第二章 ダビデ王の孫娘
時は遡る。
大陸のゴール人や古い遊牧民であるケルトに系譜が連なると言われているエデンバルはチェスターから街道を数日間北に進んだ先、ハドリアヌス長城を越えて更に北東に遠く平原を抜けた山麓にある王国である。寒冷な土地で北面には広く峻険な山岳が東西に長く連なっており、北東の海からの風が吹き付けて山の峰を舐めていくために実際の気温が低いだけではなく体感温度も低く感じられる。
エデンバルは山と風の国と呼ばれる通り一年中風が強く、それが山々を抜けて西方に流れて行く。気候の変動は少ないが季節による日照時間の変化は大きく、夏になれば深夜が訪れるまで日が沈まなくなる。この国の者は北風を受けて陽光を照り返す山々に対する信仰心が強く、特に北面の山々を指して高峰を意味するハイランドと称し、山麓にあるエデンバルを統治する王は「高峰の支配者」とも呼ばれている。長城の南方にあるブリタンニアの文化からは隔絶されて久しく、文化はケルトに似た自然崇拝の傾向が強いが独自性も目立ち伝統を重んじる風潮が強い。周辺の村落では貧しいが素朴な生活が営まれている。肌の色は薄く、髪の色なども金や赤から茶といった者が多い。
気候が寒冷なために農耕よりも牧畜や狩猟を行っているが何れの場合も規模は小さく、国家としては貧しい部類に入る。だが厳格な統治で兵士には生活が保証されることもあって軍団は強力で、好戦的なきらいがある。帝国がブリタンニアに入植を始めた時代より彼らとは折り合いがつかず、ことに前線基地でもあったチェスターとは歴史的に対立している。
タムシンという娘が暮らしているキャラバンは、ハイランド地方でも高い峰を越えた木々の茂る谷間で暮らしている。タムシンの祖父はエデンバルを治める白い大理石の王城に座す王であって、高峰の支配者ダビデと呼ばれている。何故、王の孫娘ともあろう者がこのような人里離れた場所で育てられているのか、その理由を知る者は殆どいない。王ダビデはエデンバルの厳格な支配者であり齢は六十に届くかという者であったが頑健で丈高く、権威も権力も備えていたが人間の持つあらゆる徳性に恵まれた人物ではなかった。
王ダビデは悲嘆に暮れている。かつて王には二人の息子と一人の娘がいた。王は長男であるメルキオルを自分の世継ぎとすべく育てていたが、次男と娘の二人はそれを脅かす存在と考えていた。そして王の後を継ぐ長男メルキオル自身も、そう思っていた。彼は父王に似て好戦的なところも多いが、従順でそれなりに優秀でもあり、ダビデにとってはまず満足すべき息子である。王は世継ぎとなる長男にエデンバルの秘術と呼ばれる、この国に伝わる古い知識を与えていた。
王の次男であるファビアスは出奔してその行方はようとして知れない。乱暴で素行が悪く、如何わしい友人と付き合って酒場や淫蕩な店に出入りを繰り返している次男を王は憎んでいたし、王が彼を憎むように仕向けたのは長男であった。一方で王の娘はそれなりに善良で凡庸に育ち、ごくまっとうなエデンバルの商家に嫁ぐことになった。あまりに裕福過ぎる豪商に嫁がせるとなればメルキオルの権威を脅かすであろうし、家柄や影響力の強い貴族であってもそれは同様だろう。だがファビアスのように人が蔑む程の暮らしぶりでは王国の権威が保てぬし、王の娘が商人の家に嫁ぐこと自体は当時の情勢では王が民に近付き親しみを得ることができるという事情もあった。王の娘は自分が選んだ相手が偶然、高峰の支配者とその長男の目論見に合っていたという幸運には気が付かなかったが、それはそれで彼女の幸福を阻害するものではなかったのだ。彼女たちは壮麗だが慎ましい式を挙げると市井に居を構え、やがて一人の娘が産まれるとタムシンというごく平凡な名前を与えられた。
全てが変わったのは、次男ファビアスがエデンバルに帰還したことによってである。エデンバルとは伝統的に対立するチェスターの評議会に担がれた彼は、無頼の傭兵と豊富な軍装を携えてエデンバルを襲ったのだ。ファビアスは軍の出自を殊更に喧伝することはなかったが、資金がどこから流れてきているかは明らか過ぎる程であった。
「惰弱で頽廃した帝国の残滓に魂を売った愚か者!奴を息子だとは認めぬ、首を落としてチェスターに送ってくれようぞ!」
