** Call of Cthulhu! Scenario#4:After Lakeside Calamity **
1.湖畔にて
時は1928年アメリカ、後に狂騒の1920年代とも呼ばれる時代である。当時、ヨーロッパ各国が被った大戦の傷をアメリカは辛うじて免れることができて、終戦後は経済発展と技術開発が進み大量生産と大量消費の波が押し寄せると、それまでの禁欲的な生活の反動もあって町には文化と娯楽が爆発的に広まっていた。都市の様相が変わり、数年前にはまだ路上を闊歩していた馬車の姿が消えて、舗装された道路をT型フォードの黒い車体が走り回るようになった。家にはラジオがあって軽妙な音楽が流れ、銀幕ではコメディや恋愛映画が人々を魅了していた。
急速な発展は人々の意識も急速に変えてしまい、やがて娯楽が行き過ぎてモラルが軽視されるようになり、いわゆる清教徒的なきまじめさが影を潜めるようになると、女性は窮屈なコルセットを脱いでスカートも膝丈まで短くなり、腕や足を露出させると「まるで娼婦のように」化粧をする女性も現れる始末だった。もちろんこうした風潮を嘆かわしいと断じる頭の固い人間も存在して、禁酒法に代表される反動的な締めつけも行われはしたものの、概して誰も耳を貸そうとはせずに新しいものはよいものだと思われていた、そんな時代である。
「私の愛するエドワードへ、その後お変わりはありませんか?聖メアリ医学部付属病院で貴方と別れてからはや二日が経ちますが、アーカムは日ごと寒さが増しているらしく、お身体を害していないことを祈るばかりです。いずれ秋が深まり、冬が訪れる頃には私と私が編んだセーターが貴方を暖かく迎えることでしょう」
婚約者に宛てた文面を思い返しながら、右足に踏み込んでいた力を少しく強くする。アメリカ北東部にあるニューイングランド地方、マサチューセッツとニューハンプシャーの州境を一台のビュイックが走っている。皮の手袋越しにハンドルを握っているエレン・フェイタルズが街道を疾駆する姿は颯爽として、人が見れば馬上で手綱を握る騎手の面持ちを感じさせたかもしれない。
この周辺は新大陸には珍しい地震帯があるらしく、彼女の婚約者が好む言い伝えでは今から六十年ほど以前にも「レイクサイド・カラミティ」という大仰な名前で呼ばれる地震が起きたことがあるらしい。この地震は一部のカルティストの間では特に有名で「山は崩れて沸き立つ湖から現れた姿はこの世のものならぬ」などという怪しすぎる証言が残されていた。エレンにしてみれば莫迦莫迦しい話だと思う。辺鄙な州境で起きた地震はたいした被害をもたらした記録もなく、そもそも彼女を囲んでいる山も湖も騒々しいジャズ・エイジの中で静謐な姿を保っていた。
深窓の令嬢といいつつ活動的な冒険家めいた振る舞いが似合いそうなエレン。猟銃に猟犬と乗馬というスタイルはもちろん、いざとなれば並みの男は殴り倒してしまう腕っぷしがエドワードよりも強そうなのはご愛嬌。忠実なアメリカン・フォックスハウンドのリンカーンはシナリオ開始前にあらかじめ同行を許可されている。
キャンベル老婦人の屋敷は山中にある湖の畔に構えられていた。資産家で知られる老婦人の屋敷は伝統的なヴィクトリア風の様式で建てられていて、その日、屋敷では跡取りのいない老婦人が養女に迎えることになった二人の娘を披露するパーティが催されることになっている。エレンは車を降りて、手早く外套を脱いでドレス姿を湖畔の夜風に晒すと忠実な愛犬リンカーンが主人の後ろにつき従う。婚約者のエドワードは未だ病院で臥せっていて、彼以外の殿方に自分をエスコートさせる発想など彼女には微塵もなかった。
屋敷の周囲にはすでに数台の車が停められていて、一人と一頭は木々に覆われた星空の下を悠然と歩く。玄関の前には一人の青年が立っていて訪客らを丁寧に誘導している様子が見えて、青年はエレンに気が付くと、洗練にはほど遠いが誠実な会釈をしてみせた。
「えーと、エレン・フェイタルズ様でいらっしゃいますね。ようこそお越し下さいました」
「あら?私は貴方を存じませんわ」
まずは名乗りなさいと言外に主張すると、長身の青年はすまなそうに頭を下げる。アルバス・T・フューリーは州境を担当する警察官の青年で、いわゆる近所のよしみでキャンベル家のパーティに招待されると自ら案内役と警備役を買っているらしい。であれば同じ招待客に対して無礼であったかもしれないと、エレンが頭を下げるとアルバスも頭を下げ返す。素朴だが真面目で悪い印象はなく、婚約者以外の男性など目に入らないエレンでなければ充分に好青年に見えたことだろう。
真面目で長身、好青年のおまわりさんという印象そのままのアルバス。アイデアも知識も低いので技能が多彩とは言えないが、警察官らしく調査も戦闘も心得ていて充分頼りになりそうに見える。なのだが今回ダイスの黒い神様が彼をいたくお気に入り召されたこともすぐに明らかになる。
十数人が集まったホールはパーティとしての規模はささやかだが古風な内観と参列者の姿が華やかで、楽団の音がないのが不思議に思えるほどだった。酒が出ないのは禁酒法の影響ではなく車で来場する客人に配慮してのもので、警察官のアルバスですら当時の禁酒法を厳として守るべきなどと考えたことはなかったが、酒造が規制されて以来密造が広まったあげく酒の品質は下がっていたから、こうした集まりでは酒を出さない例も決して珍しくはなかった。
パーティの主催者として安楽椅子に身を沈めているキャンベル老婦人は百歳に手が届くとも言われていて、会場の奥で豪華な椅子と一体化したような外見は更に年老いて見える。パーティに先だって口元をもごもごと動かしていたが、誰も聞き取ることができなかったので、かわりに二人の娘が挨拶をして人々をもてなしていた。ニューイングランドは移民時代からの古い家も多く、家系を旧大陸にたどることができる者もままいたが、彼らの中でも礼節と品格でエレンに勝る者は見当たらず、彼女ほどの振る舞いができれば上流どころか貴族でも王族でも相手にして遜色なかったろう。
「これからは貴女がキャンベル家を代表するのですからね。礼節くらい学びなさいな」
「はい、そうします」
いささか不安な言葉を返しているエリザベスはもともと身寄りがなく、孤児院で育てられたが苦学するとミスカトニック大学で学士の資格を得た娘である。エレンと面識があるのは彼女だけだったが、エリザベスと一緒に養女になるソフィも同じ孤児院で育ち、演劇の世界に進むと才能を認められて大成が期待されているらしい。キャンベル老婦人は彼女たちが幼いころから孤児院に出資すると、特に期待される二人を養女に迎えたので跡継ぎを金で買ったという声もなくはなかったが、努力した二人のシンデレラ・ストーリーを羨ましがる人はいても文句を言う人はいなかった。
エレンに励まされたエリザベスは他の客とも同じように挨拶をしてまわると、慣れない作法にかるく息をつく。パーティの主役ともなると料理に手を出す暇がないのは仕方ないが、会場の隅で見知った顔が数枚の皿と格闘している様子を見て顔をほころばせた。開場前の案内役を引き受けてくれた、親切な警察官に礼を言うために声をかける。
「今日はありがとう、フューリーさん」
「こちらこそ。色々ごちそうになってます」
本当は似合わない礼服よりも警察官の制服を着ていたかったのだろう、アルバスは健啖ぶりを発揮してエリザベスにかわって一枚でも多くの皿を征服しようとしているかに見える。よければお持ち帰りいただいて結構ですよという、エリザベスの言葉に青年もさすがに気恥ずかしくなったらしく匙の動きが少しだけゆっくりになる。
アルバスが配属されたのは最近のことで、エリザベスを見知ったのもパトロールに訪れてからなのでキャンベル家の人々ともそれほど面識があるわけではない。ソフィが幼い頃から仲の良い友人であることなどはエリザベス自身から聞いていたし、キャンベル老婦人がイングランドからの入植者で、けっこうな資産や土地を持っているという話も聞いたことはあるがそれこそ単なる「ご近所さん」以上の付き合いではなかった。ソフィとは多少の世間話をしたこともあるが、老婦人にいたっては耳が遠い上に囁くような声しか出せないので会話をした記憶もない。
ちなみに会場では聞き耳判定に全員が失敗してキャンベル老婦人の呟きを誰も聞くことができなかったが、もし聞けていたら来場への感謝などありきたりな話のほかに、老婦人が六十年ほど昔にイングランドから移住したこと、湖畔の屋敷がそのときに建てられたものであることなどを聞くことができた。移住する前、老婦人がどのような暮らしをしていたかは誰も知らないままである。
キャンベル老婦人はあまり交際のある人ではないらしく、パーティに招かれているのはエリザベスとソフィの知人だけだった。二人の娘も孤児院で育ってあまり交友が広いわけではないから、エリザベスは大学の友人と恩師が、ソフィは舞台の知り合いと後援者が多く呼ばれていた。つまりアルバスは友人として呼ばれている珍しい例で、しぜんエリザベスの態度も気軽なものになる。
