛮人の姿を見て、皆で迷わず逃げ出したことは情けなくても正しい判断だったと今でも確信している。あっけない死に比べれば遥かにましというものだろう。

 ギルガメスで新しく雇い入れた若い盗賊には今のところ活躍する機会すらない。もう少し熟練するまでは皆の後ろでにぎやかしていることだけが彼の存在意義だ。私は冗談めかして、私たちの方針を考えればしばらくは飾りなのだから若い娘の盗賊を探すべきではないかと言ったことがある。これが実現しなかったのは探すことが難しかったからではなく、ドワーフが強行にそれなら若いドワーフの娘がいいと言ったからだ。ドワーフの娘で盗賊など聞いたこともないが、彼ならば実際に連れてきて盗賊として訓練場に記帳しかねないと思う。
 それにしてもいつまでも彼に無為徒食をさせることもあるまいと、ようやく迷宮に慣れてきた私たちは、ほんの少しずつ歩き回る範囲を広げるようになった。それに伴い、迷宮の出口に近い場所で見付けた箱は若い盗賊に開けてもらうことにする。ようやく活躍の機会を得た彼はなかなか器用な指先を披露して、一度などは大きな金属鎧の入った箱を見付け出したものである。存外の掘り出し物に私たちは飛び上がって喜ぶと、鑑定されぬままの鎧は私が着ることになった。不安や抵抗がなかった訳でもないが、こんな迷宮の入り口近い場所に魔法の鎧も呪われた鎧もある筈がない、そんな情けない確信だが私は立派な鎧を手に入れることができたのである。私の鎖かたびらは蛮人が着ることになった。

 ふと気が付けば私はもう同郷であった友人を思い出すこともなくなっている。記憶はすっかり薄れていたし、仲間たちにいたっては彼の顔も名前すらも覚えてはいまい。だが私は思うのだ、この迷宮で時を過ごしている者であれば、それを酷薄だと言う者は決していないであろうと。
四枚目
 迷宮のごく浅い層を行き来している者たちが探し回っている品がある。黄金に輝く鍵の存在だ。これを手に入れてようやくその者たちは迷宮に足を踏み入れる資格を得るとすら言われている。私たちの手元にも鍵があった。だがそれは輝く黄金ではなく銀と青銅が一本ずつである。そういうと多くの者に笑われたものだ。そんなものは誰だって簡単に手に入れられるさと。確かに私たちもこれを簡単に手に入れていたのだから反論のしようもない。

 多少は腕に覚えがついてきた私たちは黄金の鍵を探すことを決意する。私を含む戦士たちはわずか一呼吸の間に二度の武器を振るえるようになっていたし、魔術師は化け物どもを焼き尽くす炎の呪文を唱えられるようになった。あの恐ろしい蛮刀を持った連中ですら、炎の前には形無しだった。鍵は地下一階ではない、下の階層にあるだろうと私たちは勇んで足を踏み入れる。
 ところがそこはとんでもない場所だったのだ。迷宮に足を踏み入れる資格を手に入れるためには、挑むべき試練もまた本格的なものにならざるを得ない。下層へと降りた私たちを出迎えてくれたのがそうした試練の名に相応しい化け物たちであったのだ。オークやコボルドや野盗といった、見慣れた連中は所詮弱った者から「おこぼれ」を狙うだけの姑息な輩に過ぎない。毒、麻痺、それに魔法の呪文。この階層はそうした嫌らしい能力を持つ化け物ばかりで満たされていた。回廊のそこらには出口にたどり着く前に息絶えたのであろう、猛毒に侵された骸が幾つも転がっていてそれは今も作られているに違いない。