「仰せのままに!」
激怒した王とメルキオルは次男の軍勢を迎え撃つために兵を起こした。エデンバルの民が崇拝する高峰を背にした悲劇的な激闘が行われると、ファビアスの軍勢は一兵卒まで壊滅させられる。メルキオル率いるエデンバルの兵はブリタンニアでも有名な不死歩兵団と呼ばれており、死してなお槍を振るうと言われる狂信的な士気の高さで知られていた。だが敗走する中でファビアスは自分を追うメルキオルを狙い、毒槍を投げつけると兄の胸板を貫いて王の長男は落馬して果てたのである。
こうして兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスと呼ばれるようになった彼はチェスターに逃げ帰ると、その地で客人として迎えられた。チェスターではエデンバルが二人の王子を失ったことを知っていたから、ファビアスをエデンバルに帰す訳にはいかなかった。そして残されたダビデもまた、ファビアスを自分の世継ぎにすることは最早できなくなっていた。
いちどきに二人の息子を失い、彼らには子がいなかったこともあってエデンバルの王としてダビデはやむなく自分の娘に使いを出すと、孫である彼女の幼い娘を王に引き渡すことを求める。やがて彼女が成人して世継ぎを産むに相応しい婿を娶ることができれば、エデンバルの血は絶えずに済むであろう。だが、娘はそれを拒んだ。
「タムシンはエデンバルの商家の子です。王族の母など分不相応でございましょう」
彼女はタムシンが王の曾孫を産み落とすための道具として望まれていることを知っていた。王が兄たちを、そして自分をどのように遇していたかは今更思い返すまでもないのだ。彼女の気性と誇りは王の娘に相応しいものであったが、だが彼女は王が追い詰められていることには気付いていなかった。王はすかさず彼女の夫を商人としては勿論、エデンバル人民としても一切の財産と権利を奪い卑賎民に落としてしまったのである。
「生きて行けなくなれば、娘も孫も城に戻らずにはいられなくなろう」
だが娘が追い詰められた王を理解していなかったように、王もまた強情で強硬な自分の血を引いている娘の気性を理解してはいなかった。彼女は横暴な父に屈することなく、夫と幼な子を連れて没収されかかっている僅かな私財を抱えると急ぎ国を発つ。それどころか王の娘の名を利用して城に入るとダビデがかつてメルキオルに与えていた、エデンバルの秘術と称される数巻の書物をも持ち出したのである。
行き先は明白であった。彼女たちが南に向かいチェスターに着けば、評議会はこれを狂喜して迎え入れるであろう。さすればエデンバルの血と王が誇る秘術はチェスターの手に落ちるのであるから。
「国が滅ぶを望むは我が娘であったか!」
狂乱したダビデは幼な子を連れた商人の夫婦を捕らえ、持ち去られた秘術を取り戻すために騎士レイモンドに命じると近衛隊を総動員して昼夜問わずの行軍によってこれを追わせた。王が厳命した通り国境を越える前に彼らは勇敢な、または無謀な夫婦に追い付くと白刃が振るわれて問答無用に王の娘とその夫は塩辛のようになるまで細かく切り刻まれたのである。
不逞な商人の男女を血まみれにして鎧を赤く染めたレイモンドだが、求むべき王の孫娘もエデンバルの秘術も見付けることはできなかった。母親は自分たちがチェスターに向かう一方で娘と秘術の書を別の者に頼って逃がしており、国境を越えた後で落ち合うつもりでいたのである。その行方を知る二人はたったいま、赤き鎧のレイモンドが血袋に変えてしまっていた。
全てが終わり、窮余することになったのは王である。この不名誉な事件をどのようにして収めるか、そして失われた書と孫娘の行方をどのように求めるか。王の秘術は門外不出であり、今や彼の血縁は兄殺しでチェスターに亡命しているデケ・ファビアスと行方の知れぬ孫娘タムシンの二人しかいないのだ。幸いと言うべきか、秘術に関わる知識の全ては王の中に残されてはいたし、未だ幼い孫娘は市井にも広く知られてはおらず成人するまでに歳月も必要であった。孫の行方を追う一方で、その婿となる人物の候補もこれから探さなければならぬ。王は人の耳目を避けるために多少の無理を承知で物語を作り上げると、息子を悼み孫を慈しむ親の仮面を見せて民を鎮めたのである。