「『ヘイズ氏の怪奇譚』のシリーズは知っていて?今日は、彼の作中のモデルになった先生も呼ばれているのよ」
それこそが重要事であるかのようにエリザベスがほのめかす。件の怪奇小説をアルバスは読んだことはなかったが、描写の生々しさと事件の突拍子のなさで類を見ず一部で熱狂的な支持を獲得しているらしい。エリザベスが先生と呼んでいた、キャサリン・ブルックという婦人は彼女が幼い当時の恩師でその後もなにかと交友があり、このパーティにも当然のように招かれていた。遠目には控えめであまり強い印象を残す人物には見えないが、古い清教徒的な生真面目さと教育の高さを感じさせて悪い印象は覚えない。
ヘイズ氏の小説ではブルック婦人は主人公のパートナーとして活躍するらしく、その主人公のモデルとなった人物もこのパーティには呼ばれているそうだが、エリザベスが曰く小説の印象とはずいぶん違うが少なくとも親近感の沸く人物ではあったらしい。おどけたように、エリザベスは首を小さく傾けてみせた。
「でも確かに只者には見えなかったかしらね」
その只者でないヘンリー・マグワイヤはキャサリンに誘われて屋敷を訪れると、いまいち似あわない正装に身を包んでいたが、相方ほど社交的な性格ではなく料理の山を征服するほどの気概もないので適当に歓談が落ち着いたところで夜風でも浴びようかと玄関から表に出ていた。月は細く、夜の湖は静かなばかりで景観を楽しむわけにはいかないが、招待客が連れてきたのだろう、賢そうなアメリカン・フォックスハウンドが姿勢よく座っている姿を見て近づくと無言で腰をかがめる。
このようなとき動物好きな人物なら犬を相手にして優しく話しかけるのかもしれないが、ヘンリーは傍らにかがむとおもむろに両手で犬の頭をくしゃくしゃになでまわした。姿勢よく座っている犬が抗議の声を上げないのをいいことにさらに頭をかきまわすと、とうとう堪えきれなくなった犬が座ったまま尻尾を振り始める。鼻づらや耳の後ろの毛がくしゃくしゃになって、一人と一頭が調子に乗ってきたところで呆れたような声が聞こえてきた。
「リンカーン。何をしているのですか」
よほどしつけられているのだろう、主人の言葉に犬がすかさず「姿勢を正した」のがヘンリーにも伝わるが、半ば呆れた顔をしているエレンの表情にも声にも威厳があり、自称無気力の会の代表ごときが対抗するのは難しい人物に見える。エレンは何もいわず、青年と犬をもう一度一瞥するとリンカーンと呼ばれた犬は陶製の置物のように背筋を伸ばしてそのまま微動だにしない。
忠実なリンカーンに心から感心したヘンリーは彼が主人を待つ仕事を邪魔してしまったことに心中で詫びてから、威厳のあるご婦人に会釈をするとそそくさと屋敷に戻る。それにしてもどうしてこの人は自分にこのような険しい視線を向けているのだろうとは、他人の悪感情に鈍感なヘンリーは気づくふうもなかった。
「リンカーン。まさかとは思いますが、あの男に尻尾を振っていたりしませんわね」
ヘンリーの背を射抜くように見つめながら、口調は穏やかなエレンに忠実な犬が身を固くする。エレンにとってヘンリー・マグワイヤは婚約者エドワードの興味と尊敬を奪った相手であり、このような場所でなければ猟銃で撃ちぬいてから内臓を犬に与えても特に問題のない輩である。忠実なリンカーンは主人を慮って凶行に及ばなかったのだろうが、もし惨劇が起きても彼女としては困らなかったろう。とはいえあのような付属物を従えているキャサリン・ブルック女史は礼儀も作法も心得たご婦人で、彼女に手数をかけるのもエレンとしては決して本意ではない。ふさわしい舞台が整うまで、いましばらくは様子を見てやってもいいだろう。
エレンは婚約者のエドワードをちょっぴり病的に好いていて、そのエドワードが崇拝しているヘンリーを危険人物だと敵視している。ちなみに彼女が婚約者に編んでいるセーターは身体のすみずみまで採寸したかのようにサイズがぴったりで、中には毛糸以外の何かが編みこまれているに違いない。
邸内ではエリザベスのオカルト話が盛り上がっているらしく、会場を賑わせてはいたがパーティの話題として穏当とは言い難い。ようやくというべきか、たしなめるように声をかけてきたのがパーティのもう一方の主役であるソフィ・キャンベルで、こちらはいかにもニューイングランドらしい古風なパーティの中で堂々と振る舞っているように見えた。ちょうど会場に戻ってきたエレンの目にも彼女の振る舞いには隙がなく見えたが、それでいて形式ばって見えるのはおそらく役者の彼女が舞台で演じたパーティの場面を必死に再現していて、それはそれで微笑ましく見える。
しばらく歓談が続くとパーティはつつがなく終わり、招待客を乗せた車は静かな山中の道を帰って行った。禁酒法のおかげで飲酒運転の心配だけはする必要がなく、山が崩れることもなければ湖が沸き立つこともなかった。ビュイックのハンドルを握っているエレンは後部座席の愛犬に向けて、次はぜひエリザベスにおもしろい肉狩猟を体験させてあげたいものですねと呟いていた。
2.エリザベスからの手紙
湖畔のパーティから一週間ほどが過ぎて、参列者たちにエリザベスからの手紙が届く。差出人はソフィとの連名だが手紙そのものはエリザベスの筆によるもので、最初の手紙はごくありきたりでパーティの礼や簡単な近況などが書かれていた。「ニューハンプシャー山中の湖畔でエリザベス・キャンベルとソフィ・キャンベルの新しい人生が始まりました」というのが手紙の書き出しだった。
二通目の手紙は特に厚く長いもので、新しい屋敷での彼女たちの暮らしぶりが書かれていた。キャンベル老婦人は安楽椅子から一日中動かない生活を送っているのでエリザベスとソフィの二人で世話をしていることや、実は老婦人がエリザベス以上のオカルト好きで古いまじないを色々と知っていることなどが書かれていた。便箋の大半もまじないの記述で占められていて、老婦人に襲わったという奇妙な五芒星の図柄が丁寧に描きこまれている。手紙にはこの「旧神の印」を描いて呪文を唱えると旧支配者とそのおぞましい眷属から身を守ることができるそうですと書かれていて、こういう話ばかりしているとソフィが呆れた顔をしますが、実は彼女はとても怖がりなのです、と続いていた。
便箋を更にめくると、最近彼女たちが気になっていることが書かれていて、なんでもここ数日夜中に二人が同じ夢を見ることがたびたびあるらしい。とはいえ夢の内容が「山は崩れて沸き立つ湖から現れた姿はこの世のものならぬ」レイクサイド・カラミティそのままなのが笑うしかないが、不思議なのは夢に現れる湖が目の前の湖ではないということだった。夢には「ブリチェスター」という聞いたことのない地名も現れて、ねえ、奇妙だとは思いませんか?という疑問形で手紙は終わっている。
だが読んだ者の首をひねらせたのは三通目の手紙である。これまでと同じようにエリザベスとソフィの連名で書かれているが、そもそも筆跡がこれまでの二通とまるで異なる上に文面も奇妙この上ないものだった。
「この手紙が我が友人の手に届き、彼らが湖畔の家を再び訪れて夜を過ごすことを切に希望します。私は敬虔な友人のために客室を整えて待つことでしょう」
手紙を受け取ったキャサリンはいつものようにヘンリーを訪れると、どうせ暇なのでしょうといつもの挨拶を交わしてから愛用のA型フォードに友人を積み込んだ。文面を見るに手紙はエリザベスの知人友人に宛てて送られているに違いなく、先のパーティで知り合ったエレン嬢にも連絡をすると湖畔の屋敷まで向かうことにする。道中にはアーカムの町があって、エレンにとっては入院している婚約者を見舞うついでになるだろうし、キャサリンには彼女に療養を薦めてくれたミスカトニック大学の教授を訪ねる口実にもなった。エレンはキャサリンには純粋に好意を抱いていたから誘いを断る理由もなかったが、エドワードの病室を訪れた際にヘンリーらと会うことは教えなかったものである。
前回は療養していたキャサリンがNPCとして復帰。基本的には便利なアイテム兼運転手券足手まとい役なのは変わらないが、今回は探索者が三人いるので活躍の機会は少なめになるだろう。ヘンリーはおばけPOWが相変わらず頼りになるが、前回入手した魔法のコートはあまりにもアレなセンスなのでシンプソン教授に進呈して、自分はごく普通のコートを入手したとのこと。
キャサリンたちは大学の敷地でエレンと合流すると、エリザベスの手紙にあったいくつかの言葉について図書館で調べてみることにする。ブリチェスターという地名は聞いたことが無かったが、探してみると表題に「ブリチェスターで発見された黙示録と教団の記録について」とある資料を見つけることができた。見つけたのはキャサリンだが、地名の響きからイングランドのどこかではないかとあたりをつけたのはエレンで、そうでなければ本ではなくバインダーの資料を見つけることは難しかったかもしれない。
