七章.そして伝説は


 統一国家ハイランドの王都エレンガルド。天空を差す大神殿の突端、鐘突き堂に響く荘厳な音が見下ろす正義の広場にさらされた罪人の首はいぶされて黒ずんでおり、はがされた顔の皮膚が異臭を放って生前の邪悪さを思わせる醜さを道行く人に見せている。汚れた骸の首から下は細かく刻まれると自然に還すために豚舎の飼料とされており、かわりにねじくれた黒木の幹で作られた胴体が用意されてその上に首がすげられていた。
 広場を行き交う人々は大神殿への礼参や陳情に、裁判や演説の傍聴に、市場や王城への通り道に、あるいは貧しい者たちであれば麦の配給を受けるために訪れている。厳粛たることを求められる勇者の慰霊の日を除けば石畳の上には日々人々の声があふれ、夜も往来する轍が立てるがらがらという音が響いているが、邪悪で不吉なメアリの首にあえて近よろうとする者は誰もいない。だが彼女がもたらした不吉な噂、勇者が帰還する予言は多くの者が知っていた。

「メアリも・・・死んだか」

 光にあふれる王都エレンガルドにあってなお、正義と秩序の光が差し込まぬ数少ない場所は存在する。かびくさい石壁に囲まれた古い宗教の地下墓地の更に下層にある隠し部屋で、鼠のテオはまだあまり動かぬ身体を横たえていた。かつて獣王遊撃隊の指揮官を務めた、人間と手を結ぶことを選んだ大鼠が今ではいかにも鼠らしく日の届かぬ場所でうごめいている。
 鋼鉄の王クルトバーンの斧を受けたテオがレジスタンスの仲間に助けられて意識を取り戻したとき、埋葬される遺体のように布を巻きつけられた身体には一切の感覚が失われていた。この鼠を誰も死なせようとはせず考えられる限りの治療の技術や癒しの魔法が尽くされて、テオは以前に失っていた左腕の他に顔の左半分を失い、血が失われて腐った右足も切り落とさざるを得なかったが命だけは永らえている。断ち切られた骨と筋肉を強引に繋ぎ止めるために巻かれた布は身体の一部と化しており、それでもテオは全身の力を使って言葉を発し、仲間を動かし、情報を集めてハイランドに抗う組織を率いていた。

「噂の予言は虚言かもしれんし妄言かもしれん、だがそれは彼女が何もなく思いつく内容だろうか」

 大魔王ハンが倒れて伝説の勇者ダインは帰らず、デミルーンは掃討され、大魔導士ポールは死に、占い師メアリは処断されて獣王遊撃隊長テオはかつての肉体を奪われた。世界を救おうとする女王エレオナの事業は完成に近づいていていずれ光が闇を駆逐して世界を覆い尽くす、そのときが近づいていることは誰の目にも明らかだった。

「鼠にできるのは仲間を呼ぶことだけ、呼ばれた仲間には迷惑な話さ」

 動けぬテオの下に昼夜を問わず、暗躍する彼の部下から数多くの情報が集められてくる。獣王遊撃隊で戦士として優れていたのはいわずとしれたクルトバーンであり、戦いを願い出た怪物たちの誰もがテオに勝る力を持っていたが大鼠は彼らを率いて勇敢に戦うことができた。ダインでなければ非力な彼が最も勇者に見えたと語る声もあったほどで、ダインに継ぐテオの人望は三十年を過ぎた今も存在している。だからこそ寝台の上で腕も足も満足に動かぬ鼠を、世界を統べるハイランドの騎士団や近衛兵団が躍起になって探していた。
 メアリの予言は荒唐無稽な作り話にすぎないのかもしれないが、この世界で女王に勝るただ一つの権威は勇者ダインの伝説しか存在せず、その原典を女王自身が手にしていることがハイランドを支える強固な地盤になっている。魔王も勇者もいない世界でロトの剣は女王が手にしていた。

