2016年4月6日
追加: ニギハヤヒ命のご陵を発見する! 2016年5月22日
卑弥呼の宮殿の配置は、 東西の軸上 (5度傾いている)に、計画的に建物(A〜D)が配置されている。
これらは次のように考えられている。 A: 衛兵の駐在所 柵の外で、高床の建物ではない。 ― 柵列で囲まれた 内陣エリアには ―、 B: 宝物殿 C: 神殿 D: 宮殿 卑弥呼が生活し、指示・お告げを伝えた場所。 E: 柱列の一部 が発掘され、建物Eの一部? と推測されている。 縮尺: 中央上部の縮尺・黒太線は、10m |
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建物のイメージ図 は
イメージ図 A | イメージ図 B |
更に大胆な 宮殿内の想定図もある。
建物の配置には、方位などの要素がからんでいる、と考えている。 しかし、建物内部は 別空間の結界内であるので、鏡をどこに祀るか、などは方位に関係ない。 |
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後世の神社の配置図の原型のようにも思われる
考察ー1: 神殿に祀られていたのは どのような神々であったのか?
卑弥呼は、世の中に恵みをもたらす 太陽を祭祀 していたが、 次の神々も祀っていた。
■ 二柱の神々で、「天照大神 」と「 倭大国魂 」。
・ 天照大神 は、日向の ムカツヒメ (彼女の孫が日向から大和に入り神武天皇となる) であり、
・ 倭大国魂 は、出雲の ニギハヤヒ (=オオモノヌシ=卑弥呼の夫: 最初に大和に入り建国したスサノオの子)である。
倭の大乱の和平・収束の結果、日向系・出雲系の それぞれの 祖神 を祀っている。
■ 時期は、
第9代開化天皇(214年〜244年)の開化6年(AD217年)と考えられている。(古代史の復元)
この時期、卑弥呼は天照大神の祭祀を強化し、調神社(武蔵)に祀り、日御崎神社島上に神殿を造営し、上総の国に特別な祭祀者を派遣、などをしている。
■その後、
第10代崇神天皇(244年〜278年)の時代に、二柱の神は祭祀者を定めて 宮殿外に出た。
・倭大国魂 は、大田々根子 に託され、大神神社に祀られた(248年)。
・天照大神 は、崇神天皇の皇女豊鍬入姫 に託され(247年)、場所を移動しながら、第11代垂仁天皇の時代に皇女倭姫により伊勢 (※1) に祀られた(290年)。
※1: 天照大神(あまてらすおおみかみ)は、 天照坐皇大御神( あまてらします すめおおみかみ) の略であるが、
そのフルネームは 撞賢木巌之御魂天疎向津姫命 (つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめ のみこと)
考察ー2: 神殿の機能とは
卑弥呼は、鬼道 をよくするシャーマン(※1)として、
天候の不順や 疫病の流行、国内・海外の治安 など 多くの事柄について 判断を下していた と思われる。
その 吉凶・可否 の占いの場が、神殿であった。
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シャーマン的予知・透視能力は、SF「デューン/砂の惑星」で、ヴィジョンという言葉で使われ、メランジと呼ばれるスパイスの力がその源泉になっている。
コリン・ウィルソンも、シャーマンが見通すことを、ヴィジョンという言葉で語っている。
ヴィジョンは、深く考えていると向こうから姿を現わして来るもので、そのトランスに入る道具は、SFのメランジに限らず、日本では密教に色々あるようだ。
卑弥呼が、ヴィジョンを得るためにトランスに入る道具は 何だったのだろう?
※1: 魏志倭人伝に 「事鬼道 能惑衆」 ”鬼道によって人心を掌握し” とある。
考察ー3: 卑弥呼の死の原因については、色々取り沙汰されているようだが..
