卑弥呼の宮殿ラインの傾きを 推理する
そして、.. ニギハヤヒ命のご陵を発見する!
地図とコンパス と、卑弥呼の考えを推察する努力により 残された謎に挑戦することにした。
(注: 建物群の東西軸からのズレを 5度と記してるが、報告書は B,C,D建物の向きは、東西軸から4〜5度となっている。)
仮説(1)
まず、宮殿軸ラインを延長した先には、何が見つかるか、を調べた。
・東方向の、三輪山から続く山々には 特徴のある峰や古社は無い。
・西方向に延長すると 二上山 がある。
卑弥呼は二上山に向けて基軸ラインを設定したのだろうか?
日本書紀には、モモソヒメの墓造りで、”大坂山から人々が並んで手送りで石を運んだ”とあり、この大坂山(※1)は二上山と思われるようだ。
箸墓後円部・頂上出土の石室用材の破片(カンラン石玄武岩)は二上山北の芝山産(芝山火山岩)と確定されており、
この方面は卑弥呼と関係が深いようだ。
宮殿跡 ー 二上山頂は、北(0度)から東まわりで 261.4度。 東西の水平ラインからは、 270度 - 261.4度 = 8.6度傾いている。 この方位が日没になる日は、2月28日、29日だった。(2016年度) 一方、 5度傾きの宮殿軸をそのまま延長した方位 265度が日没になる日は、 3月8日、9日だった。 (注: コンパス中心の青い枠内が、二上山頂をポイントした値) ※1 現在、大坂山は二上山麓の香芝市 逢坂と考えられている。 地図では香芝市役所の北西数百mあたり。 |
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しかし、西は太陽が沈む方向で、西への信仰はこの時代にはあったのだろうか? ...で、思い出した。
卑弥呼がアマテラスの祭祀を広めたなかに、日御碕j神社島上に神殿を造営しアマテラスを祀ったが、そこは海に太陽が沈む地で、日沈宮と呼ばれている。
三輪山が 日が昇る地 で、二上山が 日が沈む地 と仮定してみることにした、
その場合、二上山には アマテラスを祀る伝承や神社があるはずだが、二上山神社には天照大神は祀られていなく、二上山とアマテラスは関係が無かった。
更に、宮殿ー二上山のラインは、東西ラインからの傾きが8..6度で、宮殿軸ラインの 5度の傾きより大きく、微妙に違うな、の感触がある。
これらにより、仮説(1)の 「宮殿軸ラインは二上山を向いて」、はボツにした。
仮説(2)
太陽が沈む話で思い出したのが、三輪山麓(最初の元伊勢・笠縫の邑)檜原神社で、ここの鳥居から二上山に落ちる夕日がビュースポットとして有名と。
そこで、三輪山と二上山を結ぶラインは、東西軸に対してどうなのだろう、と測ってみた。
三輪山 ー 二上山は、北(0度)から東まわりで 266.7度。 東西の水平ラインからは、 270度 - 266.7度 = 3.3度傾いている。 この方位が日没になる日は、3月11日、12日で、 春分の日(3月20日)の少し手前だった。 (注: 1回目の測定では266.9だったが、測り直したら266.7度) |
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東西の水平ラインから、約3.3度のズレだった。
これで決まりだ。 私は勘違いしていた。
卑弥呼は、奈良盆地の東西で向かい合っている特徴のある両山について、
三輪山と二上山を結ぶラインが、地霊のライン で、ヤマトの国を支えている、と鬼道により 察したのだ。 (※1 追加)
このラインを神聖な 地軸ライン として、宮殿施設の建設―纒向の祭祀都市づくり の根幹に据えたのだ。
地霊に抗うことなく、地が鎮まるようにと、纒向の地に この傾きの(地霊)ラインを採用し、地霊を祀り、その線上に神聖な建物を築いた。
三輪山と二上山雄岳との ライン長は 17.56キロ。 |
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※1 三輪山の神は大物主神(=ニギハヤヒ)であり、二上山・雄岳山頂の葛木坐二上神社は、(豊布都霊神と)大国魂神(=ニギハヤヒ)が祀られている。
ヤマトの国を守護する地霊ラインは、ニギハヤヒのラインであった。 (2016年5月17日追加)
結論は、
太陽のラインではなく、その土地土地に固有の、地霊(地脈・地神)のラインを鬼道により推し測って、活用したのだった。
これが、東西を結ぶラインから 5度ズレた原因だった。
(2016年04月10日)
追 記 2016年 5月 9日
以前は、箸墓古墳の主軸の傾きの意味が分からなかった。 (前方後円墳の形状と 箸墓古墳の謎を推理する 追記ー2 )
今回、宮殿のラインの意味が判明したので、箸墓古墳の向きを そこに併せてみた。
宮殿の地軸ラインは、龍王山の小さな峰に突き当たっている。 そこに神社は無い。
そして箸墓古墳は、主軸ラインの延長が その小さな峰を指すように築造されている。
その地を、箸墓の卑弥呼が守護しているようにも感じられる。
祭祀都市・纒向の地軸ラインの起点 の地は、 卑弥呼の鬼道では、重要視されており、 古代では 特別な神聖な地だったと思われる。 |
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卑弥呼の時代には、神聖視されていた この小さな峰には 祭祀場 が設けられていただろう。
纒向の時代が終わり、宮殿の建物群が解体された時、祭祀場も同時に解体されたと思う。
2016年 5月 11日
私は大発見をしたのかも知れない!
