私の歴史年表
(2011.10.19 作成 : 最終追加 2023.11.27) @4世紀後半:富雄丸山古墳の謎 A応神天皇の大三角形 B3世紀後半:魏志倭人伝が成立
年 代 | 出 来 事 | 備 考 | |
旧石器時代 縄文時代 |
20万年前 6万年前 4万7千年前 4万5千年前 4万4千年前 4万年前 3万2千年前 2万2千年〜2万年前 1万8千年前〜 17,000年前〜 16,500〜14,000年前 1万6500年前 16,500年前 15,000年前 1万5千年前〜 14000年前 13000年前 9240年前 9000年前 8000年前 7500年前 7300年前 7300〜7200年前 7000年前 7300〜6000年前 7000年前頃 7000年前頃 7000〜6000年前 6000年前 5900年前 5900〜4200年前 6000〜2300年前 5300年前 5041〜5325年前 5000〜4000年前 5000年前 5000年前 5000年前 5000〜3000年前 4500年前 4300年前 4200年前 前3000〜2000年 前3400〜前2250年 前1900〜前1600年 前1600〜前1046年 前2000〜 前1000年 2500年前 |
現生人類 ザンベジ川南部のボツワナ北部で誕生。(約13万年前の気候変動により移動) 現生人類 出アフリカ 現生人類 東アジア着 (スンダランド) 現生人類 ヨーロッパ着 (ネアンデルタール人が先住) インドネシア・スラウェシ島で狩猟場面を描いた洞窟壁画 現生人類 日本列島着 (南方から と 北方からと 縄文人の母体) (ご近所の)杉並区・高井戸東遺跡 (集落遺跡の燃えて炭化した木片で年代確認) 沖縄本島・港川人 (全身骨格が発見) ヨーロッパ:南西フランスペリゴール地方から 狩猟採取民のマグダレニアン文化(洞窟画) ・フランス・ラスコー洞窟壁画 ・スペイン・アルタミラ洞窟壁画 縄文人が誕生 (縄文時代:狩猟採集での 定住生活 &土器 使用) 人類史上最古の土器 (津軽半島・大平山元遺跡) 縄文草創期初頭 地球は1万5千年前に、晩氷期から後氷期に入り温暖化が始まった。 東アジアの温暖化は少し早く、1万6500年頃から この頃、人に馴れたニホンオオカミ祖先から柴犬の祖先犬が誕生する。(右記の仮説参照) ヨーロッパ:狩猟採集民が南東ヨーロッパから拡散し先住民と交代 最古の土偶が出土 (滋賀県東近江市・相谷熊原遺跡) 日本最古のイヌの顎の骨が出土。(横須賀市夏島貝塚) 世界最古の漆工製品が出土(北海道垣ノ島B遺跡) ヨーロッパ:農耕民集団がアナトリアからヨーロッパ全土に拡散(狩猟採集民と2千年間棲み分け) 国内最古の丸木舟の船底(長さ約 7.2m)が出土 (千葉県市川市・雷下遺跡) 鬼界カルデラ(直径20`)大噴火 火砕流が薩摩半島、大隅半島に達し、九州の縄文文化が壊滅。 日本最古の埋葬されたイヌ2体が出土。(愛媛県上黒岩岩陰遺跡:埋葬された人のそばに) ヨーロッパ:北欧で狩猟採集民の女性シャーマンが発見&復元。 → 記 事 青森・埼玉・神奈川・愛媛・佐賀 で この頃埋葬されたイヌが発掘。 縄文人が朝鮮半島に渡り、定住を開始。 (琉球弧は水没し無人の島々になっていたが)九州の縄文人が南下し、琉球諸島に定住。 気候が急速に温暖化、海水面が上昇 (縄文海進〉 この頃、縄文海進が最大になる。 縄文 早期 三内丸山遺跡 集落が始まる メソポタミア文明の始まり、エジプト文明の始まり 三内丸山遺跡 (約1700年の長期間にわたって定住生活が営まれた) 能登半島・真脇遺跡。イルカの骨。栗の巨大ウッドサークル。 ヨーロッパ:アルプスで「アイスマン」死亡 新宿の縄文人が復元される。