二章.ハイランド


 王城は豪奢なだけではなく精緻にも飾られている。柱に彫り込まれた古い様式の飾り模様も、数人の職人の手で織られた掛け布も、幾年もの歳月をかけているが三十年を経る以前からあったものはひとつもない。
 銀糸が織り込まれた絹の布地に、華やかだが品のよい宝石をちりばめた王衣をまとう美しい女性の口の端にのぼる玉韻には楽の音を思わせる流麗な響きがあり、聞く者にこころよい旋律すら感じさせる。陽光を照り返す大理石に覆われた光の都エレンガルドにそびえ立つ王城に設けられた謁見の間。そこは世界を治める中心地であり、その座にはじめて、そしてただ一人腰を下ろした人物こそが美しく気高い処女王エレオノール、女王エレオナだった。

 大魔王ハンの侵攻によって世界が混沌の淵に突き落とされてより、賢者アーベルの弟子であり竜殺しの英雄の血をひく勇者ダインがこれを打倒すべく立ち上がったころ、当時いまだ小国であったハイランドの姫エレオナはダインを助けるとともに気弱な他国の王を叱咤し、互いに協力して大魔王に対抗するために各国の統合を呼びかけた。
 だが小僧に期待する王も小娘の言葉に耳を貸す王もおらず、列国は無謀または無策に大魔王に蹂躙されるかさもなければ無意味に降伏すると抵抗したほうがましだったというほど焦土となるまで破壊されていた。大魔王ハンが求める栄光とは少数の支配者が広大な荒野の中心に屹立する姿であり、戦士は相応に遇されたが戦わぬ者は生きる価値すらも認められなかった。

 その大魔王が討たれた後、荒廃した世界の復興がはじまるとエレオナはかつてダインの仲間であった英雄たちの力を借りて人々を牽引し、人類発の統一国家ハイランドを築き上げる。正確にいえばそれはハイランド以外のすべての国が滅びただけだったのかもしれないが、ハイランドだけが焦土の上に国を建てることができたのだ。人々は嘆くだけの王や戦いを終えてなお争うことしか知らぬ王ではなく、勇者のいない世界をただ一人救おうとしたエレオナのもとに集まった。
 世界はすべてがもとに戻ったわけではない。いくつもの国があった場所は森に埋もれるか荒野となるに任されており、生き残った人々は離散して小さな村をつくるのがせいぜいだった。ハイランドは大陸の西にある王都エレンガルドとその周辺だけで栄え、東は放置された巨大な森林とかつて大魔王に滅ぼされた広大な焦土が残されている。だが白く輝く大理石に覆われたエレンガルドの町並みや、東の境に建てられた勇者の壁ダインブルグの大障壁を見ればわずか三十年で女王エレオナが成し遂げた事跡は疑うべくもない。

 謁見の間、装飾の凝らされた列柱や掛け布が立ち並ぶ、広大な石造りの広間には二人の人物の姿があった。階の上にある豪奢な椅子に座した女性は気高く美しい女王エレオノールその人であり、恐縮して片膝をつき頭を垂れている、白銀の鎧に身を固めた壮年の男が銀の槍の騎士、白銀の騎士団長ヒュンケルトであることを知らぬものはハイランドの民に一人もいないだろう。忠実な騎士団長は視線を床面に下ろしたまま彼の主君に言葉を上げる。

「申し訳ございません、陛下。ポールの件がかの女の耳に届きましたようで、調査官の報によれば女は一足違いで村を立ち去ったらしく捜索を続けておりますがいまだ足取りは掴めておりませぬ。出立に際していささか手の込んだ工作をしていることからも、こちらの動向に気がついてのものと見て間違いないと愚行いたします」

 ヒュンケルトは面を上げぬまま、部下からの報告を正確に上奏する。白銀の騎士団は三十年の間、大陸に余すところなく足跡を記したという精力的な働きによって、これまでも騒乱の種を未然に摘み取ってきたと言われている。鋼鉄の王クルトバーンが王都を、騎士団長ヒュンケルトが辺境を守ることでハイランドは復興にすべての力をそそぐことができた。

「鼠の件につきましては、共同地区の下水溝に繋がる水路に落ちたところまでは確認ができておりますが、やはり所在が明らかになっておりませぬ。それにしてもクルトバーンめ、しょせん獣の仕事のようで、彼奴めは鼠を討ち取ったと報告しておりますが死体が見つかるまでは追跡を続けるよう陛下からも釘を刺して頂きとう存じます」

