第九章 再会
山と風の国とも呼ばれているエデンバルでは一年中風が強く吹き付けており、ブリタンニアを東から西に抜ける冷たい空気が峻険なハイランドの高峰を舐めるように流れている。山麓に広がるエデンバルの地に建てられた石造りの堅牢な城には随所に壮麗なアーチ窓や彫り込まれた装飾が施されており、それは古のローマからもたらされた様式だがより力強く、より冷たく感じられるのはエデンバルの系譜である大陸のゴール人や古い遊牧民であるケルトの影響であったか、あるいは刺すようなハイランドの冷気が人に与える印象のためであったろうか。
それ自体が町全体を囲っている、威圧的な城壁に守られた城塞都市エデンバルの王城の更に奥、質実な広間に据えられている豪壮な玉座に腰かけている王、「高峰の支配者」ダビデは深い失望に身を沈めていた。頑健で丈高い体躯に、格子柄の織り込まれた大布の王衣をまとって腰には飾り帯を巻き、頭上には祭事を司る樫の葉の冠を載せている。玉座の傍らには王の象徴である錫が立てられており左右にある燭台には香が焚かれ耐えぬ火が灯されていた。王は灰褐色から白くなりかけた長髭をゆっくりと手でしごくと、外見に相応しく重々しい声で呟く。
「バルタザルが死におったか」
無感動にも聞こえる、王の言葉には心の底から沸き上がる侮蔑の色が見えていた。高峰の支配者ダビデが味わっていた失望は彼が選んだ婿である、獅子王バルタザルの死に対するものである。王を継ぐ者としてエデンバルに古くから伝わる貴族の血縁から選び、王が伝える秘術の一端を教えた偉丈夫は、王の孫娘であるタムシンの剣によって敢えなき最期を遂げていた。タムシンの婿に選んだ男が、その花嫁の剣に討たれたというのだ。肉体を磨き、技を鍛え、秘術を知る者がなんという体たらくであろうか、秘術の何たるかを知るタムシンへの注意を、王自らが獅子王に伝えていたというのに。
それがどのようなものであれ、力は絶対の存在ではなく揺るぎなき価値でもない。力とは所詮用いる者が誤れば用をなさぬ道具であり、物語にある天空を貫く剣などというものは儀礼に用いる飾りとしてのみ意味がある。エデンバルの秘術がどれほど強力な力を持っていたとしても、剣を振るしか能が無い者は獣の技をしか用いることができず、そして獣は決して狩人を倒すことができぬのだ。
だからこそ、秘術は正しく伝えられねばならない。ただ知っているだけではなく、学び身につけただけではなく、王によって真に伝えられてはじめてエデンバルの秘術は完成する。ダビデの失望は獅子王バルタザルが秘術の力にのみ魅せられてしまい、王が伝えるべき秘術の本当の姿を得るに到らなかった、その期待はずれの無能さに対するものであった。だが高峰の支配者ダビデは失望はしても絶望をしてはいない。王は年齢に相応しい深い皺が刻み込まれた頬を軽く持ち上げると、広間に居並ぶ高官に向けて一人語るかのように宣言する。
「ファビアスを呼べ。彼をエデンバルの世継ぎとする」
ダビデの言葉に王の側近も、エデンバルの貴族たちも色を変えた。王の息子であったメルキオルに手をかけた兄殺しのファビアス、悪しきデケ・ファビアスを王は招聘して自分の世継ぎに迎えるというのである。今でもファビアスは十数年来の亡命生活を続けており、それを因としてエデンバルとチェスターの都は長い対立を続けているというのに。
ありうる話ではなかった。だが王の側近たちも、有力な貴族であってもエデンバルでは高峰の支配者を翻意させるどころか、王の求めなくして意見を述べることさえ許されてはいない。高みからすべてを治めて、人の所行や世界のあり方さえも定めることができるからこそ王は高峰の支配者、マスターと呼ばれているのだ。だがダビデの意に従わぬ者がいたとしても、タムシンが逃亡してバルタザルが討たれた今となっては、王には他に後継者はおらずファビアスが王の息子であることもまた事実である。そして不可能ごとと思われる王の提案を、王自身はそう考えてはいないようであった。ダビデはエデンバルの統治者の名で正式に布告を出すと、王の息子であるファビアスが国に帰還するのであれば彼を正統な後継者として迎える用意があると人々に知らしめる。
