大理石に覆われて白く輝く王都エレンガルドの遥か東、長い工期と莫大な費用をかけて建造された、大陸を東西に分断する長大な防壁はかつて世界を救った勇者の名をとってダインブルグの大障壁と呼ばれている。石造りの防壁は家々を五つ積み重ねたほどに高く、等間隔に設けられた塔でつながれており頭上にせり出した屋根の上は馬で駆けられるほどに広く、南北に伸びた壁の果ては見えなかった。壁の東側にはかつて大魔王ハンが支配した領土があり、大陸を東西に貫く街道の東端にある防壁の中央には巨大な門が設けられていたがそれが開け放たれることはないと言われている。
ダインブルグは処女王エレオナを守る勇者の象徴として多くの詩に吟じられ、かつてはこの長大な防壁が東の辺境に追いやられた大魔王ハンの軍勢の残党から統一国家ハイランドとエレンガルドに住まう人々を守っていたと伝えられている。今では防壁の向こうにも魔王軍の姿は潰えたと言われているが、広大な焦土と化した戦場跡の復興にはいまだ歳月が必要で壁の向こうは安全とは言いがたいと思われている。
銀の槍の騎士ヒュンケルトが騎士団を率いて壁の周辺を訪れることは一再ではなく、いつの時代でも闇と邪悪に傾倒する輩が完全に絶えることはなかったから、彼らの不断の努力がなければ壁の内側の平和は保たれなかったかもしれない。王都を包む大理石の輝きにはわずかな陰りも見つからないが、暗がりを照らす者の手があってはじめて人は闇に怯える必要から解放されることができたのである。
とはいえ、すべての不幸と災厄から人が自由になったわけではない。その日、エレンガルドから遠く離れた辺境の小さな村が野盗に襲われ、村人全員が殺された上に建物は火で焼かれて滅び去ったという知らせが王都に届けられていた。ヒュンケルトが率いる白銀の騎士団が直ちに出立し、凶猛な賊は撃滅したものの村を救うことはできず、偉大なる女王エレオナは彼女の臣民に訪れた突然の惨劇に大いなる哀悼の意を表すると、辺境の小村のためにすべての民が三日間の喪に服することを告げた。ヒュンケルトには火を収めさせると没した人々を弔う塚と慰霊の碑を建てることを命じ、忠実な騎士はハイランドの宝である民を救えなかったことを陳謝して女王もヒュンケルトに形式的な譴責を与えている。
整然と立ち並ぶエレンガルドの町並み。舗装が行き届いて整備された街路には植樹が等間隔に並べられていて、街中には水路が巡らされており遠く北方の山嶺から流れ下ってくる清純な水を都に供している。完備された下水溝はすべて舗装された石畳の下を通って汚水を流し去り、平和と繁栄を謳歌する王都にふさわしい荘厳で清潔な美観と機能的な実用性を兼ね備えた曇りなき姿を映し出していた。
だが光の都エレンガルドにも光が届かぬわずかな暗がりは存在する。都の中心からそれほど離れてはいない、喧噪とした商業区から地下水路につながるいくつかの通廊には陽光を避けるように隠された部屋が設けられており、正規の手続きを踏まぬ店や酒場が構えられていることがあった。人が隠れるに適した場所に、人から隠れようとする者が集うことはごく当然の成り行きだったろう。
その男は「鼠」と呼ばれていたが、それは彼が大鼠そのものの姿をした亜人であることと三十年ものあいだ暗がりで汚水をすすって生きてきた双方の理由による。小柄な身体に頭巾のある厚布を目深に被った顔は傷跡だらけだが、色の薄い瞳は切れ上がって鋭く、眼光には他者を圧する強さが秘められていた。
地下に隠されている酒場には一つの窓もなく、扉は一つきりで室内には魚油の灯りが頼りなく揺れている。酒気と煙ですすけた天井を見上げてから、視線を盃に戻すと身中を灼くきつい酒の刺激を味わう。彼の左の袖が長くぶら下がっていることに気づく者は多かったが、その狭い部屋にいる人間たちは全員が彼のことをよく知っており、そして慕っている者たちだった。
「闇に怯える人間はいなくなった・・・今では人々は光に怯えているのだから」
