マジシャン紹介

松旭斎天勝
しょうきょくさいてんかつ
(1884-1944)

天勝

1999/8/13記


本名、中井かつ。東京、神田生まれ。家業は神田で大きな質店を営んでいたが、父の仕事の失敗から11歳(明治二十八年)で家を出て、当時の大奇術師、松旭斎天一に弟子入りする。

子供の頃から大柄で、目鼻立ちのはっきりした美人でした。一座に入ってからも数年後、たちまち人気を博し、明治後半から、大正、昭和前期にかけ、興行界の大看板として活躍しました。当時は各地で偽物が出るほど人気があり、天勝といえば奇術の代名詞となるほどの知名度でした。江戸川乱歩の『黒蜥蜴』にも、天勝の名前が出てきます。

日本人離れした体躯を活かし、当時としては珍しかった脚などを出す衣装でダンスをしたりして、人目を引いていました。1901年頃、天一ら数名でアメリカへ興業に行っています。当時の日本では一回の公演は10種類程度の出し物でも5時間ほどかけ、長い口上や、天一の得意な漢詩の揮毫を見せたりといったのんびりしたものでした。しかしアメリカではこのようなものは受け入れてもらえず、一人の出し物は15分程度、全体でも一時間くらいにおさまるようにテンポを早くする必要がありました。このときの経験は帰国後おおいにいかされ、一層あか抜けしたものになりました。

天勝の得意な芸としては「水芸」がありました。これは舞台のあちこちから、また舞台の上にいるお囃子の人の頭や持っている扇子、刀、その他、ありとあらゆるところから天勝のかけ声にあわせて水が噴き出したり、止まったりする芸です。当時は電動のモーターもなかった時代ですから、裏では手押しのポンプを使用し、蜘蛛の巣のように張り巡らせた細い管を使って水を送りだしていました。仕掛けも大がかりになり、近年はほとんど演じられなくなりました。また、タイミングの調整などが難しい割には最近では公園の噴水などでもコンピューター制御され、音楽に合わせて水の色や高さの変わるものが日常的に見られるようになりましたので、マジックにならなくなってしまったのでしょう。そのためこの「水芸」は今ではほとんど消えてしまいました。

海外では女性のマジシャンで大成した人はあまりいませんが、日本ではこの天勝の成功のせいか、女性のマジシャンで成功した人も珍しくありません。最近海外でもよく知られるようになった女性マジシャン二代目引田天功(プリンセス天功)も、天勝の師匠である天一にまでさかのぼることができます。天一から天洋、初代引田天功、プリンセス天功とつながっています。

魔法都市の住人 マジェイア


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