マジシャン紹介
ハリー・フーディーニ Harry Houdini (1874-1926)
1999/7/3 記
ハンガリー生まれ。本名エーリッヒ・ワイス。子供時代に両親と共にアメリカに移住。20世紀前半、マジックの世界だけでなくボードビル全体を見渡しても、圧倒的な人気があったマジシャンでした。
最初はマジックを中心にしていましたが、途中からは「脱出術」(エスケープ)を見せる芸を売り物にしていました。「脱出術」というのは、手錠をかけられたり、ロープや鎖で体を縛られ、暴れる人を取り押さえるときに使う拘束衣などを着せられても、そこから抜け出して見せる技術です。脱出不可能と言われている刑務所の独房に入り、そこから抜け出したりすることを見せ、新聞や雑誌が取り上げてくれるのをうまく利用していました。マジックショーの宣伝に、このような手法を使ったのはフーディーニが初めてでしょう。これが効いて、ショーはいつも大変な人気を博していました。
フーディーニが亡くなってもう75年ほどになりますが、アメリカ人に、マジシャンと言えば誰を思い浮かべるかという質問をすれば、今でもフーディーニが1位、2位あたりに入るかもしれません。亡くなって、すでに75年にもなるのですから、実際にフーディーニを見たことのある人はほとんどいないはずです。それにも関わらず、今でもこれほど印象深いのは一種のカリスマ性のためでしょうか。
古今東西のマジシャンに関する本は色々出ていますが、フーディニーをあつかったものは桁違いに多く、伝記、評伝などをあわせると優に数十冊は出ています。資料館もアメリカには何カ所かあるようです。その中でも1971年にナイアガラ瀑布の近くにできた「フーディーニ・マジカル・オブ・フェイム」には彼が使用していた道具類や手錠などが展示されているそうです。
彼を有名にした「脱出」は数多くありますが、鎖でしばられ、箱詰めにされておもりをつけたまま川に沈められるものなどは、宣伝効果も抜群です。ステージでは、「中国の水牢」と呼ばれるものを使用していました。これは昔の中国で使われていた拷問の道具で、逆さにつるされ、水の一杯入った金属の箱に頭から沈められます。本物は全部鉄でできていたのでしょうが、ショーで使用するものは、前面だけがガラス張りになっていました。客席からも、中でもがき苦しんでいるフーディーニが見えるためと、もし、何かの事故でフーディーニが失敗した場合、前面のガラスを斧で割って、水を出し、救出するためです。
手錠をかけられ、足枷をはめられ、逆さ吊りにされ、水が一杯詰まっている箱に沈められた後、上のふたには厳重に鍵がかけられます。これを実演する前には、観客数名を舞台に上げて、手錠、鎖、足枷、水牢、その他、舞台の床まで徹底的に調べさせて、観客がすべての疑念を取り払ってから始めていました。
実際に沈められた後は、ガラスの前面には幕が掛けられ、どうやってあの状況から脱出するのかは見せないのですが、道具のシンプルさと、実際に自分があの道具で拷問を受けている状況を想像するだけで、観客は身の毛がよだつほどの恐怖と興奮を覚えたのでしょう。数分して、フーディーニが突然、びしょぬれの姿で、息も絶え絶えに現れたときは、観客は総立ちで拍手したものと思われます。
なお、この場面は1952年にフーディーニの伝記映画として制作された『魔術の恋』(原題"Houdini"、パラマウント映画)で、主演のトニー・カーチスがこのエスケープを実演していました。映画の中では、フーディーニがこれに失敗して、おぼれて死んだことになっているが、それはフィクションであり、実話ではありません。実際はもっとあっけないものです。舞台で、自分の体が頑強であることを示すために、力の強そうな観客を舞台に上げ、腹を思いっきり殴らせるという、子供じみたことを見せていましたが、あるとき、フーディーニがまだ準備をしていないときに、突然、力まかせに殴った人がおり、それが原因で死亡しました。
後年、彼の母が亡くなった後、当時アメリカでブームになっていたスピリチュアリズム、つまり、死んだ人の霊を呼び出し、交信するというものに引かれ、そのような霊媒師のところに行きました。彼は母親が大好きで、亡くなった母親と交信ができるものならと思い、わらをもすがる思いで行ったのでしょう。しかし、有名な霊媒師に会っても、どれもこれもみんなインチキで、がっかりしてしまいました。それで一転、このようなインチキ商売に世間が振り回されていることに対し義憤を感じ、片っ端から、この種のものの手口を暴露していきました。
フーディーニに関してのエピソードを紹介し出すと切りがありません。幸い、日本では松田道弘氏の著作になる『不可能からの脱出』(王国社、1985年)というすばらしい伝記が出ていますので推薦します。