英雄戦争に参与した一人であるサラディンは、賢人として知られながらあまりにも広範にわたる知識が妖術士とまで称された人物でした。尖塔の賢者として新生ゼノビア王国を支えているウォーレンとは異なり、サラディンは古来から積み重ねられた知識を披歴するよりも異国の文化や風習を心得ており対話の機微にも長けていて、外交や交渉はもちろんいかがわしい謀議を任せることもできたといわれています。
ゼテギニア帝国を打倒するために商人や裕福な騎士階級の協力を取り付け、流通や物価に介入して帝国の補給線に打撃を与えた叛乱軍の手管の多くはサラディンの手腕に帰するもので、彼が妖術士と呼ばれた所以ですが戦いが終わって後の彼は王国の統治から離れると商人として立身し、今では彼自身がうそぶくように人を束ねて敬愛される存在になっていました。
「革命からも戦争からも解放されて、気が付けば単なる金持ちの商人に成り下がってしまったわい。だがそれがいいのさ」
明かりとりの天窓から日が差し込んでいる、石壁に囲まれた一室で聖母アイーシャと暁の巫女カロリンを前に冗談めかしていうサラディンは伝説の姿からはまるで想像ができぬほどに俗な、陽気で豪快な笑みを浮かべる老年の人物になっています。東方の出身を思わせる浅黒い肌に、長い美髯はすっかり白くなって以前よりもはるかに恰幅がよく、目には愛嬌があって陽気な口元には金歯が覗いており、頭には厚い布を巻いて両手の指には貴重な宝石の指輪がいくつもはめられていました。アイーシャは彼女たちを助けるために船を出してくれた、年の離れた友人の異相に戸惑う思いを隠しきれませんでしたが、屈託のない表情と性格には多少の羨望も抱いています。
新生ゼノビアの王にして最高司令官、そして法皇であるトリスタンが自ら軍勢を率いてアヴァロンの神殿に攻め入ることを宣言したとき、アイーシャは旧知のサラディンに助けを求めました。サラディンは彼が所有する商船団を出して混乱の渦中にあるアヴァロンから人々を連れ出すと、彼の庭であるカストラート近海の港湾都市に匿います。一緒に逃げてきた人々はあちこちの商家に奉公に出してしまい、彼自身は紹介料と称するいくばくかの金を受けとりました。ありていにいえば人買いのようなものですが、アヴァロンの人々は真面目で信仰心が篤くそこらの市民よりもよほど勤勉だから雇う者も雇われる者もそれなりに報われることをサラディンは知っています。
「売る以上は商品でも人間でも品質を保証する。しかも売った先の客人の品質まで保証するなんて実にまっとうで良心的な商人じゃないか」
豪快な笑い声が響く、その部屋はアーチ形の天井も高く、窓や柱の様式は伝統に則ったもので調度品は豪壮なものが揃えられており、客人が息苦しさを感じないよう随所に工夫が凝らされています。精緻なレースが織り込まれている布地をかけた卓台を間に挟み、アヴァロンの聖母と暁の巫女を前にしたサラディンは屈託がなく穏やかな、ですが真意が読めない視線を向けています。英雄戦争の後、彼が培ってきた時間と経験がその表情と刻まれた皺には見て取れました。
「さて久しぶりの再会だが楽しい昔話は後にしよう。儂はあんたに頼まれて船を出した、その理由は今さらだが儂とあんたが昔から知らぬ仲ではないからだ。だが儂があんたらを助けた、その言い訳はいったいどうすればよいものかね」
サラディンの言葉は要するに見返りを求めてのものですが、それは彼ならずとも商人としてはごく当たり前のものでしょう。彼自身の個人的な感想ではゼノビアの軍団を出し抜いて人々を助けたことは痛快でしたが、国の公敵に手を貸したのだからそれを周囲に納得させる大義名分、あるいは報酬を要求するのは当然です。たとえ本心が友誼にあったとしても慈善事業は貪欲な商人がとるべき行為ではありませんし、彼はともかく彼の支援者たちが納得しないでしょう。サラディンは更に続けました。
