書架からぽとり
1997年7月頃抜き出したもの
『事象そのものへ!』 池田晶子 法蔵館 1,942円 1991/07池田晶子さんのことをはじめて知ったのは、1991年9月に放送された「朝まで生テレビ」に出演されたときです。 このときのタイトルは「宗教と若者」で、これには「オウム真理教」、「幸福の科学」などの代表も出演し、「朝生」のなかでもベストスリーに入るくらい面白いものでした。
そこへTV初出演という池田さんが出演していました。みんなが宗教や神について熱くなっているとき、ポッと話される池田さんの一言一言が、なんともおかしいのです。
出演者の一人であった景山民夫氏が、「犬の散歩のとき、自分の連れている犬がうんこをしたら、それを拾って始末するという行為に、神が云々」と言ったときのやりとりなどひっくり返って笑ってしまいました。
池田:「犬のうんこと神の存在証明は決して別ではありません。犬のうんこについて考えますでしょう。自分の頭で考えますね。神について考えますね。自分の頭で考えますでしょう。どちらも同じ自分の頭の中で作り出したものですね....」
覚者には、「神」も「犬のうんこ」も同じものなのです。
女性の哲学者というと、どんな恐そうな人かと思っていたら、これがまたすごくかわいくて、おまけに頭が良く、そこへもってきて、「知ってしまった者」のもつ雰囲気が漂っており、たまらなく魅力的でした。それ以来、私はすっかり彼女のファンになってしまいました。
前置きが随分長くなりましたが、もしあなたが池田さんのことをまったくご存じないのであれば、この『事象そのものへ!』を読むより、今年の一月に出た、『睥睨するヘーゲル』(講談社)をお読みになることをお薦めします。それを面白いと感じたのなら、他の池田さんの本も読んでみてください。ざっと、一覧を載せておきます。読む順としては、新しいものから古いものへ遡って行ったほうが読みやすいと思います。
「哲学エンタテイナー」として、池田さんがどのように芸を磨いて行ったかを知りたければ古いものから読んでもよいでしょう。でも最初に『事象そのものへ!』を読んだら、たぶん、脳味噌がハレーションを起こすと思います。
- 『睥睨するヘ−ゲル』 講談社 1,456円 1997/01
- 『メタフィジカル・パンチ』 文藝春秋 1,456円 1996/11
- 『悪妻に訊け』 新潮社 1,359円 1996/04
- 『 オン!』 講談社 1,553円 1995/07
- 『帰ってきたソクラテス』 新潮社 1,456円 1994/10
- 『考える人』 中央公論社 1,942円 1994/094
- 『メタフィジカ!』 法蔵館 2,136円 1992/04
- 『事象そのものへ!』 法蔵館 1,942円 1991/07
- 『最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論』 河出書房新社 1,600円 1987/08
『ロン』 文・甲斐裕美 絵・まつだいらあすか 新風舎1,553円 1997/02
著者の甲斐裕美さんは、癌の末期の方をお世話するお仕事をなさっている方だと思います。
この本は、迷い込んできた老犬のロンと、少年の話です。ロンの体にはすでに癌ができています。少年は母からそんな犬の面倒をみることなどできないと言われたため、内緒で押入に隠して世話をしています。この余命いくばくもないロンと少年の対話で綴られた物語です。童話という形式を取っていますが、読んでいて哲学書、いや何だろう、宗教の本でもない...、とにかくジャンルを越えた、「存在することの意味」を考えさせてくれる本です。
この地球上のすべての生き物。鳥も花も、そして岩や風、夜空の星達、宇宙全部が、ある調和の中に存在しており、ひとつひとつに意味があること。そしてある出来事は、偶然でもなければ運命でもない、大きな調和の中でお互いに影響を及ぼしながら存在しており、すべての出来事には、本人にもわからない何か重大な意味があるのだということ。このようなことを感じさせてくる本です。そして、勇気も与えてくれます。
『人生の贈り物』 森瑤子 学習研究社 1,748円 1993/12
