河英雄伝説


序章 ある町娘の概略史

 シルヴィーナ・ラハト。ダオーニア王国の城下町、ごく普通の商家に生まれる。平和で豊かな時代、六人兄弟の長女として育った彼女の人生が変わったのは、ある日、町中をパレードしていた王国騎士団の行進を見たのがきっかけだった。陽の光に輝く白銀の鎧。その勇姿は、まだ幼かった少女の心に、まさしく白銀の文字で記された。

「私もああいう風になりたい!」

 誓いを立てる少女。だからと言って、金もコネも力もない、ただの町娘が簡単に騎士になれるはずもない。戦乱の無いこの時代に、町人の女性が騎士になれそうな可能性といえば、寺院に入り、神官騎士〜テンプルナイト〜になる道くらいであろうか。
 即日、彼女は寺院に入った。直情的な行動ではあるが、六人兄弟の長女ともなれば、食いぶちを減らす為にも真っ先に家を追い出されても不思議はない。娘が自分で決めた事、両親も祖母も特に止めはしなかった。一度決めたからには中途半端に帰ってくるな、くらいの事は言われた。
 それから何年かして。単なる入信者から、ようやく神官見習いになる道が見えた頃、王城から御触れが出された。曰く、年齢性別家柄を問わない、騎士団員養成学園の創立と生徒の募集の報である。即断即決即実行、寺院を飛び出したシルヴィーナは、その翌日には学園の門を叩いていた。シルヴィーナ・ラハト、当時19歳。いくら門が狭くとも、憧れの騎士になる千載一遇の機会を逃す訳にはいかない。募集に制限がないとはいえ、学生としてはぎりぎりの年齢に達していた事もあり、全くといっていいほど迷いは無かった。寺院の司祭様は、シルヴィーナの事を心配しながらも、あえて止めようとはしなかった。
 それから4年。あまり優秀とは言えない成績ながら、なんとか騎士団学園を無事卒業し、念願の騎士「見習い」として、今は辺境警備の任務についている。

 シルヴィーナ・ラハト23歳の時だった。


第一章 辺境にて

 やや湿った空気。丈の低い草木に囲まれた、広く大きな河。
 ダオーニア王国南方にある、国境沿いの辺境の地。国境、と言っても明確な規定が定められている訳ではなく、その向こうに他の王国がある訳でもない。集落も少なく、王国の統治が及ばなくなる領域に線引きがされているだけの事だ。「国境」の向こうは全くの未開の地であるが、ごく希に、河を越えて異民族の商人や旅人がやってくる以外は、そこから国交も貿易も生まれた事はない。

 河沿いに建っている無人の砦。丸木で組まれた、小さな二階建ての砦に一人の騎士見習いが配属されたのはごく最近の事だった。まだ若い女性の騎士見習いは、名をシルヴィーナ・ラハトと言った。彼女の最初の仕事は、砦の大掃除だった。総勢数十名ほどの住人が手伝うまでもなく、掃除は一日で終わった。

「はあ…」

 それ以来、砦の騎士見習いは、それなりに真面目に仕事をしている。村の見回りや、いなくなった犬の捜索や、用水路の補修の手伝い。それなりに忙しくはあるし、村の人に気に入られてもいるようだし、充分頼られてもいるらしい。一番近くの大きな砦まで、往復で一週間はかかる小さな村。たとえ見習いでも、村人にとってその存在は大きいようだ。
 辺境警備も騎士の重要な任務である。統治者である王国の代理として、住民の生活と安全を守る義務を果たすべく、騎士というものは存在する。一人きりの砦とはいえ、主として立派に任務を果たしたならば、いずれ正式な騎士として見習いの文字が外される日がくるかもしれない。それまで自分の存在が忘れられていなければ、だが。

