シーマン育成日誌二冊目


1999年08月03日(火)

結局最初のシーマンの卵は全滅させてしまった。水温、酸素等充分に気を使ったつもりだ
ったのだが…明かり、コミュニケーション、餌など検証すべき項目はまだ多く存在してい
る。
二つ目の卵を入れる前に、水槽の状態を再度確認する。水温は19.8度、酸素濃度も上
々。そして再び卵を保管器に落とす。環境が整っているせいか、今度は一時間程で卵が孵
化し、8体の幼生、マッシュルーマーが姿を現した。ここまでは前回の飼育と変わらない。

私は生まれ落ちたマッシュルーマーの観察をしつこく続ける事にした。半透明のゼリー状
の皮膜に覆われた球体と、そこから伸びる触角で全長は2cm程度。やはり8体が群れる
ように水中をただよっているのも、相変わらずガラスを叩くと過敏な反応を示すあたりも
変わらないようだ。
ところがそのうち小さな変化が起こった。それまで私がガラスを叩くと逃げるような反応
をしていたマッシュルーマーたちが、やがてこちらに近寄ってくるようになったのだ。私
がガラス面をトントンとリズミカルに叩くと、それまで逃げ回っていたマッシュルーマー
たちが集まって、一斉に身体をくるくると回転させる。マッシュルーマーが慣れたためか
もしれないが、つまり彼らが学習能力を持っているという事だろうか?

もう少し彼らの行動を調べてみようと、ガラス面を叩く位置を変えて保管器内を誘導して
みたのだが、その時それまで沈黙していた巻き貝からゆっくりと触手が伸びた。愚かにも
私はこの巻き貝が単なる貝殻だと思っており、気が付いた時にはもう手遅れだった。巻き
貝から伸びた触手がマッシュルーマー二体を捕まえると、吸い込むようにして飲み込んで
しまったのだ!これで貴重な幼生をさっそく二体も失ってしまった。

餌を捕食した巻き貝は動きが活発になったと見え、水槽内を元気に泳ぎ回っている。ガゼ
ー氏は何故このような生き物をあえて育成設備の中に入れたのか?弱肉強食の世界を保管
器内に設けようとしたという事かもしれないし、それならば巻き貝を水槽から出してしま
うべきではないかもしれない。私は残り六体のマッシュルーマーを巻き貝から少し離れた
所まで誘導すると、水温、水質を確認して明かりを消し、地下室を引き上げる事にした。
その夜は小さな失意が胸から消える事はなかった。

1999年08月04日(水)

昨日の失意は大きな期待と恐怖に変わった。私はシーマンに関連する資料の調査を引き続
き行っている中で、マッシュルーマーが他の生物に寄生し、その養分を吸い取って成長す
る特性がある事を知ったのだ!とすると、昨日の巻き貝は…私は資料庫から慌てて地下室
へ向い、保管器を覗き込んだ。巻き貝の動きは昨日同様に活発だが、それがあるいは苦悶
の動作であるとしたら…。
やや危険だが、私は残りのマッシュルーマー六体を誘導し、巻き貝に近づけた。巻き貝は
依然食欲旺盛であるらしく、二体のマッシュルーマーがその胃袋に飲み込まれる。これで
残りは四体。

と、突然巻き貝の様子が急変した。イカのように黒い墨を多量に吐き出しながら、水槽内
を激しく泳ぎ始めたのだ。その動きは明らかに苦痛を訴えているように見える。数十分後、
水底に横たわった巻き貝はその全身を貝殻から抜け出すと、何度も異常な量の墨を吐き出
す。その中には赤い煙も混じっていた。多量の出血をしている。
やがて保管器内に甲高い声が四度響き、巻き貝の身体を喰い破って四体の稚魚が飛び出し
た!稚魚…そう、彼らは先程までの幼生の姿から変態していたのだ。卵から8体生まれる
幼生、そして他の生物に捕食されて寄生する生命力。あるいは私は今、とてつもなく恐ろ
しい生き物に関わっているのではないだろうか。