「言い分次第で儂はあんたらをトリスタンに引き渡すかもしれん。知り合いに頼まれて人を運んだ、そこまでは仕事の領分だが犯罪に関わると知ったから官憲に突き出すというのはいかにも正当だ」
意地が悪く聞こえるサラディンの言葉は同時に、アイーシャやカロリンが彼を説得できなければ所詮ゼノビアに捕まるしかないであろうことを暗示してもいます。アイーシャは彼女たちの境遇を誠実に、切々と語りましたが宗団と神殿が王に利用されたことは同情に値しても同情で人を動かす訳にはいきません。渋い表情でいる老人に口をつぐんだアイーシャに代わって、考え深げな顔のままで言葉を継いだのは赤毛の少女でした。
「ええと、サラディン様はアヴァロンの人々を紹介したことで利益を得ていらっしゃいますよね。だから損得の領分ではなく、私やアイーシャ様をお助け頂いた大義名分のようなものを考えなさいと」
「うむ、まあその通りだな」
信仰心に厚いはずの暁の巫女が、あまりにも端的な表現で要点を突いてきたことにいささかサラディンは鼻白みます。相手の反応には気づかず、カロリンは続けました。
「トリスタンに従わないことが私たちの罪だと言われればその通りですと答えるしかありません。ですが王が民衆の上に立ち、法皇が信徒より上位におられたとしても、アヴァロンの者が仕えるのはあくまで王でも法皇でもなく信仰に対しての筈です」
「うむ、言いたいことは分かるがそれでは信仰が法に反することになりかねんぞ」
自身が帝国に逆らった経歴を持つサラディンは少女の論調を窘めるように口を開きます。現実的な年長の商人としては、若い少女の激論を諭す必要があるようでした。
「あんたらが暮らしていたアヴァロンでは信仰とモラルを守って日々の生活を律し、苦難があればこれを克服していればよかったろう。だが大抵の人間にとってモラルとは守るものではなく守らせるものでなければならない。つまり決まりごとや法律、商人であれば交わした契約や揺らぐことのない金銭の価値こそ従うべき法則なのさ。きっちりと決められた法や交わされた約束が厳格に守られること、そいつが前提にないと金儲けなんてできやしない。ではそういう連中にとって重要なのは信仰と法のどちらだろうか?」
もってまわった言い方に、傍らで聞いていたアイーシャは怪訝そうな表情を浮かべます。目の前にいる年の離れた友人が何かを教えようとしていることに彼女は気が付きましたが、俗世に遠い聖母には辛辣な商人が望んでいる答えを見出すことができません。では聖母ならぬ赤毛の巫女には、頼りない小さな灯火を頼りにして正しい道筋にたどり着くことができるというのでしょうか。カロリンは自分の言葉を自分で聞いているかのように、一言一言をゆっくりと話しています。
「王は人を法で律しますが、信仰は人と人の繋がりの中でモラルを生み出します。そして古い時代には、法がまだ生まれていない場所で信仰が決まりごとをもたらした時期も確かにありました。つまり・・・」
「つまり?」
「法律が人を害するとき、法律が人を守れないとき、それを改めるためにモラルが求められることがあるかもしれません。例えば契約や金銭の価値そのものを支える後ろ盾がなくなるようなことがあれば、新しい決まりごとを探そうとする人が現れるかもしれませんよね」
「確かにそんなことがあれば国がひっくり返る一大事だな。商売人が生き残るために国を捨てることだってあるかもしれん、だがそんなことが本当に起こるものかね」
「それが起こらない、とサラディン様がお考えになるのですか?」