宮殿の復元イメージ図を見ると、卑弥呼の死の原因が想像できる。
建物の構造からして、宮殿から神殿への行き来の際に、きざはし(階段)で足を滑らせた事故死、 という解釈(※1)が一番素直にうなづける。
当時、卑弥呼は高齢(83歳)であり、行き来は難儀であったと思われる。
きざはし(橋)から落ちた事故の 『 橋 から転げ落ちて亡くなった 』、が ⇒ 神話の中では 『 箸 でホト(女陰)をついて亡くなった 』、に転じたのだろう。
橋、端、箸 って 言い違え遊びもあったっけw
※1 古代史の復元は、卑弥呼の死因について橋から落ちた事故死説をとっている。
≪神話では≫ 日本書紀の神話の中では、モモソヒメ(卑弥呼)が亡くなり、人々が彼女の墓を造るに際し、
三輪山の神は、(宮殿生活の時のように夜に現れて)、妻のご陵の築造に手を貸している。
ということは、(神話では、) 妻の死を悼んでおり、意図したことではない「事故死」だったことになっている。
考察ー4 : 宝物殿に収められていたのは?
ヤマト朝廷が管理し、地方の首長たちに配布した重要な宝物には、「 画文帯神獣鏡/三角縁神獣鏡 」 と 「 朱(水銀朱)」がある。
朱は、保存・運搬に 「朱壺」 が利用された。
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朱の使用は古く、縄文時代早期には施朱が確認されている。
古代中国では神仙薬の主成分であり、朱には血液と同じ生命を維持・回復させる 呪力 があると信じられた。
シャーマン卑弥呼は、前方後円墳・前方後方墳の祭祀に、施朱 を導入した。
埋葬者の頭胸部へは水銀朱が散布され、石室内はベンガラで赤く塗装された。
(産地)
縄文時代には三重県森添遺跡、弥生&古墳時代には 徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡が知られており、
後者は卑弥呼の時代に枯渇し、彼女は各地を探したものと推測している。
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・魏志倭人伝に、 「其山有丹」 と記されている。
・原料の辰砂は、三重県伊勢丹生水銀、奈良県大和宇陀水銀、徳島県水井水銀、大分県豊後丹生水銀
と 何故か中央構造線上に 発見されている。
・関東では、安房に採掘跡が見つかっている。
2014年2月6日の産経新聞によると、纒向遺跡の宮殿エリア内の東側で、新たな建物群が見つかった、と。
これを建物 Fとする。
規模は、東西 3.4m、南北6.7m。 直径15〜20cmの柱が使われていた。 規模が小さい。 神門(鳥居) なのか、 それを兼ねた「 太陽の観測施設 」 なのか? |
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建物D と F の間には、JR桜井線が走っていたり、民家が建っているので
建物跡の確認は出来ない。
更に建物が存在することも 十分に有り得る。
2016年 1月12日(火)
『箸墓古墳』 2015/10/20発行 学生社 大阪府立弥生文化博物館 編集 を読んだ。
( 2014年3月25日〜30日迄 開催された講演会内容を発刊したもので、箸墓については最新の出版物
)
1 纒向王宮と箸中山古墳(箸塚) 石野博信 P14,、P15から
(1)建物群の軸を 西に伸ばすと、纒向石塚古墳 の墳頂部〜 矢塚古墳の墳頂部を通る。
これら古墳が、そのように築造された、と。
(2)宮殿から 南北の軸上 には、南軸には 箸墓古墳 が築造されている。
宮殿(大型建物D)の柱群跡から、南方向の写真 |
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2016年3月24日(木)
考察ー5 祭祀都市 纒向の規模を見ると 『太陽の運行の観測施設』 が無くては不自然と感じる。
そこで卑弥呼の宮殿エリアにあると思われる、太陽の観測施設 を考えた。
卑弥呼は、魏からの新技術の導入に熱心であった。
古代の測天儀器 「圭表 」(けいひょう )が設置されていたのは間違いない。
石造りの土台跡などが出れば嬉しい。
圭表 は、南中(正中)の太陽高を測る、日時計の一種のシンプルな測定器。 一番日影が長くなる 冬至や 一番短くなる 夏至を正確に観測し、 また 立春、春分 などを測定 するために用いられた。 |
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宮殿エリアの何処かに、圭表 の遺構が残っているだろう。 これほど立派ではないにしろ.. <メ モ> 圭表のサイズは時代によって異なるが、高さ8尺(約2.4m)が主流。 従って、高さ 2.4m x 長さ 4.5m を上回る L字スペースが確保されればよい。 建物( 殻舎 )内の設置では、日光を導入する天窓を はね揚げる構造にする。 床の 南北5mほどの圭盤は、石床にする。 |