 私たちはなけなしの金貨をはたいて高額な解毒薬を購入していたが、武器や鎧よりも高いこんな薬瓶が何よりも貴重な命綱に見えてくる。実際に、幾人もが毒を受けたときにはどうしても一人分この薬が足りなかった。私たちが取るべき手は二つあった。一つは誰かに薬を持ってこの場所まで降りてきてもらうことだが、残念なことに私たちにはそれほど都合のよい知り合いはいない。もう一つは毒に侵されながらも頑張って出口へと帰ることで、もっともタフな蛮人が勇敢な役目に選ばれた。彼を守るように後ろに置いて、ノームが時折治療の奇跡を施しながら一歩ずつ地上を目指す。蛮人の代わりに若い盗賊が前に立つが、もとより化け物が出ても戦う余裕などないのだ。一歩が百歩にも感じる足取りで、顔色が青から紫色に変わっていく蛮人の身を案じながら私たちは足を進めた。ぎりぎりでノームの奇跡の力が尽きて、絶望が頭をよぎりかけたが間一髪というところで陽光を見い出すと蛮人を運び出すことに成功する。ここまでくれば、迷宮の入り口に控えている衛視に簡単な治療をしてもらうことができた。死ねば消滅するかもしれない、だが死ななければ何としても助けるべきだろう。

 だがこの生還にいたる道は私たちの多少充実してきた武器や鎧よりも、手馴れてきた剣の技よりも、頼もしい炎の呪文よりも、そして生き延びた蛮人の命よりも大きい教訓を与えていた。探索とは今ならまだ帰還することができる場所までしか行うことができないこと、それを理解したときに私たちはようやくこの迷宮に挑む資格を得ることができたことを知ったのだ。暗闇の奥に安置されていた黄金の鍵を手に入れることは、その我々にとってさほど難しいことではなかった。私たちが挑んでいるものは迷宮の試練ではなく、自分たちの限界を理解してそのぎりぎりの線に対してなのだ。
五枚目
 この記録は私たち自身にというよりも、もしもそのような者がいたとして、この記録を読んで迷宮の試練に挑もうとする者にこそ書き残しておきたい。それは悪辣な地下三層のことであり、好奇心のみで足を踏み入れた愚か者たちを皆殺しにするためだけに設けられている場所のことだ。迷宮の試練は一段と厳しく、化け物どもは一層狂猛になっている。

 その私たちこそが言い訳のしようもなく、ただ好奇心のみでこの層に足を踏み入れてしまった者たちである。迷宮に挑む多くの者たちでもこの層に挑む者は少ない。それも当然のことで、ここまで来ることができた者であればすでに三層を越して四層に直接いたる道を見つけ出しているであろうから。私たちは愚かさのために敢えてここを訪れたのである。放置されたこの層はすべての回廊が格子状に遠くまで伸びている。交差する回廊に挟まれた四角い場所がすべて部屋になっていて、交差路には方角を惑わす罠や警告があふれていた。右を見ても左を見てもすぐに位置を失ってしまい、回廊を歩けば罠が待ち構えているし部屋を横切ろうとすれば中には化け物どもが潜んでいるのだ。

 そして恐るべきはその化け物どもだ。それまでは遠慮していたとでもいうように、驚くべき数の連中に私たちはたちまち取り囲まれてしまった。それまではせいぜい五から十体程度の化け物が、二十も三十も現れる様を想像して欲しい。しかも奴らは上層の連中よりも更に強く凶悪になっていて、魔術師が唱える炎の呪文ですらも一部を蹴散らすことしかできなかった。
 人間をひとのみにする巨大な毒ガエル、鱗のような皮膚をして炎を吐いてくる奇怪な虫、幾ら倒してもまるできりがない毒グモの群れや炎の呪文にすら厚い毛皮で耐えて見せる人熊。そしてこのような場所で徒党を組んでいる人間たちも恐るべき連中と言うしかなく、神官すら武器に猛毒を塗って襲い掛かってくるのだ。解毒の薬はもちろん、ノームがようやく覚えていた解毒の奇跡を起こす力ですら瞬く間に尽きてしまうと、蛮人が汚らわしい毒に侵されてしまう。だが今度は彼を下がらせる訳にはいかない。目の前に居並んでいる黒装束の男たちが、不気味ないでたちで襲い掛かってくる。盗賊が手にするような短い刃でどれほどのことができようかと、剣を振り上げたドワーフの動きがぴたりと止まるとごろりという音がして、髭を伸ばした頭が床に転がり落ちた。東方の剣技を目の当たりにした我々は気のいい仲間の亡骸を構うそぶりもできずに一斉に逃げ出すしかない。

