第一章 享楽の都チェスターにて


 チェスターはブリタンニア西岸にある内海に面した都市の中でも起源が古く、古代ローマによって敷設された平原を貫く街道網の拠点として立てられた砦が元となっている。デイ川の畔にあり古くは「川の砦」を意味するケストルデバの名でも呼ばれ、地勢は平坦で気候は東部に比べると比較的温暖で平準、快適な地域であり土地は牧畜に適していてローマの属州であった時代から後代になって独立した今でも人の往来が多くチェスターを支える力となっている。

 時は紀元六世紀、帝国の衰退と宗教の没落によって独立し分裂したブリタンニアの地では、四百年ほど昔に皇帝ハドリアヌスが建てていた長城もその威容は残されていたが軍団は引き上げて久しく、各地の統制力は弱まる一方で豪族や貴族、遊牧民族の力が増大していた。チェスターは都市にして周辺の村や部族を治める小国の名へと変わり、土地の貴族や有力者が集まって作られた評議会によって治められている。街道で結ばれた都には商人が行き交い、帝国時代からの多くの文化が残されているために人々は享楽的で娯楽や芸術に対する執着が強い。劇場や浴場、広場や演説台が他のローマ都市と同様に設けられている。チェスターの街路は舗装されて石造りの建築物や彫刻で彩られているが、急速な発展のために外観は雑多で計画性も統一感もなく、活気はあるが騒然としてあまり治安の良い場所とは言えない。昨今では無産の民も増えており、貴族や商人階級を含む富裕民との格差が問題となっている。
 チェスターの民は海峡を越えてローマから植民した者たちの末裔が殆どであったが、入植と交易によって現地人との混血が続き今ではブリタンニア人としか呼びようがない存在となっていた。貴族であっても入植する以前からの有力者である者もいれば海峡を越えて訪れた新興商人を出自に持つ者もいたり、遊牧民であるケルトの部族長であった者すら存在する。肌は薄かったり褐色だったり、髪の色も茶から赤や黒だったりと様々である。国としては裕福で、ことあらば傭兵を雇い強力な軍装を揃えることもできるが、人民は武器を取ることを嫌うために軍団の質が低いと言われていた。富と娯楽を求めて己れの血を流すことを嫌う、チェスターが享楽の都と呼ばれる所以がそこにある。

「フランコ、まだ準備できないの?先に行ってるわよ」
「お嬢様、お待ち下さいませ」

 裕福で、そのために享楽的で好戦的でもあるチェスターで最も人気のある娯楽の一つが剣闘士試合である。建築者の名をとってエミリウス円形劇場と呼ばれているその施設は、客席が中央を円形に囲っており建物の壁面には大理石の装飾版が貼られ、あちこちを神々や使徒の像で飾られた闘技場であった。一般に他国人には享楽と頽廃の象徴と思われがちな劇場は、人民に娯楽を提供する一方で彼らがそれを観戦する王や貴族と直接対することができる極めて政治的な施設としても知られている。劇場を設けぬ貴族や、剣闘士試合に足を運ばぬ王や議員は人民の声を聞かぬ者とされるのだ。
 剣闘士試合は残酷と言われる側面もあるが、一方で命の価値を知らせるためにこれを是とする考えも存在する。競技の大抵は人間や獣が倒れるまで戦うというもので、剣闘士は奴隷の身分から出ることが多かったが人民や貴族の中にも自ら剣闘士となって試合に臨む者もいた。危険なだけに報酬は高額で人気も高く、剣闘士試合で稼いだ金によって解放される奴隷も多く存在する。更に自らを危地に晒すことで勇敢さを示す当時の風潮もあって、貴族の中にも決闘やこうした剣闘士試合に出る者も決して少なくはなかった。