 信頼する騎士団長の報告を受けながら、処女王エレオナは優美な白い手を口元にかざし思索に耽っていたが、姿勢を直すとゆっくりと口を開く。

「メアリが如き、あのような下賎の女に価値はありません。そなたの功はポールを討っただけで充分過ぎるほど、ただ鼠に関してはそなたが言う通り所在が明らかになるまで捜索の網を広げるべきでしょう。クルトバーンは無能者ですが、余への忠誠が揺るがぬならあれはあれで良いのです。そなたと異なる分野であれば、あれほど頼りになる者も少ないのですから。
 確かにテオドールを捕らえるにあの者では荷が勝ちすぎたようですが、そなたが遠征中であれば致し方ありますまい。クルトバーンには余から適当な褒美を与えてくだんの下水溝を浚わせますから、そなたには逃げ出した鼠がもう一度潜伏したとして動くことを望みます。捕らえた者どもは不要なら処分して構いません」

 かつて大魔王の軍勢に対抗してともに戦い、後に世界の復興に力添えをすると請け負いながら反旗を翻した鼠は確実に討ち滅ぼさなければならなかった。ポールやメアリ、テオたちはしょせん新しい世界で生きることができない不穏分子でしかなく、世に騒乱をもたらす病原体であるならばそれが旧知の者だとしても排除する以外どのような方策があるだろうか。
 新しい統一国家ハイランドだけが臣民を救うことができるのであれば、ハイランドとその臣民たちを否定する地下の鼠族どもは確実に討ち滅ぼさなければならない。そのような闇の底辺を這い回るものに限ってその存在はしぶとく、虫と同じく容易に絶滅することはできなかったが女王が世界を光で満たせば虫どもが生きていける場所は確実に少なくなるのだ。

 白銀の騎士ヒュンケルトは鋼鉄の王クルトバーンと同様に、かつて大魔王ハンに仕えて軍勢を率いていたが勇者ダインとエレオナ姫に出会って光の善なるを知り、勇者とともに大魔王を打ち倒した後は女王となったエレオナを助けて世界の隅々まで光を届かせようとしている。美しい果樹園に繁る木々を慈しみ育てるのが女王の役目であれば、果樹園に群がる毒草の芽を摘み取り毒虫が徘徊せぬように追い払う責務を受け持つ者が必要だった。ヒュンケルトは深く頭を沈めてから、許しを得て顔を上げると彼の主に問う。

「ところで陛下。例の女のいた村については如何致しましょう。辺境の村であるゆえ、ポールの村と同様にいつ野盗や魔王軍の残党に襲われぬとも限りません。巡視の兵を送ったほうがよいやもしれませぬが」

 忠実な騎士団長の言葉に、エレオナはゆっくりと首を横に振る。

「村に危機が訪れることで女が戻ることは確かにあり得るでしょう。ですが、ことが誤って伝えられればハイランドの大義に傷がつくこともあり得ます。メアリは少数の人間を守る程度の才腕は持った女ですが、人を導き大計を為すには縁のない小人です。そのような小物を相手に正義や大義を失うのは愚か者のすること、世界に平和と秩序をもたらしたハイランドの騎士は常に正道を歩んでいなければなりませんよ」

 忠実で有能な白銀の騎士を諭すように告げると女王は右手を軽く挙げた。退出を促す合図にヒュンケルトは階の上に座している美しく気高い処女王に深々と礼を捧げると、立ち上がってきびすを返し謁見の間を辞した。その姿が視界から完全に消えるまで視線を追った後、黄金の雨にも例えられる長い髪を軽く振ったエレオナは一人自分自身の思索の海をただよい始める。彼女の光で世界を照らしつづけるために。

 辺境に隠れ潜んでいたポールをヒュンケルトが討ち取ったことは、エレオナにとって一番の朗報である。かつて大魔王の軍勢を打ち倒すべくポールがどれほどの手練手管を尽くしたか、彼女は大魔導士ポールの才腕をきわめて高く評価しており、それは尊敬とともに畏怖の対象でもあった。そして勇者ダインと大魔王ハンが倒れた後、そのポールが新しい世界に背を向けたことはエレオナに疑念を抱かせずにはいられない。エレオナはポールがいずれ彼の実力と才能にふさわしい野心をもって、新しい世界にあの時と同じような黒い穴を穿つだろうことを確信していた。
 だがエレオナには統一王国ハイランドの女王として世界を救い出す者としての責務があり、ただ一人の逃亡者を相手にして彼女の貴重すぎる時間を費やすことはできなかった。大魔王ハンとの戦いに傷ついた町や街道はことごとく再建せねばならず、いまだ町も街道も人の往来すら困難な状況では捜索も徹底しようがない。