 格子状の回廊は四方を向けど果てしなく続いている。私たちはすぐに不幸なドワーフの仲間になるだろうことを覚悟していたが、偶然に見つけ出した扉を潜ったところに地上へと続く縦坑を見付けると幾人かは思わず泣き出してしまった。犠牲を強いて、多くを失った私たちが手に入れたものはたった一つのこの情報でしかないのだ。愚かな者たちよ、この地下三層に足を踏み入れるべきではないと。
六枚目
 ブルーリボンと呼ばれる品がある。迷宮の最深部にいたるための、本当に必要な資格とされている品でありこれを手にすれば他の鍵などは手放してしまっても構わないと言う者さえいる。無論、私たちもそれを手に入れなければ迷宮の奥深くに潜んでいる本当の試練に挑むことはできない。

 犠牲となった不幸なドワーフの代わりに、私たちがギルガメスで声をかけたのは同じドワーフの僧侶である。本来であれば仲間の武器となり盾となる戦士が相応しいかもしれないが、私たちにはドワーフを求める理由があったのかもしれない。彼は好戦的な男で、地下にはびこる毒竜が相手であっても怯むことすらなく槌矛を振るうことができる。武器の技量では熟練した戦士に劣るかもしれないが、自らを守る頑健さはあるし仲間を救う治療や守りの奇跡を行うことができた。ノームと二人、奇跡を行う者がいることは充分に心強い。
 そしていよいよ私たちが挑むべき、ブルーリボンを手に入れるための試練を前にどうしても一つの気まぐれな恐怖にだけは触れておかねばなるまい。それは偶然を司る神々によってもたらされたもので、私たちもまるで予想すらしていなかったものだ。

 迷宮の随所に見付け出すことができる箱には、その多くに恐るべき罠が仕掛けられている。幾人もの不幸な者たちが犠牲になったろう、罠の一つに魔法の転移装置があった。それは同じ層の不特定の場所に皆を飛ばしてしまうというものだが、悪辣ではあってもこれがそれほど深刻な罠であるとはそれまで考えてもいなかったのだ。いつものように化け物どもを蹴散らして、いつものように罠を警戒しつつ、いつものように慎重に盗賊はそれを開けていた筈だった。それが完璧でなかったとしても誰も咎めることはできないし、運悪く失敗した罠がその転移装置であったこともまったくの偶然である。だが気が付いて周囲を見渡した私たちは愕然とした。ごく狭いそのエリアには、外に通じる出口がなかったのだ。
 究極まで熟達した魔術師は迷宮を自在に転移する呪文を唱えることができるようになるという。そこまで行かずとも、優れた僧侶であればすべての荷と引き換えに皆を地上へと戻す奇跡を行うこともできると言われていた。だが私たちにはいずれもそれだけの力はない。誰かに迎えにきてもらうこともできず、無為に歩き回っていればいずれ力尽きるしかない。戦士の剣も、盗賊の技も、魔術師の呪文も、僧侶の奇跡もこのときばかりは何の役にも立ちはしなかった。皆が絶望して蛮人は頭を抱えて天井を仰ぎ、盗賊もすべてが自らの責任のように感じて床に手をついている。正直、私もすべてをあきらめた。だがどうせあきらめたのであれば一つだけ賭けてみようと思ったのだ。

「もう一度あの罠を探そう。ここではない、どこかに飛ばしてもらえるかもしれない」

 嫌も応もなかった。私たちは何かにとりつかれたように、小さな部屋が連なるその一画を半ば駆け足で歩き回る。所々にいた化け物たちがもとからここにいたものか、私たちと同じように飛ばされてきたものかは分からないが、後者であれば同じように罠が仕掛けられた箱ごと転移されているかもしれぬではないか。このときばかりは化け物よりも獰猛だった私たちは、剣士たちの一団を打ち倒すと彼らが抱えていた箱を見つけ出す。慎重に調べる盗賊の顔にわずかな輝きが見えた。間違いない、魔法の転移の罠だ!運を天に任せて箱をこじあけた私たちの周囲が一瞬暗くなり、気が付いた目の前には見知った階段の姿がある。私たちは全身の力が抜けたように床にへたり込んでしまったが、もしもこの時に化け物にでも襲われていたらどうなっていたか分からないと今でも思う。