鼠は逃亡者だった。光輝に満ちたエレンガルドで陽光を映す白銀の騎士たちの目から身を隠し、薄暗い影に潜んで生きることをこれまで三十年の長きに渡って続けている。彼が伝説の時代に勇者ダインや四英雄とともに戦い名をなした一人であったことなど、今では知るものもほとんどない。
緋色の液体を飲み下しつつ、鼠は滅ぼされた村のために盃を傾けている。村を滅ぼしたのが誰なのか、鼠は知っていたがただ知っているだけでしかない自分の無力さも痛感させられていた。彼はただの逃亡者ではなく、世界に災厄をまき散らすことを望んでいたがそれが遂げられることもなく、日が過ぎて時を経るごとに世界の一隅まで光が届き闇は追い払われて彼が潜む場所は狭められている。
唐突に、激しい喧噪とともに上階にある戸棚の陰に隠されていたはずの扉が荒々しい音を立てて蹴り開かれた。無遠慮に入り込んできた、頑強な板鎧を着て立っている姿はハイランドの民であれば見まごうことのないエレンガルドの近衛隊長、鋼鉄の王クルトバーンである。四英雄の一人、かつて大魔王の陣営で戦士王を示すクルトの称号を与えられたほどの武人だが、勇者ダインの志に打たれて仰ぐ旗を変えると伝説の戦いを勝利に導いていた。
クルトバーンの背後には頑強な鎧を着た無表情な兵士の列が並び、鋼鉄の王は片手に掴んでいた小柄な男の身体を鼠の前に放り投げると威圧的な口調で語りかける。廃物のように捨てられた男の身体には生々しい多くの傷があり、右手には指が三本しか残っていなかった。
「見つけたぞ、鼠。いや、獣王遊撃隊長テオ様とお呼びしたほうがよろしいかな」
鼠と同じく、クルトバーンも人ではなくワニに似た爬虫人である。鋼鉄の王の異名にふさわしく見上げるほどの巨漢であり、長身でありながら横幅も厚みもある全身が筋肉の鎧と鱗のある分厚い皮膚で覆われていた。厳めしい顔に深く刻まれた傷跡がこの男の武人としての歳月を物語っており、かつては大魔王ハンの戦士として、後には勇者を助ける英雄の一人として、そして今では都を守る近衛隊長として主人のために流してきた多くの血を思わせる。
勇者も大魔王も倒れて戦いが終わったあの日、彼は生き残ったエレオナ姫が打ち立てる新しい世界の守護者となることを高貴な宣告によって誓っていた。それはハイランドとエレンガルドを守る仲間たちも同様だが、同じ日同じ時に同じ誓いを立てながら自らそれを破ったのが鋼鉄の王の目の前にいる鼠、哀れなテオドールである。
かつてともに勇者ダインに従った仲間であり、伝説の戦いでは上官でもあったこの男に鋼鉄の王は制裁の斧を振り下ろすと裏切り者の鼠は命を永らえるかわりに左腕を永遠に失った。逃げ出した鼠は腐臭ただよう闇に隠れると徒党を組んでその後も国と女王に逆らい続けており、かつて鼠の部下であったクルトバーンにとって恥辱と不名誉以外の何ものでもなかった。
「変わったな、テオ。かつて獣王遊撃隊を率いた貴様が今はハイランドに仇なすレジスタンスの指導者か。いや、それとも今はただの落ちぶれた飲んだくれかな」
「あんたは変わらないな。かつて魔王に、その後は俺に仕えた犬が今では女王陛下に仕える犬というわけか。犬なら犬らしくちゃんと首輪をしろよ」
テオの言葉にクルトバーンの太い眉根がわずかに動く。鋼鉄の王は武人だったから、主君の命に従うことは当然であり誓約を守ることは神聖な義務に等しい。伝説の戦いが終わった後の新しいハイランドに従う、それが彼の誓いであり身命を賭して女王の命を全うする。目の前にいる唾棄すべき恥知らずのように、誓約を捨てて逃げるなどあってはならなかった。
三十年前、伝説の戦いに勝利してダインが帰らなかったとき、勇者に従った英雄たちは彼の遺志を継ぐべく世界の復興に尽力した。戦乱で焼け野原となった多くの国を束ね、女王エレオナのハイランドが統一を果たしたのも彼女を助ける英雄たちの力があったからこそである。銀の槍の騎士ヒュンケルトは大陸を巡視する騎士団長として、神官マールは信仰と裁判を統べる大神殿の最高司祭長として、クルトバーンは王都と女王の身辺を守る近衛隊長に、そして帰らぬ勇者ダインには彼らを束ねる大元帥として最大級の地位と名誉が与えられた。
