第八章 獅子王バルタザル
エデンバルを治める高峰の支配者ダビデが、王の孫娘であるタムシンに子を産ませるために選んだ相手の名は獅子王バルタザルという。有力な家系とはいえないがエデンバルに古くから続く貴族の血縁であり、ちぢれた頬髭とたてがみを思わせる長髪を波打たせた、頑健な巨躯を誇る無敵の戦士で教養にも優れた人物である。大弓を引けば百本撃って百本が的を射抜き、剣を抜けば忌まわしき兄殺しのファビアスにも劣らぬ勇猛な戦士として人に知られていた。
だが獅子王の性質は好戦的で野卑なものであり、他者との諍いも多く決闘の相手である貴族を思う様に罵りながら切り刻んで残酷に息の根を止めるような、そのような蛮行が多いことでも知られている。王が婿として数え上げることがなければ、彼が貴族の地位を保つことができたか疑わしいものであろう。獅子王の名はその外見と、その振る舞いの双方から付けられたものであった。
結局、王ダビデはそのような人物を好むらしい。かつての王自身も、そして王の息子であったメルキオルもファビアスも堂々たる偉丈夫ではあったが、彼らの性質は他人から畏怖されても称揚されることはなかったのだ。
逃げ出したタムシンを連れ戻すべく、王の命令を得た獅子王バルタザルは少数の手勢を連れて出立する。彼の花嫁が町を抜けてハイランドの高峰を目指すであろうことは分かっていた。北東からの冷たい風が吹き付けるエデンバルの平地は見晴らしが良く、逃亡者を見付けるのも容易だが一度ハイランドに到ればそこは山岳に繋がる茂みや木々に視界が遮られる場所となり、捜索は困難になるであろう。
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ブリタンニアの北部、エデンバルの地を見下ろすハイランドの峰は東から昇りつつある暁の一閃に峻険な輪郭を浮かび上がらせようとしている。この地では夏になれば深夜が訪れるまで日が沈まなくなることもままあったが、今は日が短く夜が長い季節であって、逃亡者にとって貴重な闇を与える時間を多く生み出していた。
アニータ・プリシウスは彼女のたいせつな友人であるタムシンを連れた足取りが、ハイランドの麓に達しようとしていたことにようやく安堵感を覚えており、それは伴に歩くマリレーナたちにとっても同様であったろう。彼女たちが囚われていたエデンバルの王城を抜け出し、夜を徹して歩き続けた娘たちはやがて立ち並ぶ針葉樹林の影に入り込むと、ヒースの茂みを隔てて視界の及ばぬ道に足を踏み入れる。
東方の空は少しずつ白みつつあるが、幾つかの星はまだ天蓋に散らばっている。ジプシーの放浪民として長く星を見ているマリレーナは、その一つが自分の星があることを知っていた。
彼女がタムシンを拾い、アニータに出会った頃からマリレーナの頭上を照らす星は不吉な色を見せることを止めていない。占い師でもあるマリレーナはそのことを知っていたが、彼女は星は人を導くものであって人が星の導きを覆す者であることも知っていた。生きているのは人であって星ではなく、星は行き先を示す道標であるに過ぎない。そして、放浪民であるジプシーが道標に従って歩かねばならぬ理由はどこにもないのだ。
「ここらで一休みするかねえ」
周囲には背の高い木々が立ち並んでおり、視界を塞ぐとまではいかないが身を隠すには充分な場所に見える。娘たちは人目を離れた場所を選ぶと、柔らかい草と土の上に彼女たちの疲れた身を横たえた。
エデンバルからの追手はすぐにも迫っているであろうから、休息は長い間ではないし火を焚くようなこともできない。だが幾らタムシンが山野に生きてアニータが貴族の令嬢としては破天荒な娘であったとしても、僅かたりとも休まずして歩き続けるなどできよう筈もなかった。それは彼女たちを追う者にしても同様である筈だ。