最初にその布告を耳にしたとき、チェスターで多くの者が抱いた感慨は驚きよりもむしろ呆れと嘲弄である。エデンバルを治める高峰の支配者ダビデは人間の持つあらゆる徳性に恵まれた人物ではないとさえ言われており、彼を知る者たち、ことに長く対立するチェスターの民にとっては軽蔑すべき存在であった。そのダビデが彼の人柄に相応しく、次々と世継ぎを失っては窮した挙げ句に兄殺しの息子を自らの後継者に選ぶつもりでいるというのだ。
酒場で酌み交わされる陽気な盃に混じって、人々が上げる侮蔑の言葉が聞こえてくる。なんとも寛大な話じゃあないか。自分が追い出した兄殺しの息子に助けを乞うとは、流石に王様ともなれば心の広さが世人とは違う。エデンバルを逃げ出して傍若無人に振る舞うデケ・ファビアスこそあのような王の世継ぎに相応しい、まさに国をまたいだ美しい親子の信頼と愛情というべきだろう、などと言って。
だが嘲弄する人々に対して、次に突きつけられた事実は驚愕であった。亡命貴族のファビアスは彼の父であるダビデの言葉を入れて、エデンバルの支配者の座を継ぐべくチェスターを出奔したというのである。王の後継者であった兄を殺したことで、追放されていた国に請われて帰還する。厚顔というのであればこれほどの話はなく、人々の驚愕はすぐに怒りに変わるがそのような思考が成立する、ダビデとファビアスに薄ら寒い怖気すらも感じていた。
つまるところ、彼らは情たるものの存在しない魔人が人の手に負えぬことを知らぬままに、飼い慣らそうとしていたのではないだろうか。愚かであったのはエデンバルの王と息子ではなく、チェスターの民かもしれぬのだ。
無論、デケ・ファビアスの出奔とエデンバルへの帰還はチェスターの議会にとって許される話ではない。両国の問題のみならず、亡命貴族を迎え入れた恩義もあろう。数人の取り巻きを連れて街道へと向かう、ファビアスを翻意させるべく説得のための遣いとして急ぎ使節が送られたが、兄殺しの魔人が人の言葉に翻意するような者である筈もないのだ。
「見送りは結構!これ以上の恩義は必要ありませぬでな」
「ファビアス殿!出国には議会の承認が必要です、まずはお留まりを・・・」
初老の使節は形式ばって言うが、もとよりファビアスが形式や法に従ったことなどこれまでもありはしない。それ以上語ることもできず、交渉の申し出すら一笑に付されるとやにわに振り上げられた蛮刀によって頭と舌を縦に割られる。従う者も思わず剣を抜くが、所詮デケ・ファビアスの蛮勇に勝る者など享楽の都チェスターにいる筈もない。二人の衛視が首を切り落とされ、逃げまどう人々の背後から襲いかかった棍棒が数人の頭蓋を砕くと割れたざくろの実のように脳があふれ出る。
嗜虐的なファビアスの哄笑が周囲に響き渡り、恐怖と混乱に支配された人々は不幸な骸を残して雲霞のように逃げ去った。残された骸の中にはチェスターの議員の一人も含まれており、デケ・ファビアスはもう一度下品な笑みを浮かべると逃げる人々にもよく聞こえるように、われがねのような声を張り上げる。
「長く世話になった礼である!全員を潰さないだけ寛大なファビアスに感謝をして頂こうか!」
十数年に渡るチェスターでの亡命生活でも、そのあまりに無軌道な暴虐ぶりから客人として丁重に遇されることはなかったファビアスだが、たとえ彼らが無礼な亡命貴族を手厚く扱っていたとしても血に飢えた魔人が殊勝な感謝の念を覚えることはなかったであろう。それこそがエデンバルの支配者ダビデの血を継ぐ、高峰の玉座から世を治めるに相応しい絶対者の資質であったのだから。