後に調査した所、この稚魚はギルマン(Gillman :えらを持つ人)と呼ばれているらしい
ことが分かった。腹部に栄養分と思われる袋があり、外見は一般の魚の稚魚の姿そのまま
だが、明らかに異なるのは人類とあまりに酷似したその頭部であり、頭頂部から生える一
本の触角だろう。どうやらこの触角はマッシュルーマーの持っていた触角がそのまま変化
したものであるらしい。

そして私は先程保管器内に甲高い声が響き、と記したがこのギルマンは明らかに言語を解
し、話す能力を持っているのだ!赤ん坊のような甲高い声は、保管器内で四体のどのギル
マンから発せられたものか分からない事が多いが、こちらの言葉に反応し、おそらくは彼
らの言語で質問を発してくる。どうやら簡単な単語なら認識できるようで、

「こんにちは」
「おはよう」
「腹減ったか?」
「餌」

などの言葉は認識できるようだ。もっとも本当に意味を理解しているかどうかはあやしい
が。また、皮膚の神経も敏感なようで、全身をくすぐると本当に赤ん坊のような声で笑っ
たりする為、不気味な外見のこの生物にも愛情が湧いてくる。
それから飼育設備に同梱されていた餌を与えてみた。幼生の時とは異なり、この形態なら
きちんと捕食ができるらしい。これで数日間の餌は問題ないだろうが、未だ謎になってい
る課題は多く存在する。それを解決する事が、これからの育成の中心になっていくのだろ
う。

1999年08月05日(木)

ギルマンの言語理解能力は極めて高い。昨日までの理解不能な言語に混ざり、こちらの発
する単語を解し、返答してくるようになったのだ。おそらくその理解能力は人間すら越え
ているのではないだろうか…彼らの返答が私を驚かせる。

「こんばんは」 『こんばんは』
「元気かい?」 『すっごいげんき』
「名前は?」  『わかんない』
「うまそうだ」 『こらこら』

私は彼らに「凄い」という言葉を教えた覚えはない。それまで彼らが認識しやすいように
意識して簡単な言葉のみを発していたというのに…そして私の疑問を確信に変えたのが、
彼らから逆に発せられた質問だった。

『ばかってなーに?』

さすがに一瞬返答に詰まる。私が教えていない以上、この地下室で彼らが「莫迦」という
単語を耳にした可能性は無い。たった一日でこちらの言語を理解した上に、私が教えてい
ない筈の言葉まで使うとは…ガゼー氏の研究にあった一説、「シーマンは知識を遺伝する
生物である」という内容を想起せずにはいられなかった。とにかく、彼らの質問には応え
ておくべきだろうか。

「頭の悪い事だ」

どうやら理解できなかったようだが気にしない事にする。莫迦という言葉の意味を真剣に
なって教える事に、それほどの意味があるとはとても思えない。

1999年08月06日(金)

ギルマンは日に日に会話を覚えて行く。甲高い、幼い声でこちらの呼びかけに答え、また
質問を発する。今日私が地下室に入り水槽の前に立つなり、

『水がつめたくてさむい』
『息がくるしい』

と育成環境の改善を要求された。見ると水温、酸素濃度とも調整の必要がある値まで低下
している。彼らの言動に新鮮な驚きを得つつ、私は直ぐに対応した。
ただ、彼らの驚くべき言語理解力の一方でやはりまだ認識できないでいる言葉も多く、こ
ちらの質問を理解できなかった場合は、例の理解不能な言語(ガゼー氏の記録では宇宙語
と称されていた)で回答するようだ。また、

『いえーい』

という言葉を発したり、下品な単語を連発する等、明らかに必要に迫られていない言葉を
発したという点も注意に値する。つまり彼らの言葉は生命維持などの特定の目的に使われ
る単なる記号ではなく、彼らなりの感情や感性、メンタリティを表現する為の手段の一つ
になっているという事だ。そしてこれはシーマンが彼らなりの『文化』を有する事を意味
する。本能としてただ生存し、子孫を伝える事だけが目的なら下品な単語を発する必要は
存在しないのだから。