 そうした貴族の中でも、長城を越えて北東にある王国エデンバルから亡命してきた有名な王子ファビアスは国にいた当時から、享楽的なチェスターの剣闘士試合に憧れていたと言われている。今では機会さえあれば足を運び観戦を怠らぬし、時には自ら出場することさえあった。エデンバルでは兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスとも呼ばれている彼は長身巨躯で頑健な偉丈夫であり、剣の腕も確かで並みの者では十人いても相手にならぬし、専門の剣闘士でさえファビアスにかなう者はいないとさえ言われていた。兄殺しの異名に相応しく粗暴で血を好み、容赦のないデケ・ファビアスの闘いぶりには嫌悪する者も多くいたが、多くの観客はそれを熱狂で迎えている。
 チェスターにおける彼は亡命した客人である貴族のファビアスとして遇されているが、剣闘士試合ではデケ・ファビアスとして扱われていた。貴族の決闘であれば傷付いても命までは奪わないのが常であったが、貴種、貴族に変わり者が多いことを知っている無責任な観客たちは兄殺しのファビアスが残虐でも一向に差し支えはなかったのである。

「それにしても昨日の夜会でのクリスは傑作だったわね。意気込みたくなるのは分かるけどさ」
「はあ、さようで」

 アニータはプリシウス家というチェスターの傍流貴族の娘であり、彼女に付き従うフランコは曾祖父の代から彼女の家に仕えていた解放奴隷出身の壮年の男であって、今でもアニータの従者をしている。プリシウス家のアニータは赤毛の活動的な娘で、その内面があまりに表情に現れているために女性らしく伸ばした髪型でさえわざとらしいとは巷間の評判である。貴族の娘らしく質の良い長衣の上に厚布の胴衣を着て、飾りの付いた帯紐で腰を結んでいるが女性にしては些か服の裾が短いのは明らかに走り回るためであろう。
 プリシウス家はチェスターの貴族ではあるが傍流のせいか、まるで商人階級のように市井の商売に熱心で開明的でもありアニータも女性ながら海峡を越えて大陸に留学したこともあればフランコを連れて遊猟に行くようなこともあり、剣闘士試合を観戦することも好きでいわゆる深窓の姫君という印象からはほど遠い。貴族の令嬢としては変わり者として知られているが人からの評判は悪くなかった。

 フランコの家は代々プリシウス家に仕えており、公には貴族として商売に携わることのできないアニータの父に代わって多くの交易を取り仕切っていた。プリシウス家は貴族としての地位はそれほどでもなかったがそれなりに裕福で、だからこそ娘の養育にも寛容になることができたのであろう。フランコ自身はアニータが生まれてより彼女の従者でありお目付役でもあり、そして護衛役としても日々を過ごしてきた。中背だが頑丈そうな体躯に短衣からのぞく日に焼けた肩も腕も頑健で力強く、後ろに撫でつけた灰銀色の髪と同色の髭が頬から顎にかけて短く刈り込まれている、一見したところなかなかの偉丈夫である。実際、彼は優れた剣の使い手でもあって幼い頃よりアニータが剣技の真似事を覚えたのはフランコの影響ではないかと言われている。彼にとっては頭の痛い話であった。

 その日の剣闘士試合にはアニータの友人であるクリスこと、青年貴族のクリストフォロ・レントウルスが出場することになっていた。クリストフォロは黒髪の優男でアニータの崇拝者でもあり、気取った風体が鼻につくことはあったが基本的には善良かつ礼節を弁えた男で貴族なりの正義感もあり剣の腕前も悪くない。アニータ自身はクリストフォロとそれほど深い親交がある訳ではないが、長い知り合いであって貴族としては異端な彼女の貴重な友人の一人でもある。
 アニータの教育係でもあるフランコは剣闘士試合のような風習にはどちらかといえば批判的であり、観戦も決して好んでいる訳ではなかった。アニータにしても行き過ぎればお転婆娘で片づけられる問題ではなく、自ら剣闘士試合に出るとまでは言い出さない分別が最後の砦だとさえフランコは思っている。だが色恋沙汰となれば伊達男のクリストフォロには気の毒だが、フランコの見る限りアニータにそうした様子はまるで見受けられなかった。もっとも、それはそれで困ったことであるのかもしれないが。