 私は今でも思う。このときに生き残っていたことは、出口のない不毛な部屋で朽ちずに済んだことは誰にとっても幸運であったのだと思う。私たちが目にしている階段のある通路こそこの迷宮の制御区画、コントロールセンターと呼ばれる場所でありその奥に構えている衛兵たちがブルーリボンを守っているのだ。迷宮でも随一と言われている東方のニンジャが率いる、いずれ劣らぬ熟達した戦士と魔術師、高僧たちの一団である。彼らの存在は地上でも知られていたが、少なくとも戦士であれば一呼吸に二度ではなく三度の攻撃ができるまで熟達すること、魔術師は窒息の呪文を覚えていること、そして充分な幸運を有していること、そうでなければとても敵うものではないと言われていた。
 偶然の神がもたらした危難をすら乗り越えた私たちには自信も成算もあった。だが仲間たちにはそれによって残された幸運を使い果たしていた者も存在した。激しい戦いはほんの一瞬で終わった。私の槌矛がニンジャの頭骨を砕いていた横で、蛮人の首がごろりと床に転がっている。背中では沈黙の奇跡が間に合わなかったノームの心臓が高僧の呪いによって止められていた。だが互いの武器と呪文が交わされて最後まで立っていたのは私を含む四人の仲間たちである。光り輝くブルーリボンを手にする、私たちを支配していたのは大きな達成感と安堵感であったがそれを嫌悪することはできなかった。その理由を理解した者こそ、迷宮の最深部に挑む者として真に認められるのであるから。
七枚目
 地上に戻って後、私たちは息の絶えた蛮人とノームの骸を抱えて寺院へと足を運んでいた。理由はある。新米であった頃とは異なり、わずかとはいえ私たちには迷宮で蓄えた金貨や財宝があったから失われた蛮人やノームの生命を呼び戻すことができるかもしれない。

「囁き、祈り、詠唱。そして念じろ」

 それは寺院で度々聞かされる心構えである。奇跡の祈りを神々は大抵聞き届けてくれるものだと言われてはいるが、それでも完全ではない。仲間たちの祈りと何よりも当人の幸運に負うところが大きく残念なことに寄進の額も奇跡の効果に影響を及ぼすことはできなかった。もちろん、及ぼすことができたとしても私たちにそこまでの蓄えはない。二人の身体が祭壇に寝かされてそれを私たちが囲むと仰々しい儀式が始まる。私は信じてもいない神に手を組んで祈りを捧げているが、それを不敬だとは思っていない。重要なことは神を信じているかどうかではなく、私たちが不幸な彼らをどこまで思っているかではないのだろうか。
 司祭が祈りを終えたとき、呼び戻された命は一つだけであった。髭顔のノームは彼が倒れる以前となんら変わらない、あの小狡そうな笑みを見せるがすぐには自分が固い祭壇に寝かされている理由を理解できなかったらしい。きょろきょろとあたりを見回した後で、自分が恐ろしい体験から帰ってきたばかりであることにようやく得心した様子で恐ろしげな表情に変わる。だがその表情の理由はもう一つ、彼の傍らに並んでいた祭壇のせいであったかもしれない。物言わぬ蛮人の骸は祈りが終えられた瞬間、青白い炎のような光に包まれると燃え上がって後には灰しか残されてはいなかったのだ。

