2015年 1月21日

   追 補  2015年2月3日 神殿跡の出現 




 
卑弥呼が亡くなった 3世紀後半から、7世紀初め350年間にかけて、「 前方後円墳 」が全国で約 5,200基も造られた。
前方後円墳の広がりは、大和から順次 地方に波及していったのと異なり、
全国一斉に始まった

これは既に、列島を覆う
首長ネットワーク (もの・人・情報の再分配システム) が出来ていて、 
共通のシンボルとして 「前方後円墳」 を採用したことを裏付けている。

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ところで、東国の開拓の歴史 を調べていて、房総半島に
卑弥呼の箸墓古墳(3世紀後半)より古い前方後円墳がある、とわかって驚いた。

3世紀前半の 「 神 門 (ごうど) 5号墳 」 という、ごく初期の纒向型の前方後円墳だ。
(前方後円墳は、纒向の箸墓古墳で形が完成するが、それに先行して纒向で築造された纒向石塚古墳と同じ時期・形式と!)


古墳時代の幕開けとなる前方後円墳が、大和・纒向のほかに 遠く離れた上総の国で造られていた..

まず、
上総に その時代 それを作り出すような大きな勢力が存在していたことに驚いた。
更に、
そこに大和朝廷と強いつながりがある人物が居た、という事実に驚いた。









(1) 「神門(ごうど)5号墳」 は、どのような場所に築造されたのか?


そこは市原市の国分寺台で、養老川が海に流れ込む河口の丘陵地だった。

国分寺台には、縄文遺跡や貝塚も多く、縄文末期には栄えていた。
その後、稲作を取り入れて繁栄していったようだ。
神武天皇時代に、飽富神社が設立(注1)されているので、開拓が始り、地元の縄文人と共に河川の流域の沿って開拓が進んだものと思われる。

(注1) 第2代綏靖天皇元年(AD101年)、神八井耳命(神武天皇の長男)が飽富神社(千葉県袖ケ浦市) を創祀したと伝えられている。






上総の国の中心・市原市には、村田川、養老川、椎津川が流れており、各流域の高台では縄文時代には多くの集落が形成され、人口も多かった。
地域間の交流も盛んだったようで、この地の国分寺台・西広貝塚(縄文後期の初期〜前期)からは、九州の阿高式土器とみられる器が見つかっている。

その後、人々は稲作による開拓をはじめ 弥生時期には人口も増加し、その後 多くの古墳が築造されるようになった。









上総国の中心は、養老川の左手の国分寺台丘陵。

ここには、神門古墳群や稲荷台古墳がある。










     市原市の古墳分布  (発掘いちはらの遺跡 No.4)






国分寺台の地形


神門古墳群 と 国分寺跡、市原市役所、国分尼寺跡


神門古墳群の南の天神台遺跡は縄文遺跡


戸隠神社は山のような感じ。













(2) 神門古墳 に行く



神門古墳はすぐ見つかる、と、大雑把な地図で行ったので 迷ってしまった(笑)
雷電池の横と思っていたが、住宅がずらっと建ち並んでいて 古墳は見当たらなかった。
池の斜面を覆っている住宅の上で発見した。

             後円部と説明版
 

           前方部方向から 後円部を眺める

      前方部から 後円部を眺める        後円部から 前方部方向を眺める





















神門古墳は 古い順に
5号墳 → 4号墳 → 3号墳

まるで、前方後円墳の遷り変わり を目の前にしてるようだが、
ここは大和の纒向ではない。




3号墳、4号墳は 造成され住宅地になっていた。








  国分寺台で出土した 近畿地方、北陸地方、東海地方 の特色を持つ土器
     (市原市埋蔵文化財調査センターにて)











(3) 神門古墳に祀られているのは誰か? 古墳の由来はどうなのか?


これは、非常に気になった。
で、神話伝承に手がかりはないか 「古代史の復元」に訊ねてみた。



親切な返事をいただいたが、要約すると、

 
・この古墳に関連する伝承は見つかりませんでした

・古墳が築造された
3世紀前半は、第9代 開化天皇の時代(214年〜244年)で、卑弥呼が天照大神(=饒速日尊=大物主神)の祭祀体制を強化した時期にあたります。
  215年に @天照大神を
調神社(武蔵)に祭り、A日御崎神社島上に神殿造営をさせ、B纏向の宮殿内に天照大神・倭大国魂神を祀っています。 (注1)
  従って、同時期、卑弥呼が上総の国の祭祀強化のために
特別な祭祀者を派遣したと考えられます。