紙束をまとめただけの資料はイングランドのセヴァーン河畔にあるブリチェスターという小村で活動したとあるカルト教団についての覚書だった。この地域には今から百二十年ほど昔にとあるカルト教団が住み着いたが、六十年ほど昔には誰もいなくなってそのまま廃れたらしい。1842年、彼らは黙示録という本を編纂して、全九巻が存在したが今では散逸してほとんどが個人所有になっている。後に更に数冊が書き加えられて現在では全十一巻とも十二巻とも言われているが、彼らの信仰そのものに言及しているのは第一巻と第二巻で以降は他の教義や神格が主題とされていた。黙示録の原書はこの図書館にも寄贈されていて、禁書扱いで閲覧できないが概要は資料に書かれていた。
「黙示録一巻より。グラーキは不死の信仰である。信仰の記録は古くシュメール神話にも登場するが、その儀式は尖らせた木の杭に生贄を串刺しにするという過酷なもので、紀元前三千年頃には時の神官が大勢の信徒を大量殺害した事件も起きている。その後フェニキアやエジプトにも伝わるが、人間の生贄を禁じたローマの時代になると邪教として迫害、追放されている。後に十六世紀、悪魔公アスタロスの第二使徒として黒魔術の記録に登場するが、これは記録だけで活動の実体は確認されていない。黙示録が記述された1842年近辺に教団が復活したが、活動はブリチェスター河畔のごく狭い地域に限定されていた」
「黙示録第二巻より。グラーキの不死は「針」に貫かれることで実現し、串刺しはこれを模した儀式である。祝福を受けた者はグラーキの従者として不死の肉体を得るが、不死は完全なものではなく六十年を過ぎると太陽の光を浴びただけでどろどろに崩れてしまう。これを崩壊と呼び、崩壊を避けるためにグラーキの従者は暗闇に逃れる必要がある。教団が廃れたのもあるいはこの崩壊のためかもしれない」
キャサリンの説明を聞いて、ヘンリーもエレンも共通したのは趣味の悪い信仰だという感想だった。図書館では更に五芒星を模した「旧神の印」についても調べることができて、要するに魔よけのようなものらしいが、神様には種類があって一般に知られている神様とは別に先史時代に地球を支配した旧支配者という神々、更に外なる神という異界の存在があるとされていた。ヘンリーが以前に関わった「魔王」や「猟犬」は外なる神とその眷属で、黙示録にある神々は旧支配者を指しているらしい。とんでもない話ではあるが、エレンなどは話の信憑性よりも図書館の立派な蔵書がたとえばヘンリーの頭上に崩れて彼の頭蓋が砕けて脳漿が飛び出ないものかしらということが気になっていた。
今回のシナリオではアルバスとエレンが生まれて初めて奇怪な事件に関わることになるが、彼らはもちろん、ヘンリーやキャサリンとは異なってこれまで神格も神話生物も見たことがない。こうした手紙や資料の内容は四方山話にしか思えないことだろうが、ことエレンについてはエドワードの小説を読んでいることもあって受け入れるのに抵抗はないようだ。
ちなみに旧神の印は旧き印と図柄も効果もほぼ同じだが、外なる神には効果がなくグレート・オールド・ワンとその眷属だけを避けるものとしている。以前の猟犬事件でキャサリンが覚えた「エイボンの霧の車輪」は逆にニャルラトテップの目から身を隠すもので、外なる神とその眷属に効果があるがグレート・オールド・ワンには効果がない。
図書館での調べものを終えるとキャサリンらは人類学部の研究室にいるシンプソン教授を訪ね、先日の礼を伝えてからエリザベスの人となりについて訊ねてみる。教え子であるからには彼女のことを教授が知っていても不思議はなく、なによりオカルト好きの同志として目をかけていなかったはずがない。はたして教授は人好きのする顔で、愛弟子の成長を思い返しながら口を開いた。
「そうだね、成績はごくまっとうで、飛びぬけてはいないが情熱に欠けていなかったから学士を取るのも当たり前だとは思ったね。趣味が合うこともあってよく課外活動にも連れていったが、大人しげに見えてけっこうやんちゃで行動的な性格だったのを覚えているよ。あとは孤児院で育った当時から仲のいい友人がいるらしいね。会ったことはないがたびたび話を聞かされたものだ」
教授は大学の仕事がなければ先日のパーティも訪れるつもりでいたから、申し訳ないと言いながらよろしく伝えておいてくれたまえと念を押す。彼自身は重要な共同研究に参画している最中で、聞いた話では南極探検と並ぶ大きな計画らしい。いずれ機会があれば研究について改めて話そうと請け負ってくれる。
シンプソン教授とミスカトニック大学図書館は事前情報を提供するために登場させている。時期的には大学による南極探検計画が学内の話題をさらっているという設定。シンプソン教授の研究についてはいずれ公開されることだろう。
3.二人のキャンベル
キャンベル邸はアーカムからそれほど離れていない、マサチューセッツとニューハンプシャーの州境にあって、木々の多い山中の静かな湖畔に面した屋敷は、ギャンブレル式と呼ばれる二段勾配の屋根が十九世紀以前のイングランドの面持ちを見せている。敷地の広いところにA型フォードとビュイック121の二台の車が停まり、皆が降りたところにちょうど現れたのが使い込まれた使いこまれたT型フォードで、運転席ではアルバスが驚いたような顔をしているのが見えた。
「皆さん?皆さんももしかして手紙を見てこちらに?」
エリザベスとソフィの連名で送られた三通の手紙はアルバスにも届いていて、上着から出したそれは汗でよれていたが確かにエレンやキャサリンが受け取ったと同じものらしい。彼は彼で警官として、職場の資料庫を漁っていたもののめぼしい情報は見つからずに結局屋敷を訪れることにしたようだ。
アルバスが乗っているT型フォードは窓のない幌つきの馬車が自動車になったような外見で、1000万台以上が売れた世界的な大衆車だがこの当時には廃れていて中古車を長く使い続けた赴きがある。キャサリンのA型フォードは高級路線に切り替えようとして失敗した車体だが、座席が広いので後ろにヘンリーを積むには適していた。エレンのビュイックは紛うことなき高級車で彼女の育ちのよさが窺えるが、ふつう育ちのよい女性はハンドルを運転手に任せるのが常である。
手紙を受け取ったアルバスは警察署でキャンベル家や老婦人の情報について資料を調べたが、残念なことに図書館判定に失敗していたので役に立ちそうな情報は手に入れていない。成功した場合は役場の資料から彼女がイングランドのブリチェスターから移住してきたこと、彼女が移住したその年にレイクサイド・カラミティと呼ばれる大きな地震が起きていたことが分かるはずだった。
古風な二階建ての屋敷の玄関に四人で近付くと、扉に据えられている金輪をアルバスが握って四回、ノックの音を響かせる。しばらくすると扉の向こうで快活そうな足音が聞こえてから、ゆっくりと扉が開かれた。どなたかしら、という声に続いて見覚えのあるエリザベスの顔が現れる。
エリザベス・キャンベルは先日のパーティではドレス姿だったが、今日はいまどきの若者らしくコルセットもしていないし腕や足の露出も多くまるで別人のように身軽な姿に見える。エレンなどは眉をひそめて、ヤンキーの風潮に染まるのは好もしいことではないとあからさまな視線を向けるが、もともと他人の悪感情に鈍感らしいエリザベスに気付いた様子もなかった。挨拶を交わしたエリザベスは表情を変えると、ここ数日お婆様の様態が思わしくなくてあまりはしゃいでいられないのですとすまなそうな顔になる。最近はソフィがずっと看ているが、今朝は具合が良くなったらしく安堵しているということだった。
「それにしても、皆さんどうされたんですか」
その質問にアルバスがよれた手紙を取り出すが、受け取ったエリザベスは一通目と二通目は確かに自分が書いたものだが三通目はまるで覚えがないと首を傾げる。そもそも筆跡もまるで違うのだから当然だが、ではこの手紙を誰が書いたのかといえば見当もつかない。
玄関で話し込んでいたのを聞いたのか、しばらくして二階の通廊にソフィの姿が現れると階段を下りてくる。こちらはエリザベスとは違ってキャンベル家の養女らしい伝統的な身なりをしているが、同じように挨拶をした後に手紙を見せられとやはり見当がつかないという言葉を返した点ではエリザベスと同じだった。しばらく臥せっていた老婦人の容態が今朝は落ち着いて、彼女自身も先ほどまで部屋で休んでいたらしい。お婆様のこともあるのであまりおもてなしはできませんが、と言われてから先日のパーティにお越しいただいた礼と合わせて、よければ泊まっていってくださいと穏やかな顔になる。ここ数日はソフィが老婦人の世話を、エリザベスが屋敷を任されているらしい。