 寺院を後にした私たちは、これからの方針を決めなければならなかったが、もっとも大きな変化が訪れていたのは命を取り戻したノームである。敬虔ながらどこか悪戯でもあった彼の表情は、今では穏やかで思慮深く見えて長い顎髭のせいもあって年齢を重ねた老人のようにも見えている。彼はこれまでとは異なる声が聞こえると言いながら、私たちを連れて町外れに赴くと司教になるための儀式を受けたいと言い出した。もともと私たちが訓練場で記帳していた職業は能力に沿った便宜的なものでしかなかったが、真実にそれに相応しい能力を手に入れた者はそれを宣告することができると言われている。私も噂には聞いていたが、クラスチェンジの儀式を目の当たりにできるとは思ってもいなかった。
 だがそれはごくあっけないもので、訓練場の更に外れにある小さな祭壇に向かったノームは何かに導かれるように自らの力と戒律が司教に相応しいものであることを宣言する、それで終わりだった。後は訓練場に記載されていた彼の職業を書き換える手続きを済ませただけである。だが私にも、他の仲間たちにもノームが確かに変わったことが分かる。わずか数刻の出来事の中で、彼だけは五年ほども歳をとったように見えていた。

 司教とは僧侶に比べても何か特別な祭祀を司る訳ではないが、僧侶の敬虔さと賢人の知性を備えた者である。彼らはこれまでと同じように奇跡を起こす力が備えられていたが、不可思議な能力として古い品々が秘めている力を天啓のように見抜くことができるという眼力を備えることができる。本来は神話や伝説を助ける、神々の器が世に現れたときにこれを知るための目であるらしいが、それ以外の鑑定ができずにいる品の正体を調べることができるのだ。私が着ていた、あの鎧が本当に何の変哲もない鎧であったことも彼の目には見ることができる。
 蛮人の骸は灰だけしか残らなかったが、灰すらも残らないよりは良かったのであろう。町外れの一画に、墓標の代わりに彼が愛用していた剣を立てるとノームは彼がそうするのが当然であるかのように短い祈りを捧げる。剣の根元に灰が埋められたがすぐに流れるか霧散して消えてしまうに違いない。訓練場を去る前に、私たちは彼の名前を帳面から消し去って再び迷宮の試練へと戻るのだ。
八枚目
 青く輝くブルーリボンを掲げて、専用に設けられた縦坑に足を踏み入れる。魔法の力なのであろうか、壁も床も驚くほどなめらかでまるで磨かれた石のように見える。どうやら最深部まで続いているらしい縦坑をそのまま下まで降りていくべきかどうか、私たちは大いに悩んだものだ。地下三層で出会うことになった、不必要な苦難の記憶がまざまざと思い出されるが今の私たちの未熟な腕前で迷宮の試練にどこまで挑むことができるかいささか心許なくも思っている。幾人かの犠牲を経て自分たちがここにあることを思えば、慎重も度が過ぎることは決してありえないだろう。

 失われた蛮人の代わりに私たちがギルガメスで募ったのはどこか頼りなげに見える、若い戦士だった。気が付けば私たちもそれなりの手練れになっていたらしく、彼の若さが幼さに見えなくもない。しばらくマーフィーと遊んでいましたと、どうも分からない自己紹介をした戦士は私たちには及ばないが多少は剣を使うことができた。ブルーリボンで向かう縦坑を降りてすぐ、地下五層で早々に手に入れていた魔法の剣を渡されて無邪気に喜んでおり、その切れ味に上気した様子を隠せずにいる。無論、それが未熟な彼の身を守るせめてもの助けとなるように渡されたことを彼は気が付いていないだろう。私が頑なに使っているくたびれた槌矛は私の意思のままに化け物を打ち倒し、魔法の剣を上回る手傷を負わせることができるのだから。
 だが魔法の剣の収穫に限らず、私たちが探索をこの階層に留まらせたことは正解だった。それまで迷宮の上層で出会ってきた連中に比べて明らかに徘徊する化け物どもの姿が変わっている。生命を吸い取ろうとする不気味な影のような存在、彫像めいた悪魔、おとぎ話にある人を石と化す能力を持った首の長いトカゲにいたるまで、気を抜くことのできない化け物が歩き回っている。そしてそれ以上に変わったと思わせるのが人間の存在だ。地下三層に集団で暮らしているらしい連中を除けば、迷宮で私たちを狙う連中のほとんどは「おこぼれ」を狙う姑息な輩ばかりだった。だがこの階層をうろついている者たちは明らかに様子も実力も違い、例えば魔術師であればごく当然のように強力な炎の呪文を唱えてくる。わずかな油断が甚大な被害に繋がる戦いばかりが私たちを迎えるが、私たちもそれに応えることができるだけの実力を既に身に着けている。しばらくは未熟な新参の仲間を戦いに慣れさせてもいいだろう。