 三十年の間、女王エレオナや騎士団長ヒュンケルトが国を統治するための強力なシステムを構築したように、地下に潜行したテオも三十年をかけて彼の能力のすべてをあげた諜報網を育て上げている。ハイランドの各地に伸ばされた根も火に包まれたポールの村から生き残った少年の存在は未だ知らなかったが、辺境伯が襲われて襲撃者が大障壁をくぐり抜けたらしい事件はテオの耳にも届いていた。

「面白い事件だ。辺境伯の屋敷では二人の衛士が襲われたのに、衛士の姿をして大障壁を抜けたのは三人。単に数が合わないだけだが、いくらあの太った坊ちゃんでもこの程度の数を間違えるとは思えん。ヒュンケルトも追っているだろうがな」

 ダインブルグの東が流刑地となっており、文字通り何もない荒野が広がっていることをテオは知っていたがだからこそ女王の命でヒュンケルトが構築した王都と大障壁のシステムがどれほど優れているか、わずかなほころびすら見つけることが難しいかを充分に承知していた。衛士の扮装をして辺境伯の書状を手に大障壁を突破する、それが成功した理由は衛士の姿も辺境伯の書状も容易に準備できないからこそ、偽物が現れることを疑う必要がないからこそ可能になる。追跡を承知で逃亡を成功させていることといい、狡猾な動きは素人のものと思えない。
 いずれにせよ無能者の辺境伯はともかく、騎士団長ヒュンケルトが自ら王都を出て逃亡者の追跡に当たっていることはテオの耳にも届いており捜索は徹底したものになるだろう。巡視隊の警戒点は三十七箇所に用意されているはずだが今のところ逃亡者が見つかったという報はなく、彼らが巡視の目を巧みにすり抜けていることが知れた。次々と手元に送られてくる情報から、これらの事情をテオは正確に読み取ることができる。

「ヒュンケルトの哨戒網は完璧だが、残念なことにそれが唯一の欠点だ。完璧だから必ず計算された行動をとる、予測する者にとってこれ以上に楽なことはない。つまりヒュンケルトが今どこにいるか、俺にわかるなら逃亡者にもわかるだろう。問題はそれを知って彼が何をするか、俺はどうするかということだな」

 銀の槍の騎士ヒュンケルトのような優れた人間は百回戦えば百回すべてを有利に戦うことができる。だがそれは有利というだけでほとんど勝つだろうが必ず勝つとは限らない。偶然やまぐれで結果が変わることは仕方がないと受け入れるのが優れた人間というものだ。そしてこの「受け入れる」ことに落とし穴を掘ることによって、相手が喜んで負けることを受け入れるように誘い込むのが詐術というものであり、かの大魔導士ポールが得意としていた領域である。
 テオは考えている。大障壁ダインブルグをくぐり抜けた逃亡者が、ポールもテオもメアリも逃れることができなかったハイランドの哨戒網を相手にして未だ捕まってはいないという事実を。それは偶然かもしれないし、まぐれかもしれないが寝台に横たわる鼠を高揚させるには充分だった。

「会ってみたいな。伝説が終わってから三十年が過ぎて、大魔導士ポールを越えるトリック・スターがいるものなら」

 彼らが追跡を承知で身を隠しているとすれば、それを永久に続けることができないことも理解しているだろう。彼らがどこを目指しているかはわからないが、テオのようにハイランドに抵抗する勢力が存在するならばそれに接触したいと考えても不思議はない。そしてハイランドの秩序に従わぬ逃亡者を容易に発見できるのがヒュンケルトのシステムならば、テオがすべきことは逃亡者を探そうとするヒュンケルトの動きを見張ることであった。
 逃亡者とヒュンケルトがデミルーンの方面に向かうことはテオの想定の一つにある。勇者ダインの生地でありながら、魔物の巣窟として掃討された孤島はハイランドの復興から除外されて人の立ち入りも許されてはおらず、それは巡視隊すら例外ではなかった。ハイランドに従順な者がデミルーンに向かうことなどありえない、そこは逃亡者が隠れるに適した場所でヒュンケルトが警戒を強めるだろう場所である。