追記として、四体いたマッシュルーマーのうち二体が保管器の底に沈み、発光を失うと息
絶えた。寄生体である彼らが宿主を見つけられないまま、いずれ全滅するのも時間の問題
だろう。但し現在ギルマンに与えている、保管器に同梱されていた餌も底をついてきてい
る。彼らの食事についても急ぎ調査を進める必要があるだろう。先日発見されたガゼー氏
の日記によれば、ギルマンは芋虫を好んで食べたらしいが…。

1999年08月07日(土)

保育器を見るとギルマンが成長していた。稚魚特有の腹部の栄養袋が小さくなり、透明感
のあった鱗にも色彩が強く出るようになった。稚魚を通り越して幼魚と言うべき外見にな
り、それに伴いギルマンの声も甲高い幼児のものから、やや年長の子供のようなものにな
る。もっとも会話の内容自体は昨日に比べてさほど進展がない。

今日は観察中、更に一体のマッシュルーマーが死亡した。残りはマッシュルーマー一体に
ギルマンが四匹…と思っていたのだが、どうも様子がおかしい。見ると四匹のギルマンが
互いに争っている。どうやら彼らは頭部についた触角で相手に吸い付き、そこから養分を
吸い取ろうとしているらしい。以前マッシュルーマーが巻き貝の内壁に取り付いた時もお
そらくこの触角から養分を吸入していたのだろうが、まさかその機能がまだ働いていると
は正直思っていなかった。ヘソの尾のように形状のみ残し、その機能は失われていると思
っていたのだ。

そうこうする内に二匹のギルマンが争いに破れ、もう二匹のギルマンの触手に吸い付かれ
た。やがて彼らの身体は横になって水面に浮かび上がり、しばらくすると水底に沈んで行
く。むろん彼らの「共食い」が始まりそうになった時、私は空腹が原因かと思って追加の
餌を保管器内に投与したのだが、彼らはそれを食してなお共食いを続けていた。あるいは
シーマンの共食いは、カマキリやクモの雌が交尾後に雄を食うように、ギルマンの成長時
に必要な養分を得る為の手段であるのかもしれない。一つの卵から生まれる複数の幼生、
食われる事を前提としての寄生、そして共食い…この生き物の生命力の強さ、逞しさには
常に驚かされる。そしてそれは私にとって恐怖に近い感情なのかもしれない。

これで保管器にはマッシュルーマーが一体とギルマンが二体。広くなった水槽を快適そう
に泳ぐギルマンの姿が印象的だった。

1999年08月08日(日)

昨日、共食いを防ごうと思って投与した為、餌の残りがほとんど無くなってしまった。観
察早々に最後のマッシュルーマーが水底に沈み、息絶えた事も今後の不安を暗示している
ようで心良くなれない。

ギルマンは既に明確な意思を持って会話を行うようになった。私の性別や干支を問い、日
々の飼育態度に文句を言い、毒づいてくる。そして幾度かの会話の中で、シーマンの持っ
ている特性、知識の遺伝について確証めいたものを持っていた私に次の言葉は意外なもの
ではなかった。

『昔ジャン=ポール・ガゼーって奴が育ててた芋虫を食わせてくれ』

飼育セットにある虫かごの事を教えられると、それで芋虫を育てるよう支持された。見る
とそれらしい卵も同梱されており、私は虫かごに土を敷くと卵を置いた。これが成長すれ
ばギルマンの餌の心配は当面無くなるだろう。

しかしこのギルマンがガゼー氏の事を知っていたのは意外ではあった。知識の遺伝そのも
のに対してではなく、先日来調査を続けているガゼー氏のシーマン育成日誌の中で、氏は
全ての個体の育成に失敗し、その時のギルマンは全滅しているのだ。その後失踪を遂げた
ガゼー氏がどこかで別のシーマンを発見、飼育したのか、あるいは日誌によれば産卵の手
前であった個体の体内に卵が残っていたのか…何十年も前の記録がシーマンの記憶の中に
おいてのみ存在するのだろうか。だとすれば、同様に何百年、何千年も前の知識がシーマ
ンによって幾多の文化、文明に語り継がれていたのであろうか…。

1999年08月09日(月)