「勇敢な我が息子メルキオルは忌まわしきデケ・ファビアスの呪いからエデンバルを守って名誉の死を遂げた。娘と孫娘は悪辣な商人の手で背徳のチェスターに連れ去られかけたが、王の近衛がこれを奪い返して今は無事である。だが孫は未だ幼く、世継ぎを守るためにもエデンバルの伝統を学ばせるためにも彼女が成人するまで暫くは静かに育てよう」
タムシンが成長するまでの時間は人々からその無理を忘れさせる筈であったし、王自身は未だ老境に差し掛からぬ年齢でもあって高峰の支配者としてエデンバルを治めることに何の障害もなかった。王はその間に失われたものを探し出し、エデンバルの伝統と高峰の支配者の地位を守らなければならない。かつてメルキオルに教えた自分の後を継ぐ者に授ける多くの伝統と知識、それはブリタンニアの歴史であり、エデンバルの系譜であり、人民を治める術であったが中でもエデンバルの秘術と呼ばれる技と知識を継ぐ者を見付け出さねばならなかったのである。
それ以来、王は今もタムシンを探し続けている。だが、彼女の行方を探している者はもう一人いたのだ。
‡ ‡ ‡
陽光に不思議な色を跳ね返すタムシンの髪は、動きやすいように結われたりまとめられたりしていることが多い。その日のタムシンの結い髪はシンシアの自信作であり、ハイランドの高峰を吹き下ろす風が妹のような娘の姿を神秘的に見せていた。
「姉様?どうかしましたか」
「いえ、タムシンの髪は水鳥の羽根のようでとても魅力的だと思っていたのよ」
陽光に光る金髪を揺らせて笑う、少女の言葉は世辞ではなく娘たちの持つ詩人の心が奏でた音である。タムシンは恥じらいながらも心の底からの笑顔でシンシアに応え、ハイランドの寒気を防ぐための大布を肩に巻き直した。この地方のキャラバンでは男も女も身体に大布を巻く風習があり、頭から被る例もあればタムシンのように肩から背中に流す方法もあり、シンシアはもう少し動きやすいように肩から腰に巻いて帯紐で結んでいる。キャラバンで育てられている少女タムシンと幼馴染みの娘シンシアは、その日は野草を摘むために山間の森に足を踏み入れている。野草の多くは香料や薬草、その他多くの効用や用途が知られていた。
エデンバルは定住するようになったケルト系遊牧民の系譜からなる国であり、キャラバンはそのケルトの生活を色濃く引き継ぐ者たちである。タムシンは彼女が物心つかない頃に、母親の知己であるというキャラバンの長に預けられていた。母親はその後エデンバルで起きた混乱で命を落としたらしく、それ以来タムシンはキャラバンの一員になると長の娘であるシンシアと伴に育つ。遊牧民の中で奔放に、だが母の血縁故であったのか淑やかで品位のある娘に育っていた。
タムシンが預けられたとき、彼女の持ち物として一緒に預けられていたのはエデンバルの紋章が刻まれた短剣と母の物という髪飾りが一つ、それに分厚い数巻の書物である。キャラバンでは誰もが己の仕事を持たねばならず、それは幼い少女も例外ではなかった。大抵の娘は機織りをするか山羊の乳を革袋に詰めるような仕事をするものだがタムシンは山野を駆けて狩りを行い、鉱石や野草を選り分けて砕いたり煎じたりして薬を作ることができた。彼女が射る矢は飛ぶ雁の一羽を正確に貫くばかりではなく、剣を持てばその腕は鋼にしてしなやかな鞭であり、男たちでさえも昨今では度々彼女に打ちのめされる有り様である。
彼女の書物はケルトのオーガム語でも高位の文字で書かれており、長ですら片言でしか読むことができなかった。タムシンがその文字を長から教わり、読み解くことができたのはひとえにそれが母の遺品であったからであろう。書物にはブリタンニアやエデンバル、隣国の歴史までが克明に記されており、別の書では優れた肉体の扱い方や多くの薬草や鉱石を用いた医術の法が載せられていた。タムシンが山野に出て剣を持つようになったのもその知識に依るところが大きい。