「使用人もいないのではたいへんではないかしら?」
「いえ、孤児院の当番よりずっと楽ですよ」
エレンの言葉にエリザベスが笑い、ソフィも階上に戻っていった。屋敷は二階が奥から老婦人の部屋、ソフィの部屋、エリザベスの部屋と続いていて、客人たちは吹き抜けを挟んだ客間の二つに案内される。かんたんな食事でよければ用意しますと言うエリザベスに、エレンとキャサリンは手伝おうと厨房に下りていった。屋敷は若い娘二人で賄っているとは思えないほど掃除も片付けも行き届いていて、客間はすぐに客人を案内することができるし厨房は普段から清潔に使われていることが分かる。どちらも彼女たちが孤児院で身に付けていた作法なのだろう。
広い厨房は真ん中に作業台があって周囲を流しやコンロ、棚がぐるりと囲んでいるが、すぐに目についたのが床の隅にある大きな落とし戸で、古びた木でできた表面には中央に目がある奇妙な五芒星が描かれていた。落とし戸には小さな閂がいくつも取り付けてあるが、錠前はついておらず開けるのは難しそうにない。
「あれは、旧神の印、だったかしら」
「分かりますか!お婆様が言うには、この屋敷をよくないものから守るまじないだから絶対に開けてはいけないそうですよ」
エリザベスの反応がよすぎて思わず身を引いてしまうエレンだったが、家を守るまじないなら玄関に描かれるのが筋ではないかと考えてしまう。とはいえ開けるなと言われているものを家人の目の前で開けるわけにもいかず、料理を中断する理由もないのでそのときはそれ以上何をすることもできなかった。まかりまちがって追及でもしようものなら、喜んだエリザベスが延々とオカルト談義を始めてしまうのは分かっている。
三人いたおかげか、あるいは三人の誰かのおかげか食事の準備にはさしたる時間もかからず、食堂に並べられた皿は豪華で上等にも見えてアルバスもヘンリーもリンカーンも大いにもてなしを受けることができた。ソフィは多少同席すると老婦人の様子を見るために二階に戻ってしまい、友人との歓談は主にエリザベスが請け負う。
「フューリーさんにはパーティでもあまりおもてなしができませんでしたから」
「いや、あの日は充分に胃袋を満たしました」
食事とお茶を終えると遊戯室に移り、エレンのヴァイオリンにキャサリンがピアノで伴奏するとジャズエイジの軽妙さに思わず時間を忘れてしまう。アルバスは珍しいチャイニーズ・リングに挑戦すると九つの輪を次々と外していき、調子に乗ったところで最後の一つがどうしても解けずに断念するがエリザベスを感心させていた。ヘンリーはダーツに興じるふりをしながらキャサリンのピアノを聞くふりをしながら、主人の前で屹立するリンカーンの喉元をひたすら撫でながらヴァイオリンを弾くエレンの視線がときどき刺さってくるのはどうしてだろうとやはり首を傾げていた。エレンはこっそりとダーツの矢を手にして、これがあらぬところに飛んで行かないだろうかと考えたが残念なことにそのような機会は訪れなかった。
ちなみに遊戯室の品々はシナリオ本編とは別に技能判定をするために用意したお遊び用。楽器の演奏はそれぞれの芸術判定で、ダーツゲームは投擲で、知恵の輪(チャイニーズ・リング)は鍵開けで挑むことができる。アルバスの鍵開けは達成値が1だけ足りず惜しいところで失敗。仮にエレンがダーツを試みて、クリティカルすれば標的に命中する予定だった。
キャンベル邸の構造は以前のシナリオのチャップマン邸とほぼ同じにしている。理由は新しい間取りを考えるのがめんどうだった(!)ことと、今回は館探索がメインではないので分かりやすい構造にしたかったこと、一階の遊戯室のある場所はチャップマン邸では音楽室があったが、結局使われなかったので再登場させたかったというそれぞれ個人的な事情による。
夜も深まり、全員で二階に上げるとエリザベスも気さくな挨拶をしてから自室に引き上げてしまう。山中の屋敷はことのほか静かで窓外からは虫が囁く声も木々がさざめく音も聞こえない。二部屋ある客室はそれぞれが同じつくりになっていて、ベッドにサイドテーブルに鏡台といった一般的な家具がどれもヴィクトリア調を思わせる古いもので揃えられていた。家と家具の古さに感心しながら、エレンは彼女たちが屋敷を訪れた目的を思い出すと三通目の手紙を取り出してもう一度読み返す。
「私は敬虔な友人のために客室を整えて待つことでしょう、ですか」
「つまり、何か宗教的なものを探せということかしら」
キャサリンの言葉になるほどと思い、部屋のあちこちを探してみるとサイドテーブルに据えられた小さな引き出しの奥に一冊の聖書が押し込まれているのが見つかった。ふつうに開いただけでは見つかりにくいような、奇妙なしまいかたをしていることに却って意味があるように思われて、めくってみるとはたして一枚の手紙が挟まれていて例の奇妙な手紙と筆跡が同じものであることが分かる。これぞ彼女たちが探していたものに違いないが、書かれている文面は更に奇妙なものだった。
「これは私が私でなくなったときのための手紙です。もう一冊の聖書にお婆様の部屋に入るための鍵を挟んでおきました。私を襲う悪夢が私以外の誰かのしわざであるのなら、彼女は毎夜丑の刻を過ぎたころに姿を隠します。そのときに誰にも知られないように、お婆様の部屋を訪ねて頂きたいのです」
エレンとキャサリンは互いに顔を見合わせると、隣の客室を訪ねてまだ起きていたアルバスとヘンリーに手紙を見せる。同じようにサイドテーブルの引き出しを調べるとこちらにも聖書が収められていて、中にはどこかの扉のカギが挟まれていた。手紙の文面を思い返すに老婦人の部屋のカギに違いなく、夜中に忍び込めということらしいが突拍子もない話をにわかには信じがたい。
「丑の刻といえば、夜中の二時頃ですわね」
「とはいえ人の部屋に勝手に立ち入ってよいものか」
アルバスが常識的な懸念を表明するが、だが手紙とはいえ助けを求めるのを放ってはおけない、と心から呟く姿にエレンもヘンリーも思わず感心してしまう。彼らは少なからず好奇心や探究心で手紙を追いかけていたことを否定できないが、この青年は純粋に助けを求める言葉だけで動いているようだった。こういう人間が警察官をしているなら、この国はけっこうまともでいられるかもしれないといささか大げさに考えてしまう。
「まあ何もなくて叱られるならそれでいいだろうさ」
そう言って、傍らにいたリンカーンの耳の後ろをなでているヘンリーにエレンが視線を向ける。彼女は基本的に彼女の敵であるヘンリーが偶然事故に遭ったりうっかり致死的な出来事に見舞われても残念には思わないが、このときの視線は彼の発言に理があることを認める一方で、なでられたリンカーンがうかつにもくぅんと鼻を鳴らしたことを糾弾するためだった。リンカーンはきわめてよく躾けられていて、友人の屋敷に招かれても主人に忠実に振る舞うことができる犬だが、この男に関わるとどこか気を弛めてしまうらしくエドワードもこうしてたらしこまれたのではないかと思う。
夜半の回廊は階段近くに一つだけ灯されている小さな火と、離れた窓から差し込んでくる月明かりだけが照らしていて辛うじて周囲を見ることができる。夜中に他人の屋敷をうろつくのだから誰何されたら素直に頭を下げるしかないが、それにしても邸内は静かでちりちりと鳴るランプの火の音すらも聞きわけることができた。
鍵を手にしたアルバスとエレン、キャサリンの三人が二階の奥にある老婦人の部屋に差し足で近付いていく。捜査に慣れているアルバスとは違ってご婦人方の足音が床をきしませるのは仕方がないが、夜中に自分の家で耳をそばだてる者などそうはいないからよほど騒々しくなければ気づかれるとは思えなかった。少し離れて、犬を従えたヘンリーが娘たちの部屋から人が出てこないか様子を見ることにする。
「どうした、エイブ?」
同名の大統領の愛称で呼びかけるのもどうかと思うが、鼻をひくつかせているリンカーンの様子に気がついたヘンリーは老婦人の部屋の扉に例の五芒星が描かれているのに気づく。キャサリンから聞いた話では厨房の落とし戸にも同じものがあったらしいが、彼がそれに気づいたのは図柄から不思議な力が発せられているのが「見えた」からだろう。他の部屋にも太陽や月をかたどった図が描かれているが、老婦人の部屋の扉は明らかにそれらと違っていた。
「あれは、何か似たようなのがあったなあ」
無意識にリンカーンの首筋をなでるが、主人に忠実な犬がこっそり尻尾を振っていることには誰も気づかない。ヘンリーが思い出したのは以前キャサリンが使った「車輪」のまじないで、これが魔よけに使われているのだろうとなんとなく理解する。扉の前にいるアルバスたちは気づいた様子がなく、カギを手にすると静かに鍵穴をのぞき込んでおやという顔を見せていた。寸法を見るにカギはこの扉のものらしいが、どうやら扉には鍵自体がかかっていないように見える。ますます不審に思い耳をそばだててみると、こんな時間にも関わらずアルバスの耳にささやくようなうめくような声が聞こえてきた。だが驚いた彼が思わず扉を開けて部屋に踏み込んだのは、その声に確かに「たすけて」という言葉が混じっていたからだった。
