高麗(こま)の若光による 高麗郡 建郡の意味について(メモ)
高麗の若光について、二つのメモを書き纏めてきたが まだ腑に落ちないことがあった。 欠けていた事柄がわかり、パズルの最後のピースを埋めた。 それは、高麗の若光の入植地と その背後にある意味だった。 |
■新設された高麗郡は、広大な入間郡(※1)西部の無人域を割いて建郡された。
※1:入間郡は、西は飯能市から 東は荒川までを版図としていた。
入間郡には、入間川を挟んで在地の豪族(西側は大伴部直、東側は物部直)の勢力圏があり、雷電塚古墳(6C 前方後円墳)もある。
高麗郡、入間郡の郡家(役所)の位置を調べると、東山道武蔵路を挟んで、両者はわずか7キロしか離れていない。 (※2)
一方、高麗神社と高麗郡家の距離は4キロほども離れていた。
影のエリアが高麗郡の推定地 |
※2:
高麗郡家の位置は、日高市高萩のJR川越線武蔵高萩駅の北側、小畔川左岸に存在する拾石遺跡の地を推定。
入間郡家の位置は、川越市の東武東上線霞ヶ関駅の南側、霞ヶ関遺跡の地を推定。 東に入間川、西に東山道武蔵路が通る地。
■朝廷が、武蔵国の中央の西部に 高麗の若光の一党を送り込んだ意味を再考した。
高句麗の遺民・若光たちは、天皇・朝廷に忠節を誓った、朝廷直属の集団であることに気づいた。
藤原宮建設など、当初から朝廷の使役に係わり、その奉仕に報いるよう 若光には高麗王の姓と従五位下の官位が与えられ、貴族として列せられた。
大感激であったろうし、これが無ければ 一族は異郷の地にバラバラで埋もれて行ったことであろう。
結論は、「若光ら高麗族は、朝廷に直属する人たちである」という視点から、集団入植と建郡を見なければならない。ということ。
・朝廷から見ると、若光ら高麗族は、古来からの葛城、物部、大伴、蘇我などの豪族と違って、色のついていない最後に登場した豪族(氏族)だった。
しがらみがなく 使い勝手のある部族だった。
・そこで、古い豪族が割拠している地域に、クサビを打ち込むように派遣し、周囲を監視する役割をも期待したのであろう。
・在の中小豪族にとっては、中央から朝廷の息のかかった一族が来たわけで、目付のような感じで気持ち悪かったであろう。
高麗の建郡は、朝廷が武蔵の国の中央端へ送り込んだ、影響力・支配力の行使であり、遠くの東国に中央の手を入れる、という政治的理由があった。
若光を始めとし、一族はその後も中央とのパイプを維持し、郡司として朝廷の役割を果していった
後世、一族の中からは、武蔵国の国司を任じられた者も出ている。
全くの想像であるが、 高麗神社の祭壇奥には、高麗家に並んで菊の御紋も祀られているかもしれない。 それが彼らの、倭国における唯一の守り神(庇護者)であるからだ。 |
【 後 記 】 |
2018年9月29日 宇田川東
関連@: 高麗の若光について
A: 高麗の若光の移動について
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