書架からぽとり

 

1998年6月頃抜き出したもの


この部屋を更新するのは久しぶりです。ここ数ヶ月、全然本を読んでいなかったわけではありません。(汗)

本の紹介って、やってみると、想像していた以上に難しいことに気がつき、面倒になっていたからです。

当初から、自分自身が読んで面白かったものを書くだけだから、誰に気を使う必要もないと思って始めたのに、それでも実際に書く段になると、こんなもの書いても仕方がないと思えてきました。仕方がないというのは、つまらないからではなく、私にとっては大変おもしろく、影響を受けた本であったけれど、他の人にはあまり役に立たないだろうという想いがよぎってしまうからです。元来、私がここで本を紹介したところで、誰かの役に立つことなどないのに、ヘンな色気が出てきたのです。それでもう一度、自分のためだけに書いておこうと思いました。

それと、この半月ほど、ほんとうに不思議なのですが、この「本」を読んだ方、数名からメールをいただきました。10ヶ月も更新していなかったのに、立て続けに、今まで存じ上げなかった方から感想などをいただくと、じゃ、たまには更新しておこうと思い始めました。それで、気の変わらないうちに、何冊か書いておくことにします。

それともう一つ。精神分析で、「早期回想」というのがあります。子供時代の記憶を語ってもらうことで、心の中を探る技法のひとつです。昔の出来事を思いだしてもらうのは、それが現在の自分を作っているからというわけではありません。そうではなく、今まで体験してきた数多くの出来事の中から、今、自分がその出来事を選んだことに意味があるのです。

つまり、過去の記憶から引っぱり出してきてもらっているのですが、その出来事を、今なぜ選んだのかということに注目します。現在の精神状態や、関心の方向がそれで推測できます。そのため、同じ人に、同じ年代の記憶を語ってもらっても、半年後には全く別の話をしてくれる場合が珍しくありません。半年前は「嫌な思い出」として語ったことが、今は逆に、「楽しい思い出」として、同じ話をしてくれるのです。現在のその人の精神状態で、過去の記憶、印象まで変わってしまいます。過去の記憶は、現在の心の投影として現れてきます。

ここで、いくつかの本を紹介しようとして、一年ほど前、リストに挙げておいた本を今ながめてみると、何でこんなものを挙げたのか、自分でもよくわからないものがあります。 溜め込んでおいても、また気が変わりそうなので、不定期に、その都度、何冊かずつ、今、関心の対象となっているものを書いておくことにしました。それを何ヶ月後、または何年後かに読み返してみると、その時の、自分自身の心のポジションがわかると思うのです。


『フランクル回想録』20世紀を生きて V.E.フランクル 春秋社 1,700円 1998/05

Was nicht in meinen Burhern steht 第二次世界大戦のアウシュビッツ強制収容所体験を綴った『夜と霧』(みすず書房)や、解放後、日をおかずしてされた講演、『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)などの著作で広く知られているヴィクトール.E.フランクル氏が昨年(1997年)9月、92歳で亡くなりました。

この本は、今までの本ではあまり触れられることのなかった個人的な出会いや、様々なエピソードで綴られています。

おおよそ、人が体験することで、アウシュビッツの収容所での体験以上に極限的な状況を想像することは不可能でしょう。彼は精神科医として、そのような状況下でも、気力を失わず、立派に生きてみせた人達がいることに気がつきました。また一方、「ガス室」に送られる前に、絶望から亡くなっていった人も大勢見てきました。

人は、自分が不幸だと感じるとき、つい愚痴を言いたくなります。「いったい私の人生は私に何をしてくれようとしているのか」と。しかし、これは質問そのものが間違っています。

「われわれが人生の意味を問うのではなく、我々自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなく、正しい行為によって応対しなければならないのである」

と彼は言っています。

収容所から解放された後、すべての人がスムーズに社会復帰できたわけではありません。むしろ、もう一度、あの強制収容所に戻りたいと思った人さえいるのです。

解放されたものの、これからの自分自身の生き方に思いを馳せたとき、この先、何も希望が見いだせない人も大勢いました。強制収容所の、あのひどい状況は筆舌に尽くしがたい過酷なものではあったけれど、今が最悪と思えば、解放された後のことを想像すると、大きな希望がありました。しかし、現実に解放され、自由になると、新たな希望を見いだせなくなってしまったのです。人は何か目標なり、希望がないとやって行けないのです。今がどれほどひどいものであっても、将来に希望があるのなら、その状況を持ちこたえられます。