「失礼します!」
「フューリーさん!?」
他の面々は仰天するが、アルバスの顔はすでに気のいい青年のものから真面目な警官のそれに変わっていた。老婦人の部屋は窓もなく明かりも消えたままで、廊下から差し込む頼りない光だけで辛うじて中の様子をうかがうことができる。周囲はまるで書庫か倉庫のように本棚や棚で四方を囲われていて、古びた机の上に本やノートが乱雑に広げられていて古いインク壺や羽根ペンが置かれていた。
だが一目見て誰の目にも異様に思えたのは部屋の中央に正面を向いた安楽椅子が据えられていることで、そこには家具の一部であるかのように老婦人が座ったまま身じろぎもしていない。奥にある天蓋のついた寝台は使われた様子もなく、その光景にアルバスは思わずつばを呑みこんでしまう。老婦人もこちらに気づいたらしく、なにやら囁くようにもごもごと呟いている言葉が聞こえてきた。
「たすけて。てがみをみてくれたのね。たすけて。あの魔女からわたしのからだをとりかえして」
必死な呼びかけがアルバスの耳に届く。彼女はこの家に暮らすようになってから毎晩のようにおそろしい悪夢を見るようになっていたが、あの日、彼女は老婦人であったものに呼び出されるともごもごと奇妙な文言が唱えられる姿を見て、気が付くと彼女は安楽椅子に座って身体を動かすこともできず、彼女の目の前には彼女の姿をした別の誰かが立っていた。あまりの恐ろしさに悲鳴を上げようとしたが、老婦人の身体にはそれをする力もなかった。
わずかに指先が動いて、つくえ、というかすれた言葉が聞き取れる。机には数冊の本が置かれていて、卓上の小さな明かりを点けると二冊の表題には「黙示録」と書かれていて、もう一冊は老婦人の日記らしいがどれも数十年は昔の古いものに見えた。こうした本に慣れていたキャサリンが数頁を開くとどれも英語で書かれてはいたが、文体が堅苦しいブリティッシュな上に使われている単語も難解で読むには時間がかかりそうに見える。老婦人の日記は辛うじて読むことができたが、内容はおぞましいもので目を通すにつれて背筋に怖気が走るのを抑えられなかった。
「信徒たちは肉体が腐り果てるまで六十年ほどの時間を生きることができた。だが不完全な不死は六十年を過ぎると保つことが難しくなり、日の光に触れただけで崩れて消えてしまう。崩壊と呼ばれる、この破滅を避けて私たちは暗闇に逃れたがやがて一人また一人と消えていった。このようなまやかしの不死など私は望んでいなかった。
「私は黙示録を読み解くと計画を立てた。ブラック・ムーンの夜を待って湖に赴き、おぞましい儀式を学び、祝福を得るための針を授かった。すでに何人もの同士が崩壊で失われていたから、私に協力する者も妨害する者も存在しなかった。
「儀式は慎重に行われなければならない。逆呪文を唱えればすべてをもとに戻すことができるが、失われた力を再びニャンベに蓄えるには一日か二日はかかる。ちょうどよい入信者がいたので、私は彼女と親しくなりながら毎夜彼女の夢に忍び込むと、充分に準備を整えた上で儀式を行い、遂に新しい肉体を手に入れることができた。
「古い肉体は日の光を浴びるだけで崩壊が起こり、死体すら残らないから簡単に処分ができた。新しい肉体にもかりそめの不死を受け入れたが、これで六十年を過ぎればまた容易に処分することができる。机の脇にある仕掛けを思い切り持ち上げるだけでよい。
「かつての仲間たちが誰も彼も崩壊すると、私は教団の資産をそっくり相続していよいよ大西洋を渡る。再び時がたてばまた同じことを繰り返せばよい。これで私は神の軛すらも逃れて永き不死を手に入れることができるだろう。私こそがグラーキの信仰を知っているのだ」
目を通していたキャサリンは恐ろしくなって口元を抑える。この記述を信じるならば、彼女は自らの望みのために信仰も信者も利用する天才的な邪悪だった。不死を望んだ彼女は今から六十年前、神と教団の双方を裏切ると若い娘の肉体を手に入れたが、それから六十年が過ぎて魔女はまた同じことを繰り返そうとしているらしい。
老婦人の異様な部屋の様子を見た者、日記にあるおぞましい内容を読んでそれを知らされた者はそれぞれ正気度判定を行っている。更にここではクトゥルフ神話技能の判定も行っており、万が一、グラーキの名に心当たりがある者がいれば更に詳しい事情が知れたかもしれないが、その場合はより深遠な恐怖と狂気に近付くことになっていただろう。
黙示録の二冊はどちらも原書で、一巻はグラーキの到来と接触の呪文について、二巻はその信仰と崩壊や葬送歌などの呪文について書かれていて解読するとクトゥルフ神話技能が上昇する。だが、これらの本はキャンベル家の持ち物なのでよほどの理由がなければ本シナリオ内で読む時間はない。
あまりの内容をにわかには信じがたいが、日記と目の前の状況を見るに安楽椅子に座らされている女性はエリザベスとソフィのどちらかが入れ替わった姿であるらしい。つまり娘たちの一方は彼女をこのような目に遭わせている魔女ということか。信じられない、とアルバスが口にしたところで入口からヘンリーが慌てたように部屋に入ってくる。続いて廊下を走ってくる音が聞こえて、明かりを手にした人影が勢いよく駆け込んでくると血相を変えたエリザベスの姿があった。
「あなたたち!何をしているの!?」
彼女は老婦人の傍らにいたアルバスに問答無用で掴みかかってくるが、まさか他人の家で女主人に手を出すこともできずアルバスもそのまま組み伏せられてしまう。思いのほかやんちゃという彼女への評価を思い出すが、それで我を取り戻したのはなさけなくも組み伏せられたアルバスではなくエレンの一喝だった。
「エリザベス・キャンベル!レスリングの真似事が淑女の嗜みですか!」
その声に全員の動きが止まり、皆が叱られた子供のように静かになると、安楽椅子に座ったままでいる老婦人が何事か繰り返し囁いていることに気づく。怪訝な顔をしたエリザベスが老婦人に近寄り、二言三言交わすと顔色を変えて姉妹にも等しいソフィの名を呼んだ。
いったい何が起きているのか手短に事情を伝えるが、いかにオカルト好きとはいえエリザベスも半信半疑で簡単に信じられるものではないらしく、それはエレンやアルバスも同様だった。だがこれだけ騒ぎを起こしてもソフィが現れる様子がないことに気づき、エリザベスが隣の部屋を見るともぬけの殻になったベッドに彼女の姿はなく、玄関も裏口も締められたままで屋敷のどこにもソフィの姿はなかった。
「心当たりなんて、一つしかありませんわね」
エレンが言うまでもなく、皆が一階に下りて厨房にある落とし戸が開かれると、地下に続く奇妙なほどに長い階段が地面の底まで深く深く続いていた。少なくとも尋常な事態ではなく、真夜中に姿を消したソフィを探さない理由はない。老婦人の様子を見るためにエリザベスが二階に残り、各々が明かりや必要な荷物を手にするときしみを立てる階に足を降ろす。エレンは猟銃を担いでリンカーンを従え、アルバスはランタンと銃、ヘンリーとキャサリンはたいまつや懐中電灯をそれぞれ携える。階段は家を二つ分三つ分も深く潜ったところまで続いていて、底は土と岩がむき出しの洞窟めいた、それ以上に地面が割れた裂け目のようにも見えた。
そんなわけで今回のシナリオのクライマックスはラヴクラフト作品には欠かせない?洞窟が舞台となる。あえて不定の狂気の危険をにおわせるためにこの時点での全員の正気度を確認させる。
4.湖畔の洞窟
洞窟は屋敷の下からまっすぐに続いていて、むき出しの土と岩肌が自然の洞窟めいているにも関わらずありえないほど直線に伸びて何者かが意志をもって掘り進んだように見える。すでに夜も深まっている筈だが、暗がりを伸びる洞窟はしんとして歩みを進める者に時を忘れさせた。洞窟の幅は一人か二人が並んで歩くのがせいぜいで、先頭でランタンを掲げるアルバスの背中が頼もしく見えている。
「洞窟というより通路にしか見えませんね」
アルバスが呟くが、このような通路をそもそも誰が、どのように掘ったのか見当もつかず不安と不審を隠せずにいる。彼の後ろには猟銃を担いだエレンと懐中電灯を手にしたキャサリンが、最後尾にはたいまつを掲げたヘンリーが続いているが、自分が一番動揺しているように思えて心中を奮い立たせていた。
何もない地下道を通り抜けて、果てのない暗がりの向こうに明かりをかざしながらひたすら足を進めるが、前も後ろも先が見えなくなってどの程度歩いたかも分からなくなってきたところでキャサリンがふと手にした懐中電灯を頭上に向ける。そこには天井を埋め尽くしている、数百とも数千ともつかないコウモリの群れがかたまっていて、羽の生えたおぞましい獣たちが明かりに興奮すると一斉に飛びかかってきた。