 それでも彼女が世界の復興に手をつけてから三十年の時を経て大魔導士ポールを遂に討ち取ったのみならず、あと一歩であったとはいえテオを追い詰めたことは彼女の光が大陸の隅々まで届くようになったことを意味している。エレオナが選んだ道は長く困難なものだったが、一度敷かれれば周囲を照らし邪な者が隠れる場所を奪う光の道だった。復興が進み、都が整備されて街道が敷かれていくに従い、卑劣な逃亡者の居場所は失われいずれ捕われて裁きの壇上に引き出されることになるだろう。
 かつて大魔王ハンが世界を暗黒で塗りつぶそうとしたとき、賢者アーベルに連れられた少年ダインの資質を「買った」ことはエレオナの人物評価の目と先見の明を示していた。だが出自の知れぬ田舎の子供に惜しげもなくハイランド王家に伝わる勇者の剣を与え、多くの援助を施したことはただ先見の明だけでできることではない。彼女は勇者ダインが残した鉱脈からもたらされる利益をすべて独占できる者として、一人祝杯を掲げたがそれは彼女が信じたダインが勇者にふさわしい人物であったことへの誇りである。あのとき、ほとんどの国が大魔王に屈服する中で最後まで正義を信じて力を尽くそうとした、少年ダインが勇者でなければ他の誰が勇者であったというのだろうか。

 世界でただ一人だけ大魔王を倒そうとしたのが勇者ダインであれば、伝説の戦いの後にただ一人だけ世界を救おうとしたのが女王エレオナである。勇者ダインの遺志はただ一人彼女だけが正しく継いでいる。エレオナは確かに帰らぬ勇者ダインの名前を利用しているが、勇者の名を借りて彼が守ろうとした世界を救おうとしているだけなのだ。
 ダインの意志を継いで人々を導く女王エレオナにはかつて勇者を助けた四英雄のうち三人が従っている。人々がダインを忘れぬように勇者を祀る祭儀を欠かさず、勇者の事跡を詩吟や絵巻にして伝え、生前に遡ってハイランドの大元帥の地位を与えたことに何の問題があるというのか。

 処女王エレオナがただ一人で治める世界にポールやテオが不安を抱いていたことは知っていた。だが彼女は大魔王のように栄光のためにただ滅ぼす者ではなく、ポールやテオのように不安を不平にしか転化できなかった者ではなく、まして滅びた列国の王のように己の目が届く範囲で保身を図る者でもない。滅亡の淵にまで追いやられた世界は彼女の白い手によって救われたのであり、彼女がそれを行うには勇者と姫君の物語に翳りをもたらすわけにはいかない。エレオナは人々にすべてを与えた代わりにただ一つだけ、ダインとエレオナを崇敬することだけを要求している。
 統一国家ハイラントの処女王エレオナが彼女の臣民に求めているのは、世界を救った勇者と世界を救った女王に従うことだけである。ポールやテオの不服従とは彼女のささやかな要求に傷をつける行為に他ならず、女王にすればとうてい許されることではない。無能だが忠実なクルトバーンは女王の意思を理解せずとも反意を示すことがなく、正義とは世界を救う大義であることを理解しているヒュンケルトは得難い存在だった。最高司祭マールは女らしく感情的なきらいがあり、女王よりもヒュンケルトへの忠誠を誓っているがそれはそれで構わない。何もエレオナは人間の心まで支配するつもりはなかった。

「辺境伯にも警備の強化を命じておきますか・・・」

 女王は幾つかの思索を脳裏で纏めると、私室でもある王城の執務室へと戻るべく玉座を立つ。勇者には従った彼らが女王に従うのは嫌なのか。伝説の戦いの英雄であり勇者を助けた、実力も人望もある者だからこそ許されないことがある。彼らはしょせん暗闇に息をひそめることしかできずとも矮小な小虫がいずれ伝染病の原因となり、一筋の毒煙が巨竜を打ち倒すこともあり得るのだ。
 ハイランドを統べる女王エレオナは世界に平和と繁栄を取り戻そうと日々尽力していたが、未だ道のりは遠く障害は数えることすらもできない。彼女の光で世界を満たすこと、それが勇者の遺志を継ぐ女王の望みなのである。

