応神天皇の大三角形
難波大隅宮と、母・神功皇后陵と、応神天皇陵を結んでみたら、見事な大三角形が現われました。
偶然にしては出来すぎています。
エンジニアの設計方針が、天皇の宮と、天皇の母親のご陵、を結ぶ線を底辺にした、二等辺三角形の頂点に陵を造営する、ということでしょうか?
何故 三角形かは理解できませんが、あり得るように感じます
息子の仁徳天皇についてチェックしたら、同じ設計思想を継いでいるように見えます。
難波高津宮と、母・仲姫命陵、を結ぶ線を底辺にした、二等辺三角形上にご陵があります。
土地利用上の制約からか、正三角形にはなっていません。 多分、そうすると陵には不適切な海岸線が位置されるのでしょう。
この設計思想はどのようなものなのでしょうか?
聖なる場所を求める方法は、大王家に受け継がれてきた卑弥呼の鬼道が関係しているのでしょうか?
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実は、三角形は大和朝廷のシンボルなのです。それを意識した設計なのでしょうか?
(元々は饒速日命のシンボルで三輪山をシンボライズしたものでした。
鋸歯紋、三角縁神獣鏡、吉備の特殊器台などに三角形は使われています。)
古市古墳群、百舌鳥古墳群 ー 何故そこがご陵の場所として選ばれたのか不思議でした。
以上を 仮説の一つとしてあげておきます。
(2023年9月22日)
応神陵も仁徳陵も、権力を象徴する巨大サイズで造られましたが、位置は三角形の設計原理で求められています。
これは、神官たちによって、純粋に宗教的観点から(聖地が求められ)位置が決定されたことを示しています。
政治的視点から、ご陵はこれらの位置に設定された、という解釈は難しいでしょう。
@百舌鳥・古市古墳群の存在は、大和盆地から大阪平野へ王朝が交替した証拠、という説は根拠が薄弱になります。
A半島情勢を受け、来日する外国人に巨大権力を誇示する為にこの場所に造営した、説も同様です。
仁徳陵の沖合は、北九州〜瀬戸内〜難波港(摂津・斗賀野の南)への外国航路とは離れています。
Bこの三か所の原理に立脚した陵が存在すること自体が、応神天皇、仁徳天皇は実在した、という証拠になります。
仮空の存在であれば矛盾が生じて、綺麗な三角形にはならないでしょう。
ご陵位置を宗教的に捉えることを大三角形は示しますが、「三角」の根拠が「大和朝廷のシンボル」だから、でよいかは?です。
諸説が欲しいところです。大王家に伝わる卑弥呼の鬼道のなかにはあるかもしれませんが(笑)
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