「はあああ…」

 騎士になる為に、自分が間違った道を歩んできたとは思わないけど。金もコネも力もない、ごく普通の町娘が騎士になる道は遠いなあと思わずにはいられない。ただ学園の同期の仲間たちには、優秀な成績で卒業し、すでに騎士として様々な任務についている人たちもいる。別に家柄は関係ない。ただ、たまにはため息が出る事もある。
 ふと、シルヴィーナは一人の青年の顔を思い浮かべた。ムート・ステル、騎士団学園の同期生で、もとは漁師だか渡し守だかをしていた青年。シルヴィーナと同年で特に親しかった友人の一人でもあったが、3年前、二人が20歳の時、突然学園からその姿を消してしまっていた。その後の消息は知れないが、もともとは辺境、この砦のある河の上流の出身であるらしい。「河に帰った」などと、友人たちの間で冗談が交わされた事もあった。
 あいつ元気にしてるかな。とりとめもなく、シルヴィーナは学園の同期生たちの顔を思い浮かべて行く。辺境の砦に、ゆっくりと時間が流れていた。
 ダオーニア王国南方面第二区画辺境警備補佐第十三番隊所属騎士見習シルヴィーナ・ラハト。末端中の末端に所属する人間でも、大きな事件に遭遇する事はあるかもしれない。
 それが彼女にとって幸運な事か不運な事かは別にして。



「村の近くに怪物が現れた」

 正確にはこの後に、らしい、という言葉が続く。噂は唐突に起こり、瞬く間に広がった。もともと住人の少ないこの村で、何人かの村人が、河辺で巨大な影を見たというのは事実らしい。大きな魚や鳥の残骸が見つかったという話も聞く。
 正体も手掛りも全く不明のままであり、単なる見間違いかもしれないし、家畜に被害が出たわけでもない。しかし、見間違いであるという証拠は何もないし、家畜どころか人間に被害が出てからからでは遅すぎる。その日から、シルヴィーナは夜の見回りも行う事にした。
 村の見回り。あえて比較するならば、他の仕事よりも騎士らしい仕事と言えるかもしれない。日が暮れると明かりの少なくなる辺境の地で、これまであまり暗くなってからの見回りは控えていた彼女だが、これも騎士の仕事である。手にしたランタンの他には、ずっと遠くから見える窓の明かりと、頭上にある頼りない星の光に照らされている夜。閑散とした河辺の道を、シルヴィーナは歩いていた。

 ふと、何かに気づいた風に足を止める。軽装とは言え、騎士の鎧を身につけた状態で、あまり夜の河に近づく訳にはいかない。暗がりにうっかり足を踏み外したが最後、河底に沈み、二度と浮かび上がる事はできないだろう。
 何かの気配を感じた。気のせいかも知れない。ランタンの明かりを河に向けるが、おかしな影は何も見えないし、水面には波一つ立ってはいない。
 パートナーである騎乗猫、白猫のクロは今日は連れてきていない。先日補修した用水路を拡張する為に、荷引き用にと駆り出され、明後日にならないと砦に帰ってこないのだ。おとなしくて良く働く猫なので、村のみんなに気に入られているけれど、今回のように駆り出される例は珍しい。種蒔きの時期が迫っているので、用水路の確保が重要になるのは当然の事だろう。

 がさがさがさっ。

 村の外れ、小さな林の奥にある河辺に来て。あたりに異常の無い事を確認し、砦に帰ろうとしたシルヴィーナの耳に、草をかき分けるようながさがさという音が聞こえてきた。
 何かいる!慌てて振り向くと、ランタンの明かりを河の方に向ける。明かりの中、ぼんやりと浮かび上がったのは巨大な蛇の様な怪物の姿だった。

「!!!」

 驚きのあまり声も出ないシルヴィーナ。蛇の頭は彼女の頭上高く、その大きさを物語っている。どうやら水蛇のようで、離れた水面からヒレのついた尾が姿を見せていた。蛇も突然の明かりと、人間の出現に驚いているように見える。
 とにかくいったん離れないと。蛇の首の届く範囲にいる事が、どれほど危険な事かくらいは未熟な彼女にも想像がつく。戦うにしろ様子を見るにしろ、作戦を練るにしろ逃げるにしろ、まずは一度距離を取ってからだ。蛇はじっとこちらを見つめたまま、ぴくりとも動こうとしない。
 このままなら戦わずにすむかもしれない。後ずさり、慎重に離れるシルヴィーナの前で、突然視界が傾いた。足下を見ると、片足が沈みかかっている。