王城で、祖父の近衛に殴り倒されたタムシンの頬には今も痛々しい傷跡が残っている。牢に放り込まれていたときに、自分で手当をしているので青黒い痣は小さくなってはいたし、痛みと腫れも薬で抑えているがどちらも消え去った訳ではない。友人の怪我を本気で心配し、怒りを抑えきれずにいるアニータなどは目に涙すら浮かべている。
「本当、酷いことするわね!」
アニータはタムシンが薬を貼る手伝いをしているが、残念ながら器用とはいえそうにない赤毛の娘の手はタムシンの繊細さに到底及ぶものではない。それでもタムシンはアニータに手を貸してもらいたかったし、自分一人で行うよりも遥かに効果があるとすら感じていた。それは彼女が知っている、エデンバルの秘術には存在しない論拠であるにも関わらず。
その様子を微笑ましく眺めながら、マリレーナは娘たちの幸福な時間を遮ることに些か後ろめたい気を起こしつつもタムシンに声をかける。タムシンが知っているエデンバルの秘術、その正体を、タムシンが知る一端であれ明らかにしておく必要があった。
「何故高峰の支配者様とやらがあそこまでタムシンに執心しているのか。あまり話したくはないだろうけどね、どうも知っておいた方が良さそうだ」
同じことをタムシンも考えていたのであろう、不思議な髪の色をした娘は意を決した瞳で彼女が知っている古い知識の断片を語り出した。アニータも、マリレーナも彼女の言葉に耳を傾ける。
「・・・エデンバルの秘術は三つの章に分かれていますが、目的はどれも同じです」
すなわち、エデンバルを治める者に「高峰の支配者」に相応しい力を与えること。一つは知識の章であり、ブリタンニアに伝わる長い歴史や、国を治める者が知るべき様々な事件や物語の記録が詩歌の如く、年代記として綴られている。
二つは肉体の章と呼ばれ、身体を鍛え俊敏かつしなやかに動き人に勝る大力を得る方法や、傷や病を癒す薬草や鉱石の扱い方までもが記されていた。そしてこれこそがエデンバルの頑健さと強さの源であり、秘術を知る者は古い遊牧民であるケルトの司祭にも勝る広範な知識と、森を駆ける獣よりも優れた肉体を手に入れてそれを人々に与えることができるのである。
タムシンもまた彼女の知識を彼女が暮らしていたキャラバンのために用いていたが、他の者に広くそれを伝えようとはしなかった。それは彼女が未だ年若い娘でしかなく、人に多くを与える立場になかったこともあるが、あまりに優れた知識や技に秘められている危険を、心のどこかで感じていたせいもあったかもしれない。タムシンは語り部の老婆よりも多くの伝承を知り、癒し手の老爺も知らぬ薬を用いることができたし、熟達した狩人よりも静かに獲物を射ることができた。
キャラバンに暮らす者たちの多くはタムシンの知識や技に助けられていたが、彼女はそのつもりにさえなれば疲れも痛みも覚えずに日の一巡りを過ごす手法や、月夜の祭りに人の心を惑わせ昂揚させる薬を煎じることさえもできたのである。エデンバルの王が率いる不死歩兵団の力が、エデンバルの秘術から生まれていることをタムシンは知っていた。
「そして最後の一つは精神の章と呼ばれ、王が自らの後継者にエデンバルの秘術の真髄を伝える、その方法が記されているということです。キャラバンで私が読んだのは最初の二つの章だけでした。もう一つは、王が手にしているのだと思います」
タムシンの話を聞いて、マリレーナは高峰の支配者や兄殺しのファビアスが彼女を追っている意味を理解する。王が唯一の支配者として君臨するエデンバルのような国において、少数の支配者が手にしておかねばならぬものの一つは知識である。だがタムシン自身も気が付いているようであるが、エデンバルの秘術にはそれとは異なる、他者に存在を知られてはならぬ度を越した知識が含まれていた。
