沼津市 高尾山古墳 (3C前半・前方後方墳) 雑感

                                2015年9月10日 : 追加 2016年2月24日


  追補 2016年 2月15日  高尾山古墳の被葬者が特定された ?

  参考 吉備の特殊器台




2015年09月10日(木)


大雨で暇だったので 沼津で発見された前方後方墳ー高尾山古墳 の記事を読み直した。 → 日経新聞 2015/5/27

纒向の卑弥呼の箸墓古墳より古い。 
しかし、神門5号墳のような謎は感じられない。





墳長62メートル

古墳出現期の東国では 巨大な墓。







← 高尾山古墳ガイドブック(沼津市教育委員会)より



高尾山古墳は、沼津市教育委員会によると (230年ごろ築造)、250年ごろ埋葬 スルガの王の墓と。
これは、第9代開化天皇(214年〜244年)の世で卑弥呼の時代で、神門5号墳(前方後円墳)の直ぐ後の時代になる。




この時代、海が沼津市街まで奥深く入り込み、高尾山古墳近くまで舟が進入できた、と。
ここは陸路、河川、海上を併せた交通の要衝で、そこを支配してた勢力のある地元首長の「前方後方墳」なのだ。 


海上交通の要地である房総半島 富津岬の前方後方墳 (高部30号墳 3C後半)に似てる。







ところで、4世紀前半(AD310年)にはヤマトタケルがこのクニを通過している。
伝承が残っているかチェックした。 .. が無かった。


考えられるのは、ヤマト政権に加盟し、ヤマト政権を支えてる 安心なクニだったのだろう。
ヤマトタケル一行は、ここから北上して足柄越えしてる。

ヤマトタケルの伝承地(古代史の復元)


赤い印の神社が、ヤマトタケルの伝承を有している。


 由比・蒲原あたりから、海岸沿いには伝承が無いので、ヤマトタケルは船でこの地に到着したのかもしれない。





3世紀〜4世紀半ば (ヤマトタケルの東征) 迄の東国は、
在地の首長の古墳が前方後方墳(青)で、ヤマトからの派遣者の古墳が前方後円墳(赤)と考えている。


高尾山古墳の近くに、3世紀の後半の前方後円墳・神明塚古墳がある。
卑弥呼が、纒向からこのクニに派遣した祭祀者の墓のように思われる。

高尾山古墳に埋葬された首長と、同じ時代に このクニでアマテラスを祭祀していたのだろう。



 <沼津市と周辺の古墳>

 時 代  区 分   名 称  規模概数   所在地   備 考
3世紀前半 前方後方墳 高尾山古墳 62m 沼津市東熊堂 230年頃の築造 250年頃埋葬
3世紀後半 前方後円墳 神明塚古墳 54m 沼津市松長 出土品は不明
4世紀 前方後方墳 浅間古墳 97m  富士市増川 
4世紀 前方後円墳 向山16号墳 70m  三島市
5世紀初 前方後円墳 東坂古墳 60m  富士市比奈大坂上 鏡、玉など
6世紀前半 前方後円墳 長塚古墳 54m  沼津市東沢田長塚
6世紀 前方後円墳 子ノ神古墳 48m  沼津市西沢田







神明塚古墳は、この時代は 汽水湖・浮島沼 の海岸沿いの砂丘の上に築かれた。
海路で、浮島沼を通って スルガのクニの港に着く 最終地点だ。


葬られた主は、クニの首長と同じ集落 (足高尾遺跡群) に住んでいたのだろうが、墓は、海路でのクニの入口に築かれた。
この前方後円墳が、ヤマト連合の一員という目印とされたのだろう。



← 図は、

高尾山古墳ガイドブック
『スルガの王 大いに塚を造る』
沼津市教育委員会


を使った。

PDF→ http://orange.zero.jp/thoru.boat/20120722takaosanshinpo1.pdf



足高尾遺跡群には、大和・纒向から派遣された祭祀者が、アマテラスを祀っていた神殿跡 があるはず。
それは、集落の端の 眺めの良い特別な領域で、溝で囲われた掘立柱の建物のはずだ。



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古墳は、その上に神社が鎮座して保存されることがある。
その神社と古墳も、無関係とは言えない何か を歴史が伝えているように感じることがある。


高尾山古墳の上には、高尾山穂見神社 と 熊野神社 がある。
熊野神社は、おおもとは出雲でスサノオを祀る神社。 前方後方墳は、東国を開拓した出雲系の首長墓が多い。

神明塚古墳は、伊勢神明宮の境内にある。 これは アマテラスを祀る神社だ。




高尾山古墳は、取り壊しから一転して、保存が決まった。
喜ばしい。

   2015/9/12 記


 <追 記> 

  沼津市文化財センターに、
  愛鷹山麓に展開している遺跡の中に、神殿と目される 『溝で囲われた掘立柱建物』 は見つかっているか を問い合わせた。


  親切な回答を得たが、
  『掘立柱建物じたいが少なく 溝に囲まれているものはありません。 神殿と目される遺構の検出例はありません。』
  だった。
  2015/9/24

 






< 追 補 >

2016年2月15日


2016年2月13日 第1回狗奴国サミット in 沼津 で、高尾山古墳は物部氏の墓 という、原・静岡大名誉教授の仮説が紹介された。
以下のような骨子の、具体的な内容で 非常に興味をそそられた。



