地下室

三章.討伐の結末

 新生ゼノビア王国が宗団を討伐した第一次宗俗戦争からすでに三年の月日が流れています。討伐軍は親衛隊長ランスロットが英雄戦争の同胞たる雷光のアッシュと無敵のライアンの二個軍団を率いて宗団の本山を目指しました。

「何の神様を信じているわけでもないが、神殿に槍を向けるとは気分の良いものではないな」
「王の勅命だ。不穏当な言には気を付けたがよかろう」
「はいはい、貴殿の友情に感謝しよう」

 同僚を窘めているアッシュは引き締まった身体にちぢれた褐色の頭髪も髭も長く伸ばしていて、一見して野卑に思わせながら誰よりも敬虔さと質朴さを備えています。ライアンはアッシュとほぼ同年ですが外見はずっと若々しく、長身で濃い金髪を後ろになでつけた優男じみた風体に似合わぬ凶暴なまでの剽悍さが白眼視されることもありましたが、両者とも練達の指揮官で兵士からは絶大な支持を受けています。
 おどけるように首を振っているライアンに、アッシュとて神殿を攻めることに抵抗がないといえば嘘になりますが指揮官がそれを口してよいとも思えません。世俗と信仰の対立は悲しむべきことですが、討伐軍が本山にだけ向けられれば他所の被害は最小に抑えることもできるでしょう。そして何より、勇猛で知られるクアス・デボネアが本山の擁護に回った以上は力の激突なくしてこれを解決するなど不可能でした。本山と女法王ノルンに忠実なデボネアは、王国を批判して一場の演説を行っています。

「私ことクアス・デボネアは頽廃した国を憂い、いずれに正義があるかを考えたときに王ではなく信仰を選ばざるを得なかった。いわれなき汚名を宗団に押し付けることを厭わぬ醜悪さこそ、ゼノビアが産み落とした無残な子であったのだ。私は信仰を捨てた国に仕えていることを恥じ、自らの身命を捧げることで償いをする所存である」

 デボネアが揃えた兵士のほとんどは武器を持たせただけの寄せ集めで、装備も訓練も討伐軍に及ぶべくもありませんが忠誠心と信仰心には欠けるところがなく士気は低くありません。本山の神殿は盆地を見下ろす丘の上にあり、地勢も味方して見晴らしのよい場所から落ちかかる勢いを利用すれば弱小の兵にも勝機はあるでしょう。中央に本陣を構え、左右に両翼を広げて三方から襲いかかる「鉄桶」と呼ばれる戦法は英雄戦争の当時からデボネアが得意とするものでした。
 丘に囲われた盆地を進む討伐軍はアッシュの雷光軍団が先陣に立つと、王命で赤く塗られた円盾を一斉に掲げます。太陽の色であり英雄の色でもある赤を世俗の軍勢が掲げていることにデボネアは不快そうに目を向けますが、彼が戦う理由もまた信仰よりも王への反発と旧知の女法王ノルンへの友誼であったかもしれません。何度か首を振り、彼が考えるべき彼我の戦力差を埋める方法にだけ思いを向けると馬を蹴立てました。

「神殿に槍を向ける愚か者ども!避けられぬ報いを受けよ!」

 味方を鼓舞して敵を威圧する叫びが陽光の下に響き、丘上の兵たちが一斉に動きます。動きがぎこちなく見えるのは急造の軍勢であれば無理もありませんが、討伐軍も北方戦役の後に斃れた者が多かったから歴戦の勇士がいた訳でもありません。多少の苦労を見せながら、辛うじて統一された動きを見せたデボネアは正面から迫ってくる圧力に耐えながら左右の兵士たちに前進を命じます。残された丘の上に、神殿の聖歌隊が現れると荘厳な讃美歌を唄いはじめました。
 それは戦場経験に欠ける味方を励まして相手を威圧するための苦肉の策ですが、進軍の足を揃える効果はあって兵士たちは雪崩を打つように落ちかかります。討伐軍が丘を登ろうとしたところで大石や丸木がごろんごろんと転がされると、少なくない数の兵士が石や木に潰されて死にました。丘上では讃美歌が朗々と響き、足が止まった討伐軍を「鉄桶」が囲います。アッシュ率いる討伐軍の前衛部隊は円盾を構えて頑強に抵抗しますが、三方からの攻勢には耐えられずに投げ槍で顔を貫かれると振り下ろされる刃で肩や腕を落とされました。讃美歌の一小節が進むごとに戦況はデボネアの優位に展開し、唄う声もより激しく力強くなっていきます。