だが人に勝る知識や腕を除けば彼女は成人を前にした普通の娘であり、幼馴染みにして友人でもあるシンシアと詩や楽を吟じたり、口伝の物語をそらんじるか花木を摘んでいることが日々の楽しみであった。教養があって慎み深く、気立ても良いばかりか弓が巧くしなやかな剣捌きは随一で、祈祷婆並みに薬草や施療に詳しい。そんなタムシンが空色の瞳を最も輝かせるのはシンシアと二人で、あまり高尚でも崇高でもない話をしているときであった。その日の彼女たちの話題は、先にキャラバンを訪れた旅の商人から聞いた他愛のない話である。
「今日の結い髪はエデンバルで流行っている方法だそうよ。母様の髪飾りもぴったりね」
「ふふっ、じゃあ母様もこんな姿をしたことがあるのかしら」
「でも、タムシンの母様は狩猟や剣撃をなさるお転婆娘ではなかったと思うわ」
「姉様、それは酷いですよ」
タムシンの抗議に娘たちは笑う。エデンバルの騒乱で命を落としたという、彼女の母親のことをタムシンもシンシアも知らなかったが、母の形見であるというタムシンの髪飾りが似合うような素敵な女性であったのだろう。
充分に満足ができる量の野草を摘んで鉱石を割り集め、持ち帰った二人の少女がキャラバンに戻るとそこでは格幅の良い中年男が組んでいた柵を片付けている最中であった。娘たちと同じく毛を織った上着に深い帽子を被り、日の照り返しに焼けた赤い頬をした男は常に見られない慌てた素振りでタムシンたちに気が付くと駆け寄ってくる。その様子を見てもただごとでない事態が起きたようであった。
「おおシンシアにタムシン、戻ってきたか。急いで出立するぞ、お前たちは早く長のところへ行くんだ」
「何かあったんですか、サムス?」
怪訝な声でシンシアが尋ねる。この谷間に来てから未だ数日しか経っておらず、キャラバンは天幕を張ったばかりであり居を移すには余りに早い。サムスと呼ばれた中年男は柵の片付けに戻ろうとしつつも、長の娘の質問に答えた。
「兵隊がこちらに向かっておるそうだ。見た者が言うにはチェスターの傭兵かもしれん」
「まさか!チェスターからここまでどれだけあるというのですか、城壁も峰も越えてハイランドの奥に軍を向けるなんて・・・いえ、とにかくタムシン、父様のところへ行きましょう。サムスも急いで下さいね」
そう言うと二人の娘は早足になってキャラバンの中央へと向かう。男たちの中には武器を持つ者もいるが、キャラバンは常に家族を伴に連れて移動しており女や子供に老人も多く暮らしている。兵隊と争うにはキャラバンを動かして彼らを安全な場所に連れ出しておく必要があった。突然の知らせにも関わらず天幕からは手際よく武器や得物を手にした男たちが現れて、女たちはその天幕を畳み荷を車に積むと家畜や騾馬を集めている。長の天幕に向かう途中でタムシンは男たちの様子を見て立ち止まると、担いでいた野草や鉱石の袋をシンシアに手渡して腰に吊られている剣を確かめた。
「姉様、私は男たちと一緒に戦います。長のところへ行ってください」
「タムシン!貴女は・・・いえ、そうね。貴女が行かない訳にはいかないわね」
女だてらにタムシンの腕はキャラバン随一であり、その彼女が剣を持たない訳にはいかないだろう。長の娘であるシンシアにはそのことが分かっていた。シンシアは一瞬だけ気遣う顔をしたが、タムシンの頭にゆっくりと手を伸ばすと彼女の母親の髪飾りを抜き取り、それを自分の頭に挿してから少し悪戯めいた笑顔を作る。
「姉様・・・?」
「これは、貴女の母様の大切な物でしょう?必ず戻ってきなさいね、そうしたらまた髪を結ってあげるから」
「分かりました、約束します」
何かがこみ上げてくる、それでいて不可思議な不安が消せずにいるタムシンは耐え難い衝動を必死に抑えると貴重な者を守る戦士の顔になって振り返り軽快に駆け出した。シンシアは最後に、今度は無理につくったものではない素晴らしい笑顔を残して男たちの元へ駆け寄るタムシンを見送っている。だが、後にタムシンは守るべき大切な者の最後の笑顔を見ることができなかった、その事実を痛切に悔やむことになったのだ。