 もしも彼らが危険を承知でデミルーンを目指すならそれは消極的にハイランドの哨戒網を避けた結果であるか、あるいは能動的にデミルーンの惨劇を知るために赴くのか、それとも禁じられた地に足を踏み入れることで騎士団長ヒュンケルト自身を誘うことはできないか。思考を重ねているうちに疲労を感じたテオは、意識せず動かぬ身体でわずかに寝返りを打っていた自分に気がついた。どうやら自分の身体にもまだできることがあるらしい、そう考えると献身的な部下を呼んで少しだけ身体を起こしてもらうように頼む。
 ゆっくりと首を左右に曲げることだけに全力を使い、わずかな血を頭に巡らせると思考を再会する。彼の予測には多分に希望的観測が含まれているが、テオやヒュンケルトと同様、逃亡者も予測をもとにした計画的な行動をとろうとする人物であれば彼らは三人が三人とも同じ場所を目指すだろう。テオはそのような人物を他に二人知っている。ハイランドの女王エレオナと死んだ大魔導士ポールである。

「もしも俺とヒュンケルトのゲームに彼が参加してくれるなら、こちらの勝利はヒュンケルトに捕まることなく互いが合流したときだろうな。逆に俺と彼のどちらかを捕まえればヒュンケルトの勝ちになる」

 呟くとテオは別の部下を呼び出して、克明な指示を与えてから短いが深い眠りについた。肉体の損耗を補うために消費される彼のエレルギーは膨大なものだったが、奈落の底で仲間たちを率いて世界の支配者に抗うためのそれは更に膨大だった。その状況でテオはようやく寝返りを打つことができた自分の身体を叱咤して、腕と足を一本ずつ失った身でいずれ歩けるようになるために必要な訓練の模索を始めている。現実を従容として受け入れるには鼠は欲が強すぎた。
 今は自由に動かぬ身を横たえたまま、鼠は一つだけ残されたまぶたを閉じるといつもの悪夢の世界へと誘われていった。

‡ ‡ ‡

 統一国家ハイランドで白銀の騎士団を率い、王都周辺から辺境まで広がる巡視隊を統率する銀の槍の騎士ヒュンケルト。鋼鉄の王クルトバーンと同じくかつては魔王軍の一員として勇名をうたわれた将軍であり、勇者ダインともたびたび矛を交えたが翻意してハイランドに身を投じた者である。
 剽悍でしなやかな肉体は野生の豹を思わせ、三十年の月日を経てもその肉体には一片の脆弱さも窺えず、異名にふさわしく馬を駆って槍を握れば今でも大陸で右に出る者はいないとされる豪傑だった。そして純然たる戦士であるクルトバーンに比べてヒュンケルトは彼自身が戦士であると同時に一軍を率いる指揮官であり、冷徹な策謀家であり、緻密な軍略家でもあった。クルトバーン、マール、そしてヒュンケルトとハイランドに仕える三人の英雄がいる中で、彼が筆頭として女王に最も信を置かれているという事実がそれを証明している。

「重厚な鎧に身を固めてもなお軽騎兵のように立ち回ることができる。にも関わらず戦士としての力に溺れることなく兵士を縦横に操る術を知っているのがヒュンケルトという男だ。鋼鉄の王クルトバーンは愚直なほどの武人であり戦士であり、頑固で融通が利かぬとは言われているが人を遥かに凌駕する頑健な肉体と大力には並ぶものがなく、重い戦斧を片手で振り回す膂力は今も健在だろう。そして神の槌マールは女性ながら優れた闘士だが、より以上に恐れられていたのは時に傷を癒し、時に刃を生み出す司祭としての奇跡と他の二人に勝る厳格で容赦のない苛烈さだった。
 わしは大魔王との戦いには関わるまいとしていた臆病者だから彼らと関わる機会は少なかったが、他にもお前には説明するまでもないトリックスター、大魔導士ポールや獣王遊撃隊の指揮官を務めた大鼠のテオドールといった方たちがいて、彼らの勇名はハイランドだけではなく大魔王ハンの軍勢にも聞こえていたほどだ。
 だが大魔王に対抗する勇者の軍勢として、実際に人々を牽引する原動力となっていたのは疑いなく勇者ダインの正義感だったとわしは思うよ。魔王軍の将であったクルトバーンやヒュンケルトまでがダインの純朴な心に打たれ、能力のすべてをあげて彼を助けようと誓った。大魔王ハンは圧倒的な力と神々すらねじふせようとする強固な意志で軍勢を従えたが、世界中が絶望しても決してあきらめなかったのが勇者ダインであり、最後まで勇者を信じて疑わなかったのが大魔導士ポールとエレオナ姫ではなかったろうかと思う。伝説の戦いに勝利して後、果たしてあの戦いの後もダインが生きていたら今の世界はどうなっていただろうかと思うことはある」