その言葉に、思わず呆気にとられたサラディンはしばらく沈黙してからはっはと笑いだすと自分の膝を手のひらで叩きました。かつて英雄戦争でゼテギニア帝国を震撼させた、流通や物資の往来を支配して帝国に血を流させた当人がほかならぬ彼だったのです。声高に公言した筈もない、きれいごとでは済まない物語の裏側に言及してみせるカロリンに興味を持った妖術士はずいぶん過激なことをいう巫女さんだ、とうそぶくとアヴァロンの聖母と暁の巫女を助けることを請け負います。カロリンはなるべく気づかれないように、深く息をつくと椅子に沈みました。
伝説となった英雄戦争で赤毛の英雄を導いたのは始まりの魔術師と呼ばれ、今は尖塔の賢者と呼ばれているウォーレンでした。あの時、今は亡き赤毛の英雄を前にした始まりの魔術師は目の前にいるサラディンのような顔をしたのだろうか。魔術師が英雄を導いたのではなく、英雄が踏んだ最初の一歩を見つけた者が魔術師と呼ばれているだけではないのだろうか。アイーシャは妹のようなカロリンの言葉に驚かされながら、そのようなことを考えていました。
新しく法皇になることを宣言したフィクス・トリストラム・サント・インペラトルに恭順を誓うことを求めて、新生ゼノビアはアヴァロンの神殿に軍団を向けました。トリスタンが自ら親征し、無敵軍団のライアンと雷光軍団のアッシュに率いられた精兵たちは不従順な神殿とそれに与する人々を懲罰すべく進攻します。かつて旧派を主導した女法王ノルンや彼女を支持したクアス・デボネアを討ち、残されたアヴァロンの神殿を討つことによってトリスタンは王国と宗団を手中に収めることができるでしょう。
「権威と信仰、それが権力に依らず人を支配できるとウォーレンは語っている」
王都にある尖塔の賢者ウォーレンの言に従い、アヴァロンに攻め入ったトリスタンの思惑はそれまですべて順調に進んでいました。伝説の戦いでは赤毛の英雄を助け、帝国を打倒して新生ゼノビアを復興させ、今では法皇として信仰すら統べる者となった彼に対抗できる者は地上のどこにもいないでしょう。そのトリスタンが自ら軍団を率いて訪れたアヴァロンの島民に逃げられて、旗下の軍団にも反旗を翻されたことは彼の権威と信仰の双方に傷がつけられたにも等しく、収まらぬ怒りのままに声を張り上げます。
「アッシュに伝えよ!王に弓引く反逆者に何の躊躇もいらぬ、斬ってしまえとな!」
「神様に二度も弓を引いた莫迦者ども!無敵のライアンはここにいる、さあ礼拝の時間だ!」
剽悍なライアンと彼を支持する忠実な兵士たちの一団は、心中の不満を吐き出して王に反抗すること自体が決起の目的になっており混乱は容易に鎮まりそうにありません。同僚に剣を向けたくなかったアッシュは自身の雷光軍団を掌握すると、王と兵士に挟まれながらも衝突を回避すべく図ります。ですが戦場で肩を並べた友人と部下たちを守ろうとしたアッシュの意図も空しく、雷光軍団に遅れて神殿に到着した王が収まらない怒りのまま携えた弓を思い切り引き絞ると、放たれた矢がライアンの隣りにいた腹心の胸を射抜きます。これですべてが手遅れになり、凄惨な殺し合いを回避する術は失われました。
「トリスタン!貴様の望み、しかと受け取った!」
それが瓶に満たされた水を溢れさせるしずくの一滴となり、両者は激突して同じ旗を掲げる兵士と兵士による殺し合いが始まります。アヴァロンの孤島で繰り広げられた第二次宗俗戦争、その犠牲のほとんどはこうして生まれました。理不尽に対する怒りと侮辱に対する怒りを糧にして、戦い自体が目的となった徹底的な交戦は無敵軍団と雷光軍団の双方に多大な犠牲をもたらし、戦場もなく陣形を整える余裕もなくただ手近にいる者が敵か味方かも分からぬままに切り倒されていきました。無様で長い争いは日没まで続きましたが、無敵のライアンは全身を七本の矢と三本の槍で貫かれたところで遂に力尽きて倒れると息絶え、その姿を見たアッシュは胸中の思いを全力で抑え込みながら、これ以上の流血は無用であるとして兵士たちの武装を解こうとします。
