卑弥呼誕生の儀式を行った場所を特定してページを終えましたが、 その後もツイッターでしばらく感じたことを呟いてました。 それをまとめてみました。 |
伴理論に則って、「卑弥呼」誕生の地を推理し、「天の真名井と宇田川」第2部に「追補」を加えた。
雨の日のアームチェア・ディテクティブの気分だ。 終わって、コーヒーが美味い。
昨日は、古代日本の分裂を救った偉大なシャーマン・卑弥呼が誕生した場所を特定した。
雨の日にヒマなジジイしかやらないような事だけど、検証を始めたら向うから現れたような感じだった。
長年気にかけていた「天の真名井」も、その名にふさわしい由来が判明して嬉しかった。
「古代史の復元」に取り組んでいる伴さんも喜んでくれたし、彼の仮説を検証出来て満足した。
出来れば冬至の日に、淀江の三輪神社で、大山の山頂から昇る日の出をみたいものだ。
先日、小さな泉が、何故神話の中の尊称「天の真名井」と呼ばれるようになったのか、由来を考えていた。
そしたら、日本書紀・古事記に、何故、倭の大乱と卑弥呼が登場しないのか?
日本書紀に 何故、出雲王朝が登場しないのか? が、わかった気がした。
倭の大乱の終息のため泉で出雲と交わした誓約を、大和朝廷が破ったからだ、と気づいた。
連合国家を構成していたクニの全てが、平和をもたらした誓約を熟知していた。
140年近く後に景行天皇はそれを破り、半独立的な立場が認められていた出雲の特権を剥奪し、出雲王朝を廃止させてしまったのだ。
日本書紀の編纂者は、朝廷が誓約を破った事実を書けず、誓約の歴史を隠すために、倭の大乱や、
終息の誓約や、卑弥呼の誕生を消し、なおかつ出雲王朝の記事を抹殺せざるを得なかった。
そして誓約を行った泉が天の真名井として残り、神話の中でアマテラス(大和)とスサノオ(出雲)が
天の真名井で誓約したことが記された。
以上が「古代史の復元」を基に、倭の大乱(出雲と大和の争い)の終結の誓約と卑弥呼の即位を考え、一番素直に理解できる仮説である。
外国の魏志倭人伝に書かれて、日本書紀には卑弥呼が書かれなかった理由である。 ※注1
→ 私の歴史年表
古事記では、ヤマトタケルが出雲の国へ行き、イズモタケルと友の契を結んで、
木で偽りの太刀をつくり腰に下げ、イズモタケルを誘って水遊びに出かけた。
ヤマトタケルは先に上がってイズモタケルの太刀をつけ、互いに太刀を換えよう、と言った。
そして、太刀あわせをしよう、といって殺した、とある。
出雲の滅びについて、友の契を結んでから偽って滅ぼした、と記している。
このイズモタケル殺しは、日本書紀のヤマトタケル伝には出てこない。
当然書けないことだったのだろう。
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※注1 (2018.4.12)
日本書紀の編纂者が 「魏志倭人伝」と卑弥呼 を熟知していたことは、「神功皇后紀」の中に三か所、言葉を補ったりして引用しているので明白である。
(1)神功皇后39年条 魏志に云はく、...
(2)同前40年条 魏志に云はく、...
(3)同前43年条 魏志に云はく、...
編纂者は、神功皇后=卑弥呼 とは思っておらず、神功皇后の対外活動に花を添えるため、魏志(卑弥呼の業績)を抜き出し引用したもの。
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古事記のアマテラスとスサノオのウケヒ(誓約)は以下のようだ。
両者は高天原の「天の安の河」を挟んでウケヒを行う。
互いに相手の持ち物(アマテラスは相手の十拳の剣、スサノオはアマテラスの八坂の勾玉)を乞い取り、
「天の真名井」に振りそそぎ、口に入れて吹き出して神々を産み競べた、と。
古事記には「天の安の河」と「天の真名井」が出てくる。で、思った。
淀江の天の真名井から流れる「宇田川」が「天の安の河」なんだろうか?、と。
宇田川平野は高天原なのかもしれない、と。
最初にあの土地で感じた振り出しに、また戻っていく。
高天原の「天の真名井」でのアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)では、
スサノオの所持物から女神が誕生し、アマテラスの所持物から男神が誕生する。
アマテラス系の男性の首長に加えて、スサノオ系の女性の司祭者でクニを治める、
という意味にも感じられる。
昨年、霞ヶ浦北岸の6世紀の前方後円墳から出た埴輪群の展示を見に行った。
人物埴輪では、冠を被った首長、兵士の他に、鷹匠、力士などもあった。
そして巫女と見られる埴輪があった。
それぞれのクニには、首長の他に祭事を執り行う女の司祭者がいたのだと感じた。
卑弥呼の時代にも、三輪山麓の卑弥呼だけでなく、連合体の各クニに、
卑弥呼を頂点とした呪術ネットワークのその地域の呪術者がいて、そのクニの祭事を担当していた、と思う。
政事と祭事は分権していたのだろう。
琉球王国では、(王家の女性が就く)聞得大君を頂点とするノロという神女(女司祭)の組織があり、各地にノロがいた。
それぞれの分担範囲が決まっていた。
久高島では、小さな集落を久高ノロと外間ノロの二人が、狭い通りを挟んで分担していた。
http://bit.ly/cHeXZo
今年、与那国島に行ったが、島には9名のノロさんがいた。
参加者の一人が、頼んでノロさんに会ってヒーリング・サポートを受けてきた。
最遠方の与那国島では今でも王朝時代の名残があった。
また、旧暦の祭事を守っている糸満では、南山ノロ、糸満ノロがその役割を果たしている。
今朝の新聞に、西安から出た678年の墓誌に「日本」という名称の最古の使用例があったと。 http://bit.ly/mUD9A5
(※新聞記事は公開期間終了のためこちらを→ http://blogos.com/article/20762/)
関心を引いたのはこれではなく、短い墓誌の中で日本列島のことを「扶桑」と呼んでいることだった。
扶桑樹は東海の海上に茂る巨大な神木で、9000年に一度実をつける神仙の樹。
その神樹から太陽が生まれ、それを烏が背負って天空を運んでいくという説話がある。
この扶桑樹と蓬莱山を目指して多くの長江畔の倭人が渡ってきたと云われている。
大和朝廷と百済遺民の連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いの場を、半島南部と思っている人が多い。
半島西部のソウルの南方、現在の錦江付近と云われている。
古代の日本列島の呼び名「扶桑」の起源となった巨大な扶桑樹のことを思うと、
映画「アバター」の世界と、夢枕獏の超伝奇ノベル「新・魔獣狩り 完結編」を思い出す。
古代中国の地理書・山海経に出てくる神木・扶桑樹は、四川省の三星堆遺跡出土の巨大な青銅製神樹がそうだろう。
高さ4mで上部があれば5m。http://bit.ly/uxuqLB
扶桑樹は、馬王堆の帛画 http://bit.ly/rzWRBc にも描かれている。
紅葉を見る北信州の観光旅行に参加してきた。
昨日の鏡池から見る戸隠山の光景。
アマテラスが二度と隠れないよう、高天原の「天の岩戸」を地上に落として隠したのが戸隠山。
戸隠神社の五社は関係する神々ータジカラノオ・奥社、 オモイカネト・中社、 アメノウズメ・火之御子社、 アメノウワハル・宝光社と、 地主神・九頭龍大神を祀っている。
戸隠神社 中社 | ||
2012年 1月 4日 |