自分が殺した者たちの正体がよく分かるように、飛んだ首や割れた頭を並べさせたファビアスは再び周囲を圧する哄笑を響かせる。兄殺しの魔人を取り巻く無頼の兵士たちや、チェスターでも反動派に類していた過激な貴族たちの数人がこれに従うと門を出て街道に入り、今やそのファビアスを招いているエデンバルへと出立した。騒乱の火種はブリタンニアを抜ける風に乗って血の臭いをチェスターに送り届け、ただちに召集された議会の場ではエデンバルに対する強硬な論議が強まると両国の間で状勢は急速に悪化する。
‡ ‡ ‡
赤毛のアニータ・プリシウスと彼女に従う壮年の従者フランコ、そしてハイランドのキャラバンに育てられた娘であるタムシンの三人が、アニータが産まれ育ったチェスターの都に足を踏み入れたのは、享楽の都が騒乱に足を浸されている丁度その折りであった。エデンバルを出て北面に連なるハイランドに到り、木々に覆われた道を抜ける旅はこの地で暮らすことに慣れたタムシンと、幼い頃から野歩きや狩猟に興じていたアニータでなければ必ずしも快いものとはならなかったに違いない。
彼女たちの姉にも等しいマリレーナを失ってから、耐え難い悲哀は時を置いてたびたび娘たちの胸中を訪れてはいたが、それに沈むことをアニータやタムシンの境遇は許さなかったし、マリレーナがいれば叱咤するであろう。そして、アニータもタムシンも互いが傍らにいることによって救われていたことを知っている。山肌を舐めて木々の間を抜ける風は若々しい肌に心地よく、差し込む日は柔らかく彼女たちを守ろうとする者の存在を感じさせた。
かつてアニータがエミリウス円形劇場で、デケ・ファビアスを相手に騒動を起こして都を辞去してから月は十以上も満ち欠けを繰り返している。やがてハイランドを抜けてブリタンニアを抜ける古い街道に到ると、数百年の以前から勇壮な姿を保つハドリアヌスの長城を潜り抜けて道はアニータの故郷である、享楽の都チェスターへと続く。
決して長いとは言えない旅の間にアニータは多くの体験をして貴重な人々と出会い、そのうちの一人とは永遠に別れなければならなくなったが、チェスターの人々にとっては半年程前に起きた騒動を忘れていない者も多かったし、何よりもその当事者である兄殺しのファビアスが高峰の支配者の求めに応じて出奔したという事件が、埋められていた記憶を人々の間から掘り起こしていた。
「何よ、やけに慌ただしいわね」
開かれた門を抜けるとチェスターの舗装された街路を進む、仰々しい荷車の列や厳めしい男たちの姿にアニータは眉根を寄せた。赤毛の娘が産まれ育った享楽の都は喧噪に包まれているのが日々の姿ではあったが、それは彼女の目に映っているような不穏な緊張感をはらんでいるものではない。商人や旅人、流浪の民が持ち込む陽気で楽天的な喧噪が、今や深刻な駆け足とそれに混ざる怒声、小声による会話とすくめた首によって覆い隠されてしまっていた。
その理由は娘たちにもすぐに知ることができた。風に流れる人々の声がエデンバルの布告とファビアスの出奔、それに続く騒動の顛末を語り伝えている。統治者である議員の一人までも手にかけられたチェスターの議会は、彼らの面目を守るためにもエデンバルに強硬な姿勢で臨むであろうが、未だ騒乱は戦乱へとその決定的な一歩を踏み出してはいなかった。だが事あるを期待した傭兵や無頼の者たちが享楽の都に集まりつつあってそれがチェスターの空気をより不穏なものとしている。その空気はアニータが親しんだチェスターのそれと異なる、不快な臭気を放っていた。
「この様子では旦那様にお会いすべきか、考えた方が良いかもしれませぬな」
「どういうことよ、フランコ」
言いながら、アニータは忠実な従者の言葉を理解している。騒乱の最中において避けたいことは無用な刺激である。ことの善悪が問題ではなく、真偽が問題でもない。数ヶ月以上前であっても、騒動の発端であったアニータとファビアスの事件を覚えている者はいるであろうし、そこに向けられる目が平穏なものでありえないだろうことは赤毛の娘にも想像ができた。だが、ことの善悪や真偽を問題にしないという思考はアニータの本来の気質から離れていること著しく、赤毛の娘にとって納得ができることではなかったろう。