 戦いと探索を経て少しずつ私たちの武具や鎧も充実したものに変わっている。その助けになっているのは言うまでもない、ノームが持つ鑑定の力だ。私も見事な装飾が凝らされた戦槌を手に入れることができたし、質のいい盾や兜が転がってもいた。そしてすぐには使えぬ物であれば、これを地上で売ることで私たちは容易に多くの財貨を得ることができるようになった。貯め込んだ金で銅製の小手を買う。繊細なつくりをした小手は性能に比べていかにも高価すぎるが、戦士にとっては貴重な腕を守ることができる防具が有り難くない筈がなかった。
 同時に奇妙だが面白い事実を知ることもできた。特に剣や戦槌といった魔法の武器について、明らかに切れ味に優れる魔法の剣がそれに劣る装飾された剣よりも安価に扱われているのだ。値段と性能が比例しない理由は明白であり、古代王国時代の魔法の剣は単に装飾品として作られた物であっても、現在の鍛冶師が打った剣に勝るのである。

 最後に一つだけ、地下五層を歩く者がいれば注意を喚起しておきたい。この層にはごく数箇所だけ、立ち入っただけであらゆる呪文や奇跡の力を封じてしまう場所が設けられているのだ。しかも悪辣なことに、自分たちの力が封じられたことは実際に呪文を使おうとするまでは分かりようがない。私たちがこの仕掛けに気が付いたときは仲間にも余裕があったし、出口までの道もきちんと把握していたから大事にはならなかったが、もしも最悪の状況を考えると今でも多少の悪寒を禁じ得ないところだ。
九枚目
 まず先に断っておかなければならない。私たちは迷宮のすべてを踏破することを断念して縦坑を最深部まで潜ることに決めたということをだ。もともと迷宮の試練は魔術師によって奪われた護符を奪還することにあるが、私たちにも欲がなかった訳ではない。多くの英傑や俊英が挑んでいるこの迷宮だが、すべてを踏破した者は数えるほどもいないと言われている。ならば私たちがその数少ない者になってもいいではないか。
 それがごく甘い妄想でしかないことを私たちはすぐに思い知らされることになった。それでも地下六層までは目的を果たすことができたいたが、七層より下はひたすら不毛で危険なだけの階層となっている。危険な罠や長すぎる回廊、居場所を失わせる暗闇もそうだがそもそも迷宮の階層自体が、最深部にいたるための障壁としてつくられてはいないのだ。つまり何も立ち寄る必要すらない、ただの空間として存在する。何も隠してはいないし何も遮ろうとしてはいないからこそ、これほど歩き回るために悪辣な場所はない。敢えて断言するが、これらの場所を踏破できるだけの実力がある者はすぐにでも最下層に挑むことができる筈だ。

 徘徊する化け物や人間たちの力も更に厳しさと恐ろしさを増している。そしてより厄介なのが、彼らの姿だけで彼らの実力を図ることが極めて難しくなっているという点だ。迷宮の浅い階層であれば弱い連中が現れるし、最深部ともなればおそらく強力な化け物ばかりが現れることだろう。だがこの周辺に出る連中といえばその双方が入り交じっていて、例えば東方のサムライに出会ったとしてもそこらの傭兵程度の実力であるかと思えば、地下を闊歩する巨人すら簡単に屠る練達の戦士かもしれない。ごく似ている外見の輩を一蹴した後で、出会った相手に瀕死の一撃を負わされないとも限らないのだ。尽くした全力が無駄になるかもしれず、気を抜けば瞬く間に壊滅させられかねない。この中で踏破するためにつくられていない階層を歩き回るなど無謀な自殺行為にも等しい。無責任な噂であれば、この近辺の階層にはさして強力ではないが格別に稀少な魔法の盾が眠っていると囁かれている。