友人が死んで、部下が死んで、せめてそれ以上の犠牲は避けようとアッシュは尽力しますが王であり法皇であるトリスタンは自分に刃を向けた者を許そうとはせずに、忌々しいこのアヴァロンで流刑にしてやると宣言すると反抗した兵士たちの両の手足を縛って島に置き去りにすることを決めました。討逆のしるしに神殿は打ち壊されて、王とアッシュに従い生き残った兵士はいったん雷光軍団に編入してから王都ゼノビアへ帰還の途につきます。彼らの望みにはほど遠り結末ながらアヴァロンの平定は形式上は達成されて、トリスタンは権威と信仰を手中にした王になった筈でした。
「王は動かぬ理念に凝り固まっているのさ。それは正しいのかもしれんが、人は正しさのみによって生きている訳ではない。確かにトリスタンは国を統べる力を手に入れたと思うがね、それはかつて英雄に打ち倒された皇帝がやっていたことといったいどう違うというんだね」
現実を皮肉に眺めている者の口調で、サラディンはそう言いました。アイーシャの目には老人がカロリンを気に入ったことが見て取れましたが、それが彼女の真摯な思いに感心したためか、彼女に赤毛の英雄の面影を見出したためなのかは分かりません。
「商人は戦争を好む、それを否定はしない。戦争があれば必要な物資が増えるし領土が増えれば市場を広げることもできる。だがそうした争いは同時に商売に不可欠な最低限の秩序すらも奪ってしまう危険をはらんでいるものだ。そうなれば契約も金銭も危ういものになってしまう、お前さんが言った通りだよ。
いつまでも石を高く積み上げていればいずれ崩れてしまう、だからといって別の場所に石を積むことにしますとなれば儂らのような人間には致命傷さ。だから偉い王様がすべてを握っている世界なんていうものは実に便利だが同時におっかなくて仕方がない。トルスタンの時間があそこで止まったままだとしたら尚更だな」
カロリンは老人の言葉に真摯に聞き入っています。信仰に関わる知識のみを学び続けてきたであろう、暁の巫女が狡猾で利にさとい商人の言葉を理解できるか心もとなくはありましたが、それでも彼女は自分と他人の境遇を必至に理解しようとしているようにアイーシャには見えました。
「ラウニィーがまだ生きていてくれたらと本気で思うよ」
軽く首を振りながら呟いている、サラディンの顔には疲れのような、戻らぬ過去を懐かしむ感情が漏れています。今でも聖なるラウニィーとして敬慕されている、亡くなった王妃を知っているアイーシャには心からの老人の嘆きが見て取れました。聖母の視線に、余計な一言を呟いてしまったかと悔やむように漏らした老人は咳払いをすると話題を戻します。迫害されてアヴァロンから逃げ出したアイーシャやカロリンは、もはや望むと望まぬとに関わらず自分たちのこれからの去就を定めなければなりません。そして、そのためにサラディンの協力は不可欠のものになるでしょう。
「まあ、いずれにせよ儂らは商人であって慈善事業家じゃあない。あんたらを助ける見返りが期待できなければ、誰も手を貸してなぞくれんだろうな」
健康的な歯をむき出しにして、サラディンは言いました。それはカロリンを困らせようというのではなく、打算的で利にさとい商人にとってトリスタンに協力することが不利益になるか、逆に彼女たちに協力することが得になると思わせることが必要だと老人なりの言葉で伝えているのです。世界には赤毛の伝説と信仰が残されており、ゼノビアの秩序に対抗する理念をアイーシャやカロリンが掲げることはできる筈でした。
「それにはどうしたって仲間が必要だな。儂らのような商人もその一つになることはできる、だがそれでトリスタンやゼノビアに対抗できるのでなければ、誰も蟷螂を助けて巨象に喧嘩を売る筈がない」