(死亡時期 BC3310〜3026): 縄文についてのツイート集から BC3000〜BC2000 地球規模の気候変動 急激な寒冷化&乾燥化地域と 長雨と洪水の地域 ヨーロッパ:ストーンヘンジの建造始まる ヨーロッパ:牧畜民がヨーロッパに移住し先住農耕民に取って代わる。大規模移住&交雑 (黒海とカスピ海の北方のステップ地帯が起源: 羊・牛の牧畜ベース) 火焔型土器が信濃川流域を中心に発達。(BC3000年〜BC2700年) 加曽利貝塚(千葉市)の集落が継続 縄文中期 三内丸山遺跡の最盛期(墓と道路420mに達する。32mの大型住居造られる) クフ王のピラミッド建設、 インダス文明の始まり 4.3Kaイベント BC2354〜2345の9年間で地球が急速寒冷化 氷の巨大彗星が衝突? 縄文海退 三内丸山遺跡 集落の終わり。 関東で遺跡数が激減 「縄文のビーナス」「縄文の女神」 など 多くの土偶が作られる。 (国宝5点) 中国・長江河口域に 良渚文化 気候変動による洪水で滅亡。玉(玉j)を使用。 中国・黄河中流域に 夏王朝 (母体の 二里頭文化は 前2100〜前1500年) 中国・殷(商)王朝 中原に青銅器文化が栄える。 (夏 → 商 → 周 →春秋戦国) BC1046年2月3日 牧野の戦い(商軍70万: 周連合軍40万) 朝鮮半島の先住縄文人に、北方大陸人が侵入・交雑し、後の半島人の祖先となる 水田稲作が北九州・河川下流域(無人域)で始まる(中・上流域集落に広まる迄300年かかる) 縄文人の人口が 1/3程度に急減か? (伝染病が持ち込まれた?) |
←記 事 マカディカディ・オカバンゴ ←記 事 (2019/12/11ネイチャー) 港川人と琉球弧 土器は世界3か所が発生地。 @日本列島 約1万5000年前 A西アジア 約9000年前 Bアマゾン川流域 約7500年前 東アジアでの土器づくりの古さ順 日本列島→ シベリア→ 中国北東部→ 朝鮮半島→ 長江下流域→ 東南アジア 土器は 南アジア・アフリカ 約9000年前 ヨーロッパ 約8500年前 世界最古のイヌは、縄文人によって育てられた、という仮説。 縄文についてのツイート集 漆製品: 9000年前:日本列島 7600年前:中国浙江省跨湖橋遺跡 2400年前:韓国古村里遺跡 農業を主体にした村落がみられるのは、 中近東 BC8500年頃 中国 BC7000〜BC6500年頃 中南米 BC3000〜BC2000年頃 →中東の都市国家、中国の邑が消滅 ヤムナヤ文化:車輪、荷車、馬、クルガン メイス(斧):縄目紋土器文化 火焔型土器の装飾の意味を推理する 加曽利貝塚とイボキサゴの謎 エジプト、シュメール、ハラッパーが衰退 良渚:水田稲作(モノカルチャー) 二里頭:粟、黍、小麦、大豆、稲 の五穀 殷:文字の使用 弥生人DNAによる半島人の起源 なかなか広まらなかった水田稲作 記事→現代日本人のY染色体解析 |
弥生時代 古墳時代 幕開け |
BC473年 BC391年〜同169年 BC221年 BC108年 BC37年 BC30年頃 紀元前後 AD 5年 紀元前後 AD10〜15年頃 AD25年頃〜 AD45頃〜55頃 AD50年(±30年) AD57年 AD65年頃 AD60〜70年頃 AD83年 101年 104年 106年 107年 117年 144年 145年 150年頃 164年 178年 180年頃 178年〜184年 185年(中平2年) 186年 188年 200年 201年 204年 205年 208年 210年頃 212年 213年 214年 215年〜 216年 217年頃 219年頃 230年代前半 234年 239年(景初2年) 240年(正始元年) 243年(正始4年) 244年 245年(正始6年) 247年(正始8年) 247年 247年 248年 248年 248年 249年 249年 266年(泰始二年) 268年 278年 280年 289年 290年 280年〜 297年 |