エレオナは困窮するだけであった各国をハイランドの旗下に統一し、王都の名を光輝なるエレンガルドに改めると人々を導いたが彼女はそれが本来ダインのために用意された椅子であることを知っていた。女王は勇者の伝説を讃え、彼に用意した大元帥の地位を以降は誰にも継がせぬことを宣告し、多くの碑を建て、詩や物語を作らせ、祭儀を執り行い、その名を冠した名高い長城ダインブルグの建設に乗り出した。
だが勇者ダインの最も古い仲間にして友人であった大魔導士ポールはこれに加わることがなかった。彼は世界に平和が戻り、勇者が失われたことを知るとエレオナの事業を手伝うことなく隠棲して姿を消してしまう。ポールの故郷の村やダインが生まれた辺境の孤島にも捜索の手は伸びたが彼の消息を掴むことはできなかった。
「ポールが消えたのは友人を救えなかった自分を恥じたからさ。『夢は覚めた。新しい世界には魔法も手品も必要ない』とあいつは言っていたが、俺はその言葉の意味を知ることができなかった。俺は残されたこの世界を救うためにハイランドに仕えようとしたが、気づくのが遅かった。全世界を治める統一国家の王、エレオナの椅子が大魔王ハンですら届かなかった場所にあるということをな」
中身のない左袖をことさら見せつけるように振ると、テオはクルトバーンに半身を向けて丸椅子からゆっくりと立ち上がる。ハイランドから逃げ出そうとしたテオは左腕を犠牲にしながらも生きながらえ、地下に潜むとささやかなレジスタンスを結成して以降三十年に渡って監視と探索、弾圧の手を逃れ続けていた。
テオの言葉を黙って聞いていたクルトバーンは、無言のまま懐から何かを取り出す仕草を見せると無造作に放り投げる。それはやや灼け焦げた跡のある黒髪の一房だったが、それが意味するところをテオは理解して唇を大きくゆがめる。
「ポールを・・・殺したのか!」
「貴様も知らせは聞いているだろう。奴は辺境の村に隠れ住んでいたところを村ごと焼き払われ、騎士団の槍で穴だらけになってここエレンガルドに届いたよ。腐りかけていたので遺髪を残して捨てたが、愚かな奴だ。結局誰一人救うことができず、それどころか村ひとつを巻き込んで犠牲にしている。奴がいなければあの村も平和だったというのに。
陛下のお考えなど貴様らには理解できまい。世界を救うことと世界を育てることは全く別のもので、大魔王ハンが打ち倒されて勇者ダインもいなくなった世界で、貴様やポールが新しい魔王や勇者になってはいかんのだ。だからこそ光輝なる女王エレオノール陛下は人々と世界のためにあえて涙をお飲みになって危険因子を排除なさろうとしている。平和のためには魔王が必要ないのと同様、勇者もまた必要ないのだ」
クルトバーンの声は抑揚に欠けており、それがテオには不気味に聞こえる。それは三十年間聞かされ続けてきた言葉であり、三十年間信じ込んできた言葉である。人形めいてみえる、考えずにただ信じる者の目をした鋼鉄の王にとって処女王エレオナの言葉は絶対だった。
大股にクルトバーンは足を踏み出す。裁かれるべき罪人のための時間はすでに残されておらず必要なものはただ懲罰のみであり、これまで多くの汚れた頭を打ち砕いてきた大斧が鋼鉄の王の左手に握られていた。逃げ道のない小部屋に追い詰められている、かつて上官であった鼠の頭上に処刑人は緩慢な動作で斧を振り上げる。かつて戦場の武人であったクルトバーンであればそのような隙のある無駄な動きはしなかったろうが、処刑人や拷問官は罪人を威圧するためにもより大きく、劇的な動作を行う必要があった。