 老戦士の珍しく長い述懐を聞きながら、さいはての島デミルーンを後にしていた少年たちは海流に乗って大陸に戻ると再び身を隠していた。丸木を繋いで組み上げた舟はそのまま海に流すことも、焼いて灰にしてしまうことも考えたが、いずれも良い案とは思えず手早く解体すると埋めてしまうことにする。これでハイランドの追っ手に見つからないとはとても思えなかったが、すでに引き返すことができない場所に立っている彼らがいつまでも哨戒網から身を隠したまま無事に逃げおおせるとも考えてはいなかった。
 三十年間の歴史と伝説を描いたハイランドの絵巻には塗りつぶした絵の具の下にある多くの文字が隠れている。歴史を主導する王都エレンガルドと伝説を守るダインブルグの大障壁、世界を分断して不要なものを押し込んでおくために作ったホープの跡地とそれらを行き交う軍隊のための街道。知ることが許されない事実にたどり着いた少年に引き返す道は残されていなかったが、炎に包まれた村と先生の姿を思い、メアリの寺院を旅立ってから彼の旅は途中で断絶させられることがない限りあきらめることも他の場所へ向かうことも決してありえない。そのことを少年も老戦士もよく知っていた。

「ヒュンケルトが構築したハイランドの哨戒網がどれほど優れたものか、お前はそれをよく知っているだろう。三十年もの間、この世界を築いていた一方でハイランドは執拗にお前の師父ポールを追っていた。だがそれはポールを見つけるために三十年の時間が必要だったのではなく、三十年の時間をかけてポールのような者をすぐに見つけることができる世界を彼らはつくりあげたのだ。
 ハイランドに反抗する者はすぐに発見されて捕縛される、それがこの世界だ。わしらの正体はまだしも、大障壁を抜けたわしらがデミルーンに渡ったことはすでに知られていよう。島から大陸に戻る海流は一つきりで、上陸できる場所も限られているからどれほど街道を避けたとしも見つからずに逃げることは難しくなってくる」

 老戦士に言われるまでもなく、少年が考えていたのは狭まりつつあるハイランドの哨戒網を逃れながら、おそらくどこかに潜伏しているであろう抵抗勢力、反ハイランドの旗を掲げる者を見つけ出すことだった。もしもハイランドにも王都エレンガルドにも一切の不穏分子が存在せず、世界がただ一つの思想の下で統治されているのであれば彼らに未来は存在しないが、どのような世界であれ人間の集まりに反対する別の人間が存在しないことはあり得ない。そしてハイランドで抵抗勢力が存在するのであれば、それは滅ぼされた辺境よりも哨戒網自体を見張ることができる王都かその周辺に居住しているに違いなかった。
 ここまで少年を見守り、従ってきた老戦士でさえもデミルーンから先の未来は見えていない。それまで彼らの存在は知られていなかったからこそ、道なき道を進むことでかろうじて見つからずにいたが辺境伯を襲って大障壁をくぐり、デミルーンに渡った者をハイランドが放置することはもはやないだろう。ハイランドへの抵抗勢力を探し出し匿ってもらうことが現実的ではないか、老戦士はそう考えていたが少年の思惑はそうではなかった。自分たちがハイランドに追われていること、その自分たちと接触を望む者がいるだろうこと、それらを承知した上で少年が考えたのはどのようにすればハイランドの指揮官を迎え撃つことができるかということである。