人間の持つあらゆる徳性に恵まれた人物ではない、とまで評される高峰の支配者に伝えられる知識、その流出を防ぐために王はタムシンを追っているのだ。マリレーナも、そしてアニータも友人として、このような動物たちにタムシンを引き渡す訳にはいかない。
短い休息を終えて、タムシンたちは身を起こすと逃亡の歩みを再会した。木々の間を抜ける冷たい空気から身を守るように、不思議な髪の色をした娘はハイランドの大布を身に巻き付けている。呑気な様子でタムシンの大布を羨みながら、友人と同じ巻き方で羽織り布を被ろうとしているアニータの姿は彼女たちの切実な状況にはそぐわないものかもしれない。
だがこの状況でも純朴でいることができる、赤毛の娘の言動は窮迫する筈のタムシンやマリレーナの顔に笑みを浮かばせる。アニータがいない旅の姿を、娘たちは想像することができないのだ。
幾筋もの光が頭上から差し込んでいる。樹間の道なき道は下生えもない土の広がりであって、方角を誤らず足跡を残さぬことにさえ気を付けていれば足取りを追うことは決して容易ではない。すでにハイランドの山麓を覆う木々の深い地域に入りつつあり、裾野に広がる平野から三人の娘と壮年の従者が一人歩いている姿を見付けるなど不可能事であろう。
だが、それにも関わらずマリレーナは強い不安を消すことができずにいる。エデンバルの王城を抜け出してより、夜であろうと昼であろうと強行軍を続けているであろう、高峰の支配者が放つ追手の姿をこれまでまるで見ることができずにいるのだ。
逃亡者がそれだけ王に先んじているのかもしれない、だが、ハドリアヌスの城壁を越えるや否や巡視が姿を現したエデンバルが、それほど悠長な国であろうとはマリレーナにはとても思えない。
「だからといって追手が大勢いるとも思えないけど、ね」
高峰の支配者ダビデが、エデンバルの秘術を知る孫娘タムシンを探していることは多くの者には伏せられているだろう。大事にせぬためにも、追手には少数の、しかも王に近しい精兵が用意されている筈だ。多勢であれば追跡が容易になる一方で、身を隠すことは難しくそれを避けて逃れることも容易になる。そして追手が少数であれば、逃亡者に気付かれぬように身を潜めながら追跡する。
マリレーナならばそうするだろう。であれば、少数の追手から逃れることさえできればエデンバルの者がタムシンを捕らえることは難しくなる筈であった。
既に空は明るく、ハイランドに繋がる針葉樹の林は陽光を遮る自然の天蓋になっているが、逃亡者を覆う暗がりを生み出す程ではない。連なる木々の姿が娘たちの姿を隠してはいるが、それで充分とは言い難かろう。ハイランドの山間で育ったタムシンが娘たちの先頭を歩いており、彼女に従う一行が道を誤る心配はないが未だ歩みを遅める訳にはいかなかった。
時折、後方に目を向けるが人影が見える様子はない。マリレーナは少し後ろを歩いていたアニータを待つと、横に並んだ赤毛に顔を近付ける。
「歩けるところまで歩くよ。日が落ちるまで油断は・・・」
言いかけたマリレーナの背を、重く鋭い痛みが貫いた。ジプシー女の背中に突き立った矢は一撃で彼女の肩の骨を砕き、肋を抜けて肺を突き破ると声をあげる間もなく倒れるマリレーナの身体をアニータが支える。彼女の名を呼ぶ声が、どこか遠くで聞こえるようにマリレーナには感じられた。
有り得ることではなかった。陽光が差すとはいえ針葉樹の木々が立ち並ぶ見通しの悪い林間で、姿の見えぬ遠方から放たれた矢が女の背を射抜いたのである。倒れるマリレーナを抱えたアニータの下に、タムシンやフランコが駆け戻ってくると矢に続いて放たれた豪放で野卑な声が樹間に響き渡った。