次の瞬間、テオは自分の身体の陰になっている右手に掴んでいたグラスを翻すと、鮮血の色をした液体を処刑人の顔面にぶちまける。目を塞がれたクルトバーンが振り下ろした大斧の一撃は、激しく床を打つと獣の顎に似た大穴をうがち、その傍らをすり抜けるようにテオは本物の鼠も及ばぬほどの俊敏さで駆け出した。
鋼鉄の王の背後には個性のない兵士たちの壁が居並んでいたが、これまで数限りない修羅場をくぐり抜けてきたテオの目には命令がなければ動けない人形の足下にある隙間がはっきりと見えている。機会は一度しかないが、もしも突破に成功して兵士たちが自分を追えば部屋内にいる彼の部下たちにも逃亡する好機が訪れる。無謀ではなく知性と経験に裏打ちされた大胆な行動力、それが唯一の方法であれば危険を承知でためらわない決断力こそ卑小な鼠であるテオの力だった。だからこそ彼は三十年もの間レジスタンスを率いることができた、だがそれを認識していたのは鋼鉄の王も同じだった。
テオは自分の身体が宙に浮き、前のめりになっていることに気づく。そのまま床にしたたか打ち付けられてようやく、自分の左の足首が何ものかに掴まれているのを目にすることができた。傷だらけで倒れていたはずの、先ほどクルトバーンが連れて来た男、捕らえられた拷問されたレジスタンスの仲間と思われていたその男は万一のために鋼鉄の王が用意した捨て駒だったのである。相手の狡猾さと自分の浅はかさにテオが舌打ちして顔を上げたところに、今度は先ほどよりも遥かに速く鋭い太刀筋を描いた大斧が振り下ろされた。
「・・・っ!」
密閉された小部屋に名状しがたい叫び声が響き、テオは顔の左半分に熱さにも似た激痛が走るのを自覚した。あまりの痛みに感覚が麻痺したのかもしれず、激痛は一瞬で過ぎ去ったがそれが戻れば今度こそ動けなくなることを知っていたテオは全身の力をかき集めると身体がねじ曲がるほど強引に跳んでクルトバーンの足下に潜り込む。薄汚れた床板に、顔面からあふれ出る緋色の水たまりを作り上げて身体ごと鋼鉄の王の足を払うと血でぬかるんだ床に巨体を引き込んだ。
不意をつかれたクルトバーンが横倒しになると、鼠はそれまでに倍する動きで兵士たちの壁を強引に突き抜ける。そのまま部屋の入り口を突破すると背後に怒声を置いて薄暗い通路に飛び出した。追っ手が来ることはわかっており、一人でも多くの兵士を引きつければ仲間は逃げられるかもしれない。彼自身が逃げ切るには流れ出た血と体力がいささか多すぎた。
大理石に舗装されたエレンガルドの街路に逃亡者の足跡が残ることはないが、顔の左半分からしたたり続ける鮮血の跡は途切れることがなく追跡者に隠すことのできぬ道しるべを作っている。テオは王都を流れる水路に飛び込んで逃げることを考えていたが、この傷で水に落ちたあとで二度と浮かび上がることはできないだろう。
考え、逃げながらも足取りがよろけはじめたテオの左の肩口に追跡者の矢が突き立ち、絶叫とともに全身に忘れていた痛覚が戻ってきた。そのまま気を失い、転がるように水路に落ちたことはむしろ幸運であったのかもしれない。水面を染めた血の色はすぐに流れ去り、王都の下水溝に流れ込んだ鼠の死体は遂に発見されなかった。
‡ ‡ ‡
神々への信仰が薄れて久しい。凶猛な大魔王ハンを打ち倒して、世界を暗黒から解き放ったのは勇者ダインと彼を助けた英雄たちであり、敬虔に祈りを捧げた人々に神々が応えることは結局ただの一度もなかった。伝説の戦いを助けた神官や司祭ですら神々の助けではなく彼ら自身が戦場で血を流したのであり、賢者アーベルの弟子で今では四英雄の一人である神の槌マールも勇者とともに戦い、処女王エレオナに従うことで人民を救ったのである。神の教えとやらはハイランドの最高司祭長マールが信仰する教えであることによってようやく生き残ることができていた。
勇者ダインを助ける者の教えとして生き残ったマールの信仰を除けば、誰を助けることもできず大魔王に滅ぼされる世界を遠望するしかなかったほとんどの信仰が廃れている。かろうじて残っている少数の寺院もまた勇者を助けた神官や司祭たちの社だった。滅ぼされかけた人々にすれば、祈りを聞き届けなかったものに頼ろうと思う筈もなかった。