春秋戦国時代の呉が滅亡 →移民が列島に(後の狗奴国?) 淡路島・松帆銅鐸が埋められる 秦の始皇帝即位 (BC219年 徐福出航 →佐賀に到達 BC210年 始皇帝死亡〉 漢・半島に楽浪郡を設置 (〜AD313年) 高句麗が布流国を滅ぼして建国 スサノオ誕生 この頃出雲の国引き神話 スサノオ 出雲の豪族ヤマタノオロチを退治 その後、推挙され出雲のクニの王となる。 以降、 BC10年 頃までに出雲、北九州・中国を平和的に統一する 倭百余国に分立 (漢書 地理志) 元始5年(AD5年)東夷の王、大海を渡り国珍を奉ず。(漢書 王莽伝) 北九州博多湾岸の王は、甕棺墓に三種の神器の祖形(鏡、剣鉾、玉)を副葬し、朱を使用。 スサノオ 九州統一の為オオトシを連れ、宇佐地方に。日向姫と結婚し、安心院に都を 出雲派遣のオオトシが北九州から大和へ入り、 ニギハヤヒ(饒速日尊)を名のる。 32人の従者(神)と 25部の物部(軍団)を率い、遠賀川河口から出発(天孫降臨団 AD25年) ニギハヤヒが東国の開拓に乗り出す。 出雲の荒神谷遺跡に358本の銅剣が埋納される。 倭奴国 (倭国の極南界なり →日向 ) が後漢に朝貢。 金印を受ける。 倭奴国は日向。洛陽へはヒコホホデミ。伊都国は、後漢の支援を受けた日向・倭国連合に加盟 ニギハヤヒ死す。 纒向の穴師山山頂に葬られる。 倭国王・日向津姫が串間の「勿体が森」で亡くなり、「王の山」に埋葬される。 日向を出た神武天皇(狭野命)が 大和に入り 即位 →倭国に統一政権誕生 (カムヤマトイハレビコ) 第2代 綏靖天皇が即位 (カムヌナカハミミ) 第3代 安寧天皇が即位 (シキツヒコタマデミ) 第4代 懿徳天皇が即位 (オホヤマトヒコスキトモ) 倭国王 帥升等が後漢に朝貢。 生口160人献上 (160国からなる連合体から 1人のことか?) 第5代 孝昭天皇が即位 (ミマツヒコカエシネ) 第6代 孝安天皇が即位 (オホヤマトタラシヒコ) 朝鮮半島の倭の領域内で新羅が建国 (赫居世王、重臣は倭人の瓠公) この頃、青谷上寺地遺跡が栄える (100年〜200年に渡り繁栄) 遼東半島で百済が建国 (扶余王の子 温祚) 第7代 孝霊天皇が即位 (オホヤマトネコヒコフトニ) この頃、妻木晩田の範囲が最大になる → 天の真名井を擁するクニ(後の伯耆の国) 倭国の大乱 (大和が出雲を統一しようと始る) 卑弥呼即位で大乱収束 (孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫が大物主の妻になる儀式) 第8代 孝元天皇即位 (オホヤマトネコヒコクニクル) ・阿智神社、戸隠神社が創建 百済が遼東半島から朝鮮半島漢江付近に遷都 朝鮮半島で第4代新羅王 脱解 (丹後出身の倭人)が即位 遼東太守・公孫康が(ソウル付近に)城塞都市・帯方郡を設置。 帯方郡以南は倭の領域だが、「是より後、倭・韓遂に帯方に属す (魏志韓伝)」と記される。 百済との交流が始まる 魏・曹操軍と孫権・劉備連合軍との赤壁の戦い 唐古鍵遺跡がにわかに衰退。 纏向遺跡が発展 (強制的に解体・廃村され、纏向に移転?) 脱解が没 第5代新羅王は婆娑尼師今(脱解の系統→朴氏の系統) 卑弥呼の新羅親征(婆娑王2年) 第9代 開化天皇即位 (ワカヤマトネコヒコオホビビ) 卑弥呼が天照大神の祭祀を強化 出雲に日御崎神社、武蔵に調神社を創建。