「嘘!こんな所に沼があったの!?」

 足を沼地に取られ、慌てるシルヴィーナ。既に膝上まで沈んでいる右足にバランスを崩し、後手に倒れる。その手もすぐに、泥の中に沈んでいく。

「や、やだ、早く、逃げないと…」

 恐怖にひきつった顔を上げるシルヴィーナ。それまで様子を見ていた蛇が、こちらにゆっくりと近づいてくる!鎧の隙間から泥が入り込み、いくら手足を動かしても、身体が沈んでいくのを止める事ができない。胸まで泥に埋まり、頭上に伸ばした左手が、虚しく宙をつかもうとする。

「助けて!誰か…」

 助けを求める声と共に、シルヴィーナの頭が、そして、残った左手も、沼に沈んだ。
 意識が遠のき、世界が暗転した。







「…ぶか?大丈夫か?シルヴィ」

 自分を呼ぶ声に、ゆっくりと目を開ける。まだ霞んでいる視界。目の前に、記憶にある懐かしい青年の顔が映っていた。

「…ムート?…」
「…気が付いたか?まだ生きてるな?」

 安堵する青年の顔。その声に身体を動かす。全身に乾いた泥がこびりついている。鎧と剣は沼に沈んだのか、身につけてはいない。口の中にざらざらとした感触。ここは…ええと…え?ムート?助けて…くれたの?あなたが…あなたが!

 気が付くと、シルヴィーナは目の前の青年に抱きついて、大声で泣き出していた。怪物。沼。泥。沈む視界。懐かしい顔。混乱する頭を洗い流そうとするかのように、彼女の頬を涙が伝い降りていた。

「ムート、ムートだよね?助けてくれたんだ…ありがと」
「あ、ああ…久しぶりだな、シルヴィ」

 なんとなくぎこちないムート。照れているのかも知れない。学園にいた時もどこか良く分からない奴だったし。鎧の下に着る、泥まみれの綿入れ姿で抱きついているシルヴィーナ。相手も泥まみれだし、気にする事はない。

 ぴちぴちっ。

 ふと、奇妙な音が聞こえた。見ると、ムートの後ろ、腰のあたりから何かが伸びている。どこかで見た覚えのある、ヒレのついた尻尾。
 シルヴィーナの視線に気づくムート。はっとして、後ろを振り返る。ぴちぴちと尻尾が跳ねている。

 ぴるるっ。

 慌てたように青年の身体に尾が引っ込む。気まずい沈黙。

「ムート…もしかして…」
「あ、あははは…」

 ダオーニア王国辺境の地。
 ゆっくりと、時間が流れていた。


第二章 第十三番隊誕生

 ダオーニア王国。かつての四国間戦争を制し、大陸を平定した王国。その北方には山岳が、東方には大海が、西方には砂漠が、そして南方には大河が広がっている。
 ダオーニア南方の辺境の地、平穏な国境付近の小さな砦に、一人の騎士見習いが住んでいた。彼女の名はシルヴィーナ・ラハト。もとは無人だった砦に派遣されてきた女性は、最近、古い友人だという青年と同居して暮らしている。青年の名は、ムート・ステルと言った。

「…で、蛇に変身するようになっちゃったっていうの?」
「ヘビヘビ言うなよ。いちおう気にしてんだから」

 丸木作りの二階建ての砦。入り口の猫舎で横になっている白猫のクロ。食堂のテーブルでお茶を前に、二人の男女、シルヴィーナとムートが話をしていた。もともと辺境の異民族とのハーフであるらしいムート。その異民族の血によって、成人後は半蛇人化してしまうらしいのだが…

「それ異民族じゃなくて異種族でしょ」
「うっせーよ」

 普段は人間とほとんど変わらない姿をしているが、自在に大蛇に変化する事ができるらしい。ただ、満月時は大蛇の姿、新月時は人間の姿でしかいる事ができないそうで、おそらく獣人化現象の一種なのだろう。
 4年前、騎士団学園に入学する為に王都に出たムートだが、この事を知っていたらしい父親に強硬に反対される事になる。20歳になって、その理由を自分の身を持って知るが、だからといって今更家に戻る理由もつもりもない。ただ、流石に王都で暮らすには不都合が多すぎる。まともな身体に戻る方法が無いかを探す為にも、生まれ故郷に近い辺境の地に一人旅立ち、人里離れた無人の小屋を借りて、ひっそりと暮らしていたのだった。
 もちろん生まれつきの体質(?)を直す方法が簡単に見つかる筈もなく、普段は人として暮らしながらも、面倒な時など一日中蛇の姿で魚を食べて暮らしていた事もあったらしい。そういえばシルヴィーナが会った沼地も、魚や鳥がよく取れる猟場になっていた。