・神門 5号墳のすぐそばに
戸隠神社があり、祭神は思兼命、 天手力雄命、 表春命で天の岩戸に関係する神々です。
  (上総国分寺が神門古墳を避けて作られていることは、飛鳥時代まで、この人物の祭祀の影響が残っていたと思われます。)

・古墳の位置から、
冬至の日の出方向に、この周辺では標高がもっとも高い権現の森自然公園(173m)があります。
  (古墳からこの山が見えるのかどうかわかりませんが、「冬至の日」の日の出位置がこの山頂である可能性があります。)

・この頃の祭祀は稲作とつながっており、日の出の位置から農作業の時期を判断していました。
  (卑弥呼の時代には、その基準が立春の日になっていたが、神門5号墳はまだ冬至の日が基準のように思われます。)

  以上のことは短期間に調べたもので勘違いがあるかもしれません。 ご了承願います。


注1:その後、おそらく崇神6年(247年)に、崇神天皇の皇女豊鍬入姫に天照大神は託され、祭祀は場所を変えながら伊勢神宮の地に移った。




確かに、神門古墳の隣には戸隠神社がある。
戸隠と神門は、 誰も気にしていないが 天岩戸の神話を想起させる。


戸隠山は、二度とアマテラスに見つからないように、天岩戸を高天原から落とし、 隠した為に出来た山だ。
神門は、鳥居の意味で、アマテラスを天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」に因み、神前に置いた鶏の止まり木が起源。









(4)戸隠神社



祭神は、思兼命、天手力雄命、表春命で、天平12年(740年)8月初酉の日の鎮座で、信州戸隠大神の垂跡といわれている。
しかし、これは卑弥呼から500年ほど後の世のことで、国分寺造営にからんだ創建伝承のようである。

それ以前(215年頃)は、
卑弥呼によって派遣された祭祀者は、この小さな山を戸隠山(=天の岩戸)と見立てて アマテラスの祭祀を行っていたように感じる。
戸隠神社の前の土地が、何故か神門と呼ばれ、そこに祭祀者の神門古墳が築造されているのも その為だろう。


約500年後、仏教の世の中になり、ここに国分寺を建立する際、祭祀者と戸隠山(=天の岩戸)のアマテラス祭祀の記憶がまだ残っていた。
そこで、国分寺造営の妨げにならないよう 信州戸隠神社を勧請して祀り直したのだろう。 (平安時代には上総国の初代の総社になっている。)


         雷電池から戸隠神社を望む  神門5号墳の前方部から 戸隠神社を望む。 建物が無ければ..







戸隠神社は とても神さびた神社だった。

台地の下から、坂道を上がり、参道入り口からは長い階段で上がっていった。

      「総社 戸隠神社」の看板が建っている。

             急な階段の上に鳥居が

    更に階段が続く。 鳥居の額は「総社」               簡素な戸隠神社


頂上は広場になっていて、境内には、その他 浅間大神、祓戸大神、金刀比羅宮、稲荷大明神、天神宮などが祀られている。


平地からは、小高い独立峰のように望めるが、神社からは木々が茂っていて眺望がきかない。
木々の隙間から隣の雷電池を。
また、参道階段 途中の踊り場から下の平野を望んだ。


           隣接する雷電池を                 階段の途中から





戸隠神社は清涼な気に満ちていて、古来からの信仰の地にふさわしい感じを受けた。







(5) 上空から俯瞰すると


戸隠神社と神門古墳はセットで考えるもの、と直感した。





そして、冬至の日に 太陽が権現山・山頂から昇るのを仰ぐ地であれば 更に良い、と。
冬至の日の出は、真北から東回りで118度で、確かに権現山頂から太陽が上がる。








しかし、
訪問した日(2015年1月21日)は、小雨が時折降る 寒く曇った日だった。
神門古墳の上から 権現山頂が望めるか否か は曇っていて判別不能だった。







(ダイビング用の水中コンパスを、ゲージから外して持って行ったが、
 赤ラインが示す権現山方向が...曇っていて..)
                 墳丘の上で




市原市埋蔵文化財調査センターで、職員の方に、 神門古墳と戸隠神社の関係を述べた資料があるか尋ねたが、無い、とのことだった。
戸隠神社の調査資料も無いとのことだった。