上総に有力な祭祀者を派遣(神門 5号墳) 北九州(平原遺跡1号墓:200年前後)、吉備(三輪・宮山墳丘墓:3C前半)に祭祀者を派遣 魏蜀呉の三国時代が始まる (曹操が魏王となる) ヒミコ 纏向に祭祀都市を建設 天日槍命(新羅王 脱解の子)が来日 纒向遺跡の杭列は「酸素同位体比 年輪年代法」でAD230年代前半の結果。(論文4頁) 五丈原の戦い( 蜀・諸葛亮と魏・司馬懿。諸葛亮は病死「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」) 卑弥呼 難升米を遣わし朝貢を求める。 「親魏倭王」 称号と 金印紫綬 を(翌年)受ける。 ・返礼として、銅鏡100枚、5尺の刀2口 などを受ける 魏の使者(帯方太守派遣の)梯儁が来日し、巻向の宮殿で 倭王・卑弥呼に拝し、冊封礼を行う。 ・金、帛、錦、ケイ、刀、鏡、采物を賜る。刀は中平年号銘の鉄刀 ・魏使は、倭国の歴史と高官4名を記録に残す。 卑弥呼は、伊声耆、掖邪狗等8人を魏に遣わし、生口、倭錦などを献上する。 第10代 崇神天皇即位 (ミマキイリヒコ) 魏の皇帝は帯方郡にて難升米に黄憧を賜う。 卑弥呼、魏に狗奴国との交戦を告げる。 魏の使者(帯方郡の武官)張政が来日。 卑弥呼 天神(あまつかみ)・地祇( くにつかみ)の祭祀を定める (古墳時代の幕開け) 天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑に移し祀らせる。 三輪山に、大物主神を大田々根子に祀らせる。(大神神社) 神武東遷の際の神剣・布都御魂(フツのミタマ)を、伊香色雄命に託して石上神宮に収める。 1874年(明治7年)禁足地から布都御魂を発掘。2024年、顕現150年記念 特別参拝 米子市淀江・三輪神社の「狼神事」が始まる。 卑弥呼死去(83歳) 纒向に箸墓古墳(276m)を築造 箸墓古墳の炭素年代測定は @国立歴史民俗博物館は240年〜260年 A奈良県立橿原考古学研究所は280〜300年(±10〜20年) 武埴安彦の乱、四道将軍派遣 大彦命(北陸路)、武渟名川別命(東海道)、 五十狭芹彦命・吉備津彦(吉備国)、彦坐王(丹波) 台与(イヨ) 張政を帯方郡に戻し、晋に朝貢。 (台与は300年頃没) 崇神天皇が皇子・豊城入彦を東国に派遣 第11代 垂仁天皇即位 (イクメイリヒコ) 富士山への信仰が記録に登場 (垂仁3年 山宮浅間神社の地) ホムチワケの拝礼の結果、出雲にオオクニヌシの神殿を建てる。鳥取部を定める。 天照大神が垂仁天皇の皇女・倭姫命により伊勢に祀られる(伊勢神宮) 247年豊鍬入姫に託されて以来。 魏志倭人伝が成立 |
始皇帝 万里の長城を築く 出雲の国引き神話を考える 北九州統一 (古代史の復元) 東国の開拓と初期の前方後円墳 倭の奴国は通説とは異なる(考) 金印についてのメモ 「王の山」からは巨大な玉璧が出土 倭の国王が初めて文献に登場 古代新羅について 青谷上寺地遺跡の謎を推理する 卑弥呼誕生の場所を特定した 卑弥呼関連年表(古代史の復元) 鳴門市 萩原二号墓が築造。 (前方後円墳の原型か?) 帯方郡設置(古代史の復元) 東国最古の前方後円墳 神門 5号墳 の謎を ← 最新(2022年)の測定結果発表 229年「親魏大月氏王」と同格 冊封礼はどのように? 雑感 魏志倭人伝のクニ 沼津 高尾山古墳 前方後方墳の謎を 古事記と野鳥(八咫烏) ここは百襲姫が卑弥呼として共立された地 纏向 箸墓古墳の謎を考える 纒向 卑弥呼の宮殿の謎を考える 会津坂下に杵ガ森古墳が築造 以降 前方後円墳が7C初まで約5200基築造。半島にも。 郷見神社古墳(豊城入彦墓) 雑感 山宮浅間神社 古事記と野鳥(オオタカ) 手賀沼の前方後方墳(3C後半〜)訪問記 魏志倭人伝の謎を解く |