 私たちの実力は既に熟達の域に入っているだろう、それを過信や慢心だとは思わない。無論私たちは無敵でも万能でもないが、魔術師が唱える氷の暴風の呪文を生命線にして、ドワーフの僧侶も今では石化の呪いすら癒すことができた。私が握る魔法の戦槌の破壊力に、頼りなかった若い戦士の技も追い付きつつある。時として盗賊が前衛に出ると、濡れたように鋭く輝いている魔法の短剣で思わぬ活躍を見せてくれる。身軽なだけ鎧が薄く、いつでも頼ることができるとはいえないが、彼のおかげでいざとなればドワーフの負担を減らすことができるのは有り難い。もしも彼がいなければ、先日のサムライとの戦いで数人が眠りの呪文に倒れたときに無事に宿屋の粗末なベッドに帰ることはおそらくできなかったであろう。

 縦坑の下は地下九層まで続いている。そのすぐ傍らにある部屋には、床面に最深部へと続く最後の穴があった。この穴はその存在を知る者たちにとっては「奈落」と呼ばれていた。私たちもこの周辺まで降りてくることができるようになって、時に私たち以上に熟達した冒険者たちを見かけるようになっている。彼らは口を揃えて言うのだ。ここを下ったことの無い者はこの迷宮に挑んでいる者とは言えない、だがここを下る者は神であれ悪魔であれ逆らう意思を持ち、それでもなお生き延びることができると考えてはいけない。その自信がなければこの迷宮は地下九層までしかないと思えばいいと。
 自信?自信とは何だろうか。一息に幾度も繰り出される剣の技であろうか、すべてを焼き尽くす強力な呪文であろうか、死者すらを呼び戻す奇跡の力であろうか、それとも皆を守る優れた武具と鎧であろうか。どれでも良いのだ。それを理由にして覚悟を持つことができるのであれば、それが自信に他ならない。私たちにはそれがあるだろうか。

 あの若い戦士は今では熟達して、私の戦槌と同じく魔法の剣を一息に三度まで振り回すことができるようになった。ドワーフの僧侶は生き延びるために必要な力を信仰の深淵よりも優先するために、敢えて戦士としてクラスチェンジを行い身を立て直す道を選んでいる。彼は今でも奇跡を起こす力を忘れてはいないし、剣の技も私や若い戦士同様に既に熟達したものとなっていた。盗賊は大抵の罠を容易に外すことができたし、ノームの司教は傷を癒す奇跡を起こしながらも炎の呪文程度であれば操ることができる。そして魔術師は遂に彼らが唱えうるすべての呪文を扱えるに至った。
 ここまで用意をすれば充分だろうか。もう後は私たちに欠けているものは技でも知識でも力でもなく、ただ覚悟だけだろう。皆が口々に言うそのままである。私たちには「奈落」に落ちる覚悟があるのだろうか?
十枚目
 伝説ではない。現実の世界だ。なんということだろうか、狂王の試練に挑み魔術師に奪われた護符を奪還する、それを成し遂げた者は王の親衛隊の徽章を授けられると言われている。それに挑む者には英雄を超えて生ける伝説とまで称される者すら存在していたが、正直なところ地下迷宮の探索に大袈裟なことだと考えたこともあった。だがそれも当然だろう。誰も城塞都市の地下深くに「奈落」が口を開いているなどと本気で考えてはいない。ここは断じて迷宮の底などではなく、奈落の底そのものなのだ。
 巨体に鎌首をもたげて、ゆっくりとした足取りで火竜が近付いてくる。盾などかざしたところで何の役にも立たない、炎の息を吐き散らす化け物だが氷の暴風を巻き起こす呪文を唱える知性も備えている。しかもそれが一体ではない、四体が狭苦しい玄室の壁や天井に身をこすりながら牙をむき出している。このおぞましい現実ですら、この奈落の底ではありふれたささやかな危難でしかないといえばいったい誰が信じてくれるというのだろう。打ち倒された火竜の骸がやがて立ち上がり、巨大な不死の化け物として生前を超える力で襲い掛かってくるといえば誰が私たちの正気を疑わずにいられるであろうか。時として私たち自身、自分たちが正気ではないかもしれぬと思うことがあるというのに。