「悪しき者よ!正しき者に道を開け!」

 そう叫んだ、叫ぼうとした瞬間、戦場の天蓋を覆っていた讃美歌が突如として悲鳴と絶叫に変わります。驚いたデボネアが振り向いたとき、目にしたのは丘上で赤い飛沫を上げながら切り殺されていく聖歌隊の姿でした。丘の外側を迂回したライアンの無敵軍団が無防備な人々の背後から襲いかかり、一瞬の惨劇の後、丘上を占拠すると一斉に弓を構えて頭上から数万の矢を降らせました。
 鋭い雨が敵味方を問わず戦場に降り注ぎ、丸木と大石と死体が転がる地面に新たな血を注ぎます。円盾を頭上に掲げた討伐軍の兵士も次々に倒れますが、彼らを率いていた筈のアッシュは早々に下がると重装備に身を包んだ新たな一軍が現れて雷光軍団の指揮官を迎え入れました。その様子に、すべてを悟ったデボネアは絶望の叫びを張り上げます。

「偽兵か!?」

 彼らが対していた部隊は武器と盾を構えた罪人の群れで、この戦いに耐えた者は生き残った後に赦免すると言われていました。本物の雷光軍団を預かっていた親衛隊長ランスロットが戦いの勝利を宣言します。

「さあ悪しき者よ!正しき者に道を開け!」

 確定した勝利と正義への確信が戦いをより凄惨なものへと変えました。討伐軍は帯同させていた楽団と合唱隊を丘上に新たに配置すると、先ほどまでとは異なる讃美歌を唄わせます。楽の音は宗団に残っていた戦意を奪い取ると反対に討伐軍の兵士を酔わせ、彼らは獲物を狩るように四方から矢を放ち逃れようとする敵を盾で押し潰しました。
 血だらけになった人々が逃げ惑う中、二十本もの矢を全身に突き立てたデボネアが崩れるように倒れるといつの間にか穏やかな旋律に変わった讃美歌だけが周囲に響き渡ります。戦いが完全に決したところで、硫黄と硝煙を含ませた藁束が投げ込まれると盆地に火が放たれて、辛うじて生きていた者たちの喚き声が新たな音律に加わると黒々とした煙に乗って空を覆いました。槍先に晒されたデボネアの首を見て絶望した女法王ノルンは毒杯を仰ぎ、太陽教を奉じる旧派の本山は壊滅して神殿は火に包まれます。

 三年前、世俗と信仰が対決した第一次宗俗戦争はそのように終わると王は再び宗団の手を握り、混乱の中で旧派の司祭が処断されたり神像が壊されるような蛮行もありましたがトリスタンは勝者が敗者に非寛容であることを望まず、行き過ぎた人々を窘めると炎上した本山の跡地に新たな神殿を贈ります。積極的でも消極的でも忌まわしい戦いの傷と記憶は忘れられて、今では誰でも新しい擁護者トリスタンの平和を受け入れているかに見えました。

「聖母様、祭儀の準備が済みました」
「ありがとう、カロリン。すぐに行きます」

 暁の巫女がいるアヴァロンの神殿は迫害されることも排除されることもなく、三年の間も日々人々が訪れていましたがそれで聖母アイーシャの心中が晴れることはありませんでした。王都ゼノビアから西に進んだ内海にあるアヴァロンは破壊された本山を除けば宗団で最も古く、温暖な気候と起伏の多い島のあちこちが開墾されて牧羊が放たれるか麦穂で覆われています。なだらかな道を登り、島の中央部にある丘の上には穏やかな湖水を満たした湖があって畔には白い石造りの神殿が建てられていました。石壁と柱廊に囲われた神殿は湖面に映る陽光に照らされながら、焼かれることもなく軒下に人々を迎えています。

「かまどの火が灯る、君が宿る赤い光が。
 家を暖めよう。君の子供たちに、かまどの火を振る舞おう」

 宗団が掲げる象徴は農耕を祝福する太陽であり、家庭を祝福する火でもありました。生き延びた新教の教えは赤毛の英雄を祀りながらも戒律や祭儀が旧派と異なる訳ではなく、信仰も祈りの言葉も変わるところはありません。太陽と火が人々を守る、それが宗団の教えでした。そして宗俗戦争の後、ようやく訪れた平穏の中で王城に坐すトリスタンは彼だけに課せられた責を果たすためにいささかも統治の手綱を握る手を弛めたことはありません。