‡ ‡ ‡

 メアリの村を離れた少年と老戦士の旅は、最初から明確な目的があってのものではない。生まれてから村の外の世界を見たことがなかった少年が持っていたのは先生への思いとその先生から教わった記憶だけであり、火をおこす方法を知っていても自分で火をおこすのは初めてという頼りない子供に過ぎなかった。少年がどれだけのことを教わっていたとしても、それは教わったというだけで身につかなければ意味がない。老戦士がすべきことは少年に経験を与えることと、それまでの間、小さな危険や危難から少年を守ることである。あるいは知ることが不幸であったとしても、大魔導士ポールが残した子であれば知らない不幸よりも知る不幸を選ばせるべきだろう。

 野で獣を狩り、食べられる野草を探し、木のうろに身を預けて眠る生活に少年は当初こそ興奮と好奇心を見せていたが、やがて苦労と困難に飽きて屋根のある生活を懐かしむようになるまで三日を必要とはしなかった。街道を離れて深い森の道なき道を進み、湿り気のある土を踏み生い茂る羊歯の葉をかきわけ、狼の遠吠えや熊の足跡に怯える生活。少年が逃げなかったのは単に逃げる場所がどこにもなかったからに過ぎないが、大魔導士ポールもこの手の修行ではどうにか逃げ出せないものか泣きながら考えていたらしい、という老戦士の冗談に笑うだけの元気はあった。
 木の根を粉にして焼いたまずいパンと、塩だけで味つけをしたスープの食事にも慣れて皮のブーツと堅木の杖を頼りに森をひた進み、夜は外套にくるまって眠り、生木と獣皮の弦で小さな弓をつくり、野鼠を射て皮をはぎ調理できるようになるまでには月が幾度かの満ち欠けを体験することになる。

 少年が半人前の知識と技術を身につけて、その顔にも少しずつ表情が戻ってきたころには日の差し込まない森の中で彼らが向かっている先が東であることもわかるようになっていた。それまで這っていたような足取りも軽やかになり、木の上に登ってめずらしい味のする木の実を見つけ出し、枝に腰かけて先生の魔法の書に目を通す時間が生まれるようになる。
 彼らの旅が始まったころ、季節は春を迎えようとしていたが今では夏が近づいて周囲の緑は濃く厚くなっている。日々、遅々とした歩みを進めてひとところに留まることなく東に進み続けていた彼らはメアリの村を出て以来、はじめて視界が開けた丘の中腹から遠くを臨む場所に立つことができた。南東から流れてくる暖かみのある風が、頭巾に隠れた少年の顔をなで上げる。

「見えたぞ。あれが大障壁、勇者の壁ダインブルグだ」

 老戦士の言葉も聞こえないかのように、少年は目の間に突然広がった光景に圧倒されていた。陽光の下にそびえている石造りの防壁は家を五つ重ねたほどに高く、それが視界の左右、南北にどこまでも連なって果てを見ることができない。足がかりのひとつもない壁の上には張り出した通廊が設けられていて、それぞれが狼煙台のある塔で繋がれていた。巨大な防壁にはひとつだけ、境界の向こうとこちら側を結ぶ巨大な門が構えられていて整備された一本の街道に続いている。
 勇壮という言葉だけでは表すことすらできそうにない、巨大な防壁はだが少年に崇敬の念よりも畏怖の思いを抱かせる。いまだ遠く見える防壁の上には、ハイランドのものであろう旗が翻っており陽光を照り返す槍先が掲げられていた。通廊が張り出しているのであれば防壁は王国の外からではなく、中から外に出ることも防ぐために設けられている、少年は自分が感じた畏怖の正体に気がついていた。これは防壁ではなく、自分たちを囲う巨大な柵なのではないかと。