タムシンは緊張した面持ちで武器を手にしている男たちの輪に入ると、戦士の盾と数本の木槍を受け取る。樹間に潜んでからこれを投げて敵の数を減らし、機を見て剣を抜き襲い掛かるのがゴール人やケルトに伝わる伝来の戦法である。果たして兵隊は近くまで迫っており、タムシンたちは女や老人のいるキャラバンから少しでも離れて敵を自分たちに引き付ける必要があった。彼らの間で山栗鼠と呼ばれている斥候が戻ってくると、数十人の兵隊は確かにチェスターの旗を立てており、馬に乗った数人の男たちに率いられているようだと告げる。タムシンたちは誰ともなく駆け出すと木々に散らばって息を潜めた。
静寂の時間が長く続くことはなかった。木々の切れ目にある斜面、陽光が当たる丈の高い下生えに隠れたタムシンが一つ、二つ、三つと数えるとすぐに視界の向こうから馬上姿が目に入る。羽根飾りのついた兜はブリタンニア人の伝統であり、掲げている旗にはチェスターの紋章が翻っていた。タムシンは馬上の男の中でも特に偉そうな一人を狙うとしなやかな背筋を隆起させる。ひゅうんと音がして、正確な弧を描いた木槍が馬上の男の喉元に突き立った。
「隊長!」「敵襲!散開せよ!」
兵たちの叫びを合図に、激しい争いが始められた。キャラバンの男たちは彼らの庭である木々や茂みを利用して場所を変えながら姿を隠し、槍を投げつけたり背後や足元から切り掛かろうとする。チェスターの兵隊は傭兵らしくあまり統制が取れてはいなかったが、鎧と大盾で良く守られており容易には倒せない。すぐに槍が尽きると彼らは剣を抜き放つが、肉食獣のしなやかさと猛禽の鋭さで敵を圧倒するのはタムシンばかりで、他は良く言っても隠れて戦うが故に互角という程度である。それでもやがてチェスターの兵たちは追い詰められていき、キャラバンの男たちも囲んで有利に戦えると思った矢先に突然、山間にこだまする野卑な大声が響き渡った。
「何をしているか!キャラバンはこのファビアスが壊滅させたぞ、いつまで家無しどもと遊んでいる!」
突然の声以上にその内容にタムシンたちは愕然とし、首を巡らせるとキャラバンの移動した先にある木々の上から立ち上る煙の筋が目に入ってきた。勇敢な遊牧民の男たちの戦意は一瞬で揺らぐと不安と焦慮が取って変わり、勢いづいたチェスターの兵は次々と男たちに襲い掛かるとこれを打ち倒していく。タムシンも焦慮のあまり兎狩りより易しい相手の剣が見えなくなり、みるみるうちに仲間は倒れて彼女一人になると幾度か手傷を負わされ、兵たちは一人残った娘を追い詰めると周囲を囲う。下卑た顔をした彼らが何を望んでいるか尋ねるまでもなく、それでもシンシアの無事が頭から離れぬタムシンの耳にもう一度、先程の野卑な声が聞こえてきた。
「秘術の書は手に入れたし娘も殺した。先に戻るぞ!後は好きにするがよい」
そう言うと馬の腹を叩く音と、いななきが聞こえて足音が遠ざかろうとする。タムシンにはその言葉がにわかには理解できず、一瞬自失したがまさしく一瞬のことでしかなかった。では、そのファビアスという男が狙っていたのは「秘術の書を持つ娘」であったというのか。タムシンの剣が生命を吹き返す。遠ざかる男に問い正さねばならぬことがあり、彼女を囲う兵たちはそれを遮る壁でしかない。
「・・・邪魔ですっ!」
一瞬の太刀筋で二人が喉を裂かれると開いた透き間から躍り出た娘は男の後を追う、だがその姿は見えず、後ろからは囲いを解かれた兵たちが慌ててこれを追ってくる。タムシンは羚羊を思わせる俊速で駆け出すが一瞬、微かに遠く見えた馬上の姿はすぐに消えて見えなくなった。疲労と獲物を逃した徒労感で躓き、膝をついたタムシンの後ろから追い付いた兵たちが逃げ損ねたと彼らが信じる若い娘に近付こうとする。だが四人程が残っていた彼らは、目の前にいる娘が猛り狂う野生の獣であることを知らなかった。
「貴方たち・・・姉様を、姉様をどうしたあっ!」
ゆっくりと振り向いたタムシンが一瞬で伸び上がり繰り出した剣は一閃で一人を、次の一閃で二人を倒しどちらの一撃も正確に喉を切り裂いている。残る二人は怯んだ顔で稚拙な剣を持ち直すが、手首を斬られ足を凪がれてから武器と逃げ足を封じられた獲物は簡単にしとめられてしまう。ごく短い時間で切り刻まれた男たちは地面に倒れ、だがファビアスと名乗っていた馬上の男はとうに姿を消していた。タムシンは敵を探して暫く周囲を歩き回っていたが、最早生きている者の姿はどこにも見ることができない。殊更に敵を探して回った、その理由は煙が立ち上るキャラバンへ戻ることを彼女が無意識のうちに避けていたためかもしれなかった。