私が森瑤子さんのことを好きなのは、女性には珍しいくらいイマジネーションの中で遊べる人だからでしょうか。これは白州正子さんにも当てはまることですが、石ころひとつでも、その人の思い入れでイメージを膨らませて物語を展開してくれます。
所詮、この世に絶対的な価値を持ったものなどなく、すべては現象学にすぎません。ダイヤモンドだって、あれを有り難いと思うか、ただの炭素の固まりだと思うかはその人次第です。ダイヤモンドより、好きな人が踏んだ河原の石のほうが、ある人にとってはずっと大切だということも珍しくありません。
他人から見ればただのガラクタでも、その人の眼力、好み、感性ですてきだと思えたら、それはすてきなのです。作られたブランド品より、自分自身で選んだものは思い入れが消えない限り、いつまでも光っています。
この本は、森さんの思い入れのこもった一品一品が、きれいな写真とともに紹介されています。
『英語教育大論争』 平泉渉 渡部昇一 文藝春秋 1975/11 \ 1,000
(現在でも文庫で入手可能)学校英語(受験英語)擁護派の渡部氏と反対派の平泉氏の、大変面白い「英語教育論争」です。初版は1975年ですから、もう20年以上前になります。今でも文庫で入手可能です。
1974年、自民党政務調査会に「外国語教育の現状と改革の方向」と題するある試案が、同党の政務審議委員、平泉渉氏(参議院議員)の手によって提出されました。これを読んだ渡部昇一教授(上智大学)が、雑誌『諸君!』(1975年4月号)に、「亡国の『英語教育改革試案』」という論文を掲載したことで、二人の間で論争が始まりました。
なぜ、こんな古い本を紹介したかというと、最近、また、大学入試から英語をはずしたほうが良いという意見が飛び出してきたからです。 「役にもたたない」受験英語などやめて、もっと会話に重点をおいた英語を中学からするべきで、入試も英語なしで受験できるようにするべきだという意見です。 つまり、20以上前の平泉氏と渡部氏の議論がまた出てきたわけです。
話は逸れますが、この20年間で、かつて公立の進学校であったところが凋落し、昔はそれほどでもなかった私立高校が、大学受験に関しては大変伸びてきました。 公立の中学、高校が「ゆとりの学習」を強調して、のんきにやっている間に、私立の進学校は、英語の時間など公立の倍くらいの時間をかけ、せっせと生徒を鍛えていました。その差が今の現状です。 この差は1年や2年、浪人したくらいでは取り戻せません。
英語なんか必要ないという意見は、大抵、英語が全然できなかった人か、あるいは当人は学校英語は大変よくできたのに、「実用英語」の場で、その力が十分発揮できなかったということに対する怨みからでしょう。
読み、書き、話す、ということのなかで、どれがもっとも重要で必要な能力なのかは、人によって様々です。読んだり書いたりはできなくても、ブロークンでもよいから話せて、何とか意志の疎通ができたらOKという人もいるでしょう。しかし、一般には、読めるかどうかが最も重要な要素だと思います。読むことができるだけの力があれば、会話が必要であるなら、短期集中的に練習すれば何とかなります。しかし、「読む」という能力は一朝一夕にはつきません。
どうも、この入試から英語をはずせという意見を聞くと、インディーカーのレースを連想してしまいます。インディーカーのレースというのは、トップと他の車があまりにも差がつくと、追い越し禁止の命令が出て、差を詰めるという措置が取られます。あれって、レースを見ている観客を飽きさせないための手段なのでしょうか。確かに特定の車が独走状態になってしまうより、このほうが面白いけれど、トップのドライバーからは文句は出ないのでしょうか。
6年一貫制の私立に通っている生徒と、平均的な公立高校の生徒の英語の学力は、シャレにもならないくらい大きな差がついているので、そのことで突き上げられた政治家が、安直に差を縮めるために出してきた意見じゃないかと思ってしまいます。あまり小賢しい手段を用いて、受験生ウケを狙ったところで、そんなもの何の解決にもなりません。10年もしたら、今よりもっとひどい状況になっていそうな気がします。
マジェイア