 古来より剣闘士試合は身分の低い者が行う競技とされており、十世代前の時代であれば、クリストフォロのような貴族が出るとあれば人民権や貴族の地位を捨てなければならなかったものである。今はその必要はないが古くは暴虐帝コンモドウスが剣闘士試合に出場を続けて国政を省みなかった例もあって、貴族が出る試合はやはり特別扱いとされて試合や相手も選ばれるようになった。そうした中で最も多かったのは貴族同士による公開の決闘であり、諍いを起こした貴族同士が剣を合わせる前に大仰に名乗りを上げて何を賭けるか誓うのが習わしであった。ゴシップを好む者にとって貴族の争いや決闘は良い話題になったし、名誉を賭ける程度であれば観客も不平と失望感を口にするが、負けた方が観客に土産を振る舞うとか、衆目の中で眉をそり落とすとなれば無責任で即物的な好評を博したものである。
 正午の前であれば街で仕事をしている者が多く、本格的な剣闘士試合が始まるのはそれ以降であって貴族の決闘は余興として早い時間帯に行われることが多かった。だからこそこうした試合が許されていた面もあり、アニータが急いでいる理由もそこにあった。クリストフォロの相手は同年の貴族であり、相手の貴族も親しいとは言えないが旧知の間柄である。昨晩の会食で諍いがあり、互いに剣を抜いて決着を着けることになったらしい。諍いの理由はといえば、当時の民衆が信じていたように貴族の諍いなどはつまらない原因で起こるものに違いなかった。

「良かったわ、丁度始まるみたいよ」

 円形劇場への出入りはチェスターの人民には無料、外来者にもいたって安価である。アーチ型をした石造りの門を抜けて、三層に分かれている観覧席にアニータが駆け込む。客席には一万人は入ることが可能であり、数世代前には一層前が貴族や元老院議員、二層目が市民であって三層目に女性が場所をとるのが習わしになっていた。今は女性の権利が拡大されて久しく、チェスターの有力者が一番前で次が市民、それ以外が三層目とされているがあまり厳密に守られてはいない。アニータが最前列に近い場所に腰を下ろしたとき丁度式部官の声が響き、仰々しく飾り立てた青年貴族が観衆の前に姿を現したところであった。
 遠目にも緊張した面持ちに見えなくもない、クリストフォロは肩や腕、臑に黄金色に輝く甲を着けて頭にはブリタンニアの伝統である羽根飾りのついた兜を被り、薄く鍛えられた長い剣を手にしている。一応は友人の晴れ舞台でもあり、眉を潜めるフランコの視線を余所にアニータもあまり淑やかとは言えない歓声を送る。砂地の中央で二人の青年貴族が向かい合うと、一方が朗々とした声を張り上げた。

「このクリストフォロ!我と我が始祖の名誉に賭けて貴殿の侮蔑には伝統の剣で応えねばならぬ!」

 大仰な言い回しは決闘の習わしであると同時に、クリストフォロの性癖でもある。まばらな拍手と歓声が上がるが、通りの良いクリストフォロの美声と大袈裟な身振りはそれなりに観衆に受け入れられたようだ。アニータも無責任な歓声を送ると貴族たちは形式だった礼を交わし、ややぎこちない構えから剣撃ちが始まる。互いに派手な動きで観客の目を楽しませる剣技の応酬がしばらく続き、突く、手首を返す、弾くという作法に則った動きから相手の剣を弾き飛ばしたクリストフォロが剣を止めて勝利を収めた。アニータも友人の勝利に腰を浮かせると祝福の声を送る。
 或いはこの後、勝利を誇る青年貴族が観覧席にいる知り合いらしい客席の娘に言い寄った挙げ句、寸劇のようにあしらわれるであろう様を観衆は期待していたのかもしれない。闘技場は本来劇場であり、観覧する起源は演劇も剣闘士試合も同じであるのだ。だがまばらな歓声に包まれているエミリウス円形劇場で、突然、それを突き破る野卑な大声が響き渡った。