「きゃあああああああ!」
「キャシー!?」
悲鳴もキャサリンの姿も一瞬でコウモリの群れに埋め尽くされてしまい、すぐ後ろにいたヘンリーがたいまつを右に左に振って追い払うが、ようやく獣たちが逃げていったところで土の上にへたり込んだキャサリンの姿が見える。蝙蝠にさんざ叩かれてひっかかれたが、大きな怪我をした様子はなく帽子が落ちて髪が乱れた程度で済んだらしい。怖かった、という正直な感想を口にできるならよほど大丈夫というものだろう。
探索者は知る由もないが、魔女自身は数人を相手に抵抗できる力はないので恐怖を煽って正気を失わせるつもりでいる。コウモリの群れは動物を引きつける呪文で巣をつくらせていたもので、たいまつか懐中電灯を持っている者がアイデア判定に成功すると襲われるという罠だった。もともとヘンリー向けの罠のつもりでいたのにキャサリンがかかったのはご愛嬌だが、かすり傷だけで肝心の正気度判定には成功しているので魔女としてはあまり嬉しくない。
暗がりに逃げて行ったコウモリをそれ以上刺激しないようにして、更にしばらく進むと行く手を遮るように地面に裂け目が横たわって、一本の丸木が橋のようにかけられている。丸木は充分な太さもあり頑丈そうにも見えて、よほどのことがない限り足を踏み外す心配はないように思えるが、かざしたランタンの明かりで裂け目の底を照らすと無数の地虫の群れがうごめいていて全員がぞっとさせられる。
「な・・・」
あまりにもおぞましい光景に思わずアルバスの背筋が寒くなる。穴は一人では登れないほどの深さがあって、万が一こんなところに落ちたら無事でいられるとは思えない。大きくのどを鳴らすと、勇気よりも正義感を振り起して丸木に足をかけるが、一人ずつ慎重に渡ればさすがに足を踏み外すことはなさそうだった。渡りきったところでほっとして息をつくと、すでに丸木に足をかけているエレンに今更のように手を伸ばす。彼女の足取りはしっかりとしてアルバスよりもよほど平静だが、それでも掴まる手があればよほど安心というものだろう。エレンもアルバスの心遣いには感謝しつつ、
「無理をなさる必要はありませんわ」
「無理をするのも仕事ですから、足下だけは見ないことにします」
正直なアルバスの言葉に笑みを返す。後の二人も無事に丸木を渡り終えて、更に洞窟の奥を目指すが地虫の裂け目を思い出しながらアルバスは自分たちがいざというときの逃げ道を遮られたことに気が付いてもいた。明かりを照らして一人ずつ渡るならともかく、もしも急いで逃げるような事態になれば彼が皆を守らなければならないだろう。そのときはそう思っていた。
丸木は明かりをつけて一人ずつ渡る限りファンブルしなければ落ちないようになっているが、万が一、裂け目に落ちた場合は自力では登れないだけの深さがあって、しかも何らかの行動を試みるごとに地虫に覆われてSANチェックが必要になるのでほぼ間違いなく狂気に陥ってしまう。よほどの理由がなければ落ちないが、落ちたら事実上のデストラップになるだろう。
まっすぐに伸びる地下道を更に進むと、壁も天井も急に広くなって開けた空間にたどり着く。土の地面は湿っているが、理由は明白で目の前には巨大な地底湖が広がっていた。石柱に支えられた洞窟がどのようなつくりになっているかは分からないが、地表の湖と水源が同じであることは間違いない。地底湖の畔にはすらりとしたソフィ・キャンベルの姿があり、禍々しい表情が別人を思わせるがソフィの姿をした魔女はいまいましさと何かに怯んだような顔を同時に見せながら罵りの言葉を上げた。
「なんてばかな連中だろう!おとなしく引き返していればよかったものを、これでは殺されても文句はいえない!」
そういうと右手を上げて左手を上げて奇妙に踊るようなしぐさをするが、いったい何が起こるのかと待つ必要は少しもなかった。魔女のしぐさに続いて洞窟のあちらこちらからきたならしいネズミが集まってくると足下を右に左に走り回る。だがネズミは魔女の思うままに従っているわけではなく、数十匹とも数百匹とも思える群れはおぞましいと言うしかないが、内心はどうあれ動じた素振りも見せずにエレンが挑発する。
「ドブネズミがドブネズミを呼ぶとはなんて滑稽でしょう!しょせん貴女にできるのはその程度ですわ」
「生意気な小娘!死んでから後悔するといい」
魔女はソフィの肉体をそのまま使用しているが、精神的な能力や技能は魔女本来のものを引き継いでいるためにINT、POWおよびEDUは魔女のものを使用。特に年齢が極めて高いためにEDUが上昇していて、低下は古い肉体に引き受けさせている。動物を引きつける呪文はオリジナルのもので周囲にいる小動物の群れを呼び集めることができるが操ることはできない。エレンは社交術判定で魔女を挑発、その間にアルバスが回り込んで組み伏せてしまうつもりでいる。
ソフィの姿をした女 157歳女 魔女
STR08 CON07 SIZ11 DEX05 APP12
INT18 POW18/SAN00 EDU28
呪文
悪夢、グラーキの召喚、コルーブラの手、精神転移、旧き印、動物に命令する、動物を引きつける
三人の身体を使って150年以上の歳月を生きた魔女は、年端もゆかない娘が大きな口をたたいている様に厳しい教訓を垂れる必要があると思い、娘の傍らにいる猟犬に狙いを定めると先ほどとは違うしぐさを見せる。忠実な犬が主人を食い殺す姿はさぞ痛快だろうと、呪文の文言を唱えると忠実なリンカーンの精神を暗黒のもやが支配するが、うなり声を上げて牙をむき出そうとした猟犬が見上げた先にあるのは威厳のあるエレン・フェイタルズの視線だった。
「何をしているのですか?リンカーン」
「・・・くぅん」
魔女のかけた呪文が効いていなかったのではない。呪文に支配されて襲いかかろうとした猟犬の意志すら彼女の一瞥が挫いてしまっただけである。小娘の威厳に思わず唖然とした魔女が首を巡らせたすぐそばにはアルバスが近寄っていて、非力な彼女を組み伏せようと飛びかかる。彼らがソフィ・キャンベルの肉体を害することができずとも、取り押さえてしまえば逃げることも抵抗することもできなくなるだろう。
大いに慌てながらも、更に呪文を唱えた魔女の両腕がみるみる変化すると二匹の毒蛇の頭が生えて牙から黄色っぽい液体を滴らせる。恐ろしい姿にアルバスは怯みながら魔女に掴みかかると毒の牙は届かずにむなしく空を咬んだ。なんとかすり抜けて、もう一度毒蛇の頭が咬みかかるが、腕を掴まれると今度は組み伏せられて身動きもできなくなってしまう。警察で習ったマニュアルの通り、手早く後ろ手に縛りあげると動けなくなった魔女の様子にようやく安堵して、大人しくするんだと呼びかけようとしたアルバスの脳に突然、魔女のそれではないおぞましい声が響き渡る。その声をエレンも、ヘンリーも、キャサリンも、そして魔女自身も耳にした。
(ヨク・オンナ・ヲ・ツレテ・キタ)
その声に魔女が総毛だって顔面まで青くなる。視界がぐらりと傾いたように思えて、地下道を不吉に揺らす地震が起きると、天井からぱらぱらと石や土が崩れて落ちてくる。狭い地底湖の淵をきしませるように、水面が大きく揺れると全身から水滴を滴らせてゆっくりと現れたそれは、楕円形の全身から金属めいた無数の尖った針のような棘が突き出ている。広い天井ぎりぎりまで見上げる大きさをした、楕円の中心には分厚い唇のついたおぞましい口がひとつ開いていて、唇の隙間からは深淵を思わせる暗黒がのぞいていた。
体の下側はやはり無数にある白い三角形の足で支えられていて、おそらく移動をするために使うらしく器用にうごめいている。顔からは三本の細い管が伸びていて、それぞれの先には黄色い目がついている。金属をこすり合わせるような甲高い音が絶えず響いていて不快な伴奏を思わせるが、何よりも恐ろしいのは、このようなおぞましい姿にも関わらずそれは化け物というよりも神聖で荘厳な邪悪を感じさせることだった。アルバス・フューリーが不運だったのは魔女に向けられた黄色い三つの目に正面から見据えられたことで、偉大なる旧支配者に魂の深淵をなめまわされて耐えることができる人間などそう多くはない。
「うああああああああ!」
そう叫んだ自分の声はアルバスの耳に届いていなかったし、目も口も大きく開かれたまま駆けだしたことにも彼は気が付いていなかった。かろうじて正気を保つことができた、他の面々の視界に入ったのはアルバスがやみくもに走り出した姿であり、地底の湖から伸びている道は彼らがたどってきた一本しかなくアルバスがそこに駆け込んでいこうとしている姿だった。
グレート・オールド・ワンであるグラーキの姿に全員が正気度を減らしたが、これで耐えられなくなったのはアルバス一人だけである。だが彼が本当に不運だったのは恐怖表の出目で「2」を振ったことだろう。恐怖表には状況によって致命的になる選択肢が存在し、一つは逃げなければならない場面で昏倒すること、もう一つは動いてはならない場面で逃げ出してしまうことである。むろん、彼が駆けていく先には地虫で埋められた裂け目が横たわっている。
