出雲国風土記に出てくる 国引き神話




この神話の出来事は BC30年頃 と考えられている。 (古代史の復元)


三瓶山 と 大山 に綱をかけ、海のかなたの四つの国の余った部分を切り取り・引き寄せ、出雲の国に縫い付けて大きな国にした、という神話だ。
文語体では無く、語りの形式の口語体で、様式化された繰り返しが各詞章に現れ、声に出し読んでいて心地よい。 (※1)









     黄色は 万里の長城建設から逃亡した人々のルート


引き寄せられた四つの国とその先は


@栲衾シラキの三崎 (新羅)     →  ヤホニ キヅキの御崎 (杵築の岬)

A北門の佐伎の国  (隠岐島・道前)   →  狭他の国 (狭田の国)

B北門の波良の国  (隠岐島・道後)   →  闇見の国 

C高志の都都の三崎 (能登半島珠洲) → 三穂の埼 (三保の岬)


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引き寄せられたのは土地であるはずは無く、それぞれの地域の先端技術だろう。
それらの導入により、出雲は大きくなった、ということ。

技術導入とは、当時では それを持った人々を連れてくる、ことだった。


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能登からは、それ以北の地からも含めた 縄文の(土器製造などの)先端技術だったのだろう。
隠岐島からは、その立地から 航海技術の導入だろうか? 黒曜石の産地でもあるので、それもあるかも。
新羅からは、何の技術を導入したのだろう?
 水稲技術は、九州北部・半島南部といった倭の領域から、半島を北上して伝播したことが判明しているので違う。



新羅は立地的には、大陸文化の最果ての地であり、列島・縄文文化の最果ての地、という双方の文化圏からの辺境の地で、文化的に貧弱な地だ。
倭人も住んでいるし、現地人や中国からの人々も住んでいる雑居の地。
中国の各文献では、秦の始皇帝の万里の長城建設(BC221〜BC210)に大動員された人々が、秦滅亡の混乱期に逃亡して、半島南部に住みついた地、と。


で、気付いた。
万里の長城建設に使役されていた時に得た 測量を伴う土木技術が、この逃亡先の地で継承されていたのだろう、と。

出雲が当時必要とした技術は、灌漑や池の築堤などの先端土木技術だったのだろう。



(後に新羅がこの地で建国されるのは、AD145年で、当時の倭国の領域内でだった。)





※1 参考: 「風土記の世界」 三浦佑之 岩波新書 2016.4.20 P134