「統治に求められるは正しき手順ではなく正しき結果であるとはウォーレンも語っておる」

 尖塔の賢者ウォーレンの助言は常に有用で、冷徹で尽きることがない知識は王と王国を助ける暗中の火となっています。かつてその火を掲げて英雄戦争すらも導いた、ウォーレンの知識を疑う者は誰もいませんでした。
 三年前、宗団を制圧したトリスタンは信仰そのものを否定してはいないことを宣言するように、彼が信頼するランスロットをはじめとする親衛隊員を宗団に入信させるとその教義を学ばせることにしました。俗世を主導する王自身は入信を避けましたが、親衛隊を解散して神聖騎士団が発足するとランスロットが団長としてゼノビアと宗団の双方から承認を受けました。彼が信仰と世俗の橋渡しを行うことで宗団は王の権威を認め、神殿は国の一部となり司祭が役人のように人々の営みを助けるようになっていきます。そして宗団がゼノビアに欠かせぬ存在になった頃、改めて王に宗団の地位を与えるべきではないかという話が上がるとトリスタン自身が彼の考えを述べました。

「王は俗世にあり信仰に口を差し挟むべきではない。だが宗団がゼノビアを助けたこれまでの功績は疑うべくもなく、余の信仰を認めてもらえるのであればそれを拒む理由もないと考える」

 大仰な地位を与えれば不要の混乱が起きるだろうと、神聖を意味するサントの呼称が選ばれるとフィクス・トリストラム・サント・インペラトルの名が碑文に刻まれます。それが神聖な王、法皇トリスタンと呼ばれるまでさほどの時を必要とせず、そして法皇トリスタンと神聖騎士団長ランスロットが国を治めるなら神殿や司祭が彼らに抗える筈もありませんでした。

「余、トリスタンは覚えている。伝説の戦いで赤毛の英雄は余とともに身命を賭してゼノビアの子らを守った。余は英雄でも神でもなく皆の信仰を妨げることもない。だが王として余はゼノビアを導き、神殿はゼノビアを助けるものとして余に従ってもらわねばならぬ」

 それは王による信仰の支配と変わらないとして神殿は反対しましたが、もとより宗団が掲げていた太陽神は三年前に討伐されており彼らが敬う者は赤毛の英雄しか残されてはいません。そして宗団が赤毛の英雄を敬うなら、英雄戦争で彼女が従ったトリスタンに従わぬ理由もないでしょう。かつて新教と呼ばれた赤の宗派は、今や彼らこそが旧派として法皇トリスタンに従うことを要求されているのです。三年前の混乱の中で、旧派の司祭たちが処断された蛮行が今更のように思い出されました。
 旧い信仰を捨てて王国と融和した宗団は、その王国が敵になると狼狽し、トリスタンの宣言と同時に忠誠を誓った神殿も多く特にかつて残酷な方法で旧派を弾圧や処断した者ほどたやすく転向しました。かつての親衛隊員が今では神聖騎士団員として目を光らせており、神殿が連帯して法皇に対抗するなど夢のまた夢でした。そして宗団の象徴的な存在として、聖母アイーシャと暁の巫女カロリンがいるアヴァロンの神殿には特に忠誠を誓うことを求められたのです。もともと旧派や新教の対立には関わりがなく、積極的な介入を行ったこともないアヴァロンの名が挙げられたことはありていにいえば見せしめでしかありません。羊と小麦と神殿しかない小さな島に、春の到来に合わせて「恭順を迫る」法皇の軍団が差し向けられることになりました。

「アヴァロンは世俗の王を承認することも、王の言葉に従うこともできません。ですがそれでアヴァロンに血が流れることも私は望みません。王が信仰と人々に手を出すのであれば、私が身命を差し出しても王に臨む用意があります」

 顔中を蒼白にした、アイーシャのそれが宣言でした。彼女が王に対抗できる筈もなく、王が彼女の願いを聞くとも思えませんが少しでも時を稼ぐことができればアヴァロンから人々が逃げることはできるかもしれません。形式的に誰かが犠牲になれば流れる血は少なくて済むかもしれませんでした。