「本気か?あのヒュンケルトと、戦うなど・・・」

 武器を手にしたこともない少年が、戦士としても将軍としても百戦錬磨のヒュンケルトを相手にできるはずがないし老戦士でさえ数回打ち合う間に殺されるであろうこと疑いない。少年は森で生きるために罠をかけて弓を放つことはできるが、銀の槍の騎士がそんなものにかかるとも思えなかった。だが老戦士には他に思案があるわけではなく、むしろどのような結果になろうともこの先は少年の決断を受け入れることに決めている。殺されてもそれを惜しむほど短い人生は生きていなかった。

 少年が目指しているのは街道を西に外れて数日奥にある、森の中に広がっている湿地帯である。そこに潜んで哨戒の兵を誘い、待ち伏せるための準備を行う。エレンガルドとダインブルグを繋ぐ街道はハイランドの背骨であり、巡視や哨戒の兵を除けば街道を外れた地域に立ち入ることはふつう許されていない。それは裏を返せば、たとえハイランドの騎士団でも街道を外れた地域に始終立ち入っているわけではないということでもある。
 相手は軍隊ではあるが、大勢が二人を相手に大軍で襲いかかるわけではなく包囲の網を広げて捕まえる以外の手はありえないだろう。少年にすれば逃げるのでなければ勝機は指揮官一人を打倒するしかなく、銀の槍の騎士ヒュンケルトと戦うなどまともではないが他に方法がないのだから仕方がない。どうせ失敗したところで失われるのは少年と老戦士の命だけだから安いものだった。

 白銀の騎士団を率いる銀の槍の騎士ヒュンケルトは、巡視隊から逐次届けられる報告に仔細な指示を与えながら自らの部隊を街道の西へ進めていく。これまで発見されている逃亡者の痕跡から相手は二名、念入りに足跡を消している技術が素人のものではなく警戒の必要を感じさせる。沿岸に残されていた舟の残骸を見ても、彼らがデミルーンに赴いていたことは明らかでハイランドとしては看過できず、万が一にも包囲の網の目から逃げられてよい相手ではなかった。
 遺棄された舟の残骸を十二番隊が発見してからすぐ、広域に散開させた巡視隊の網の内側に逃亡者がいることは間違いなくそれはこれまで見つけられた少ない痕跡からも明らかである。完璧な包囲網を少しずつ、根気よく狭めているから時間はかかっているが突破を許さない自信がヒュンケルトにはあった。すでに逃げ場がないことに絶望した獲物が自棄になって姿を現したとき、狩りが始まるそのときまで彼らには追い詰められる恐怖を与え続けておけばよい。

 逃亡者の足取りを見るに、その行き先が街道を数日西に外れた奥にある湿地帯にあるらしいことが知れる。逃げながら痕跡を最小限にとどめている手際のよさや、身を隠すに適して大勢が立ち入るには不向きな湿地帯を選ぶ判断力にヒュンケルトは感心させられるが完璧を旨とする銀の槍の騎士は三十年の間にこの近隣の正確な地図すらも調べ上げて用意していた。

「相手は少数だ。襲撃を恐れるのではなく逃げられることだけを憂慮せよ」

 馬上からヒュンケルトは十二番から十六番までの五つの隊と、彼自ら率いる本隊に湿地帯の周辺を確保させる。多湿で森と融合している湿地帯には茂みと木々と沼沢とが入り組んでおり、時刻や天気によっては霧がちにもなって視界が悪く追跡には難しい場所となっている。もしも彼らを追っている者が銀の槍の騎士ヒュンケルトと彼の騎士団でなければ、逃亡者にも逃げおおせる機会は与えられたかもしれなかった。
 ヒュンケルトは自ら率いている二十名ほどの本隊を森に踏み込ませながら、散開させている五つの隊は沼沢地の周辺を包囲させたまま連携して逃げ道を塞ぐことだけを伝える。網を広くかけて、出口を塞いだらその中で獲物を追い回せばいずれ弱った獲物は動くこともできなくなるからあまり皆を集めて薄い箇所をつくる必要はなかった。包囲網はすでに完成していて、仮に日が暮れたとしてもかがり火を焚けば互いの場所が知れるところまで兵の配置は整っている。狐を狩るときと同じで獲物を見つけても無理には追わず、包囲の外に出さぬことにだけ徹してあとは猟師がしとめるのを待てばよかった。