箸墓の中心軸の謎が解けたことを、「古代史の復元」に取り組んでいる伴さんに伝えたところ
大変 興奮した返事が届いた。(2016年5月10日)
『 これは大発見ですね。 三輪山の真北1.5kmにある標高409mの峰が該当します。 巻向遺跡の宮殿の中心線のみだと 日の出との関係が考えられますが、その方向に箸墓の中心軸が向いているとなれば、 この峰が何か神聖なものになっている、ということを示しています。 私も調べてみますと、崇神天皇陵も中心軸がこの峰を向いているようです。 当時の神聖な施設3つまでが、この峰の方向を向いているとなれば、この峰には絶対何かがあるはずです。 〜略〜 』 |
私も驚いて 崇神天皇陵の中心軸を伸ばして確認した。
宮殿の方向軸、箸墓古墳の中心軸、崇神天皇陵の中心軸ー 古墳時代の始まりを告げる3つの施設が、皆 同じ峰を指している。
とてもフツウでないことは確かだ。
この峰は、纒向 (宮殿施設など) を守護する地軸ライン起点の聖地、と考えているが、 峰そのものに 神聖視される別の理由があり、 そのために宮殿の地軸ラインの起点とされた、のかもしれない。 三輪山と向い合う位置、というのも 何かを暗示しているようで気になる。 |
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卑弥呼の鬼道により ここまで導かれて来たが、更に深いものが出てきそうな予感がする。
2016年 5月 14日
宮殿、箸墓、崇神天皇陵 が向かっている 龍王山(586m)の小さな峰は (地図に名称記載が無いが)、穴師山(409m)だった。
箸墓古墳の中心線上に、穴師坐兵主神社が、その延長線上に穴師山が位置していることは、古くから知られていることもわかった。
穴師山は、山頂部分が お椀をふせた上が尖った、特徴ある姿をしてる。
山頂部手前に 「ゲシノオオダイラ、夏至の大平」と 呼ばれる台地があり、その上に頂上がある。 昔の記録では、 山頂部の方向に葺石とおぼしき砕石状の同じ様な大きさの小石が密集していた。 |
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中央の峰が穴師山 |
何故、初期のヤマト王朝はこの峰を崇敬したのか?
卑弥呼が最も重要視していたことを考えると、頂上には 「 ニギハヤヒ命 (饒速日命) のご陵 」 があるのではないか?
頂上は広場の上に円墳が載った形、と思われるが、それらはご陵として整備されものではないか?