「止めろ止めろ!退屈しのぎにもならん、小僧がチーズを切る剣に誰が満足できるのか!」

 一斉に衆目が集まったところに立っていたのは、あろうことか亡命貴族のファビアスである。エデンバルの王子でありチェスターの客人でもあるファビアスが剣闘士試合を訪れることは珍しいことではなかったが、正午の前の早い時間に現れるのは余程珍しいことであった。高名なデケ・ファビアスの登場に観客は喜んだが、彼の威名または悪名は有名であり貴族としては余り関わりたい相手とはとても言えない。自身、剣闘士でもあるファビアスは人の目を意に介する風もなく闘技場に飛び降りると、弾き飛ばされていた貴族の剣を拾い片手で挑発的に振り回した。その様子に周囲から歓声が上がる、彼らの期待は明らかであった。

「貴様と始祖の名誉に賭けて侮蔑には剣で応えるそうな。軟弱な乳飲み貴族に武人の剣を教えてやろう」
「無礼な蛮人よ!望み通り貴族の魂の何たるかを教えてやる!」
「止めてぇー!」

 両者の言い合いに制止の声を上げる、アニータの叫びに耳を貸す者は誰もいなかった。デケ・ファビアスの恐ろしさはアニータだけではなく皆が知っている、だがここは劇場で彼らは舞台に立っている貴族であり、享楽の観衆を前にして侮蔑に背を向けることはできないのだ。
 構えてから双方が作法に則った礼を交わす。抜き放たれたクリストフォロの剣は動きこそ派手で大きいが、太刀筋は鋭く狙いは正確で、優男然とした外見に似合わぬ膂力もある。アニータの傍らに控えているフランコの目からしても、一級とは言えずともまず一級に近い剣士に見えた。大きく振った剣先を明らかに誘うつもりで、ファビアスの前に流すとこれを手首を返して突き立てようとする。だがデケ・ファビアスはその剣が自分に当たらないことが分かっているかのように、容赦なく踏み込むと誰にも見えぬ軌跡を描いた剣先がクリストフォロの右の瞼を浅く切り裂いた。小さく血の飛沫が飛び、一瞬の間を置いて叫び声が上がるとアニータは闘技場の柵に駆け寄り声を上げる。

「クリスーッ!」
「おやおや、小娘が逢い引きの時間だと言っているぞ。女の股の下に逃げ帰るかね」
「貴様!我は我以上に彼女への愚弄を許さぬ!目の一つで名誉は捨てぬぞ!」

 この時点で止めていれば事態は余程平穏に収まったのであろう。両者の技量には決定的な差があり、しかも片目の見えぬクリストフォロに勝ち目のある筈がない。デケ・ファビアスは圧倒的な強さで剣を右に左に振り回すと青年貴族の右足の爪先を切り落とし、左腕の肉を削ぐと鋭く尖った剣先で何度もクリストフォロの胴を浅く突き刺した。友人が血まみれになっていく様子にアニータは両手で口元を抑えながら顔面まで蒼白になり、あまりの残酷さに観衆も声を失っていくと遂に力尽きたクリストフォロは膝から倒れ伏したのである。そして兄殺しのファビアスも剣を地面に放り投げた。
 戦って勝負がついた、観衆もアニータも残酷な見せ物が終わることに安堵したがデケ・ファビアスは青年貴族の身体を爪先で仰向けにひっくり返すと、暴虐帝もかくやという顔になって腰に吊した無骨な棍棒を取り上げる。次の瞬間何が起こるかを悟ったアニータは、絶望的な悲鳴を上げた。