黒髪に宝石の瞳をした、異民族の占い師メアリは伝説の戦いで勇者ダインや魔導士ポールの助けとなり、大魔王ハンの侵攻に怯えて避難する人々を励ますと、戦いが終わって後は野に下り荒廃した辺境に寺院を建て小さな村を興していた。正義と秩序を信奉するマールの教えと異なり、調和と豊穣を司る彼女の古い神は世界の中心で人々を導くよりも大地に根づき人々の一員としてともに生きることがふさわしかった。
北方山脈の麓にある川沿いの小さな村に集まった人々が土地を耕し、森と山に恵みを求めてから三十年が経つ。質朴な人々は村を囲う森や大地そのものに対して祈りを捧げ、神々の恵みは耕した土や実る木々からもたらされた。季節を迎え、自然を畏れることで彼らなりの祀りが生まれ、足りぬものが多い世界でともに集い暮らすことによってささやかな規範が設けられていた。
一人の少年がその村にたどり着いたのは彼の生家が炎に包まれ、血で塗りつぶされてから五日後のことだった。旅支度どころか荷物も持たずに行き倒れていた少年を見つけたのは、木こりか猟師のように見える大柄な老人である。髪は短く刈り込まれて筋骨たくましく、日に焼けた浅黒い顔には深く皺が刻み込まれ、目つきは重厚で口元は引き締まっている。老人は小柄な少年を軽々と肩に担ぐと、村に連れて行き毛布とあたたかいスープを与えた。目を覚ました少年は食欲もないままに緩慢な動作で胃の中を満たすと、老人に連れられて司祭がいる寺院へと足を運ばされた。石造りの土台の上に、丸木で組まれた建物は寺院というよりもありきたりな山村の小屋に見えた。
行き倒れの少年を引き取ったという知らせに、メアリは身軽な動作で腰を上げると椅子の背にかけていた簡素な刺繍のある肩布を手に取った。開かれたままの戸口に足を向けると少年を連れた老人がちょうど姿を現し、もと占い師であった女司祭は少年を引き取るとあたたかい言葉をかけて寺院へと導き入れる。熱い湯を用意して身体を拭かせ、粗末だが簡素な服に着替えさせてあたためた山羊のミルクをカップに満たすころには、少年の様子もいくぶん落ちついてきたように見えた。メアリは行き倒れの少年に、話すにはつらいであろう事情をゆっくりと、急がせることなく尋ねるが小さな口から大魔導士ポールの名が出たことに驚きを隠せなかった。
「あの人が、亡くなったのですか・・・」
押し殺すように呟いたメアリの顔を見て、少年は女司祭が自分の敬愛していた先生と知り合いである、知り合いであったことを知った。柔和な顔と褐色の肌は日に焼けて、束ねた黒髪に結ばれた飾り紐や肩布に縫い取られた刺繍が女性らしさを見せているが、少年に差し出された手のひらには長いあいだ鍬や鎌を握ってきた者の厚みがある。むしろ平凡な農婦に見える彼女が僧衣を着ていることのほうがよほど似合わないように思えて、少年は違和感を覚えたほどだった。
メアリはしばらく物思いにふけっていたが、憂いを見せていた瞳はもっと重く深刻なものを見つめ、深慮する色に変わっていた。深い夜が静かな暗闇で世界を覆うと彼女は穏やかに顔を上げて、暖炉に薪をくべながら真摯な様子で口を開く。夜の色をした宝石のような瞳に、先生が最後に見せたそれと同じ光が宿っていることに少年は気がついた。
「古い話をさせてください。大魔王ハンが倒されて、世界が深い絶望からかろうじて救われたとき、わたくしとポール・・・あなたの言う先生は王城で人々を導き復興に力を貸すのではなく、辺境の小さな村で一人の民として生きる道を選ぶことにしました。理由はいくつかありました。ポールにはまた別の理由もありましたが、復興が都から進められるのであれば辺境の地に暮らす人々はそれまでのあいだ自らの手で自分たち自身を救わなければなりません。彼らの労苦と希望を知るものがわたくしたちの中には必要だろうと思われました。