 私に継ぐ熟達した技を身に着けていた筈の若い戦士が、私の傍らで痺れた腕を抱え込むように小さく振るえている。爛々とした赤い目を光らせる不死の化け物に触れられただけで、彼の肉体はまるで力が吸い取られたかのように衰えてしまっていた。痺れた腕は繰り出す剣の軌跡を鈍らせ、致命の傷を避ける意識と無意識の動作も制限してしまう。ドワーフの祈りによって傷を癒すことができたとしても、失われた肉体の能力は時間と経験によってしか取り戻すことはできないだろう。
 だが奈落の底でおぞましい経験に不足することはない。最も強力な呪文、人の限界に迫る剣技、機械仕掛けの刃を振りかざしてなお試練は尽きることがなく奈落は果てる素振りすら見せないのだ。私たちの身は古代に作られた強力な武具や鎧で覆われているが、まるで足りない。神器に近いともされる、伝え聞きに知る程度の武具を除けば多少の装備などここではごく当たり前に装備していなければならない。名も知らぬ異界から現れた化け物は道化の仮面を被りながら陽気に人間の首を跳ね飛ばし、真に東方の体術を極めたその男は素手で鎧の継ぎ目を裂く技と炎や氷にすら耐える肉体を持っている。精霊の力を秘める巨人族や、破壊の神々すらこの奈落は招聘して私たちを阻むべく送り込んでくるのだ。これは最早試練などではない、断じて試練などではない。

 私の傍らで絶望的な声を上げながら、痺れた剣を振るう戦士は次々と現れる魔人の群れに成す術なく涙を流している。懐かしい迷宮の上層で見た魔物などではない、上位魔人の群れだ。背後に横たわっている盗賊の身体はとうに生命を吸い尽くされていて二度と動くことがない。魔術師が自らの生命を削って唱えた呪文の力を用いなければ、私たちの探索はほんの数刻前に終えられていただろう。
 数多くの代償を求められた。その見返りも私たちの想像を遥かに超えていた。魔人すら一刀に薙ぐ東方の剣がある。身に着けるだけで生命を癒す古代の王の鎧がある。最高の魔術師にのみ許された転移の魔力を秘めた宝冠がある・・・そうだ、この宝冠さえ見付かっていれば良かったのだと思う。奈落は永遠に続き果てなどどこにもないと思っていた。だがそうではなかった。ただ一箇所だけ、ここには当然存在するべき最後の部屋があったのだ。私たちが遂にそこにたどり着いたことを知ったとき、過酷な戦いと多くの犠牲は最も頼りになる魔術師から最後に呪文を唱える力までを奪い去っていた。盗賊とドワーフの骸を抱え、傷ついた足を引きずり、呪文や奇跡の力も尽きかけている私たちには最早引き返す力すら残されてはいない。背後の道も扉も空しく閉ざされている、目の前に掲げられている銘板は絶望的な最後の試練の存在を声高に教えていた。そして私たちは知っているのだ。私たちが求めて止まぬ護符、それには私たちが求める転移の魔力が秘められているのだと。

 果たしてこの手記を手にした者は、私たちと同じく死を決意した悲愴の思いを抱く者であろうか。或いは奈落の試練すらも陽気に打ち伏せてしまう、栄光を目前にした英雄であろうか。願わくば君が後者であり、今は消滅しているであろう私の名を地上へと持ち帰ってもらいたいと思う。同郷の友人が、たった一本の弩の矢によって消滅したあの時から私はずっと恐れていたのだ。死でもなく灰でもない、ロストを避けるために私は誰に何を言われようともこの拙い手記を書き残さずにはいられなかった。これを、私の名を消さないで欲しい。今となってはただそれだけが私の願いである。

 さあ、最後の扉を開けよう。わずかな望みを抱きながら、私は私の筆をここに置くことにする。


−地下十階、ワードナの玄室に到る回廊にあった戦士の遺品より−

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