「宗団には今でも信仰を持ち続けている人がいるでしょう。ですが利用、するのにそれで足りる筈がありませんし、求めるなら信仰のある人ではなく王や法皇に不満を持つ者でなければ積極的に助けては下さらないでしょうね」
一瞬、言葉を詰まらせるカロリンの表情に、傍らにいたアイーシャは彼女の苦痛を見て取らずにはいられません。他人を利用しなければ生きていけない自分たちの存在や、不本意な策謀を考えなければならない自分たちの境遇に対して信仰心に篤い筈の娘が思う苦悩はどれほどのものになるのでしょうか。
孤島の神殿で暮らしていた娘たちにできることなど多い筈もなく、彼女たちが生き延びるためには他人を利用しなければなりません。であれば彼女たちを利用したい人たちに彼女たちを助けさせることができれば最善というものでしょう。所詮、逃げ出したアヴァロンの生き残りに使う手を選ぶ余裕がある筈もないのです。
「アヴァロンに戻るといえば無謀でしょうか」
赤毛の娘の表情には自信めいた素振りはなく、サラディンは少しだけ眉根を上げました。彼が聞いている話ではアヴァロンは軍団が上陸して同士討ちをした後に、神殿も港も破壊されると後は放棄されて引き上げたといいます。無論、反逆したとされる無敵軍団がどのような扱いを受けたかまでは知りませんが、想像することはできました。
もともとアヴァロンは神殿や港を除けば大きな施設もなく、象徴的な建物を破壊すれば後は畑と牧羊地とわずかの集落しかない場所です。軍団が苦労をしてまで島を焦土にするとも考えづらく、遺棄されて何の価値もない島にしばらく潜むことはできるかもしれません。まして、カロリンやアイーシャがアヴァロンに戻ることは大義名分にもなるでしょう。
「だが何もなく誰もいない場所で何ができるというのかね。それこそ一時的に隠れることはできるだろうさ、だが人が集まったところでゼノビアに知られればもう一度軍団を向けられるのがせいぜいだろうに」
「知られれば軍団を向けられる、でもそれくらいのことをしなければ王国に不満を持つ人は助けて下さらないのでは?」
当然のように言ってのけた言葉にサラディンは再び呆気にとられます。アヴァロンに戻ることは大義名分になる、それこそが重要で迫害された娘が信仰のために廃墟に戻ることは法皇トリスタンへの挑戦になるでしょう。
「王国の軍団はすぐに引き上げるでしょうし、しばらくアヴァロンは放置されると思います。それで、できる筈がなくても島と神殿の復興を試みる。気づかれたら討伐されるとしても、それまでは人や物を集めることができるのではないでしょうか」
「そこに信仰ではなく、王や王国に不満を持つ者を集めようというのかね?中にはならず者だっているかもしれん、そんな連中を相手に布教活動でも行うつもりかね」
サラディンの質問に、カロリンは小さく首を振りながら笑います。
「島と神殿の復興を試みること、大義名分があれば信仰なんて後回しです。忘れずにいてくれる人はそれで構いません、今は王国の目を逃れることができる場所に人を呼ぶこと、それに大義名分という言い訳を与えることだと思います。後ろ暗い人たちに、自分たちはそうではないのだと思わせればそれでアヴァロンは支持されるでしょう」
自分自身に言い聞かせるように、自分の言葉を反芻しつつ確認しているような口調でカロリンは語っています。それが本来の彼女の口調の筈はなく、祈りは歌うような旋律と抑揚で溢れ、親しい者に対しては幼げな娘のそれに戻ることをアイーシャは知っています。信仰を真っ向から否定する言葉を暁の巫女が吐き出している、それがどれほどの苦痛を伴っているか彼女を知らない者に想像することはできないでしょう。サラディンは彼女の悲痛を敢えて気にとめず、残酷なほど現実を突きつけることが自分の役目だと理解しています。