「止めて!止めなさい!」

 その時の、デケ・ファビアスの悦に浸った顔を彼女は後々まで忘れることはないであろう。兄殺しのファビアスは大きく振り上げた棍棒を勢い良く振り下ろし、クリストフォロの膝から足を狙って何度も念入りに潰したのだ。動く様子すらない青年貴族の身体から、くちゃくちゃと血管が潰れて腱が切れる音が聞こえてくる。観客もこの蛮行には騒然とする者と罵声を浴びせる者、そして歓声を浴びせる者に分かれた。幾度かの一撃を振って、ようやく玩具を壊すのに飽きたファビアスは満足したかのような豪快な笑い声を上げると、先ほどから五月蝿く声を張り上げていた小娘に向き直る。嗜虐的な笑みに、アニータは全身の血が凍る思いであった。

「いや大した貴族の名誉と剣であった。足なんぞ無くとも馬に乗れぬだけで娘には乗れるから安心するがよかろう」

 下卑た笑みから発せられる言葉に、凍り付いていたアニータの全身が激しく沸騰する。

「何ですって!肉親や倒れた相手と戦うしかできない卑怯者が下劣な口を開かないで!」

 激怒した赤毛の娘の叫びを聞きとがめたファビアスは顔面の筋肉をひきつらせた。亡命者であるファビアスはその残虐とさえ呼ばれる性向もあって、チェスターでは客人であっても重用されているとは言えず戦場に出ることも軍団を率いることもなく、街を徘徊しては度々いざこざを引き起こしていたのである。そのことは誰もが知っており、ファビアスも観衆も、アニータの言葉をそうした厄介な亡命者への痛烈な皮肉と受け取ったのだ。激昂したファビアスが血管を浮き上がらせながら叫ぶ。

「この生意気な小娘が!殺してやる!」
「やってみなさいよ!あなたみたいな卑怯者でも女だったら殺せるでしょ!」

 威勢の良いアニータの言葉を受けて、ここまでくれば観衆も無鉄砲な娘を支持するようになる。傲岸不遜なファビアスも周囲の様子が変わったことを悟らざるを得ず、何より剣闘士試合で相手を傷付けても罪には問われないが観覧席にいる貴族に手をかけたとあればいかに亡命の王子とはいえ大いに問題になるであろう。
 顔面を青紫色にして憤激するファビアスに、これ以上は不味いとアニータを羽交い締めにしたフランコは未だ暴れている彼女を抑えながら強引に外に連れ出した。観衆は皆が彼女の味方となっており、逃げるなら今しかないであろう。アーチ型をした石造りの門を潜り、闘技場を出る二人の背後からはデケ・ファビアスの収まらぬ怒声が延々と聞こえていたが、外に出る頃にはそれも聞こえなくなっていた。

‡ ‡ ‡


 エミリウス円形劇場で起きた事件の顛末はすぐに人の知るところとなり、アニータは屋敷に帰るや難しい面持ちをした父親の、プリシウス卿の顔を見ることになる。彼女の帰宅が遅れたのは不幸なクリストフォロが施療院に運ばれるのを見届けていたからであるが、付き添ってもどうなるものでもなく寧ろ青年の家との関係も面倒になる恐れがあった。
 プリシウス家の建物はチェスターにある多くの他の家と同様に、石造りで厚い外壁には窓がなく全てが広い中庭に向けて開かれている。中庭に四角く設けられた池には水が流れ込んでいて、生けられている花木を見れば家人の手入れの程を窺うことができた。幼い頃からアニータが見慣れた中庭に差し込んでいる日差しは既に傾きかけて柔らかく、花に彩られた影が穏やかな陰影を浮かび上がらせているが、プリシウス卿の顔にも声にもそうした風景には癒されぬ憂慮の念が絶えないでいる。卿はその面持ちに相応しい声を漏らすように愛しい娘に話し始めた。