グラーキ グレート・オールド・ワン
STR40 CON60 SIZ90 DEX10 INT30 POW28 HP75
攻撃方法 トゲで突き刺す100% 7d3
装甲40
「アルバス!?」「フューリーさん!」
彼らが未来を見通せる目を持っている筈もないが、ヘンリーもエレンもこのままアルバスが駆けて行けばその先に何が待っているか想像に難くない。地下道の向こうにある裂け目も丸木橋も、正気を失ったアルバスが渡れるとは思えず破滅に落下する道が待っているだけだろう。おそらく地虫のプールに横たわる青年が助け出されるころには、彼の精神など完全に壊れて二度と目が覚めることはない。
知り合って間もない友人が彼らの目の前で失われるかもしれない、ヘンリーは彼には珍しく恐怖を覚えて青年に組み付こうとしたが、伸ばした手がむなしく宙を掴むとそのまま地面に突っ伏してしまう。駆け出したエレンもリンカーンもとても間に合う場所にはおらず、思わず目を伏せたヘンリーの耳に青年が倒れるどさりという音が聞こえると、驚いて上げた視線の先に誰かが土と泥だらけで取りすがっている姿が見えた。
「キャシー!?」
「ヘンリー、お願い、まだ・・・」
キャサリンが取り押さえたアルバスにヘンリーもエレンもあわててのしかかり、しばらくするとようやく大人しくなって少しずつ青年も正気を取り戻す。全員が泥だらけですり傷だらけという有り様だが、思わず青年を靴裏で抑えていたエレンは彼女が本当に踏みつけるべき相手が傍らにいることも忘れると、すっかりぼろになったキャサリンの姿を貴族や王侯よりも尊いもののように見ていた。
一連の出来事はすべて戦闘ターン中の行動として、駆け出したアルバスに続くヘンリーとキャサリンの順番が残っているとした。当然アルバスを捕まえようとしたヘンリーだが、もともと劣っているDEXの対抗判定に失敗して追いつくことができず、流石にこれで手が尽きたと思ったが続くキャサリンがDEXとSTR両方の判定に奇跡的に成功(確率16分の1)。これで失敗していればアルバスの姿はそのまま地下道に消えて、しばらくして絶叫が響くという結末にするしかなかったろう。
目の前で人間たちが騒いでいる間、湖から現れた旧支配者は辛抱強く待ってくれていたらしい。縛られて進退窮まった魔女が聞きなれない文言を唱えると、ソフィの肉体からぼんやりとした雲のような光のようなものが離れて、あわてて洞窟から飛び去っていく。入れ替わりに、先ほどのそれとは色が異なる雲がやってくると肉体に戻り、がくんと力の抜けたソフィがそのままもう一度伏してしまう。先ほどの声が再び脳に響き、ヘンリーが湖に向き直った。
「悪い、待たせたみたいだな」
「ヨイ。我ノ望ミヲ叶エヨ、ソレデ我ハ帰ロウ」
グラーキは本来オールド・ブリティッシュの湖底に暮らしていて、新大陸のニューイングランドには興味がない。偉大なる旧支配者に臆さない人間の存在は面白いが、彼が望んでいるのは魔女が持ち出したグラーキの棘、彼の従者に六十年間の不死を与える彼の一部を取り戻すことだけだった。六十年前に魔女が持ち出した棘をそのままにしておくことはグラーキの名誉が許さず、それさえ済めばこのような辺地に彼が滞在する理由はないのだ。
六十年前、魔女はグラーキから幾つかの呪文や儀式を学び、棘を持ち出すと海を渡ってグラーキの軛を逃れようとした。偉大なる旧支配者は魔女を追いかけると山が崩れて湖が煮え立つほど大地を揺らしたが、地底の湖からまっすぐに伸ばした洞穴が魔女を捕まえる刹那、旧神の印に阻まれるとそれ以上追いかけることができなくなった。グラーキはこの辺地に彼の従者を増やすつもりはなく、棘を取り戻してくれるなら他は好きにすればよいと伝える。入れ物にされていた女はどうでもよいし、魔女が持ち出した書物やニャンベの石もグラーキには必要のないものだった。
「ニャンベ?・・・どこかで聞いた覚えがあるな」
「日記に書かれていた言葉よ」
ニャンベの石はアフリカで産する珍しい鉱石を用いて作られた工芸品で、魔力を蓄える力を持っているという。そのようなものがあったろうかと思い、安楽椅子に据えられている飾りに宝石めいた石がはめられていたことを思い出した。石の力を使えば精神を削らずとも呪文を唱えることができる、それは大したものだと思ったがそれで重要なことに思い立つと慌てて踵を返す。
「ヘンリー!?どうしたの」
「魔女はエリザベスと一緒にいるんだ!急ぐぞ」
悠然と待っているグラーキには構わず、魔女とエリザベスが残っている屋敷に走る。エレンとリンカーンも、正気を取り戻したアルバスも頭を振りながらそれに続いて駆けていくと、残された偉大なる旧支配者は海の向こうの野蛮人の性急さにいささか呆れていたが、ことが急かれるならそれも良かろうと黙認することにした。
普通であればグラーキは出会った人間に問答無用で棘を突き刺すと忠実な従者にしてしまおうとするが、それではシナリオにならないので寛大な交渉ができるようにしている。先述した通りオールド・ブリティッシュのグラーキが辺境の新大陸で野蛮人を従えても仕方がない。いわば横浜の旧市街に生まれ育ったグラーキが新横浜駅前でアパート暮らしの若造を仲間にする理由もないのである。
ニャンベの石は近くにいる者の魔力を一時間に1ずつ強制的に奪うと最大10まで溜め込むことができる工芸品である。更に石に触れている者は石の魔力を使って呪文を唱えることができるので、魔力抵抗が必要な呪文を優位に使うことができるが、石と術者の魔力を併用して使うことはできないので注意。今回の事件では魔女の魔力は18あり、ソフィの魔力は8しかないので精神転移の判定をほぼ確実に成功させることができた。
暗がりにランタンと松明と懐中電灯の光が泳ぎ、慌てた靴音と息切れが土壁に響く。正体を知られて、もとの老婦人の身体に戻った魔女は今一度新しい身体を求めるに違いなく、すでにいくつかの呪文を唱えて魔力を減らしていたとしてもニャンベの石を使って精神転移を試みることができるだろう。万が一、エリザベスの身体を乗っ取った魔女に逃げられたら今度こそ捕まえることができるとは思えなかった。
息を切らせて階段を駆け上る。一階の厨房に上ったところで頭上から女の悲鳴のような声が聞こえて、急いた心中を抑え込むとそのまま二階の奥にある老婦人の部屋に走る。リンカーンを従えたエレンとアルバスが先頭に立って、ヘンリーとキャサリンが遅れて追いかけたのは単に足の速さの違いだった。旧神の印が刻まれた扉が開かれると室内から明かりが漏れる。
「エリザベス・キャンベル!無事ですか!」
彼らが洞窟に入ってからすでに結構な時間が経っていたらしい。扉を開いた目の前には床にへたり込んでいるエリザベスと誰もいない安楽椅子の姿があって、開かれた鎧戸からは朝日が注ぎ込んでいた。
部屋に残ったエリザベスは魔女が書き残した日記に目を通していたが、夜も明けるころになって老婦人の様子が急変すると奇妙なもやのような光のようなものが見えた。慌てて近づくと老婦人が奇妙な身振りで奇妙な文言の呪文を唱えたので、思わず身構えたが何も起こらない。老婦人が唖然としている間に日記に書かれていた仕掛けのことを思い出して、机の脇にあるレバーを思い切り引くと鎧戸が開いて朝日が差し込み老婦人の身体がどろどろに溶けてしまった。安楽椅子には老婦人が着ていた服と緑色をした残骸が残されて、驚いたエリザベスが思わず悲鳴を上げたところにエレンたちが駆け込んできたらしい。恐ろしい体験やおぞましいものを見た彼女の様子は平静と異なるところがなく、どうやらエリザベス・キャンベルが稀に見る強靭な精神の持ち主であることが分かる。
これは完全に余談だがエリザベスの能力値はヘンリーと、ソフィの能力値はキャサリンのそれと同じものを使用している。単に新しく設定するのが面倒(!)だったのが理由だが、パーティの会場でエリザベスがヘンリーに親近感を持ったのもこれが理由。
ソフィ・キャンベル 22歳女
STR08 CON05 SIZ11 DEX05 APP12
INT14 POW08/SAN08 EDU18
主な技能(%)
芸術/演劇90、芸術/ダンス90、芸術/歌唱60、フランス語80
エリザベス・キャンベル 22歳女
STR10 CON12 SIZ13 DEX07 APP08
INT14 POW18/SAN90 EDU17
主な技能(%)
組みつき60、投擲60、乗馬80、人類学80、オカルト60