 街道を外れた地域の捜索を騎士団長のヒュンケルトが自ら行うことは当然で、しかもこれだけ複雑な地形であれば逃げられぬように周辺を完全に固めてから一隊で追いまわすことも少年には容易に想像できた。そして視界も足場も悪い沼地で狩りを行うには優れた猟師の腕を持ち、誰よりも地勢を把握している者であることが望ましい。少年が老戦士に聞いたヒュンケルトの人となりであれば、その役目を自ら買って出るだろうとも考えられた。たった二人の逃亡者が銀の槍の騎士団長を倒せるなどそもそも誰も考えてはいない。
 無為無策で逃げるだけだったメアリとは異なり、これまで追跡を逃れ続けてきた慎重さや大障壁を抜けてデミルーンに渡る大胆さ、追い詰められてなお複雑な湿地帯を利用する逃亡者の狡猾さをヒュンケルトは正当に評価している。久々に狩りがいのある獲物を相手に心地よい緊張感を覚えながら、馬上の騎士団長は部下たちに指示を伝えていた。

「沼地には東、北、北西、そして西と南の五本の入口がある。我が本隊は東から侵入、十二番から十五番隊は他の四本の入口を抑えて、十六番隊は伏せるに適した繁みのある南西に向かえ。各隊は烽火とかがり火を焚いて互いの位置を確認、配置完了次第本隊の突入をもって作戦を始める」

 ヒュンケルトの脳裏には地図に記された沼地の地勢が克明に刻まれている。彼に唯一の懸念があるとすれば日が落ちて視界が狭められることだったが、その日は月が昇れば満月に近く、空は乾いていて雲も少なければ霧が立ちこめる様子もなく、かがり火の中で獲物を見失う恐れがあるとは思えなかった。おそらく獲物は一見して兵士の姿が見えない南西に向かうか、あるいは無謀にもヒュンケルトの本隊に挑み東からの突破を図るだろう。熟達の騎士団長はそう考えると、兵士と兵士の距離を広く保ちながら木々の裏や茂みの中も見逃さないようゆっくりと本隊を進めていく。

「閣下!」

 警告の声と同時に獲物からの襲撃があったのは、ヒュンケルトの命令が本隊に行き渡ったその直後である。東の道を広がりながら進んでいた本隊の頭の上で、樹上に据えられていた弩から何本もの矢が放たれると吊るされていた丸木が落とされて振り子のように襲いかかった。どれも狙いはでたらめで、矢は一本も当たらず丸木は一人を驚かせて馬から落としただけだったがすかさず樹間から、今度はよく狙った矢が放たれると兵士の襟首に突き立った。どさりと馬上から人間が落ちる音が響き、兵士の間から動揺した声が上がる。
 慌てて近よろうとする部下を手ぶりで制すると、ヒュンケルトは味方を散開させたまま周囲への警戒を怠らないように語気を強める。周囲には広く空間ができているが、白銀の鎧兜に身を固めて馬上にあるヒュンケルトはたとえ襲われても返り討ちにできる自信があった。いざとなれば自分をおとりにできるからこその配置であり、むしろ持ち場を離れて獲物に逃げられることによほど気をつけねばならない。罠と弓矢の間に身を隠し、物音も立てず近づいた少年がもしもヒュンケルトを倒そうとすれば必ず失敗していただろう。だが引き絞った弩を手に現れた少年が唱えたのは先生が残した魔法の呪文であった。

「MOSYAS」

 ヒュンケルトの目の前で、少年は銀の槍の騎士と寸分違わぬ姿になると同時に手にしていた弩を彼の軍馬に放つ。矢の先には獣よけに使われる激しい痛みを伴う毒が塗られていて、横腹に矢を突き立てた馬がいなないて立ち上がると主人を振り落とすがヒュンケルトは鎧を着ているとは思えぬ身軽さで飛び降りると同時に槍を構えた。