「獅子王バルタザルが花嫁、高峰の支配者の胤を連れ戻しに来た!東国の使節とやらには速やかに神々の国へご帰還を願おうか!残念ながらエデンバルはジプシーを迎える国ではありませぬぞ!」
残酷な笑い声は遠くから放たれたものに違いないが、それが近付いてくるまでに長い時間を必要とはしなかった。数人を引き連れて、姿を現した巨体の男はちぢれた頬髭に獅子のたてがみを思わせる長髪を波打たせた、如何にも勇猛な戦士に見える様相をしている。
獅子王バルタザルはハイランドの衣装である大布を身体に巻き付けた上に胸甲を被り、左手にはマリレーナを射抜いた大弓を、右手には黒い塊を下げていた。もう一度、野卑な笑い声が響いて塊が放り投げられると、アニータたちの眼前に転がり落ちる。それは牢番の衛視をしていた男の、切り取られた首から上であった。
射抜かれて倒れたマリレーナの息は弱く、すでに獲物が逃げられぬことを獅子王は知っている。バルタザルは殊更にゆっくりとした仕草で顎を上げると、娘たちを見くだすように視線を向けていた。獅子王は高峰の支配者の血を引く娘の身体を手に入れねばならず、獲物を皆殺しにしてしまえば娘を手懐けることは難しくなる。一つ二つは道具を壊さずに残しておく必要があったのだ。
アニータも、駆け寄ったタムシンも顔面まで蒼白にして、彼女たちの旅の伴を抱きかかえている。タムシンの目には、既にすべてが手遅れであることが理解できていた。だが、マリレーナはこのような時であっても、彼女が彼女自身であることを止めてはいない。苦しげに身体を起こし、タムシンを呼ぶ声は常の狡猾なまでの明晰さを失ってはいなかった。
「タムシン、タムシン。あんたならあれを何とかできるね?」
「マリレーナ・・・姉様?」
「追手は後ろから現れたんだ。他にも仲間がいれば、奴等は獲物の逃げ道を塞ぐために必ず前から現れる。今、あんたたちを追ってきたのはあの下品な野蛮人とその取り巻きどもだけさ。そして最も強き矛を持つ者であっても、持っているのは所詮矛でしかない。だけど、その矛は力を頼む者たちにとって信仰にすらなっている。タムシン、あんたなら分かるよね?」
そこまで言って、意識が遠くなりかける。マリレーナは赤毛の娘の腕を強く掴むと、アニータの名を呼んでからタムシンを頼むよとだけ告げた。アニータはアニータのままであればいい、だがこの娘はマリレーナが何を言わずとも彼女の思うままに怒り、哀しみ、そして笑ってくれるであろう。
ジプシーの女は彼女が知り合ってから幾月も経ってはいない、旅の伴たちにもう一度顔を向けると、マリレーナらしい魅惑的で挑発的な目を輝かせている。翠玉色の瞳にはアニータやタムシンが初めて出会ったときと変わらぬ彼女の強い意志が秘められており、紅を引いた唇には笑みすらも浮かんでいた。
空の日は高く、針葉樹の林に遮られる陽光が一閃、差し込んでくると魅惑的なジプシー女を照らす。マリレーナはその時、見える筈のない彼女の星を知ることができた。星は人を導くものであるが、人は星の導きを覆す者でもある。だが、その星が示す導き自体が間違っていることも稀にはあるようだ。マリレーナの星は、不吉なものでなどなかったのだから。
「姉様になってやるのも、いいかもね・・・」
そして、タムシンは彼女の姉を二度も失うことになった。穏やかな笑顔を残して目を閉じたマリレーナの姿に、不思議な髪の色と空色の瞳を持つタムシンは彼女のシンシアを失った記憶を思い出す。貴重なものを奪うことしか知らぬ、そんな連中が求めて止まぬエデンバルの秘術になど、いったいどれほどの価値があるというのか。
絶望に泣くでも運命に叫ぶでもなく、息を大きく吸って立ち上がると背を伸ばしたタムシンの姿に、アニータは怒りとも憎しみとも違う何かを感じていた。その様子に自分では非力な娘を追い詰めたと信じている、獅子王バルタザルの目には嘲弄が浮かんで消えることがない。