「…まあ、でも家畜とか襲う前で良かったわよ。場合によっては、王国騎士(見習い)としては討伐しなきゃなんない所だったからね」
「お前助けてもらってその言い方はないだろ?」
「あんたが現れなければそもそも沼で溺れそうにもなんなかったの。せっかくの剣と鎧も一揃え無くなっちゃったんだからね」

 それ以来。ムート・ステルはシルヴィーナの砦に住み着いている。自分の正体を知っている人間がいた方が、いざという時心強いのは間違いない。一度見つかってしまった以上、シルヴィーナならずとも、いずれ誰かに討伐されていた可能性は決して低くはないだろう。シルヴィーナにしても、誰もいない辺境の砦で一人で暮らすより、懐かしい友人が一緒にいてくれた方が気が楽なのは間違いない。
 一人の騎士と一匹の猫、そして一人(?)の青年。忘れられた辺境の砦に訪問客が訪れたのは、更に一月程してからの事であった。



 やや湿った空気。丈の低い草木に囲まれた、広く大きな河。
 河沿いに建っている、丸木で組まれた小さな二階建ての砦。回りには柵も立っておらず、砦が特に小高い場所に建っている訳でもない。河に張り出した台所と、屋上になびく洗濯物が生活を感じさせる砦に、一匹の猫を連れた少年がやってきた。ダオーニアで有名な大型の騎乗猫ではなく、雑種らしいごく普通の家猫を両腕に抱えている。

「ここが…シルヴィ姉ちゃんのいる砦だな」

 旅姿の少年のマントには、王国騎士団の紋章が輝いていた。開け放たれた扉をくぐり、中に呼びかける少年。返事が無い。見回りで外にでも出ているのかと思いつつ、砦の中に入ると猫舎が空になっている。どうやら不在のようだ。
 とりあえず待たせてもらおうと思いつつ、中の様子を見る少年。と、二階から足音が聞こえてきた。先程の呼びかけが聞こえたのだろうが、降りてきたのは騎士見習いの女性ではなく、一人の青年だった。

「はーい、お待たせって…げげっ!カルじゃねーか!」
「む、ムート兄ちゃん?何でここに???」

 カル・ステル。兄に会うのは、実に4年ぶりであった。



 頭上から降り注ぐ日の光。足下に伸びる影。騎乗猫のクロを連れて帰ってきたシルヴィーナは、砦から何やら聞こえてくるのに気が付いた。めずらしくムートが誰かと言い争っているらしい。お客さんかな?

「ただいまー。ムート誰か来てんの?」

 彼女の呼びかけに最初に答えたのは、少年の方だった。

「あ。シルヴィ姉ちゃん、お久しぶりです」
「え!?カルじゃないの。何でこんな所にいるの?」

 どうやら知り合いらしい二人に、ムートが意外そうな視線を向ける。1年程前、辺境警備の任務を受けたシルヴィーナが砦にくる途中で通りがかった村。そこがムートの生まれ故郷である事を知った彼女は、渡し守の手伝いをしていたカル・ステルに兄の事を話したのである。兄を尊敬していたらしいカルは、その後を追って騎士になる為にシルヴィーナに弟子入りを志願。彼女は少年に騎士団学園への入学を勧め、自分は任地へと向かったのだが…。

「その紋章を見ると…学園には所属してるのよね。休みでも取ったの?」
「え?ええと、実地研修の名目で3カ月くらい他の騎士様の従者をする事になったんです。希望を聞かれたんで、シルヴィ姉ちゃんの事を思い出して」

 カルの言葉に驚くシルヴィーナ。騎士付きの従者と言えば、彼女の記憶では、学園でも余程の優等生にのみ与えられた機会の筈である。しかも騎士見習いでしかない自分の所にわざわざ来るなんて、感謝すると同時に申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。