「貴様!魔法を使うか!」

 声よりも早く槍先が突き出されるが、そのときにはもうヒュンケルトの姿を写した偽物は脱兎の勢いで沼地へ駆け出していた。さしものヒュンケルトも逃亡者が大魔導士ポールを思わせる魔法を使うとは思っておらず、獲物を捕らえるために用意した包囲網には自信があったが、逃亡者がヒュンケルトとそっくり同じ姿をしていれば兵士を欺いて逃げることは難しくない。他の誰に任せるわけにもいかずヒュンケルトが自分で追いかけざるを得なかった。
 少年の姿は銀の槍の騎士ヒュンケルトそのものだが、それは魔法によるまやかしでしかなく実際に重い鎧を着てもいなければ熟達した戦士の技を盗んでいるわけでもない。追いつかれれば一瞬も保たずに槍で串刺しにされるだろうが、身軽なだけ鎧の騎士よりも速く走れることが唯一の有利だった。ヒュンケルトは馬から下ろされて鎧姿で走らされており、泥や水に落ちる危険もあり偽物の狙いもそこにあるだろう。だが年齢を感じさせぬ壮健な騎士団長はこの姿で半日程度は平然と走り続けることができるし、沼地の地形も完璧に心得ていたから道を外れるなどあり得なかった。殺すには惜しいほど計算高い襲撃者に心中感心するが、相手がヒュンケルトでなければ勝つことも逃げることもできたかもしれない。

「持ち場を離れるな!こやつは私がしとめる!」

 そう叫んだのが本物でも偽者であったとしても、あるいはその叫びが全く逆であったとしても兵たちには手の出しようがなかったろう。唖然とする兵士たちの視線の先で、二人の騎士団長が沼地を駆け抜けていく。一方を傷つける危険を思えば武器や弓で加勢をすることもできず、絶対的な指揮官に命令された通り持ち場を離れず自分の場所を守ることだけを考える。危急にあって彼らが優先すべきはヒュンケルトに従うことだった。
 ヒュンケルトは少年の三つの誘いに乗っていた。一つはあえてヒュンケルトと対決するために湿地帯に潜んだ少年を包囲しようとしたこと、一つは偽物を逃がさないために少年を自ら追ったこと、一つは少年が重い鎧を着たヒュンケルトを泥や水に落とそうとしているのだと思い、それを避けて安全な道筋を追いかけたこと、しかもこれらはすべて正しい判断だった。

 緻密な軍略家であり、優秀な指揮官であり、熟達の戦士でもあるヒュンケルトを一対一で誘い出すのが少年の目的だが、銀の槍の騎士は一対一で負けることがないから獲物を追うことができる。ふつうなら障害となる複雑な湿地帯の地形でさえ、彼が三十年の間に踏査した大陸の仔細な地図が脳裏にしまい込まれていた。日は暮れかけていたが残光は未だ届いて沼地を照らしている。ヒュンケルトが道を外れて泥や水に落ちることなどあり得ないが、地図に載っているはずもないごく単純な落とし穴が掘られているとなれば話は別だった。

「・・・!」

 常ならば落ちるはずもない陳腐な罠に、足を取られたヒュンケルトの身体が沈んでいく。穴を掘って柔らかい泥を満たした穴は一見して穴ではないが、重い鎧を着た騎士団長を支えることはできず均整のとれた長身が少年よりも低くなった。すかさず近くの茂みから軽装に斧を一本だけ手にした老戦士が駆け出す。寸分違わぬ姿をした騎士団長が二人いたとして、自分で掘った穴に落ちる間抜けがいるはずはない。
 衣服ごしに老戦士の背中の筋肉が盛り上がると、短い柄を両手で握った斧が大きな円弧を描いて振り回されて一撃でヒュンケルトの首をへし折った。自分の身に何が起こったのか認識する間もなく銀の槍の騎士団長は息絶えると、少年は不幸なヒュンケルトの姿を映したままで彼の異名である槍を奪い、老戦士はもう一度斧を振るうと騎士団長の首を斬り落として手早く布にくるむ。首から上を失った指揮官の姿に恐慌を起こした兵士たちには、もはや逃亡者の姿を追うことも探すこともできなかった。


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