やがてタムシンは意を決すると、頼りない足取りをようやくキャラバンの移動した先に向けることを決意する。彼女が思う程には時が過ぎていなかったのかもしれず、未だ煙が上る谷間に近付くと彼女のキャラバンが、いや、キャラバンの残骸が視界に入ってきた。数刻前からは信じられぬ現実を確かめるために、陽光の差し込む空き地に足を踏み入れる。
タムシンの眼前に広がっていたのは、徹底的に破壊され火をかけられた彼女の半生であった。ちぎれた骸は彼女の見知った顔であり、焼け残った天幕の柄はそれを織り込んだ老女の表情までを思い返すことができるのだ。殆どが女と老人しか残されていなかった、無防備なキャラバンに襲撃者はより精鋭を差し向けていたのであろう。組織だった掃討は冷酷なまでに徹底されておりささやかな抵抗は無意味だった。
残骸の中央には長の車とおぼしき焼けた車軸が転がっており、そこでは時間は短くとも最も激しい争いがあったのであろう。骸の数はより多く、より激しく傷付いていてここだけには僅かにチェスターの兵たちの骸も転がっている。そして車軸の傍らには、彼女が最もよく知っている娘の物言わぬ身体が伏せていた。
全身を刻まれた上に手足には棍棒か何かで念入りに潰された痕が残り、美しい金髪を伸ばした頭は赤黒く汚れている。その身には先程まで伴にいた彼女の大布が巻かれていたが、タムシンがシンシアの姿を見紛う筈がないのだ。少女は糸が切れた人形のように力なく両膝をつくと、ゆっくりと這い寄ってから物言わぬ骸を抱きかかえた。自分の手が、身体が、頬が血にまみれることなど気にもならなかった。
「姉様・・・姉様・・・ごめんなさい、ごめんなさい、私は・・・」
タムシンは号泣するでもなく、虚ろな目をしたまま小さく嗚咽を繰り返すことしかできない。いっそ気が触れる程に泣き叫びたかった。だが彼女の心の奥底では秘術の書を持つ娘が襲われたのだという恐怖を消し去ることができず、その思いがタムシンの心を粉々に砕きながらも消し飛ばすことを決して許さない。受け入れられぬ感情と、耐え切れぬ理解の双方が少女の細い身体を貫いていた。
抱きかかえた身体が傾ぎ、シンシアの潰れた頭からタムシンの髪飾りが滑り落ちる。少しだけ縁が曲がったその髪飾りを震える手に握ると、顔も身体も醜く潰された最愛の少女をタムシンは日が落ちて夜が更けてもただ大切そうに抱え続けていた。嗚咽の声だけが、消えることがなかった。
‡ ‡ ‡
長い夜が明けて、タムシンはよろめきながら立ち上がるとキャラバンから少し離れたところに見晴らしのよい土の斜面を見付け、ケルトの風習に従って深い穴を斜面に沿って掘ると姉以上に親しかったシンシアの身体を大布でくるんでから丁寧に埋めて、ささやかな墓をつくる。人は自然に還り、大いなるハイランドの峰に抱かれるのが彼らの信仰であった。その後も数日をかけて、タムシンは残骸の中に留まると多くもない骸を片付け、他に話をする者がいる筈もなく黙々と墓を建てながら一言も発することがない。ファビアスという男が持ち去った、数巻の書物のために彼女は最も大切なものを失うことになったのである。
タムシンはキャラバンの残骸から半分焼けたナイフや小さな弓、保存できる食料や見付かった銅貨などを集めるとぼろぼろの皮袋に詰め込み、今は母とシンシアの遺品となっていた髪飾りの縁を直すと髪に挿してからようやく立ち上がった。惨劇の日からは月の一巡り程が過ぎており、傷心の娘は彼女が育った半生と誰よりも大切な娘が眠っている墓を後にする。タムシンと約束をした、彼女の髪を結い上げる約束をした人はもういないのだ。
「・・・姉様は、嘘をつかれました」
タムシンは振り返ることもなく、壮大なハイランドの高峰を背に宛てのない旅に出る。エデンバルの風は彼女の空虚な心には冷たすぎて、その足は自然と暖かい西方へと向けられていた。
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