古墳時代 飛鳥時代 |
300年〜 298年 307年 310年 313年 325年 328年 333年 345年 346年 364年 366年 367年 369年 372年 380年 386年 389年 391年 391年 392年 4世紀後半 394年 397年 397年 398〜399年 402年 400年 414年 413〜479年 417年 427年 431年 433年 438年 458〜479年 460年 463年 463年 471年 475年 478年 480年 486年 491年 494年 5C後半〜6C初頭 6C前半 502年 503年 503年 510年 521年 523年 527年 534年 534年 536年 536年 538年 540年 562年 572年 583年 585年 587年 587年 588年 589年 592年 592年 607年 607年 610年ころ 618年 629年 630年 642年 643年 645年 645年 646年 655年 660年 663年 664年 665年 666年 667年 667年 668年 668年 670年 671年 671年 671年 672年 672年 672年 673年 676年 678年 690年 690年 690年頃 694年 697年 7C末〜8C初 701年 702年 707年 708年 |
前方後円墳が各地に築かれる。(首長ネットワーク) 第12代 景行天皇即位 (オホタラシヒコ) ・日本武尊を出雲に派遣し出雲王朝廃止 (自らタラシを名乗る) ・日本武尊を東国平定に派遣(310年〜311年歿) 高句麗 楽浪郡を滅ぼす 第13代 成務天皇即位 (ワカタラシヒコ) 第14代 仲哀天皇 即位 (タラシナカツヒコ: 日本武尊の子: 332年崩御) 神功皇后(仲哀天皇の妃:オキナガタラシヒメ)摂政に就く。(333年〜367年:389年崩御) この年を境に、日本書紀、三国史記、の年代が 半年一年暦 から中国暦に変わった 神功皇后が第1回新羅征伐 神功皇后が第2回新羅征伐 忍熊王の乱( 物部氏、大伴氏 → 葛城氏、和邇氏 ) 第15代 応神天皇 (誉田別命: ホムタワケ) 即位 第3回新羅遠征 荒田別・鹿我別を将軍の東国軍勢中心で、新羅金城を落とし 翌370年帰国 百済王、倭王に東晋に発注した七支刀(369年制作)と、大鏡を贈る 辰韓から弓月君来朝 (127県18,670人を引き連れ。秦始皇帝三世孫の後裔:秦氏の祖) 帯方郡から阿知使主来朝 (17県の民を引き連れ。後漢霊帝の子孫:倭漢氏の祖) 神功皇后崩御 高句麗 広開土王即位。 (在位 391〜412年) 広開土王碑に、”倭、391年に海を渡り百済・新羅を破り、臣民となす” と記される 新羅・奈勿王、高句麗に質子を送る。 (実聖(次代の王)を 392年〜401年) 倭、半島に進出 ( 高句麗の南下により 倭国の権益や鉄資源が脅かされた為 ) 応神天皇死去 → 応神天皇の大三角形 第16代 仁徳天皇 (讃)即位 (オホサザキ) 百済、太子を倭に質子として送る。(阿花王の王子・腆支 397〜405年 高句麗の圧迫に対抗) 百済救援で半島に出兵し新羅金城を包囲。高句麗5万の大軍で来るも、本国が燕に襲われ退却 新羅・実聖王、倭に質子を送る。 (奈勿王の王子・未斯欣 402年〜417年 倭国 X 高句麗の戦 の最中、首都を倭軍に落とされた為 又、高句麗が後燕との戦で新羅を顧みられない為) この頃以降、中国・朝鮮から技術・文化が伝わる。 ・大規模な前方後円墳が築かれる (430年 仁徳天皇陵造営) ・百済・伽耶から馬の生産と乗馬技術を導入し、各地に牧を設置 (国家プロジェクト)→ 高句麗・広開土王碑(=好太王碑)建立 倭の五王、東普、宋へ使者を送る。 