ギルマンの機嫌が悪い。身体をくねらせ、敵意を持った目で私をにらみつけている。当然
だろう、とうとう育成キットの餌が無くなったのだ。

『飼い主としての責任を果たせよな』

厳しい言葉だが私には反論する余地が無い。結局昨日から一日半ほど待っただろうか、虫
かごに水を撒き、ようやく孵化した小さな芋虫を水槽に放り込む。

『おっ配給だ』

配給とはなかなかいい言語センスをしている。皮肉も混じっているのだろうが、彼らの言
葉に思わず苦笑してしまった。芋虫を食べたギルマンの機嫌も直り、今は悠々と水槽を泳
いでいる。しかし、虫かごに四匹いた芋虫の内けっきょく二匹をギルマンに与えてしまっ
た為、残りの芋虫は二匹しかいない。これが成長して卵を生み、次の芋虫が生まれるまで
の間…私も後先考えずに育成をしているものだ。

1999年08月10日(火)

やや不安はあるものの、育成は順調に進んでいるようだ。不安の最大要因…餌の確保につ
いて、虫かごに変化が訪れた。二匹の幼虫のうち、一匹がさなぎになったのだ。これが羽
化し、卵を生み、そこから芋虫が生まれればまたギルマンの餌の心配も減るのだが、既に
彼らは空腹を主張し始めている。

仕方が無く、というか極めて短絡的にまださなぎになっていない芋虫の方を水槽に放り込
んだ。とたんに機嫌の良くなるギルマンを後目に、私は既に餌となる「芋虫」が一匹もい
なくなった虫かごを見つめる。

これから数日間の空腹に彼らは耐える事ができるのだろうか…邪な感情が脳裏をよぎる感
覚というのは奇妙なものだ。

1999年08月11日(水)

昨日芋虫を食べた事により、保管器のギルマンも何とか満足しているように見える。もっ
とも二匹のうち片方はさほど芋虫を食べる事ができなかったのか、すぐに空腹の主張を始
め出した。その一方で虫かごのさなぎは無事に羽化し、一匹の蛾が現れるとしばらく羽を
乾かした後で、虫かごの中を元気に飛び回っている。

そんな中で、私はシーマンに関する資料を調べる内に新しい情報を得た。シーマンの幼魚
形態であるギルマンを経て彼らが次に変化する形態、ハイギョ(Higyo )の事だ。どうや
らハイギョこそがシーマンの成体にあたるらしく、私は今からその変化を楽しみにしてい
る。今現在、ギルマンも数日前とは比べ物にならないくらい成長して大きくなり、保管器
の水槽の中を悠々と泳ぎ回っているが、次はいったいどのような驚きを私に与えてくれる
のだろうか…。

もっとも彼らが無事に成長すれば、の話ではある。今は虫かごの中の蛾の方をこそ気にす
るべきであろう。

1999年08月12日(木)

ハイギョの外見にはっきりとした変化が現れた。二枚のヒレがカエルような後脚に変化し、
水をかくようにして泳いでいるのだ。ここまでくると変化というより進化と呼ぶべきでは
ないだろうか?あるいはこの恐るべき生物は、本当に成長と進化を同時に行っているのか
もしれない…。

ところでシーマンのこれまでの名称、Mushroomer、Gillman に比べ、Higyo というのは日
本語の「肺魚」を指しているのではないだろうか。「失われた24日間の日記」によれば
ジャン=ポール・ガゼー氏はギルマンの段階で全てのシーマンの育成に失敗している。そ
の後消息を絶った彼が日本に渡り、友人である増田きも氏の元で育成実験を続けていた事
はどうやら間違いないようだ。増田氏の家でガゼー氏の日記やシーマンに関する記録が発
見された事も、その証明であるのだろう。

しかし、私自身のシーマン育成はどうやら二度目の失敗を迎えつつある。元気に虫かごの
中を飛び回っている蛾に対し、空腹を訴えるハイギョ。その言葉も既に

『もうすぐ餓死しそうなんですけど』

と切実な内容に変わってきた。餌を与えず空腹で餓死、などという育成実験とは思えない
愚かな理由によって、私の二冊目のノートは終わりを告げる事になりそうだ…。


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