「悪党は自分の悪を知っているが小悪党はそうではない。あんたらを支持する連中を探すことはできるだろうし、そいつらは逃げるためではなくあんたらを助けるために協力してくれるだろう。で、儂らはそいつらを相手に商売をしろとそういう訳だな」
「はい。復興の兆しが現れるまでは王国も黙認すると思います。それなら、黙認される場所のほうがやりやすい商売というものはいくらでも存在しますよね」
「よろしい、そこまでだ」
世慣れぬ娘にここまで言わせなければならないものか。手のひらで制しながら、サラディンは心中の痛ましさを微塵も出さずに始まりの魔術師としての言葉を伝えます。
「ことを為すには大義が必要だが、物事をきれいごとだけで済ませることはできない。だがお嬢ちゃん、あんたは自分が真っ先に汚れてでも信仰を守ることを考えた。そして本当に信仰を守ることができる人というのは、あんたのような人なんだろうと思う。だからあんたの代わりに儂が汚れてやろう、とは言わん。あんたはやりたいことを好きにやればいい、儂も儂にできることであんたを助けてやりたいと思う・・・分かるかい?あんたは儂を仲間にすることができた、そういうことさ」
カロリンの苦しみはまさしく英雄の苦悩である、始まりの魔術師としてはいささか威厳に欠けるサラディンは彼女を導き支えることを宣言すると、彼らを信じる者たちを敢えて苦難に満ちた場所へと連れて行く、その悪行を共に負うことを誓います。人が人を導くことがどれほど恐ろしいことか、ならばせめて同じ泥をかぶることはできる筈でした。
トリスタンが帰還して、ゼノビアの王都は小さな、ですが深刻な混乱の渦中にありました。王自らによるアヴァロンへの親征は神殿を破壊して終結していましたが、無敵軍団が反抗して王に剣を向けたライアンが討たれると多くの兵が処断されました。同士討ちによる犠牲が被害の大半を占める惨事となり、部下の血に濡れた王を見る兵士の目には猜疑の影が差し込まざるを得ません。
事後処理の必要を感じたトリスタンは帰還すると改めて法皇としての祭儀を執り行い、アヴァロンが討伐されて宗団が統一されたことを人々に示しながら、これからのゼノビアは復興と争いではなく安定と平和によって支配されると宣言します。多くの犠牲が出た軍団を再編するために、忠勤が長く続いた年配の兵士を退役させるとその空席には解体された無敵軍団と雷光軍団の残党が配されて、退役兵には充分な報奨が与えられて故郷にある神殿に入信すべく図られました。新生ゼノビアでは地域における統治は神殿がこれを代行しており、これに退役兵が充てられることで治めやすくなる筈でした。
「これまではお前たちが世界を助けてきた。これからはお前たちが翼を休める世界をお前たち自身が作ることができる」
地方の統治を宗団に任せる一方で、王都は親衛隊長にして神聖騎士団長のランスロットが掌握します。軍団が王都を抑えて宗団が地方を治める、そのすべてをトリスタンが束ねるのがゼノビアの統治でした。
「形式が過ぎるかもしれぬが、形式すら無ければ統治はできぬ。だから道具を扱う者はそれを使い分けねばならぬ、とはウォーレンも言うところだ」
王の助言者である尖塔の賢者ウォーレンの言葉をひも解きながら、トリスタンは単なる形式ではない彼自身の手腕で軍団と宗団の双方を掌握します。宗団が統治に関わることによって兵士や将軍が不満を抱けば対立の種となりかねず、それを防ぐことができるのは権力や権威以上にフィクス・トリストラムという人間でなければできません。野蛮な戦闘集団である軍団を教条的な神聖兵団に変えて、朴訥な神殿を組織的な統治体制に組み込むこと、それは容易なことではありませんがトリスタンという大皿は揺らぐ天秤から砂粒すらこぼさないことができました。