老婦人の部屋を探してまわると古い箱が見つかり、しんちょうに開けると中には長い針のような棘が何本も入っている。これがグラーキの棘に違いないと、もう一度全員で地底の湖に向かうと偉大なる旧支配者は辺地の人間どもが約束を守ることに感心して寛大な様子を見せていた。新しくやってきた娘がやはり自分の姿に動じる様子がないことが、グラーキには不満と言えなくもないが未開人の感性に言及するほど彼は狭量な存在ではない。
「汝ラノ行動ニ満足スル。此処ハ我ノ居場所ニ非ズ、汝ラガ永遠ノ生命ヲ欲スルナラ海ヲ渡リ我ヲ訪レルガヨイ」
「考えときます」
実際には考えるつもりはないが正直に言う必要もなさそうだった。偉大なる旧支配者は来たときと同じように洞窟の岩壁を揺らしながらゆっくりと湖の底へ戻っていく。大西洋を越えて新大陸と旧世界を繋ぐ広大な地下世界があるという噂はこれまでもこれからも荒唐無稽な伝説の域を出ることがないが、一部の者は科学的根拠や証拠を示すことができなくてもこの説を熱心に支持したものである。
もともと今回はアルバスのプレイヤーが初参加ということもあって、魔女は意図的に弱い存在にしてシナリオの難易度を低めにした一方で、グラーキの登場まで正気度判定を集中させることで不定の狂気が起こりやすくなっていた。肉体的には優秀だがPOWが低いアルバスが狂気判定に陥り、社交術など交渉系の技能でエレンが随所に存在感を見せていたのはCoCならではだろう。ヘンリーは随所で必要な判定を成功させてシナリオを進めていた一方で、リンカーンやキャサリンなどNPCを上手く動かしていたのが印象的だった。もちろんサイコロの黒い神様的に満足だったのはアルバスが狂気表で2を振った判定である。
ちなみに今回のトゥルーエンド条件は探索者側に誰も犠牲が出ずに魔女が退治されること、なので正直なところ大丈夫だろうと思っていたが、もしもアルバスが地虫の裂け目に落ちていたら事件は解決したが犠牲は出たとしてニュートラルエンドになっていた。NPCの犠牲が考慮されていなかったのはソフィが正気度ゼロになる可能性があったためで、実は元の身体に戻ったソフィがグラーキを目の前にしてこっそり正気度判定をしていたのだが、このときも成功して正気を失わずに済んでいた(残り正気度8だったのに)。
「今日は皆さんにご迷惑ばかりで申し訳ない」
「そうでもありませんわ。ソフィを取り押さえたのは貴方なのですから、貴方はソフィに感謝されてブルックさんに感謝すればよいのです」
恐縮して頭を下げているアルバスに言いながら、エレンの視線の向こうではあいかわらずリンカーンがあの男に首筋をひたすら撫でられてはこっそりと尻尾を振っている姿をにらみつけている。彼女が言ったことはまったくの本音だが、加えて言うならばあの男は自分が今のところ無事であることをエレン・フェイタルズに感謝するべきなのである。
その後、結局エリザベスとソフィは山の中にある湖畔の家で二人のキャンベルとして暮らすことになった。老婦人が残した屋敷や資産は法的にも彼女たちのものになっていたし、孤児院の当時から親しかった二人が暮らすことは双方にとって何の苦労もなかった。
ソフィは精神的にひどくまいっていたので半年ほど療養すると、それから湖畔の家に戻ったが、献身的な友人の助けを得て再び演劇の世界に戻ると後に女優として大いなる成功を収めることになる。「純白の布のように何にでも染まることができる魂と、宇宙の深淵を覗き見たかに思わせる神秘的な演技において彼女に勝る女優は存在しない」とは、ソフィ・キャンベルを評して専門家が述べた言葉である。
「愛するエドワードへ
先日、私が、親愛なるキャサリン・ブルックさんと、ニューハンプシャーのキャンベル夫人のパーティーに招かれた事は、もう話しましたよね。
そう、勿論、あなたも良く知っている、アメリカン・フォックスハウンドのリンカーンも一緒でしたの。プロヴィデンスからの長旅だったから、少し心配していたけれど、仔犬の時から猟犬として、ちゃんと躾をしていたから、ずっと大人しく、いい子にしていたわ。
そこで、パーティで御披露目された、キャンベル夫人の養女として迎えられた才知溢れるエリザベスと、可愛らしいソフィの、二人のレディに関しても、もうあなたに伝えたと思いましたけど。
そのパーティでは、他にも、正義感に溢れた、まだ若いのにとても立派な警官のフューリーさんがいらっしゃっていて、最近は警察と言っても、裏でギャングと繋がっていたりとか、真面目に職務を遂行する気がまるでなかったりとか、何だかおかしい人が多いから、ここで、こんなにちゃんとした方と知り合えて、私は頼もしさを覚えて、とても穏やかな気持になりましたの。
ただ、あなたが時々、作品に書いていた、あのろくでなしの与太者、ほら、確か、ヘンリーとか?何とか言ったかしら??
あの人も何故だかブルックさんと一緒に招かれていて、エリザベスとソフィのレディとしての門出を祝う、打ち解けた場に、あんなマナーも弁えないような、いい加減で訳が分からない人が居るなんて、正直、私はとても、とても不快な気持になりましたわ。
あなたは一体、何がよくて、あんな人と親密にしているの?
ああ、あと、あともう少し、タイミングさえ合えば、あなたの目が覚めるように、私の愛用の猟銃でこっそりと片を付・・・いえ、何でもありませんわ、本当に!!!
実は、先日看病に行った時、あなたの体調が思わしくなかったから、私がそこでどれだけ驚くべき体験をしたのか、肝心な事は伏せていましたの。
今、こうして思い返してみても、あれは一体夢だったのか、それとも実際にあった事だったのか、今ひとつ確信が持てません。
ただ、私とリンカーン、そして、フューリーさん、ブルックさん、それからあの何とかと、全員が、同じように夢を見るなんて、とてもおかしな事よね?それも、とびきりおかしな、とんでもない悪夢を見るなんて・・・。
何れにしろ、私たちが、あの夜に、キャンベル夫人のお屋敷の地下の洞窟で見たものは・・・、
ああ、ほんの少しの事さえ、とてもうまくは言えそうにないわ。私も、あなたのように、文筆が出来ればいいのだけれど。
兎に角、この事に関しては、近くにまたアーカムの、あなたが療養している聖メアリ大学付属病院に行ったら、その時にきちんとお話しするつもりです。
今は、まだ、ゆっくりと落ち着いて、身体を回復させるようにして下さい。
ああ、あなたをこんな目に遭わせた人間に、きっちりと落とし前を付けさせられない、お礼参り出来ないのが、私は本当に、残念で堪ら・・・いえ、これも何でもありませんわ。
そう言えば、あなたがこんな風に寝込んでしまうなんて、子供の頃、ロビンソン・クルーソーごっこをしていて、私がうっかりあなたの肋骨を折ってしまった時以来ですね?あの時は、あなたは3日くらい泣いて喜んでいましたね。懐かしい。
今はこうして、様々な義務に縛られ、淑女としての模範を示さなければいけない私も、子供の頃は随分お転婆だったから、あなたのご両親や、お兄様のチャールズさんにも随分心配をおかけしたものだったわ。ああ、もう、あんな無邪気に、傍若無人に振舞える日は戻って来ないのね。
それでは、あなたの一日でも早い回復を心から祈って。
愛を込めて
プロヴィデンスから、あなたのエレンより」
(Scenario4:TRUE END)
エレン・フェイタルズ 24歳女・深窓の令嬢
STR13 CON10 SIZ10 DEX14 APP08
INT13 POW14/SAN70 EDU16
主な技能(%)
芸術/ヴァイオリン40・乗馬45・信用65・心理学55・追跡25・フランス語31
歴史60・家政学30・社交術40・こぶし80・マーシャルアーツ51・ライフル60
回避28・英語90
アルバス・T・フューリー 26歳男・警察官
STR13 CON11 SIZ16 DEX10 APP10
INT10 POW08/SAN40 EDU12
主な技能(%)
運転70・応急手当80・鍵開け51・忍び歩き60・目星75
回避70・組みつき65・英語60
ヘンリー・マグワイヤ 34歳男・無気力の会代表
STR10 CON12 SIZ13 DEX07 APP08
INT14 POW18/SAN90 EDU17
主な技能(%)
オカルト46・隠れる40・聞き耳90・水泳35・投擲83・値切り25・博物学50・目星95
応急手当70・機械修理40・信用39・説得25・天文学12・薬学21・歴史40・跳躍41
回避28・英語85・クトゥルフ神話4
キャサリン・ブルック(NPC) 40歳女・もと教師
STR08 CON07 SIZ11 DEX05 APP12
INT14 POW08/SAN40 EDU20
主な技能(%)
信用85・心理学10・説得50・図書館85・値切り10・法律85・ラテン語81・歴史85
運転25・オカルト26・芸術/ピアノ演奏20・フランス語61・拳銃60
回避10・英語99・クトゥルフ神話13
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