「困ったことをしてくれたものだな」
「お父様!あの蛮人のしたことを容認しろというのですか?」

 父の言葉も娘の反応も、互いに予想していたものである。貴族のクリストフォロが亡命王子のファビアスによって害された、それは許されぬことであるが剣闘士試合での出来事であり、決闘の申し出を受けたのもクリストフォロであってことの発端にも結末にも公的には異を唱えることはできないだろう。そしてエデンバルの亡命王子であるファビアスを罰することが簡単にできよう筈もなかった。アニータの行為にしたところで観衆が剣闘士に浴びせた野次と言えないこともなく、その場は収まったのであるから誰を裁くという話でもないのだ。いや、このことで誰も裁いてはいけないのだ。
 だがチェスターの法で誰を罰することがなくとも、ファビアスが抜いた矛或いは棍棒がこのまま無事に収められるとは考えられなかった。兄殺しのファビアスは巷間の噂が言う通りに野獣にも等しくただ血を望むような男であり、チェスターの評議会が政策によって飼い慣らそうとしている者なのだ。或いは今後、ファビアスがことを起こしたときに黙認される可能性がないとはとても言えないであろう。デケ・ファビアスには極めて政治的な意味で誰も触れてはいけないのである。

「お前のしたことが仕方のないことであれば、儂がお前に望むことも仕方のないことだよ。分かるね」
「・・・」

 その夜のうちに、アニータは生家であるプリシウス家を出ると忠実なフランコを伴にしてチェスターを離れることになった。急な出立であり、必要な物は後々送るか手に入れさせるしかあるまい。旅装である丈夫な麻布で出来た長衣の上に胴衣を着て、頭巾のあるショールを羽織る。路銀や少ない荷はフランコの頑健な肩に担がれ、護身用の剣と短剣を忍ばせると二人は父親に見送られて、享楽の都チェスターを後にした。ありていに言えばトラブルを避けたのである。
 間口から娘の出立を見送るプリシウス卿の姿はアニータの目にはどこか頼りなげに映っていたが、それは卿が娘を国外に逃すことへの不安を覚えていたことと、評議会とファビアスの不満を収める労苦に疲労を感じていたことのどちらが原因であったろうか。夜の最中であっても交易の街であるチェスターの街路は夜灯に彩られており、寧ろ喧噪の多い日中よりも荷車の往来は多い程である。アニータとフランコは用意されていた商人の馬車に乗り込むと、国を出る街道を運ばれていった。二頭立ての馬車は屋根がついた四角い箱のような車を引いており、木枠の轍がチェスターの石畳にからからと乾いた音を立てている。家で暮らしていた頃には眠りを妨げる騒音にしか感じられなかったその音が、アニータの耳にはどこか親しみ深く心地よいものに聞こえていた。

「行って参ります、お父様・・・」

 その言葉は誰かに届いたのであろうか。馬車に揺られながら彼女が暮らしたチェスターを出る時も、街道を北に抜けて数刻が過ぎてもアニータは後ろを振り返ることはなく夜半の出立の中でやがて睡魔が訪れるとゆっくりと目を閉じて浅い眠りにつく。彼女がチェスターを出ることはこれが初めてのことではなく、自分がチェスターを逃げ出すともこれが帰れぬ旅だとも考えてはおらず、自分の行動に後悔も未練もないのだから後ろを振り返る必要はないのである。アニータは、そう信じたかった。
 座席に眠る娘にフランコは物音を立てぬように、荷物から取り出した厚布を掛けると座席の隅で腕を組み目を閉じて、主人に倣って浅い眠りにつくことにした。平坦な石畳に馬車の轍が鳴らす音は軽やかで小気味良く、浅い眠りはやがて深いものとなっていく。こうして貴族の娘とその忠実な従者の二人は、享楽の都を離れて今は行く宛てのない旅へとその身を投じることになったのである。

 哀れなクリストフォロはその後数月をして、潰れた足が腐って死んでしまった。


第二章を読む
の最初に戻る