「カロリン。貴女は、逃げないのですか」

 唐突に訪れた破局の中で、アイーシャの声は傍らにいるカロリンを心から哀れんでいます。アヴァロンの象徴たる聖母アイーシャと暁の巫女が退去するなど許される筈がなく、人々を残して彼女らが逃げれば周囲を危険に晒すだけでしょう。太陽神でも赤毛の英雄でも構わない、本当に彼女の信仰に答えるものが存在するのであれば、この不憫な赤毛の少女一人くらいは救うことができないのか。
 カロリンはアイーシャに劣らぬ蒼白な顔をしながら、目の光はそれほど弱まっているようには見えませんでした。それが気丈さなのか覚悟なのかはアイーシャには分かりません。アヴァロンに残っている者は彼女たちだけではなく、逃げるだけの船も行き先もない者がいれば島を離れることそのものを嫌う者、そうした人を見捨てることができぬ者もいます。彼らはやり場のない怒りと絶望を抱えたまま神殿に集まっていましたが、全員が敬虔な信徒や従順な羊の群れではなく不条理を嘆いて神殿に詰め寄る者もいれば声を荒げる者もいてともすれば暴動も起こしかねない様子でした。

 後にいささかの皮肉を込めて第二次宗俗戦争と呼ばれることになるアヴァロンの騒乱は戦いと呼べるようなものではなく、見せしめのための一方的な粛清を望む者とそれを逃れようとした者の対決でしかありません。彼らには王も信仰も関係なく、ただ武器も兵士もないアヴァロンが軍団を迎え撃たなければならないということでした。進攻を目前に控えた一日、数日ぶりに私室に戻ることができたアイーシャを尋ねたカロリンが半分自問するかのように奇妙なことを口走りました。

「聖母様。王は信仰を従えているのでしょうか。そして人々は信仰に従っているのでしょうか」

 憧れと信仰心のままに、神殿に身を捧げた少女にできるだけ誠実に答えようとアイーシャは言葉を選びます。

「王は信仰を従えようとしています。そして多くの人は王に従わざるを得ないと思っているでしょう」
「では信仰ある者は王に従わないかもしれないのですね」

 程度の差こそあれ、そのような者が皆無ということはないでしょう。アイーシャならずとも信仰のために世俗の王に従えぬ者がいて不思議はなく、トリスタンもそれを知っているからこそアヴァロンに兵を向けて力を誇示するつもりでいるのでしょうから。カロリンはなおも言葉を続けています。

「もしも人が王ではなく英雄様の代理である王に従うなら、王ではない神殿に人が従うこともあるでしょうか」

 だからこそ赤の宗派と呼ばれる新教が生まれましたが、その結末を思ってアイーシャは自嘲しながら妹のような少女の言葉に違和感を感じずにはいられませんでした。まったく天空におわす神様が人の横暴を戒めることができるのならば、神殿に槍を向けようとする暴虐など決して許すことはないでしょう。アイーシャの心情を理解しているのかいないのか、赤毛の少女はそれまでの信仰や教義めいた話とは異なる、俗な質問を発しました。

「港や船の様子はどうでしょうか」
「島にあるのは小さな漁船だけでとても内海には出られません。使いを出して、古い友人に船の手配をお願いはしましたが彼らが来たとしてどのように人々を逃がせばよいでしょうか。軍団は既に迫っていますし、港が封鎖されれば他の船は近づけなくなります」
「でも、たとえすべてが無駄でもあきらめることはないと思います」
「そうですね。貴女の言うとおりです」

 不意に力強さを増したカロリンの言葉に、アイーシャは優しげな顔を見せると少女が言うとおり最後まで手を尽くすべく神殿に戻りました。あるいは一人でも、二人でもこの境遇から救うことができるならそれが彼女にとっての信仰である、と。そのとき赤毛の少女が何を考えていたのかをアイーシャが知るのは数日後、人々の多くが無事にアヴァロンを離れることができた後のことです。

 アヴァロンを討伐するために親征を決断した法皇トリスタンは、神聖騎士団長ランスロットを王都に残すと雷光軍団のアッシュと無敵軍団のライアンを連れて海上に船団を浮かべています。船首を向けるアヴァロンには抵抗する人も兵もおらず、降伏を受け入れてそれで終わる筈でした。