解放後、新しい希望などが見つけられなく、もう一度、強制収容所に戻りたいと思った人達でも、上記のことに気がついた人には、コペルニクス的変容が起きたのです。どこかにあるはずだと思いこんでいる人生の意味を探しても、そのようなものはどこにもありません。ないものを探しても見つかるはずがありません。そうではなく、自分の生き方そのものが「人生の意味」になるのです。ただの真っ白なキャンパスにすぎない「人生」に、どのような色を塗るかはその人次第です。どのような絵を描くかは、その人の好み次第です。良いも悪いもありません。「私の人生は、私に何を期待しているのか」と発想を変えるとき、人生の新たな意味が見えてきます。

もしあなたが、今までフランクル氏の著作を読んだことがないのであれば、先に『夜と霧』、または『それでも人生にイエスと言う』をお読みになることをお勧めします。特に後者は、訳者である山田邦男氏が、フランクルの提唱している「実存分析」(ロゴテラピー)の要点を大変わかりやすく、簡潔にまとめてくださっています。それから、この回想録を読んだほうが、よくわかると思います。


『推理する医学』 バートン・ルーチェ 西村書店 2,800円 1985/06

The Medical Detectives 薬科大にいる友人のF教授からメールをもらいました。メールの中で、この本を紹介してくれていたのです。彼とは昔から何かにつけ好悪が一致するのですが、これは私もリストの中に入れていた本のひとつでした。同じようなものを好む人間というのは、本屋に行っても同じような本に手を伸ばしているのだなと思うと、思わず笑ってしまいました。

この本は、多少なりとも医学や薬学の知識があればより一層楽しめますが、まったくの門外漢であっても十分楽しめます。よくできたミステリーを読むのと同じ楽しみが味わえます。

これを読むと、ある症状から病気の原因を探り当てるのはイマジネーションの力だということがよくわかります。最近、病院に行くと、すぐに様々な機械を使って検査をされますが、あんなことをやっていると、ますます、医者から想像力を奪ってしまうことになるのではないかとさえ思ってしまいます。自分の目や常識より、数値やデータを信頼してしまい、見えているものも見えない医者が増えてきそうです。

優秀な医者とヤブ医者の差は、結局、想像力の差なのかもしれません。昔と違って、今は誤った診断をして何かトラブルがあると、すぐに医療過誤で訴えられますから一種の保険のようなものかもしれませんが、機械を新しく購入したから、元を取るためにも、とにかく検査したいという医者が大勢いることも事実です。

医学的な知識がなくても十分楽しめますから、この分野に多少なりとも興味のある方は一度読んでみてください。

『推理する医学2』も出ています。


『世界は右に回る』将棋指しの優雅な日々 先崎学 日本将棋連盟 1,500円 1997/12

将棋愛好家以外では、先崎学氏のことを知っている人はあまりいないかも知れません。彼は現在27歳で、プロの将棋指し(六段)です。

プロの将棋指しのことを「棋士」と言うのですが、現在、現役のプロ棋士は日本に約100名います。プロ棋士を名乗れるのは、 「日本将棋連盟」に所属している四段以上の人に限ります。

この先崎六段は、11歳のとき、米長九段のところへ弟子入りしました。当時から天才少年の呼び声が高く、将来の大器と目されていました。この年代層には、彼以外にも、羽生や佐藤、森内、他、現在活躍中している棋士が大勢います。将棋の歴史300年を振り返っても、これほど一度に、大変な才能の持ち主が同時代に現れたことはなかったのです。

いずれも将棋の才能に関しては文句のつけようがない人達ですが、羽生四冠王に代表されるように、他の人達は、ある意味、将棋に純粋培養された人達です。将棋の勉強のじゃまになるようなことは一切避けて、将棋の勉強だけに精力のほとんどをつぎ込んでいました。また、みんな大変お行儀もよく、いわゆる優等生タイプです。しかし、先崎少年は、小学生の頃から、彼らとはだいぶ変わっていました。酒、タバコ、麻雀は小中学校のころから師匠の目を盗んで、盛んにやっていました。しかし、遊んでいただけではなく、将棋の勉強以外も熱心です。小学生の頃から、新聞を経済面まで含めて、隅から隅まで読むような子でした。