倭の五王時代、ヒスイ勾玉が大量に半島に輸出される。(冠など威信財の装飾用) 新羅・訥祇王即位 (倭に質子として送られていた未斯欣) 第17代 履中天皇 (隋)即位 (イザホワケ) ・半島を平定する(高句麗を除き 半島が倭国の朝貢国になる) 第18代 反正(珍)ミズハワケ倭・百済・新羅・任那・馬韓・辰韓6か国の諸軍事、安東将軍倭国王 第19代 允恭天皇 (済)(ワクゴ) 同上 慶州・皇南大塚(南墳:訥祇王? 銀冠 北墳:慈悲王?金冠(77点のヒスイ勾玉)出土 第20代 安康天皇 (興)即位 (アナホ:后の連れ子マヨワに殺される) 同上 眉輪王の変 (結果、葛城円が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺され、葛城氏本宗家が滅亡) 第21代 雄略天皇 (武)即位(ワカタケル) 使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・ 慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王 稲荷山古墳の銘文鉄剣が作られる (ワカタケル=雄略天皇) 高句麗の急襲により 百済いったん滅亡 漢城→熊津 雄略天皇 百済を復興させる(476年) 雄略天皇 宋に朝貢 →安東大将軍 雄略天皇 斉に朝貢 → 鎮東大将軍の称号を受ける 第22代 清寧天皇が即位 (シラカ) 第23代 顕宗天皇が即位 (ヨケ) 第24代 仁賢天皇が即位(オケ) 半島南西岸・栄山江流域(慕韓の地)に 前方後円墳 13基が造営される →雄略天皇が(復興)百済支援に派遣した、九州豪族の各将軍の墓 さきたまの丸墓山古墳造営 第25代 武烈天皇が即位 (ワカサザキ) 百済、大和朝廷に遺使 新羅 迎日冷水碑 慶尚北道迎日郡。村主は(新羅に無い)倭系肩書。倭人系の村? 第26代 継体天皇即位 (526 年になって大和に入る: オホド) 15代ホムタワケノの5代子孫 新羅、初めて中国(南朝の陳)に朝貢。 ※梁職貢図:張庚模本(Wikipedia) 百済武寧王死す (墓誌が出土&日中韓の資料全てが一致) 百済要請の 6万の軍の任那派遣に 筑紫の国造・磐井が反乱 (磐井=親 新羅) 第27代 安閑天皇が即位 (ヒロクニオシタケカナヒ) 武蔵国造の争い (笠原直使主、笠原直小杵、上毛野君小熊) スンダ海峡の巨大火山 クラカトア大噴火(大気は粉塵に満ち日光が遮られた) 第28代 宣化天皇が即位 (タケオヒロクニオシタテ) 仏教伝来 (百済の聖明王が釈迦如来像、経典,仏具などを献上) 第29代 欽明天皇が即位 (アメクニオシハルキヒロニハ) 任那が新羅に滅ぼされる 第30代 敏達天皇が即位 (ヌナクラフトタマシキ) 他田坐天照御魂神社創立、箸墓古墳で任那再興を祈願 第31代 用明天皇が即位 (タチバナノトヨヒ) 丁未の乱 物部守屋を、蘇我馬子(泊瀬部皇子=後の崇峻天皇 ・厩戸皇子ら)が討つ。 守屋の子・那加世は陸奥に逃れ、秋田唐松神社宮司家(秋田物部)の物部氏は彼から64代目。 第32代 崇峻天皇が即位 (ハツセベノワカサザキ) 飛鳥寺(法興寺)の造営開始 (〜596年) 隋建国 蘇我馬子、東漢駒を使い崇峻天皇を暗殺。(第20代に次ぐ史上二人目の暗殺された天皇) 蘇我馬子、第33代 推古天皇(女帝:敏達天皇の皇后: トヨミケカシキヤヒメ))を即位させる 日本初の女帝 : 厩戸皇子(聖徳太子: 622年没) 皇太子となる。 