そしてわたくしとポールに関して言えば、魔法や奇跡という便利な力を使って人々を導きたくはありませんでした。わたくしはこの村に小さな寺院を建て、大地を耕して森に恵みを求めながら人々が生きてゆくための規範を設けてゆく道を選びました。ポールは別の小さな村を興すと生きてゆくための知識を人々に与え、いずれ彼以外の皆が彼以上の知識を持つことができればよいと言っていました。わたくしの本心ではポールには一緒にこの村で暮らしてほしかったのですが、古い友人への思いが整理できなかった彼は哀しげにそれを拒みました。そして三十年が経ちます・・・わたくしはポールとともに生きるべきだったのかもしれません。それを確かめる術はありませんが、ひとつだけはっきりしていることはあります」
魔法とは古く失われた知識を探求してもたらされた技術であり、奇跡とはすでに世界に存在する力を引き出して起こされる現象のことである。大魔導士ポールが少年のために最後の魔法を用いたこと、メアリのもとに少年が送り届けられたことの意味を彼らは考えずにはいられない。火かぎを手にしたメアリがくべていた薪木を掘り起こすと、ぱちぱちと炎がはぜる音がして小さな火の粉が炉の中で舞い上がった。今はもういない人を思う女司祭の黒い瞳に、小さく揺れる火が映し出されている。
「あなたは、そしてわたくしも長くここにいるべきではないでしょう。エレオノールが考える世界がこのようなものであったことに、三十年前のポールもわたくしも気がつくことはできませんでした。荒廃して人の往来も絶えたこの世界で彼女の目がわたくしたちに届くことはなかったようですが、三十年を経て女王が送り込んだものは火と剣を掲げた騎士団だった。エレオノールが何を望んでいるか、わたくしにはわかりませんがポールが殺されたのであればいずれわたくしがここに暮らしていることも知られるでしょうし、それはこの村に危険をもたらします」
そう告げるメアリの瞳に、哀しいまでの決意の色を少年は見ることができる。大切な者を失った彼女は彼女が育んだこの村と、目の前にいるポールの思いを残す少年を失うようなことはできなかった。彼女の存在がその双方を危険にさらすかもしれないのであればメアリも少年も長く村に留まることはできず、しかも旅慣れぬ彼らがともに発てば互いが足手まといになることも知っている。ならばメアリと少年の旅は出会いではなく、別れからはじまる旅となるのだ。
丸木づくりの小さな寺院で、彼らがいる炉端は女司祭が過ごした三十年のすべてを覚えている。メアリは炉から漏れているあたたかみのある灯りに照らされながら、ゆっくりと立ち上がると長衣の裾を直し、土壁にくくりつけられていた小さな戸棚から古い木箱を取り出した。簡単な模様が彫り込まれている蓋を開けて、収められていた麻紙の束は達者とはいえない文字で埋められていたがそれが先生の自筆であることに少年が気づくとメアリが小さく微笑む。
「この紙束には、大魔導士ポールが残した三つの魔法の技が書かれています。それは三十年前、わたくしが彼と別れたときに彼が遠くにあるわたくしを助ける力になるだろうとして残してくれたものでした。魔法などというものはこの三つがあれば何でもできる、そう彼は言っていましたが、わたくしはあえてこれを使おうと思ったことはありませんでした。わたくしに必要だったのは彼がこれをわたくしに預けてくれた事実そのものでしたから。
ですがポールに多くを教わったのであろうあなたには、これが助けになるかもしれません。あなたとはここでお別れになります。エレオノールがわたくし如き気にもかけなければそれで良いですが、そうでなければわたくしの側にある者はすべて災厄に見舞われるでしょう。ですからその前にポールの魔法の書をポールの忘れ形見であるあなたに、そして誰か信頼のできる人間をあなたに仕えさせましょう。