彼が11歳で米長九段のところへ内弟子として入ったとき、先般、中原永世十段との不倫問題で世間を騒がせた林葉直子元女流プロも、米長九段のところに内弟子として住み込んでいました。彼女はそのとき中学生です。

この不倫騒動で、中原さんが自宅の庭で4回も会見を開き、正直に、飄々と芸能記者の質問に答えていた様子を見て、世間の人は、中原さんって、なんて厚顔なんだろうと呆れた人も多かったと思います。しかし、良い意味でも悪い意味でも、あれがまさに将棋指しです。(笑) 少し将棋のことを知っている人であれば感じたと思いますが、あのインタビューは、「感想戦」を見ているような感じでした。プロの将棋では、勝負が終わった後、大抵、二人でもう一度、ポイントとなる局面を再現し、「感想戦」と言われる検討を行います。どこが悪かったのか検討するのです。これは淡々と行われます。指している最中はエクサイトしていたため見えなかった手や、自分自身の「勝って読み」を修正するために、終わった将棋をもう一度冷静に、二人で検討するのです。これをやっておかないと、また同じような局面で同じようなミスをしてしまうかも知れないからです。中原さんのあのインタビューの様子は、まさに、終わった「不倫」に対する感想戦のような感じでした。

いずれにしても、将棋指しというのは、世間一般からは不思議な人達に見えるかも知れません。第一、羽生四冠王や谷川名人が、年間、一億円を越える対局料と賞金をもらっていると言うと、その金はどこから出ているのか不思議に思う人がほとんです。勿論、所属している日本将棋連盟からもらっているのですが、では、その将棋連盟自体は、100名もの棋士に給料を払うだけのお金をどこから得ているか知らないでしょう。これは、ほとんどの全国紙に将棋のコーナーがあるように、棋譜を新聞社に売ることで、年間、各社から数千万円から数億円のお金をもらっています。それ以外に、免状の発行や各種イベント、TV放送などの収入もあります。それを分担して、棋士の対局料にしています。平均的には、年間、30局前後、将棋を指すだけで給料をもらっている人達って、何だか不思議な人種だと思いませんか?この本は、そのような不思議な人達の実体を垣間見せてくれます。

(段位はすべて1998年6月現在のものです)


『水の上を歩く?』 開高健X島地勝彦 TBSブリタニカ 1989/03 \ 1,100
(現在、集英社から文庫で入手可能)


作家の開高健氏と編集者の島地勝彦氏のお二人による、対談形式のジョーク集です。
タダモノではないお二人がやっているので、レベルの高いものが満載されています。レベルが高いといっても、何も高尚という意味ではありませんよ。キタナイもの、思わず顔を赤らめてしまうようなもの、その他、政治、経済、宗教、諸々の使えるジョーク、知っていて損のないジョークがつまっています。ひとつだけ紹介しておきます。気に入っていただけるとうれしいのですが.....

 

素寒貧の男がバーに入ってきて、ビールを一杯飲みたいという。バーテンが風体を見て、金はもってるのかって訊くと、クォーター、−− 25セント硬貨一つきりしかないっていう。「冗談じゃねえよ。今日び、ビール一杯、1ドル以下で飲めると思ってんのか。トットと帰んな」「わかってます。でも、どうしてもビールが一杯、どうしても飲みたいのです。何でもしますから、ビールを一杯、飲ませてください」「ホントに何でもするか?」「はい」「それじゃ、そこのタン壷を呑んでみな」 バーテンもまさか飲むまいと思っていたら、何とその男、タン壷に口をつけて呑みはじめた。バーテン、それを見てて気持ちが悪くなり、「もういいよ。ビール一杯飲ませるよ、飲ませる」 それでも男、タン壷に口をつけてズルズル呑みこんでる。「おい、勘弁してくれ。三杯でも五杯でも飲ませるから、もうやめてくれ!」

男がやっとタン壷から口を離したんで、バーテンが「どうしてあんなに呑みつづけるんだ?」と訊くと、男が−−−「だって、途中でやめようにも、ずっと一本につながっていて切れ目がないんだもん....」

 

気持ち悪くなりました?(笑) これから”とろろ”を食べるとき、きっとこの話を思い出すでしょう。(汗)


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