神門という特異な地名の云われも、考えたことが無いようだった。
発掘された土器や、国府の所在地の特定などには詳しかったが、神話伝承まで手が回らないようだった。







実際に神門古墳と戸隠神社をまわって、
その地形と 風土の香り匂いを全身で感じてみて、 
やはり 卑弥呼から派遣された祭祀者が この地で 人々の豊穣と繁栄を神に祈っていたのだな、と感じた。





           ー 了 −


 − 追補に飛ぶ −








上総国分寺と国分寺台の遺跡など




神門古墳と戸隠神社を廻り終えて、周辺の他の遺跡へ向かった。


(1) 国分寺


   神門古墳の隣に位置している。  遺跡は広い芝地に。


              入り口


          仁王門から薬師堂を望む        七重塔などの伽藍 (市役所にあった模型) 






(2)国分尼寺


中門,回廊が復元されている。


            中門と回廊                    回廊





(3)稲荷台1号墳


5世紀中頃〜後半。
「王賜」 銘鉄剣が出土したことで有名。


    道路の中央分離帯に鉄剣をかたどったモニュメントが





(4)市原市役所と 更級日記



「更級日記」は、上総の国府に任官していた菅原孝標の娘の旅日記。

寛仁4年(1020)9月3日、13歳の少女は任期が終了した父について、上総の国府を旅立つ。












 < 追 補 >  2015年2月3日


 
神門5号墳の説明板に記されていた、

また、遺跡群の中心となる中台(なかで)遺跡(上総国分僧寺跡下層)では、政祭の場と推定されている 神殿風の掘立柱建物跡 も発見されています 』  

が気になり 調べた。  「
掘立柱建物3196号」がそれだった。  




AD215年頃、 大和・纒向のヒミコによって上総国に派遣された祭祀者が、 アマテラスを祀っていた神殿跡 が出て来たのだ。




神殿の概要 


中台遺跡では、竪穴建築物が120棟見つかっており、掘立柱建物は1棟だけ 見つかっている。
神殿とみられ、 (溝2416)で囲われており、特別な領域とされている。

 「「いちはら埋文講座」の展示資料から


伊勢神宮の「神明造」の正殿に似た神殿の規模は、1間 x 3間 梁間6.2m。 面積 50.8u の大型建物だった。 
(この遺跡では、隣接未発掘箇所があり、残りの建物が見つかる可能性も残っている。)



   <参考>  纒向遺跡の大型建物復元CG と 皇大神宮(内宮)




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神殿が見つかった場所


中台遺跡のうち、西辺遺跡群で、国分寺の北西にあたる。(現・市立惣社幼稚園の前あたり)



神殿跡 (掘立柱建物3196号)


祭祀者居宅 と記したのは、「竪穴1365」で、
他の住居を圧倒する規模のため そう推定した。
( 規模は、9m x 7.8m の長楕円形 )








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各地からの来訪者、移住者


国分寺台では、在地系の土器に混じって、各地からの土器が出土している。
伊勢・三河系、 東海西部系、 北陸南西部系、 畿内系 など。

畿内系は、ヒミコが派遣した祭祀者と共に 移住して来た集団のものと思われる。
開拓や農業や諸々の先端技術を持った集団だろう。


在地系ではない土器の分散状況は下図のよう


移住して来た人たちも居れば、
神門5号墳の祭祀者の葬儀に参加しに来た人たちもいるだろう。
祭祀者の葬儀は、これらの各地や東日本からの人々が集まって盛大に行われた、
と考えられる。







土器の分散状況は左図のよう

A谷の南北は 畿内

B谷北陸

C谷東海系













報告書から(各地からの交流)



市原市埋蔵文化財調査センター調査報告書  「24 市原市中台遺跡」 から


第5章  総括
 第4節 弥生時代後期から古墳時時代前期の遺構変遷
      (2) 弥生時代終末期   P578、579










特記事項


(1)遺跡の方位の特徴

 @神門5号墳
  ・主軸方位は、(北から東回り) 60度で、夏至(6/21)に太陽が上がる方角。
  ・また、冬至の日(12/28、118度)には、太陽が権現山の頂から上がるのを見れる位置にある。(未確認)
  ・立春の日(2/4、110度)の、太陽が何処から上がるかは不明。

   ※冬至は古代では新年の日で、新しい太陽が昇る日(一陽来復)。
     立春は古代では農耕の起算日で、祭祀者が重視していた日。


 A神殿
  ・主軸方位は42度。 戸隠神社の小山を向いているようだが未確認。




(2)神門古墳群の謎 : どの古墳も「三種の神器」のうち「 鏡 」を持たないのは何故か?