「ハイランドは西にある王都エレンガルドと東にある大障壁ダインブルグ、その両者をつなぐ街道でできている。三十年前はもっと多くの国が世界には存在していたが、どれも大魔王に滅ぼされるかそうでなければ三十年の間に廃れてしまった。壁の向こうには魔王軍の残党が暮らしていると言われていて、大障壁はそれらから国を守るために復興と同時に建てられてから増築を繰り返して今の姿に至っている。つまりあの壁こそが世界の果てというわけだ。
 お前には二つの選択肢がある。街道を外れて適当な村に身を隠すか、あの壁を越えてハイランドのくびきを逃れるか。どちらも安全ではありえないが、お前のことが王都に知られていなければ身を隠せるかもしれないし、大障壁の門はたびたび開くこともあるからくぐる機会はあるかもしれない。いずれにせよ、お前にはお前自身がどう生きるかを選ぶ権利があるし、お前がどの道を選んでもわしはお前を助けることを約束しよう」

 老戦士の声は優しく、だが毅然として現実から目を背けることを許さない。少年はすぐに決断をすることができなかったが老戦士も少年に答えを急がせようとはしなかった。それから四日の間、二人はダインブルグに向かって遅々とした歩みを続けていたが、視界に映る大障壁の姿がばかばかしいほど巨大になっていくに従い楼上を行き来している衛士の姿も大きくなっていく。はるか頭上から感じられる視線が突き刺さるかのように思われたが森の木々や茂みに身を隠し、野営の煙や灯りが見えぬようにする術を少年はこれまでの旅で身につけていた。
 二人が大障壁ダインブルグを目にしてから四日が過ぎた夕刻、日が落ちて周囲に暗闇の支配が及びはじめるころ、少年の耳に石畳を蹴立てるいくつもの蹄や軍靴の音が聞こえてくる。息をひそめて、木々の合間から慎重に街道の様子を窺うと舗装された街道を通り過ぎていく白銀の鎧の一団がダインブルグの門へまっすぐに向かう姿が目に入った。鎧の一団に遅れること半刻、数人の男女と彼らの持ち物であるらしい荷車が現れる。重く緩慢な足取りの彼らはひどくやつれ、くたびれており、一見したところ遊牧民か商人の小さなキャラバンに見えるが全員が両の手首を縄でしばられて口には布を咬まされていた。

「あれは、闇商人だな」

 呟いた老戦士の話では、闇商人とはハイランドを東西に貫いている街道を外れて違法な商売を行っている商人への呼称だった。ハイランドは西にある王都エレンガルドと東の大障壁ダインブルグでできている国であり、互いをつなぐ街道は主に軍団が利用する程度だが人が暮らしていれば様々な商品のやり取りが起こらないはずがないし、街道沿いの宿場や点在する集落も存在しないわけではない。
 だが王都から大障壁に至る主街道を往来して通商を行うには多額の安全保障税を王国に納めなければならなかった。将来はいざ知らず、今のハイランドで通商が行われる最大の理由は大障壁の守りと復興の支援と街道の保持、つまり軍団に関わる人々を客にしての商いだったからこれをあまり自由にすれば軍団の動きを商人が抑えることになってしまう。だから街道を往来する商人は国が認めた少数の者しかおらず、それ以外は王都の中で許された商いだけをしなければならない。それは開かれた市場ではなかったが復興途上であれば仕方がない。

 多額の安全保障税を納めることができる少数の者となれば古くからハイランドに従っている者だけで、既得権を持たない新興の商人には縁のない話だった。しぜん、それを逃れて一攫千金を狙う者たちが登場し、彼らは軍団付きの商人が用意できなかった物資を運んだり、街道から外れた村で市場を開いたりしていた。ハイランドは彼らにも納税を求めてそれに従っている良心的な者も多かったが、あくまで安全保障税を逃れている者が闇商人と呼ばれている。荒廃した国を復興し、破壊された街道や建物を修復する軍団を助けるための商人が、多額だからという理由で税を逃れて私服を肥やすとなれば取り締まるのは当然だった。
 ハイランドでは巡視隊を統率する白銀の騎士団長ヒュンケルトが司法警察権を有しているため、国内を巡回してこれを取り締まり拘禁することが許されている。その後の処罰は通常、王都エレンガルドに移送されてから最高司祭長マールが取り仕切る大神殿で裁判を受けることになっていたが、大障壁の周辺で捕らえられた者は手続きを簡略化されて私財のことごとくを没収された挙げ句、壁の向こうへの追放刑にされる例も少なくなかったのである。

「それがよいこととは思わないが、商人の活動を統制したいハイランドの意図も税に反発する闇商人の言い分もわからないではないな。復興に手を貸さぬというのであれば国の恩恵も受けるべきではない、それを名目に追放刑にしているのも往来が限られた中でいちいち王都まで連れて行けない、というのが本音だろう」