あなたがこれから何をしようとするのか、わたくしはあえて問いません。それはあなたのものであって、わたくしのものではないからです。でもわたくしはあなたが何をしようと思っているか、それを予想することはできます。だから、その助けをさせてください。それはたぶんポールの望みではありませんが、わたくしの望みとはとても近しいでしょうから」
そこまで言い切ると、メアリは少年のために簡素な旅装束と最低限の荷物と食料、軽くて頑丈な杖と一本の短剣、頭巾のついた厚手の外套を用意し、そして大魔導士ポールの魔法の書を手渡した。少年の齢がかつてメアリがはじめて出会ったときのポールの年齢と同じであったこと、そして旅装束を着た少年の姿に彼女がかつての大魔導士の面影を重ねずにいられなかったことを彼女は口にしない。その日はそれで夜が更けて、穏やかな暗闇が世界につかの間の安らぎをもたらした。
夜が明けて、メアリは一人の老人を少年に引き合わせた。少年の数倍の人生を閲しているであろう、肌は日に焼けて深い皺が刻まれているが筋骨はたくましく眼光は重厚であり、口元は固く引き締まっている。老人が行き倒れた少年を助けてこの寺院に連れて来てくれた人物であることに少年はすぐに気がついたが、今はあの時の木こりか猟師めいた姿ではなく、戦場に赴くための古めかしいが頑丈な鎧の上に厚手の外套を羽織った、熟達の戦士を思わせる装束に身を包んでいた。
老人は賢者アーベルの弟子であるダインやポールがまだ旅に出たばかりのころ、伝説の勇者を騙り各地で金を稼いでいた傭兵の一人だった。若いというより幼く正義感の強いダインに諭されて、というよりも叩きのめされて以降は彼らや当時のエレオナ姫に雇われて大魔王の軍勢ともたびたび矛を交えている。そして伝説の戦いの後は村を守る衛士として、本人が言うには金で雇われていたが金だけで三十年も続くはずがないことは老人のおどけた声で理解できた。
「わしは今でも金で雇われる傭兵さ。坊やを守る金もメアリが出しているから安心するといい」
それがいくらだったのかも、いつまでの約束なのかも老人は忘れたと言って二度と話さなかった。彼は自分のことをなるべく滑稽に語ることを好むくせがあったが、勇者ダインも大魔導士ポールも、そしてメアリもこの戦士を心から信頼していたであろうことが少年にも伝わってくる。背にくくりつけている戦斧はおそろしく使い込まれているにも関わらず、丁寧に磨かれて曇りがなく齢を思わせない老人の力であれば鎧でも兜でも叩きわることができそうだった。
更にその翌日、行き倒れていた少年を故郷の村に連れ帰るとして、老戦士と少年の二人は村を出立した。村人たちはささやかな選別を贈り、少年は村を離れることと真実を伝えぬことに後ろ髪を引かれる思いで朝霞の山道に消えて行く。もう二度と会うことのない、少年と老戦士を見送ったメアリは寺院に戻って日々の仕事に身を費やすとその夜、司祭ではなく占い師として三十年ぶりに占星を行い天頂に輝く小さなひとつの星を取り巻いている、暗く小さな無数の星々を見いだした。
少年と老戦士が村を離れてから月が一巡りもしたであろうころ、霧深い夜に村の寺院で原因不明の出火が起きた。霧にくすぶる炎は他の木々にも建物にも燃え移ることはなく、見つかるとすぐに鎮火されたがそれにも関わらず寺院は燃え尽きてそれきり司祭の姿も見えなくなった。人々は唐突にメアリが失われたことを哀しみ、かつ訝りもしたが収穫が近づいていた多忙の中でそれさえも日々に埋もれ忘れ去られていった。
寺院の地下からは法典や大切な村の記録、保存されていた種もみの袋が見つけられて、主のない寺院の跡地には小さな塚と畑がつくられるとその後もささやかな作物を村に供し続けることになった。一日、王都の調査官を名乗る人物がその村を訪れたが、そのころには幾人かの村人が女司祭メアリのことは覚えていても、どこかの村に旅立った少年と老戦士のことは皆が忘れてしまっていた。