遺隋使 小野妹子を使わす 聖徳太子、法隆寺創建 (670年全焼後 現在地に再建、金堂は火災前に現在地に建立) 前方後円墳の造営終了 (シャーマン的象徴→仏教的価値観) 唐が隋を滅ぼし建国 第34代 舒明天皇が即位 初めて遣唐使(大使犬上御田鍬・薬師恵日ら)を派遣 第35代 皇極天皇(女帝)が即位(舒明天皇の皇后) 蘇我入鹿、山背大兄王一族を殺害 大化の改新 (乙巳の変:中大兄皇子、中臣鎌足ら宮中で蘇我入鹿を殺害。父・蝦夷は自害) 第36代 孝徳天皇が即位 薄葬令 第37代 斉明天皇(女帝)が即位(皇極天皇の重祚。没661年 中大兄皇子が摂政) 唐が新羅と結び 百済を滅ぼす 大和朝廷と百済の遺臣、白村江(半島西海岸)で唐・新羅連合軍に敗北 対馬、壱岐、筑紫等に防人と烽を置く。筑紫に水城を築く 筑紫に大野城、基肄城を、長門に長門城を築城 (亡命百済将軍が指導) 唐で封禅の儀 (新羅・百済・耽羅・倭 の使者は将軍・劉仁軌に率いられ泰山に行き参列) 近江大津宮に遷都 大和に高安城、讃岐に屋嶋城、対馬に金田城、肥後に鞠智城を築城 第38代 天智天皇が即位 新羅と国交回復 唐・新羅連合軍 高句麗を滅ぼす 新羅は高句麗遺民(剣牟岑ケンボウシン)と結び、対唐戦争へ転換 新羅は対唐戦争を開始 671/6 〜 676/11 唐軍が47隻で来日 使節・軍兵等600人。倭・百済の捕虜 1400人を送還。(軍事援助の要請) 第39代 弘文天皇(追号:大友皇子)が即位 (12月天智天皇死去により) 半島の唐軍に大量の甲冑・弓矢を送る(5月) (対新羅・軍事的同盟の証) 壬申の乱 (6月〜7月 大友皇子 VS 大海人皇子) 飛鳥浄御原宮に遷都 第40代 天武天皇が即位 遣唐使廃止 新羅が唐を排除し、半島初の統一国家成立 (統一新羅時代) 西安出土の墓誌に「倭国」でなく「日本」と、また列島は「扶桑 」と記される →記事へ 第41代 持統天皇が即位 (女帝:天武天皇の皇后) 遣唐使701年再開 伊勢神宮の式年遷宮が始まる 柿本人麻呂 宮廷歌人として登場 708年?没 藤原京に遷都 第42代 文武天皇が即位 (持統天皇の草壁皇子の子・軽皇子) 高松塚古墳、キトラ古墳(阿倍御主人) 築造 大宝律令制定 (唐、日本のみが律令を制定。冊封下の国は唐の法律・外交・暦・年号を使用) 刑部親王、藤原不比等、粟田真人、下毛野朝臣小麻呂、伊岐連博得、伊余部連馬養、田辺史大隅 日向の国の南部から「薩摩」を設置 第43代 元明天皇(女帝)が即位 (草壁皇子の妻、文武天皇の母。 藤原不比等が支援?) 武蔵国で銅が発見 (和銅と改元) |
ヤマトタケルの足跡・地図付@ ヤマトタケルA (古代史の復元) 歴代天皇の年表(古代史の復元) 新羅・百済の年表 (同上) 富雄丸山古墳の謎を解く 芝丸山古墳(芝公園) 亀甲山古墳(多摩川台) 蓬莱山古墳(多摩川台) 好太王碑文(古代史の復元) 水神山古墳(手賀沼) 野毛大塚古墳(多摩川) 丸山古墳(八郷) →長野市大室古墳群(5C前半〜8C) 馬の生産に携わった渡来人墓 大山陵古墳(仁徳天皇陵:525m) 佐自塚古墳(八郷) 訥祇王は、倭へ人質で送られた奈勿王の王子・未斯欣 稲荷山古墳(行田) 太田天神山古墳(太田) 舟塚山古墳(高浜) 誉田御廟山古墳(応神天皇陵:425m) 富士見塚古墳(霞ケ浦) 三昧塚古墳(霞ケ浦) 丸墓山古墳(行田) 愛宕山古墳(高浜) 将軍山古墳(行田) 殿塚古墳・姫塚古墳(芝山) 仏教伝来(BC450頃インドで開始) AD1世紀 中国へ(インドから) 372年 高句麗へ(中国から) 384年 百済へ(中国から) 528年 新羅へ(高句麗から) 538年 倭国へ(百済から) 藤ノ木古墳 (587年穴穂部皇子:金銅製鞍金具) 百済から僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工 などが献上され飛鳥寺造営着手 稲荷塚八角古墳 (多摩丘陵) 蘇我稲目−馬子−蝦夷−入鹿 牽牛子塚古墳(斉明天皇陵) 八角形復元 山城は719年廃城。50年程の期間 倭からの使者=捕虜の将軍・守君大石 高麗の若光について 忽然と現れた為、防人と射戦に。 古代新羅について 唐への遣使 @666 封禅の儀(白村江捕虜による参列) A670 高句麗平定を祝賀する使者 B701 大宝遣唐使 高松塚古墳、キトラ古墳 海獣葡萄鏡 |
