ニギハヤヒのラインについて
卑弥呼は、奈良盆地の東西で向かい合っている三輪山と二上山を結ぶラインが、「ヤマトの国を支えている地霊ライン」、と鬼道により察した。
このラインを大和の地軸ラインとして、纒向の祭祀都市づくりの根幹に据えた。
地霊に抗うことなく地が鎮まるようにと、この傾きのラインを採用し、その線上に神殿・宮殿などの建物を築いた。
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巻向宮殿の建物の配置軸と、三輪山と二上山を結ぶラインの軸は平行してる。 |
三輪山の神は大物主神(=ニギハヤヒ)であり、二上山・雄岳山頂の葛木坐二上神社は、(豊布都霊神と)大国魂神(=ニギハヤヒ)が祀られている。
大和を守護する地霊ラインは、ニギハヤヒのラインであった。
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築山古墳は、三輪山と二上山を結ぶ「ニギハヤヒのライン」に沿って築造されている。
昔このライン沿いの前方後円墳を調べたが、見つかったのは唯一この古墳のみだった。とても偶然とは思えない。
大和の地霊ラインに沿って墳丘を築造する、ということは、被葬者は「卑弥呼の鬼道」を引き継いだ神官、を示唆する。
その時は、被葬者は、武人や大王家とは異なる(卑弥呼・ニギハヤヒを祀った) 特別な祭祀者かもしれない、にとどまっていた。
今回、神功皇后の(三韓征伐、忍熊王の反乱の)戦いに同行して、呪術面で皇后を支えた最高位の神官かも、という可能性に辿り着いた。
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祭祀者は神功皇后のそばに仕え、その命により祈祷し、(卑弥呼からの)お告げを伝える役目だったのだろう。(注1)
伝承では、皇后はよく占いを行っている。それも仕事のうちであろう。
日本書紀で、仲哀天皇の急逝に際し、皇后が7日7夜かけて祈願した際の、
審神者(さにわ=神慮を審察する人)として登場する中臣烏賊津連 (なかとみ の いかつ の むらじ)がこの人物と思われる。
神々に祈願して戦況の判断を下したり、勝利を得る、という祈祷で大功をたて、ここに葬られたのだろう。
神功皇后の朝廷で、卑弥呼や大物主(ニギハヤヒ)を祀っていた特別な祭祀者だったのだろう。
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また、この古墳の隣には、コンピラ山古墳(直径95m、5C前半頃)がある。富雄丸山古墳(直径109m)に次ぐ規模の大円墳だ。
墳丘上に金毘羅神社が祀ってあったことから名がついたもので、三輪山の大物主神と祭神が同じなのが気になる。
(鳥見の長髄彦のような)功績のあった在地の武人なのか? 築山古墳の祭祀者に従った三輪山の神官なのか?
仲哀天皇の急逝に際し、皇后がその死を人民に秘匿するように命じた四大夫 ー中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連ー
の一人 大三輪大友主君 の墓かもしれない。
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折口信夫の、この築山古墳に対する愛着は尋常でなく、度々訪れ、築山の里を「尊い地」、「聖地」とまで書いているそうだ。
「古い由緒を伝える村」と書き、何か伝承を見聞した可能性がある。また、「帝室陵墓伝説地」に築山古墳が指定された折、「狂喜した」と。
折口は被葬者を推定していたようで、 誰が葬られている、と考えていたのだろう? 「新撰山陵志」(S13年12月『紀元二千六百年』第1巻12号)
(私は折口信夫の推察力の恐ろしさを感じている。彼は「琉球国王の出自」で南北朝時代、肥後から渡琉した者の子孫が初代国王・尚巴志だと、
佐敷という地名の一致と、ヤマトバンタの佐敷尚氏が大和人、とを手掛かりにして推察した。
私はこの説に従い、尚氏は、肥後佐敷出身の寒川姓の武士で、八代海・野坂の浦に面した佐敷に、琉球・中城湾に面した立地が似てるので、
佐敷という故郷の名を付けた、との結論に辿り着いた。→「佐敷から 琉球国王のルーツをさぐる。」 )
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2023年6月2日
(注1)
この時代、占いは良く行われていたようで、古事記にも、
香坂王が神功皇后軍との戦いの前に、摂津の斗賀野で、戦いの行方を占う狩りを行ったことが記されている。
(注2)
卑弥呼に戦勝を祈願する、ということは、神功皇后に限らないようだ。
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箸墓古墳の前方部の一番高い位置から、
6世紀後半〜7世紀にかけての祭祀用須恵器・ハソウが出土してる。
造営300年以上後でも、箸墓古墳は朝廷から どのように認識されていて、どう利用されたか、
の謎がある、と。
「箸墓古墳」 (大阪府立弥生文化博物館 学生社 2015/10/20発行)
3 箸墓古墳像の再構築に向けて 福尾正彦 P128
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私の推測は、第30代敏達天皇(572年〜585年)が、任那(562年滅亡)の再興(父欽明天皇の遺言)を卑弥呼に祈願したものと。
敏達天皇は新来の仏教より 古来の神々ーアマテラス信仰が篤かった。 纒向に他田坐天照御魂神社を創立してもいる。
敏達天皇は、箸墓古墳の上で、任那滅亡を卑弥呼に謝り 再興を願ったのだろう。
《参考》 巻向の卑弥呼の宮殿の建物の配置が、 東西のラインから 5度ずれているのは何故か?