高峰の支配者ダビデは彼に言っていた、タムシンもまた秘術を知る者であるということを。だが高峰の支配者が選んだバルタザルもまた秘術の何たるかを知っており、その彼が目の前の小娘に遅れを取るなど有り得ぬのだ。
タムシンが無言のまま腰に吊っていた剣を抜くと、バルタザルもそれに倣う。バルタザルにタムシンを殺すつもりはない、彼が欲しているのは高峰の支配者の血を残すための肉体であるのだから。
腕や足の一本を切り落としてでも、獅子王はタムシンを連れ帰ろうとするであろう。タムシンにはそのことが分かっていたが、マリレーナの意志を知った彼女は最早獅子王バルタザルの持つ矛を恐れてなどいない。彼女は知っているのだ、こんな動物に彼女たちが負ける筈がないということを。
「エデンバルの秘術など、私は恐れない。私はただ一つとして貴方たちに、貴方たちの望むものなんて何も与えない!」
その声と同時に、樹間を抜ける陽光を帯びた二本の剣が閃く。一閃して、獅子王の剣が振り回されると常軌を逸した速度と重さを伴ってタムシンに襲いかかった。護身の短剣を手に遠く離れているアニータはもとより、その傍らで主人の身を守っているフランコでさえもバルタザルの剣技に近寄ることはできない。すさまじいまでの力と技がタムシンの語っていた、エデンバルの秘術に依ることは明白であろう。
見上げる程の巨躯にも関わらず、俊速で繰り出されているバルタザルの剣撃にタムシンはしなやかな野生の獣の如く走り回り、時に地を這う程に身を屈め、時に柔らかく飛び回っては悪辣な刃をかわし続けている。ことに腕力や体格において二人の差は歴然としており、時折繰り出されるタムシンの剣も獅子王を切るのではなく、彼女の身に襲いかかる軌跡を弾き返すのが精一杯という様子であった。
だが、アニータの目にはタムシンに何か目算があることが分かる。自信と勇気を超えた、確信にすら見える表情がタムシンの顔には浮かんでいた。
「タムシン。何を、するつもりなのよ?」
赤毛の娘が呟いた次の瞬間、逃げ回る獲物に業を煮やした獅子王が巨躯を大きく伸び上がらせると、有り得ぬ程の速さと重さで振り下ろされた剣が深く地面を割る。渾身の一撃は獅子王の身体をよろめかせ、巨体を支える重心が崩れて前方に倒れかかった。逃げ回って相手の隙を誘っていた、またとない好機に身を低くしたタムシンはバルタザルの後ろに回り込むように飛び込むと、すでに逆手に構えていた彼女の剣を振りかぶっている。だが、それこそが獅子王バルタザルの手であった。
本来であれば、常道であれば地を割る程に振り下ろした重い剣の軌跡を変えるなど不可能事である。しかしバルタザルは秘術を知る者であって、彼の肉体は常道を超えた力と技を繰り出す事ができるのだ。深く土をえぐった刃が俊速で引き抜かれると、バルタザルの剣はそれ自体が獲物を狙う動物であるかのように背後にいるタムシンに襲いかかる。剣を振りかぶったタムシンの右肩を狙い、腕ごと突き飛ばす。何かが引きちぎれるような音をアニータは聞いた。そして、悲鳴が上がる。
絶望の叫びを樹間に響かせているのは、獅子王バルタザルであった。右の腕が肩の先から折れて異常な方向に垂れ下がっている。何が起きたのか、アニータは理解できずにいたがそれは己の腕を失ったバルタザルも同様であった。タムシンは何もしていない。ただ逃げ回り、そしてバルタザルが誘った罠に飛び込んだタムシンは人間の技を超えた獅子王の剣を誘うと更に深く、深く一歩を踏み込んだのである。
エデンバルの秘術が人間を超える力を与えたとしても、バルタザルは人間以上の者ではない。常ならば用いる筈もない、タムシンを相手に振るう常軌を超えた力にバルタザル自身の身体は耐える事ができなかったのだ。