伴さんは 大発見、といわれたが、同時に、もしかして ニギハヤヒ※ のご陵かも?、とも。
私も、この大胆な仮説で整理してみたが、特に違和感は感じなかった。
※ニギハヤヒ=大物主神で、その妻となる儀式により卑弥呼は誕生
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西暦65年頃。 ニギハヤヒは死す。
( 83年 日向を出た神武天皇(狭野命)が 大和に入り即位 → 統一政権・大和朝廷が誕生 )
ニギハヤヒの遺体が何処に葬られたのかは、記録には無い。
遺体は天上に上げられた、とだけ書かれている。
そのため、ニギハヤヒが好んでいた 三輪山の山頂の奥津磐座 では、と推測されている。 (「古代史の復元」 ニギハヤヒの死 三輪山信仰の始まり )
神殿で祀られていた一方の神は 「ヤマトの国の魂」と讃えられていた「倭大国魂」=ニギハヤヒであった。
神殿・宮殿の中心軸は、そのニギハヤヒのご陵を向き、その傾きはヤマトの国の地霊ライン。
これが、祭祀都市・纒向の中心軸ラインの本質で、卑弥呼が鬼道により定めた。
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整理すると
@217年頃 卑弥呼は纒向に祭祀都市を建設した。 (第9代開化天皇の6年 217年頃)。
その中心軸は(東西ラインからズレて)最も尊い神のご陵を指し、その傾きは 地霊ラインを踏襲した。 ※別紙 参照
A244年 第9代開化天皇が亡くなり、ご陵(春日率川坂上陵) が奈良市内に築造された。中心軸は遥かな穴師山を向いている。 (約15.6`先) ※別紙 参照
B248年 宮殿に祀られていたニギハヤヒ(=オオモノヌシ)は、大田々根子 に託され、三輪山の大神神社に祀られた。 ヤマト朝廷による三輪山祭祀が始まる。
C249年 卑弥呼が亡くなり 箸墓古墳が築造される。
中心軸方向は、彼女が崇拝したニギハヤヒのご陵を向いて築造された。三輪山では無かった。
D278年 第10代崇神天皇が無くなり、ご陵が築造される。
その中心軸方向は、ニギハヤヒのご陵であった。
漢風諡号の崇神は、「神々を尊崇する」「神々を祭ることを尊ぶ」の意味で、淡海三船はこの天皇の事績をずばりと表した。
その天皇が、(三輪山でなく)穴師山を向いて葬られていることは、重たく、そこが「ヤマトの国の魂」のご陵だからだろう。
穴師山が、ニギハヤヒのご陵の場所である、という伴仮説に賛同した。
最初、ニギハヤヒのご陵にふさわしいのは三輪山しかない、と思っていた。
しかし、調べると山頂の奥津磐座は、高さ1m以下の小ぶりの岩が域内に多数集まった岩群れで、神が天降るにふさわしい場所であっも、ご陵には向いていない。
三輪山登山をした伴さんも、奥津磐座はニギハヤヒの御陵ではない、と感じたと。
理由は、盛り土が全く見当たらず、磐座が神聖なもので祭祀対象であって、ニギハヤヒの御陵でないことは明らか、と。
彼からは、
隣の穴師山がニギハヤヒの御陵としか考えられないが、
ニギハヤヒの御陵であるなら 何か伝承があるはず と思いましたが、明確にそれを示す伝承が見つかりませんでした、と。
2016年5月22日
伴さんからメールが来た。
今回 ニギハヤヒの立場になって考えてみました、と。
『 ニギハヤヒは生前 三輪山を祭祀対象としていました。 亡くなった後、どこに葬られることを望むでしょうか。 @三輪山がよく見える場所。 Aそのご陵から大和平野が一望できる。 Bその地自体も周りの人々から見ることのできる場所 この条件をあてはめると、まさに穴師山となります。 穴師山は ニギハヤヒご陵 と考えてよいでしょう。 〜略〜 後の時代、仏教を広める関係でニギハヤヒの存在が否定され、その影響でこのご陵も忘れ去られたのではないでしょうか。 地方であるならば、中央政権に逆らって崇拝を続けることも出来たかもしれませんが、政権中央と目と鼻の先なのでそれも出来なかったのでしょう。 大和朝廷は、ニギハヤヒ祭祀から目をそらせるために、三輪山祭祀を強化したのではないか、と考えられる節があります。 〜略〜 全く正確(に山頂部分を)ではないにせよ、箸墓、開化天皇陵、崇神天皇陵と この時代の重要古墳がいずれも穴師山頂に近い(峰)方向 を向いているのは偶然ではかたずけられないこと であるのは間違いありません。 穴師山はニギハヤヒの御陵と考えられ、当時としては大変神聖な場所だったはずです。 その方向を正確に向くのは却って畏れ多いことだったのかもしれません。 』 |
私達は 大発見をしてしまった!