 視線の向こうで、つながれた闇商人たちがダインブルグの巨大な門に達するにはまだ一日二日はかかりそうに見える。気の毒な話ではあるが彼らは無実の罪を着せられようとしているのではなく、罪に対して罰が重いか否か疑問が残るという話でしかない。いずれにせよ少年と老戦士が白銀の騎士団を蹴散らして捕われた人々を解放できるわけでもなく、できたとしてもそれを行いはしなかったろう。少年が知りたかったのは騎士団から人々を助け出す方法ではなく騎士団が少年の村に火をかけた、その理由だったのだから。

 数日が過ぎた夜、一団は街道の脇で野営を行うと、闇商人たちは手首をつながれたまま女性も老人も子供も構わずに狭い天幕のひとつに押し込められていた。足取りを見るに明日にはダインブルグの門に到達するらしく、緩慢に曵かれていた人々もごく数日後の未来が見えぬままに不安な表情を覗かせている。おそらくはこの不安も罰のひとつなのであろうと思いつつ、少年と老戦士は天幕ではなく閉ざされた大障壁の門に向かう。
 野生の獣でなければ気がつかぬであろう動きで、音もなく近づくと木々の合間から周囲が窺える場所に身を隠す。このていどは森の中で老戦士と進んだ道なき道に比べれば労苦ともいえず、巨大な閂が下ろされた門脇に立つ衛士の目も、防壁の上にある通廊を行き来している兵士の視線も二人を捉えることはできなかった。その日は好天で、ダインブルグから見渡す景色はさぞ広壮なものであったろうと思わせる。

 やがて日が落ちて沈むころになると、ようやく街道の向こうから闇商人を連れた騎士団が現れてゆっくりと門の前にたどり着く。少年と老戦士はその間ずっと離れた木々の陰に隠れていたが、追放刑が王都への移送と裁判を簡略して行われるのであればそれはあまり目立たないよう密かに行われるに違いなかった。更に時が経ち夜半も過ぎて、防壁の上に合図の灯火が光ると門が小さく開かれる様子が見える。少年と老戦士は待ち構えていた瞬間に素早く行動を起こした。

「LEMOR」

 それは先生の魔法の書に記されていた、少年が生まれて初めて用いる魔法である。姿を透明にして身を隠す術はたちまち少年と老戦士の姿を薄闇にかき消してしまった。
 いかに姿を消していようと、日の下で閉ざされた門をくぐるなど不可能事である。だが夜陰にまぎれて姿を消した二人があらかじめ門の傍らに隠れているとなれば話は変わってくる。むろん門が開く瞬間は衛士も周囲に目を配るだろうが、その後は近づいてくる騎士団と罪人に気をとられて透明な二人に気がつくことはできなかった。

 夜陰に姿を現した騎士団は縄につながれたままの人々をまるで牛馬を曵くように連れてくる。衛士の注意が彼らに向けられた瞬間を見計らって、少年と老戦士は姿を消したまま傍らをすり抜けるとダインブルグの大障壁をくぐり抜けた。足音を殺し、息をひそめて物陰を見つけると姿を消したままで身を隠す。あとは入るときと同じように、衛士の注意が罪人に向いている様子を見て門を離れればよかった。
 開かれた門の隙間に乱暴に押し込まれた人々は、あきらめたようにおとなしく従った者がほとんどだが布を咬まされうめきながらも抵抗を試みた女性は地面に叩きつけられると鉄靴の先でみぞおちを蹴り上げられて、泡を吹きぐったりと動かなくなったところを引きずられて門の向こうに放り投げられる。少年も老戦士も、その様子を見ながら今さら彼女を助けようとはしなかった。大障壁を越えた、世界の果てがどのようになっているか知っているのはその大障壁から世界を見晴るかすことができる者しかいない。

 まずは知らなければならない。少年が生きているのがどのような世界であるのか、なぜ先生と少年の村は火に焼かれなければならなかったのか。真実を知ることを望んだ少年と、少年を助けることを選んだ老戦士は姿を消したまま、背後で門が閉まる音を聞くと地面に転がされている女性の手首の縄だけを解き、急いで東に歩みさる。この程度のことでさえ何の証拠も残さないよう、切るのではなくゆるめるだけにしなければならなかった。日が昇った後で自分たちが見ることになる光景を、そのときはまだ少年も老戦士も想像することができなかった。


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