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←江戸幕府の浅草の司天台 (してんだい)に設置された 圭表を収めた殻舎の図 (「飛鳥時代の天文学」 斉藤国治 河出書房新社 1982/7/10 P130 より) 精度を高めるため、、3丈(9m)の表を設置した為に、建屋から突き抜けている。 また、影は、天窓を開けることで屋内で観測する。 更に、影の焦点を明確にする様々な工夫が凝らされている。 卑弥呼の圭表は、標準の 高さ2.4mなので 屋内に収容でき、 その観測所は この図のような基本構造と推測する。 (圭表は、太陽の影が明察出来るように 暗い屋内に設置される) |
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現在、纒向の宮殿エリアは、一部が発掘されただけで全貌はこれからである。
それまでは、建物A〜Fだけで 想像を逞しくして 遊ぶことになる。
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すると、
建物AとFは 連動 しており、
建物Aが、太陽の運行の南中観測所(殻舎)であり、
建物Fが、宮殿への神門で、その二階が、山々から朝 昇る太陽の位置を観測する場所、 と 考えることが出来る。
( 東端の 太陽の観測所と、西端の 太陽の影の観測所 の双方 が設置された。)
現時点での、太陽の観測施設の 可能性を 特段の違和感なしに 確認 した。
卑弥呼は、太陽の南中の測定によって、 冬至や立春の日を 確定した。
その特別な日には、 三輪山や連なる山々の頂から昇る太陽を礼拝した。
朝昇る太陽、南中の太陽、日没の太陽に。
卑弥呼は 日の巫女(日霊女) なのだから。
参考@ : 天文学史教材としての天体観測儀器 3DCG 復元(4) 古観測機器「圭表」
参考A : 中国の「圭表」の考察 : 東西、南北の方向の定め方、など興味深い。
< 考察ー5 後 記 > 2016/04/06 建物A はその後の発掘で 無いことが判明。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 桜井市纒向学研究センター の 刊行物ダウンロード の 纒向遺跡発掘調査概要報告書(PDF) 2013年5月31日 (埋蔵文化財発掘調査報告書 第40集) から @AB 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 @ C.その他の遺構と遺物 井戸 (SK-3001A・SK-3001B) P24 建物Aは、かつては想定されていたが、遺構は存在しなかったことが判明。 そのかわり、直径約2mの井戸が見つかり、また、幅1m程の浅い溝が接続しており、 柱穴も多数あるので (屋根で覆われた井戸か?) 重要な意味を持つ遺構の可能性もあり。 とで楽しみだ。 ⇒ 儀式で使われた井戸であれば、天の真名井・天の安の河 ではないか? A 関心を引いたのは、建物E P28 ( 参照: ページ・タイトル下の 発掘地図 )
B 宮殿Dの柵の外ー南側には、モモ・スモモの林が広がっていた事が推定されている。 P28 これらの実は 卑弥呼が祭祀に使用したと考えられている。 ⇒ シャーマン卑弥呼の鬼道では、メランジのように 桃 が使用されていたのか? ※纏向遺跡からは、薬用のバジルの花粉、染料の大量のベニバナの花粉が出土し、他には例がない。 |
考察ー6 宮殿の建物の配置が、 東西のラインから 5度ずれているのは何故か?
未解決 東西ラインの確定は、インディアン・サークル法などもあり、縄文時代からのノウハウで 易しいことと思われる。 この1800年間(宮殿完成217年〜今年)に、東西軸が5度ずれていなければ、ズレは 意図的なもの であろう 宮殿遺跡は微高地に立地しているので、土地利用上の制約かと思い、報告書P8 を見た。 土地利用的には、東西ラインから南に傾く方が都合良いのに、逆方向に5度傾いている。 やはり意図的だ。 (私見) このラインは、卑弥呼が鬼道で定めたものなので、解釈には 鬼道が理解出来る ことが要求される。 ん! どうしよう.... |
(2016/4/10) 卑弥呼の宮殿の傾きを推理する .. ニギハヤヒ命のご陵を発見する!
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(初出 2016/1/12、 2016/3/24) |
2016年 4月 6日了 |
宇田川 東 |
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古代史の復元 | 神話伝承が極力真実を伝えていると仮定し古代史を復元 |