主人を裏切った獅子王の腕は、自らの力で筋肉を引きちぎると骨までが砕けている。人間の範疇を超える事ができなかった動物に、タムシンの手首が鞭のようにしなうと鋭く伸びた剣先が返されて男ののどを一撃で貫いた。
「これが、こんなものが貴方たちの信じているエデンバルの秘術です」
タムシンの声は哀れな獅子王の耳に届いていない。息絶えた男の身体は急速にしぼむと肌が黒ずみ、醜い緑色の筋を浮かべたおぞましい姿に変貌していく。その様子にアニータは恐怖の混ざった嫌悪感を覚えた。タムシンの言うこんなもの、という秘術の恐ろしさは獅子王バルタザルの人間を超えた力や技ではなく、今のおぞましい姿にこそあるのではないだろうか。
バルタザルの最期と無惨な姿に、彼が連れていたエデンバルの兵士たちは狼狽の色を隠せずにいる。彼らは獅子王を剣で倒す娘の技量と、バルタザルのおぞましい姿に迷信的な恐怖感を覚えていた。一歩、また一歩と後ずさるとタムシンが大きく剣を振った、空気を切る音が軍団の号令でもあるかのように兵士たちは一散に走り出すと姿を消してしまう。
彼らに恐怖を覚える心がまだ残っているのであれば、エデンバルに戻ったところで処断される道が待っているだけであることは理解しているであろう。牢番の衛視のようになりたくなければ、城に戻らずに姿を隠すしかない。何れにせよ、一時はタムシンたちが逃れるための時間を得ることができるだろう。娘たちの姿はハイランドの山岳に繋がる茂みや木々に包まれ、高峰の支配者ダビデは彼の血を引く孫娘を追う手だてを失ったのだ。
‡ ‡ ‡
柔らかい布地に包まれたマリレーナの身体はフランコに抱えられて、旅の娘たちと伴にハイランドの山岳に入ると数日をかけて寒冷な峰に繋がる道を登り、ブリタンニアを見はるかす斜面へと運ばれた。シンシアの眠る地からは随分と離れているが、よく似ている場所を選んだのはマリレーナもまた、自由民として彼女が育ったブリタンニアを広く見晴らす場所を望むであろうと考えたからである。
タムシンは彼女の二人目の姉を自分の手で埋葬することになったが、あの時と違っていたのは彼女とともに泣き明かした赤毛の娘が彼女の傍らにいることであったろう。フランコを含めた三人で深い穴を掘ると、美しいジプシー女の身体を横たえて土を被せていく。
占い師として星を知るマリレーナが、ジプシーとして風に生きるマリレーナが、女として人と人の間に生きていたマリレーナがこのような場所に眠る事を、彼女は許してくれるであろうか。彼女ならば、どこであれ許してくれそうな気もするし、どこであれ皮肉を言わずには済まないかもしれない。ブリタンニアを家にするジプシーには相応いが、美人が眠るには何とも華やぎに欠ける場所だ、とでも言って。
マリレーナは旅姿としては軽装に見えて、驚くほど多くの服飾品や人に言えぬ道具をその身に忍ばせていた。タムシンはマリレーナの首飾りを一つだけ外すと忘れ得ぬ姉の形見となった品を身に付け、アニータはエアの港町でマリレーナと揃いで手に入れていた、二本の短剣を譲り受ける。
小さな塚が置かれて、火を焚くと細い一筋の煙が空に立ち昇るがハイランドの風に煽られるとブリタンニアの大地に流されていった。最期まで奔放なマリレーナらしいと、残された娘たちはもう一度涙を流すが赤毛の娘は無理矢理その顔に笑みを浮かべると、彼女の大切な友人の肩を強く叩いた。
「さあ、行こう。一緒に」
「ええ」
二人の娘と、一人の従者を合わせた三人は踵を返す。一陣の風が背を押して、娘たちの髪の毛を優しく撫で付けると舞い上げられて空の遥かへと消えていった。
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