 ・ 高尾山古墳に埋葬されたのは、 この地を封土としていた 物部氏第6世代の伊香色雄命 (イカガシコヲノミコト) である。

 ・ また、高尾山古墳から西約12キロにある 浅間古墳(前方後方墳)の被葬者は、物部氏第7代 十市根命 (トオチネノミコト) と。

 ・ 更に、その子の片堅石命 (カタガタシノミコト)が スルガの国造になっている、とのことだった。

    配布資料 「高尾山古墳に葬られたのは誰か」 原秀三郎

    ※注:  物部氏の系図 (古代史の復元)




 原秀三郎氏の見解は ユニークで魅力的だ。


 @中央で活躍した有力氏族が、遠く離れた領地で前方後方墳に埋葬された、という考え方。

 A二つ目の前方後方墳は後継者のもので、領地の東西の重要拠点に分けられ築造された、という考え方。

 B高尾山古墳が第9代開化天皇の時代で、古代スルガの国造が物部氏なので、開化天皇期に活躍した物部氏の祖先、という探索方法と 妥当性の検討。


※ 謎として残るのは ※

 古代スルガのクニの 二つの前方後方墳 には 二つの前方後円墳 がセットになっている点で、
 高尾山古墳とセットになる 神明塚古墳(前方後円墳) の被葬者は誰か? 

 を、是非 解明してほしい。  (2016. 2. 18)







2016年2月24日




  高尾山古墳を気にかけていたら、古墳時代の幕開け年が特定 できた。

  ・ 卑弥呼の指示により 247年に、天神 (あまつかみ)・地祇 ( くにつかみ) の祭祀制度 が定まった。

  以降 古墳は、埋葬される人の出自により、どちらかの形式で築造された。



試行的な古墳は除くが、247年に古墳時代が幕開け した。


古事記 (池澤夏樹・新訳 P174)には、
また、
  イカガシコヲのミコト
 に命じて、祭祀に使う八十びらかを作らせ、天神
(あまつかみ)・地祇 (くにつかみ)の社を制定してこれを祀った。
』 と。

(大和朝廷を盟主とする連合国家を構成する)各クニの王の関心の高い、墳墓の形式と埋葬の祭祀方法も、このときに定められた。
崇神7年 (247年)と思われる。


このことは、原秀三郎氏の、「高尾山古墳は物部氏の伊香色雄命の墳墓」 説の確認の為に、古事記の崇神天皇の項 を開けたら、
上記の伊香色雄に命じて制度を定めた が 記されていて驚いたのだった。

この時期、祭祀については卑弥呼以外の者の指示はありえない。
前方後方墳もこのときが起源で、卑弥呼自身が東日本地域に出雲系祭祀を広めたとも云われている(古代史の復元)



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吉備の特殊器台


古代史の復元によると卑弥呼 は就任後、倭の大乱の反省で、大和と出雲の祭祀を統一する研究を吉備国で行なわせた。

前方後円墳前方後方墳 の原初形態や、祭祀に使われる大型特殊器台 の開発を。

吉備の特殊器台 は、三角巴形 (弧帯文)の透かし穴 が開いている。



三角は饒速日尊のシンボルで畿内系の祭祀を。
巴形は勾玉につながり、(天の真名井での誓約で潔白を示した)素盞嗚尊のシンボルと考えられる、と。
吉備国を中心として新しい祭祀が始まった。


埋葬される人の出自により、
出雲系(ニギハヤヒ系・物部系)は前方後方墳、大和系(アマテラス系・天皇家系)は 前方後円墳 と形態は違うが、
共に、その祭祀に関しては、出雲と大和の和解の象徴である吉備系の 大型特殊器台 が使われ、葬儀は行なわれた。


(宮山型)特殊器台は、箸墓古墳以降の出現期古墳(3世紀後半)から出土している。
・前方後円墳: 箸墓古墳(280m)、西殿塚古墳(219m)、中山大塚古墳(120m)、弁天塚古墳(100m以上)
・前方後方墳: 元稲荷古墳(94m)
(宮山型)特殊器台は、吉備では総社市の宮山墳丘墓の一例のみ

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さて、スルガのクニの高尾山古墳は、伊香色雄(イカガシコヲ)が、 制度を自らに適用して 存命中に工事を開始した、の仮説だと、 247年以降になる。
沼津市教育委員会による(230年ごろ築造)250年ごろ埋葬 より後になる。
ま、いずれにせよ、出現期の巨大前方後方墳 に変わりはないが。









< 追 補 −2 >

2016年1月15日


「箸墓古墳」 (大阪府立弥生文化博物館 学生社 2015/10/20発行)
 1 纒向王宮と箸中山古墳(箸塚) 石野博信 P14   に、纒向で3世紀に出土した土器について書かれていた。

九州〜関東までの各地の土器が出土している、と。 少数だが、朝鮮半島北部の楽浪系 と 南部の伽耶系も出土している。
各地から人々が大和朝廷の中心地・纒向に集まっていた。

土器の出自は大阪平野を除くと、@東海 (三重・伊勢)地方、A山陰・出雲地域の順だそうだ。



興味深いのは、右の 太く囲われた3C後半の土器で、静岡県・沼津あたり と。

ここは、「高尾山古墳」のスルガのクニだ。


やはり、古代のスルガのクニは、連合国家・大和朝廷を構成する重要なクニだったようだ。








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2016年 2月16日了   宇田川 東