【 後 記 (まとめ) 】 2016年5月26日 太陽の祭祀者により、倭国初となる祭祀都市・纒向が建設されることになった。 その基軸ラインは、当然、正しく東西を向くべきはずが、何故か5度ズレている。 その意味を探ることから始まった。 ズレの仮説を立てた後に、ラインの始点をチェックすると、名も知れぬ小さな峰を指していた。 次いで箸墓古墳をチェックすると、その峰を指している ...で、峰そのものが神聖であり 非常に重要な意味がある、と察した。 まさか?、と驚いたのは、開化天皇陵も、遠く離れた峰を重視していたことだった。 発見が終わって、ネットでチェックすると、箸墓や崇神天皇陵が穴師山を向いていることは、本や幾つかのブログで 既に指摘されていることだった。 それらは、穴師山を、山頂から昇る太陽の観測指標 ー 日の出・日読みの地としての重要性を指摘していた。 私たちは、卑弥呼が基軸を5度ズラしたその先の謎で、日読みと関係なく、その峰自体が神聖視されている理由であった。 「ニギハヤヒのご陵」 では、と、 「古代史の復元」 が仮説を立て、発見した。 その峰が穴師山と呼ばれているのは、後でわかったことだった。 卑弥呼の鬼道を読み解くことからはじめて、卑弥呼に導かれて真相に到達したような感じだった。 万葉集に謳われた弓月岳は、竜王山、穴師山、巻向山の説があるが、調べていて 穴師山の山頂部を指すのだろう、と感じた。 あしひきの 山川の瀬の 響(な)るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本人麿 巻07-1088 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音(かはと)高しも 嵐かも疾(と)き 柿本人麿 巻7-1101 天雲に 近く光りて 鳴る神の 見れば恐(かしこ)し 見ねば悲しも 未詳 巻7-1369 |
ご陵の地とは.. (2016年 6月10日)
穴師山は どのような山で、ご陵がある山頂部はどうなっているのか、気になった。
これには、「大和の原像 」 小川光三 1973年1月 大和書房 が参考になった。
実際に穴師山を踏破・調査し 地図・記録を残し、昔在った兵主神社跡も探し出している。 (小川氏は先日 2016/05/30 亡くなられた)
・穴師山は、ご陵のある雄岳と、その北北東180mにある雌岳の ツインピークの峰である。
・雄岳(409m)の真南 約1.5キロ には三輪山頂(467m)が位置している。
施設の向き (まとめ) @纒向の宮殿のラインは、正確にニギハヤヒのご陵(雄岳)を指している。 A開化天皇陵の軸の向きは、穴師山を指しているが、ご陵(雄岳)? かは判別不能。 B箸墓の軸の向きは、正確にニギハヤヒのご陵(雄岳)を指している。 C崇神天皇陵の向きは、穴師山・雌岳を指している。 |
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雄岳の頂上の形が気になる..
私には、 台地上の丘の形が 勾玉を置いた形に見えてしまう。 (勾玉は出雲の象徴)
雄岳の頂上は、もしかすると ご陵の築造に際して、勾玉の形 に造形されたのかもしれない? ( トンデモ説かもしれないが)
自然の偶然の産物だろうが、気にかかる。 三輪山からでないと 形は判別できないが。
X地点は、祭祀地の有力候補地。 そこに櫓を組めば、雄岳(ご陵)・三輪山が重なって見える。 櫓を建てなくても、ご陵の背後に三輪山は感じ取れる Y地点は、宮殿軸を延長した場所で、有力な祭祀地と考えている。 ここに柱鳥居を建てれば、纒向の宮殿から望めるだろう。 スペース的に問題がないか、が気になっている。 (位置情報) 雄岳 34度32分53.34秒 135度52分2.72秒 408.4m 雌岳 34度32分58.42秒 135度52分3.93秒 408.4m ( 雌岳は雄岳から見て北北東180mの位置 ) 兵主神社跡 (ゲシノオオダイラ) 34度32分52.51秒 135度52分0.57秒 (崇神天皇30年 259年 創建) 祭祀地点 X 34度32分54.64秒 135度52分2.50秒 地図は国土地理院 globe → http://maps.gsi.go.jp/globe/index_globe.html |
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上が北。 10m等高線 |
※ 小川光三「大和の原像」は、雄岳・雌岳について
『 山頂にはどちらの峰にも遺跡らしきものは見当たらないが、雄岳には長い間人が近付かなかったためか、一面に雑木が生え茂っている。
雌岳は近年木を切り払ったらしく、小さな苗木が点々とあるのみだが、ここからの眺望はまことにすばらしい。 .. 』 P96
と記している。 ご陵が築造されたのは、当時から1900年以上前のことなので、見て簡単に判明するものではないだろう。
2016年8月5日
穴師山の雄岳は、ニギハヤヒ命のご陵と推定しているが、
山稜を加工して ご陵として築造出来る規模なのか、同じ地図から切り抜いた(同じ縮尺の)箸墓古墳と比較した。
ご陵として十分に築ける大きさだ。 箸墓は平坦な地に、盛土して造りあげたが、 雄岳の方は、山稜を切り崩して形を整えたので、容易だったと思われる。 |
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2016/04/10 記 宇田川 東
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