 私の回答
 @古墳に埋葬されたのは在地の首長ではなく、ヒミコから派遣された アマテラスを祀る特別な祭祀者
  「アマテラスの象徴の鏡」は 神殿に祀っておくもので、祭祀者と一緒にアマテラスを持って行くことは出来ない。

 A埋葬地は神門という、天岩戸の神門前であり、ここにはアマテラスの鏡は埋葬できない。
  天岩戸(=戸隠山=戸隠神社)の地なら 鏡を納められる。









最後に 地図ばかしじゃ 飽きちゃうので 航空写真で地形を

A谷、B谷、C谷もアバウトに書き込んでみた。



  ベッドタウン開発で、一面に住宅が建ち並ぶ 前のもの    (いちはら埋文講座 展示解説シートから)






<中台遺跡 講座資料>

@平成26年度 いちはら埋文講座  第3回 邪馬台国時代のいちはら 「中台遺跡と神門古墳群」
  展示解説シートPDFがこのページからダウンロードできます。 

Aオヤコフンさんの講座参加レポートで、当日の内容が簡潔・要領よくまとめられています。




                 ー   追補 完了  −




<後 記> 

上総国は、まさに 「 西の纒向  東の市原 」 で驚いた。

「古代史の復元」の伴さんの
” 第9代開化天皇の時代(214年〜244年)に、卑弥呼が天照大神の祭祀を強化したが、上総国の祭祀強化のために特別な祭祀者を派遣した ” 説に従ってみると、
特段の違和感・矛盾もなく、すんなり 神門5号墳が纒向石塚古墳と同時代に造られたことや、神殿の存在や、近畿地方の土器の出現 などの不思議も得心出来た。
これにより紀年の重要性を深く感じた。 また、戸隠神社の指摘では、神話伝承を無視してはならないことを教訓とした。

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760年代に碩学・淡海三船によって撰進された天皇の諡号は奥深く、「名は体をあらわす」 を感じる。
第9代開化天皇は、「文明開化」の治世で、世が開けて文化が進んだ、という事績が称揚されたおくり名。
実際に、地方への 天照大神の祭祀と開拓 が進んでおり、今回 神門5号墳を調べていて実感した。

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今回判明したのは、卑弥呼が行った、大和朝廷による 纒向から市原への天孫降臨 」 だった。
古事記 (池澤夏樹 新訳 P107) では、ホノニニギが高天原から豊葦原水穂国に降りる際に、

「 そこで天の岩屋戸でアマテラスを誘い出すのに使われた八尺の勾玉、鏡、草那芸の剣を手渡し、
更に オモイカネとタジカラヲ、そして 天石門別神(アメのイハト・ワケのカミ) の三人の神を同行させるとして アマテラスが言うにはー
この鏡をそのまま私の魂と思って、私の前で拝むように大事に祀りなさい。
 オモイカネはこれまでの経緯を踏まえて政務を執り行いなさい
』 と言った。」


何故 戸隠神社(祭神:思兼命、天手力雄命、表春命)であり、 何故 鏡が埋められなかったか は、これが天孫降臨の地方バージョンと考えることで明らかになる。
卑弥呼が派遣した 有力なアマテラスの祭祀者は、オモイカネ(思兼命)の一族(阿智族)かも知れない。   (2015..2.24追記)

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卑弥呼が派遣した祭祀者の時代には 「天の岩屋戸」と呼ばれていたのだろう。
後世、国分寺造営の際に畏れ多いので「戸隠神社」に改称したと思う。
天の真名井」、「天の岩屋戸」神社と 何か卑弥呼との縁を感じる。 (2015.02.26追記)



 ※2015年3月28日 神門5号墳 その後 』 を まとめました。 


 ※2015年9月12日 沼津市で3世紀前半の 高尾山古墳 (大規模な前方後方墳) が発見され、その感想を書きました。


 ※2015年9月25日  前方後円墳の形状について 感想を書きました。



   

2015年01月25日了

 宇田川 東

 



  <参考> 国分寺台の古墳めぐりマップ (「房総の古墳を歩く」  芝山町立芝山古墳・はにわ博物館友の会 発行 から)


リンク 私の歴史年表 このページの紀年は、この私の歴史年表に拠っている。
古代史の復元 神話伝承が極力真実を伝えていると仮定し、探索した伝承を元に古代史を復元
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