「ゼノビアの均衡は我が一身に支えられている。それが正常な状態とは呼べずとも、いずれ安定すればよほどの力がなければ揺れることも無くなろう。非常の時に非常の手段を用いるなら、非常の才に頼ることもできようとはウォーレンも語っておる」
そう言いながら、トリスタンに一抹の懸念がないわけではありません。死した英雄と亡き王妃が残したゼノビアをトリスタンはその一身に背負っていましたが、権威と権力を得た彼が多忙となることはやむを得ず、またすべての責任と判断と負担が彼に委ねられることもまたやむを得ません。赤毛の英雄や聖なるラウニィーがいればトリスタンが負う荷物の一部は確実に軽くなっていたでしょうが、今は不臣の礼を取って統治に関わらずただ助言を続けるウォーレンと、王の懐刀として軍団と宗団を率いるランスロットが彼を支える柱となっています。
こうして新生ゼノビア王国が新しい時代の統治を始めようとして、国の再編を行う中でアヴァロンは取り残されたまま明確な処遇すら定められませんでした。日々礼拝する者が絶えなかった、小さな島は海路を行けば王都から決して離れてはいませんが、寄港地にできる港まで破壊されて今は立ち寄る船の姿もありません。トリスタンはアヴァロンには当面の立ち入りを禁じただけであとは放置してしまい、宗団を束ねるために王都の建物を改修してそこに神殿を設けました。こうして誰もいなくなった筈のアヴァロンに、そこが見逃されているが故に人が集まるようになりますが、彼らが同じ人物に導かれて同じ人物の下に集うことになるとはその時は誰も気がつきませんでした。
落ちた男爵と呼ばれたアプローズはかつてゼテギニア帝国が隆盛を誇っていた時代にはやされた貴族の一員ですが、英雄戦争では帝国に恭順を誓ったためにその二つ名の通り運命を変えられた人物です。一時は帝国の貴族として聖なるラウニィーを妃に迎えようかという勢いを持ち、野心の絶頂にあった折りに叛乱に見舞われるとラウニィーは逃亡して叛乱軍に参加、彼自身は兵を出しましたが打倒されるとすべての地位を失うことになりました。捕らえられた男爵は戦後統治の中で寛容を示されると命は長らえることができましたが、爵位を奪われて平民に落とされたことは野心とそれに見合った実力を自負していた彼にとって耐えがたい屈辱だったことでしょう。
蛮人ウーサーもやはりゼテギニア帝国に仕えた辺境領主の一人であり、血統でも出自でもなくあまりにも優れた勇猛さにその呼称が与えられた人物でした。英雄戦争の当時はゼテギニアの将軍として叛乱軍と衝突し、ランスロットとも直接剣を交えて互いに多くの犠牲を出したほどの奮戦ぶりを見せましたが、戦いが終わって後は冷遇され続けると、かつての武人は振るうことのない武器をただ磨くだけの日々を過ごしています。
ルッケンバイン二世の父親は戦乱の最中にあっても金銭への欲望に取りつかれてこれを捨てることができなかった人物であり、いくつもの都市に豪壮な邸宅を構えると黄金と宝石で飾り立てた服をまとっているような人物でした。強欲だが冒険心にも溢れていた父は噂に伝え聞いた宝石の噂を求めてとある地方の探索に赴くと、そこで襲われて命を落としてしまいます。その息子であるルッケンバインは帝国にも伝説の戦いにもまるで関わりのない人生を歩んでいましたが、父親への尊敬と反発の双方から金銭への欲求と冒険心は受け継ぎながら人情と義侠心に厚い若者に育っていました。
彼らが放棄されたアヴァロンに集まった経緯はそれぞれです。ある者は帝国貴族の残党に担がれて、ある者はゼノビアの目を避けて、またある者は狡猾な老人の口車に乗せられて。それが意味を持つのは彼らが出会った地、アヴァロンの北端にある小さな砦においてでした。