「やれやれ、一度ならず二度までも神様に槍を向けることになろうとはな」
「貴殿は少し言葉を慎むがよいぞ、ライアン」

 帆柱に刻まれている、月桂樹と腕輪を象った紋章の下で釈然としない顔をしているライアンにアッシュが顔をしかめます。先の戦いから三年を経てもなお若々しいライアンは同僚の忠告に金髪を軽く振りましたが、剽悍な戦友が今度は兵すら抱えぬ神殿を討つことにどれほどのためらいを覚えているかをアッシュは見てとりました。彼にしたところで王の言葉とはいえ民衆に兵を向ける進攻を歓迎している筈もなく顎先に伸ばした髭を神経質そうにしごきます。
 実のところトリスタンがアヴァロンの神殿に兵を向ける理由は少なく、法皇の力を人々に見せびらかそうという以上でも以下でもありません。ゼノビアの船団が島に唯一ある小さな漁港を占拠すると、槍と剣の原に覆われた軍団によって建物のほとんどが焼かれて平らにならされると鉄の大地を思わせる宿営地が築かれました。わずかな小舟や漁船は焼かれ、港にいた人々は焼け出されるか捕らえられて縛られます。

 小さなアヴァロンで人々が暮らしているのは港とその周辺だけで、あとは羊を連れて牧草地を移動する数人を除けば皆が神殿に集まっています。島の中央にある神殿はこの時期には珍しい曇天に覆われて、やがて霞を伴う雨が降り始めると上天がアヴァロンの未来を嘆いているという声が上がりますが、トリスタンは感傷を笑い飛ばすと古い罪を洗う雨に何を患う必要があるかと断言しました。
 聖母アイーシャは人々のために祈りましたが、祈るだけで奇跡が起こるなら彼らの今の事態はありません。人にできることをやって、あとは祈るしかないでしょうというカロリンに頷いたアイーシャは皆をなだめ、カロリンも人々の間を忙しく立ち働きました。この状況で彼女たちの言葉に心から耳を傾ける者など誰もいませんが、思案もないので娘たちに渋々と従いました。

 やがてゼノビアがすべての船団を停泊させて宿営地を築き終えると、日が傾いてひそやかな夜が訪れます。兵士には翌朝の進軍が告げられると、松明やかがり火が宿営地を包んだところでトリスタンの天幕に報告が届きます。

「神殿に動きがあるようです。島民の多くが島の北端に向けて移動していると、見張りから報告がありました」

 アヴァロンは島の北端と西岸が広い潟になっており、船が着けられる場所ではありませんが北端には灯台と航路の見張りを兼ねた小さな砦が設けられています。鍬や鍬を振るうしかできない人々が遅すぎる抵抗をする気になったのか、そう考えたトリスタンはライアンを呼ぶと朝を待って無敵軍団を先発させることを命じます。見通しが悪い暗がりの霞の中で、弱敵を相手にあえて強行軍を行う必要はいささかもありませんでした。
 日が昇り夜が明けると無敵軍団の兵士たちは槍と盾を持つ歩兵が先頭に立ち、後ろからは城攻めに用いる破砕槌や衝車を従えた荷馬隊とそれを守る兵士が交互に続きます。左右を麦畑に挟まれた丘の道を進みながら、斥候を出して神殿に人がいないことを確認に向かわせました。ライアンが出立してから数刻後、アッシュと雷光軍団を従えたトリスタンも宿営地を後にします。

「信仰を語る輩が神殿を捨てたらしい。それこそ彼らの偽りそのものではないか」

 堂々と進軍する歩みは慎重を通り越して鈍重にすら見えますが、彼らにとってこれは戦闘ではなく土地を開墾するにも等しい作業でしかありません。それでもかつて戦場で多くの勲功を挙げたトリスタンは、約束された勝利に兵士が気を弛めないように叱咤の言葉を投げかけます。

「追い詰められた敵が小細工を試みるかもしれぬ、警戒は怠らぬようにせよ」

 そう伝令を出した矢先、火薬が爆ぜる甲高い音がすると左右にある小麦の茂みから放たれた数本の火箭が麻縄を引いて討伐軍の頭上から落ちかかりました。油を染み込ませた麻縄が燃えながら落ちてくる様は、何かの合図であるには違いありませんが火が麦穂に移ることもなく萎れるように燃えつきます。
 トリスタンは先行するライアンを呼び止めると、改めて周囲を警戒させて火箭の出自を調べさせました。アヴァロンの者に小細工ができる準備も時間もあるとは思えませんが、霞と朝露に湿った麦穂が燃やされる心配もなく念のため穂を払わせても人の気配すらありませんでした。