「カル、あんた優等生なんでしょ?わざわざ私の所なんかにこなくても」
「前に言ったじゃないか。俺、姉ちゃんに弟子入りするんだって」

 健気なカルの言葉に感動するシルヴィーナ。目の前の少年を思わず抱きしめてあげたくなる。ただ、自分よりはるかに騎士に近い場所にいるらしい少年に、多少複雑な思いを抱いたのもまた仕方のない事だろう。
 わずか3カ月。自分の従者として付いた後には、間違いなく自分より上の立場に付くであろう少年を、シルヴィーナは快く砦に迎え入れたのであった。



 狭い砦を案内した後、主な仕事を説明するシルヴィーナ。村人の生活と安全を守る仕事。騎士は漁もしなければ畑も耕さないのだから、その代わりになるだけの事をしなければならない。単なる人手として使われる事も多いが、少なくとも村人に頼られているらしい事は、今のシルヴィーナのプライドでもある。
 騎士として、真面目に任務についているらしい彼女の様子を見て、カルは感心したような顔をしていた。

「やっぱり俺、シルヴィ姉ちゃんの所に来て良かったよ」
「な、何言ってんのよ。それより今日はもう遅いし、早く夕飯の準備でもしましょ?」

 明らかに照れ隠しの表情で、シルヴィーナが話題を変えようとする。その言葉を聞いて、それまでずっと椅子に腰掛けて、二人の様子を見ていたムートも立ち上がると、食事の用意を手伝おうとする。その姿にやや意外そうにしているカル。どうやらシルヴィーナが仕事で出かけた時は、ムートが食事を用意する事にしているらしい。その話を聞いて、あらためてカルは二人に問いかけた。

「さっきから思ってたんだけど…もしかしてシルヴィ姉ちゃんとムート兄ちゃんって一緒に住んでるの?」

 そう言われると、妙齢の男女が一つ屋根の下で暮らしているというのは様々な憶測を呼ぶであろう。もちろんそれなりに事情があっての事ではあるが、お互いに気が合っているのも確かに間違いはない。どう返答するか、やや困惑する二人だが、カルの言葉は彼らの予想とは異なっていた。

「うーん…兄ちゃん一人だと人里で暮らすのは大変だろうけどさあ…シルヴィ姉ちゃんも砦で男の人と一緒に住むってのは…良くないかもしれないよ」

 顔を見合わせる二人に、言葉を続けるカル。

「…本当は言っちゃいけないんだけど、俺、王室の特別監査官の手伝いでこっちに派遣されたんだ。姉ちゃんたちの同期でロム・ラムさんっていたでしょ?あの人たち、国内の砦や領地を回って騎士や貴族たちの様子を調査するんだけど、回りきれない場所は騎士団学園生徒の一部に依頼が来るんだ。俺も帰ったら報告しないといけないし…」

 申し訳なさそうな顔をするカル。それを聞いて、驚くシルヴィーナ。彼女の記憶では、特別監査官の手伝いなら準騎士の階級には当たる筈である。騎士見習いなど、目の前の少年は既に追い越しているのだ。

「あの…カル…」
「ご、ごめん姉ちゃん。でも俺、姉ちゃんの従者としてここに来たかったのは本当なんだ。信じてよ」
「…うん。信じてるよ。でも…」

 やりきれない思いで。背を向けると部屋を出ていくシルヴィーナ。別に誰が悪い訳でもないのに、こんな気分になるのは何故だろう。
 後を追おうとするカルを呼び止めるムート。無言で首を横に振りつつ、あえてシルヴィーナの後を追いかけようとはしない。この程度で落ち込んで立ち直れないようなら、最初から騎士になどなるなと言いたげであった。めずらしく厳しげな兄の表情に、カルは逆にシルヴィーナへの優しさを見た思いがした。
 その夜。寝室に立てられた仕切りの向こうから、カルはわずかな嗚咽の声を聞いたように思う。翌日、シルヴィーナと会った時、彼女は普段と変わらない表情をしていた。



 ダオーニア南方の辺境。河沿いに建っている、丸木で組まれた小さな二階建ての砦。そこには、一人の騎士見習いとその従者、騎乗猫と普通の猫、そして一人の青年が住んでいた。
 忘れられた辺境の砦。この砦から、伝説の英雄が生まれる事を知っているのは後世の歴史家のみである。


おしまい


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