奈良時代 |
710年 712年 713年 714年 715年 716年 716年 717年 720年 724年 724年 729年 730年 740年〜749年没 741年 749年 752年 753年 758年 758年 764年 764年 766年 768年 770年 775年 |
平城京へ遷都 古事記完成 (翌年 風土記撰集の命) 日向の国の南部から「大隈」を設置 高崎の妙見寺創建 第44代 元正天皇(女帝)が即位 (草壁皇子の長女、母・元明天皇が譲位) 48m高の巨大建造物としての出雲大社(杵築大社)完成 (甲斐,伊豆,相模,上総,下総,常陸,下野の) 高麗人 1,799人を武蔵に集め高麗郡を置く 。 統率者若光の子孫の高麗(こま)家は、高麗神社宮司で60代目 遣唐留学生、吉備真備・阿倍仲麻呂・玄ムら入唐。(17年後の735年 吉備真備・玄ム帰国) 日本書紀完成 この年、藤原不比等 没す 蝦夷の反乱。多賀城築く 第45代 聖武天皇が即位 (文武天皇と藤原不比等の娘との間の子:元正天皇が譲位) 長屋王の変 太宰府長官・大友旅人の邸宅の宴で、梅花の歌32首が詠まれ、序文と共に万葉集に収録。 行基、聖武天皇に依頼され大仏建立に協力&勧進する。 国分寺・国分尼寺造営の詔 第46代 孝謙天皇(女帝)が即位 (聖武天皇の娘:聖武天皇が譲位) 東大寺大仏(盧舎那仏)開眼供養 (745年制作開始) 東大寺の修二会が始まる。以降1度も休むことなく、1272回以上続く。 鑑真が渡来(6回目に成功) 11月21日 阿児奈波に漂着→文献に初めて おきなわ島が登場 このころ万葉集が出来る (約4500首) 第47代 淳仁天皇が即位 (孝謙天皇が譲位: 藤原仲麻呂が推挙) 武蔵に新羅人(僧32人尼2人と男19人女21人)を移し新(羅)座郡(にいくらぐん)を置く 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱 鎮圧に吉備真備の軍功あり 第48代 称徳天皇(女帝)が即位 (孝謙天皇の重祚) 弓削道鏡 法王になる 春日大社創建 第49代 光仁天皇が即位 (97年継続で天武系皇子が途絶え、天智の孫の白壁王が62歳で即位し、以降復活天智系が続く) 吉備真備没 (聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁の五代天皇に仕えた) |
古事記雑感(古事記と野鳥) 東国の妙見信仰の発祥地 高麗の若光について 高麗の若光の移動ルート 高麗の若光:高麗郡 建郡の意味 三国史記(1145年完成) 三国遺事(1270後半〜1280年中頃) 元号「令和」(2019年〜)の出典は、 初春の令月にして、気淑く風和ぎ、.. 鑑真が渡来。 列島は扶桑。 扶桑樹 新座市 |
平安時代 |
781年 784年 794年 804年 |
第50代 桓武天皇が即位 長岡京遷都 平安京に遷都 空海入唐し 恵果に師事 |
※ 「私の歴史年表」は、色々な書籍などから 私の関心のある事項を抜き出して
自分用に適当に編集したものがベース。
その上に、「古代史の復元 」 から 事象・年度を順次追加して出来上がったものが このページ。
2014年10月10日了 |
宇田川 東 |