「このまま神殿を接収する。砦とやらは無敵軍団に任せて用が足りるだろう」

 そう言うとライアンを先行させて、トリスタンとアッシュは神殿に人がいないことを確認してからゆっくりと無敵軍団を追いました。小さな島の丘を上ったら後は下りるだけですが、確かに多くの者が北に向かったらしく湿った地面には無秩序な足跡や轍の跡が相当数残されていました。往生際の悪い首謀者以外にはせいぜい寛大な処置をくれてやろう、トリスタンの言動がいささか浮ついているように思えたアッシュが窘めるような顔をしたとき、先行した無敵軍団から戸惑った様子の伝令が戻ります。

「羊です。陛下、羊がいます」
「何だと?」

 説明されるまでもなく、視界が広がった北端の潟に面している草地に大量に放たれている牧羊の群れが目に入りました。伝令の話によれば砦に上がった狼煙を確かめに行ったところで多量の羊に背後を塞がれたらしく、軍列を保つので手一杯で島民を探すどころではありません。時間を稼がれたことにトリスタンが気が付くと、今度は宿営地から別の伝令が駆けつけて島の東岸に現れた船影が火箭や狼煙を見て北岸から西岸へと向かいつつあるということでした。

「無敵軍団は逃げた連中を追え!雷光軍団は南に戻るぞ!」

 既にアヴァロンの人々は西岸に広がる潟に次々と足を踏み入れると、泥だらけになりながら停泊する商船へと向かっています。わずかな荷物や足腰が弱い者たちは底浅の小舟に乗せて、アイーシャやカロリン自身が泥まみれで船を押すと男たちがこぞって舟を運びました。それでも島を離れることを承知しなかったごく数人を除き、漁村を焼かれて軍勢に追われても逃げない者などいる訳がありません。
 王はライアンに沿岸を追わせると、自身は船を出すために宿営地に戻ろうとしますが沿岸は牧羊の群れに塞がれています。沿岸を追いかけても間に合う筈がなく、宿営地にたどり着く前に船は彼方へ消えてしまうでしょう。無防備な神殿や民衆を相手に兵を出して何の収穫もなく、羊の群れをかき分けて徒労を味わえと言われて遂にライアンの不満が爆発しました。

「やってられるか!逃げる羊を追い回して何処に武人の誇りがある!名誉がある!」

 剽悍で誇り高いライアンは失敗した進軍にも逃げる民衆を追う行為にもその民衆に翻弄された恥辱にも耐えることができず、不名誉な遠征の責任を王に押し付けると無敵軍団の全員に神殿への移動と礼拝を命じました。もともと信心深い性質でもないライアンが礼拝に向かうなどと吹聴したのはトリスタンへのあてつけ以外の何ものでもなく、激怒した王は彼らの指揮官を更迭する旨を兵士に告げたのです。

「王を侮る罪を思い知らせよ!今より無敵軍団は余の旗下に加える、命に従わぬ者は全て斬に処せ!」

 無敵軍団の兵士はライアンを支持しており、王の命令でも容易に従うとは思えません。ライアンとは英雄戦争時代からの同胞であるアッシュは愕然として蒼白になりながらも点頭します。トリスタンとライアンの双方が激した状況で、事態を収めるには雷光軍団を掌握して両者をとりなすしかありません。既に無敵軍団は分裂の気配を見せており、その半数以上が剽悍な指揮官に従って神殿への行軍を始めようとしていました。
 混乱が広がり、アッシュが懸命に兵を鎮めようと尽力する間にもアヴァロンの島民を連れたアイーシャとカロリンたちは、人々を満載にした商船に乗って島からの逃亡に成功します。多くの者が家を失い、家畜を失い、畑を失い、財産まで失いましたが命まで落とした者は少なく人々は疲れた身を船倉や甲板に横たえていました。

 その船を用意した者の名は、かつて伝説の戦いを助けた一人である異国の商人サラディンといいました。


四章.謀議を読む
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