チェスターに入ってから不安げな様子を隠せずにいる、タムシンは羽織り布を目深に被りながら何も言わずにアニータたちの後ろに従っている。周囲の不穏な様子はタムシンにも感じとることができていたし、友人から水鳥の羽根を思わせると言われていた、彼女の髪の色が注意を引くこともあるかもしれない。
娘二人と壮年の男が一人の組み合わせは、不穏さを秘めた喧噪の中で緩やかに足を進めている。幸いというべきであったろうか、傭兵や無頼の輩が多く行き交う通りではアニータたちの姿も目立たない。かような連中には人目を避けたがる者や、素性を知られることを嫌う者も多かったから娘たちを気に留める目はなかったろう。
職工組合の長でさえ忘れているような理由によって「木靴通り」と呼ばれている街路を進み、旅人や商人の多くが足を休めている一軒の旅篭に腰を落ちつける。空いていた木椅子の三つに陣取り、一杯の軽い酒と二杯の果汁を注いだ木杯、焼いた腸詰めを頼むとアニータたちは人々の話に耳を傾けた。久々のチェスターは随分と物々しい様子だが、一体どうしたんだねというフランコの言葉に人々はすぐに舌を滑らかにする。
「知らないのかね!兄殺しのファビアスがチェスターの議員を殺してエデンバルに出奔したのさ。議会は大変な騒ぎだよ、まさかチェスターが戦争をやらかすなんて考えたくもないね」
「エデンバルの不死兵団は殺したって死なないそうじゃないか。自前の兵士を持たないチェスターなんぞに勝てる訳がない。かといってチェスターが何もしない訳にはいかない、まったく面倒なことになったものだ」
「穏健派のプリシウス卿がことを収めようとしているらしいよ。卿といえば、そもそもあそこの令嬢が余計な騒ぎを起こさなければ、もう少しエデンバルとの間も穏当だったろうに」
その言葉に、僅かにアニータの肩が揺れるが賢明にも赤毛の娘は何も言わない。酒精と脂に濡れた、無責任な放言に付き合うほどに赤毛の娘は無分別ではなく、ことにタムシンを連れていれば尚更であった。残酷な兄殺しのファビアスに対する不満はチェスターの人々にとって今更のことであり、暫くは出奔した亡命者に対する悪口雑言が周囲に飛び交う。だが話題がチェスターの議会とプリシウス卿に及ぶと、卿が常々頭を痛めている赤毛の令嬢へと人々の話題は移っていった。
あんなお転婆娘を飼わなければならないプリシウス卿は実に気の毒だ、という意見はアニータの奔放さが知られていると同時にプリシウス卿が慕われていることの証明でもあったろう。アニータには不快この上ない言葉の数々が並べ立てられるが、彼女が激発しなかった理由は確かに父に申し訳がないという気持ちがどこかにあったからであろうか。
だがそれにも増してアニータたちを驚かせたのは、人々に知られている噂の広さと速さである。アニータがエアの港町や「海のよろこび」号で起こした騒動の数々がチェスターではとうに知られており、ジプシー女と一緒に町のごろつき相手に大立ち回りを演じたとか、荒くれの水夫たちを容易に手懐けてしまったとか、些かの誇張と曲解を交えながらも赤毛の娘の奔放な活躍ぶりは人に知られていたのである。
もしもデケ・ファビアスの出奔とそれに伴う騒乱がなければ、アニータの噂は痛快な笑い話に収まっていたかもしれない。だがファビアスと騒動を起こした貴族の娘という存在は、不満げな人々にとってよい面当ての対象となっていた。
詩吟や野歩きにうつつをぬかし、女だてらに馬を駆って狩りを行い、若い貴族どころか素性のあやしい連中との付き合いまであるそうじゃないか。その評価はことによっては、気さくで親しみやすいアニータの魅力として受け取られていたかもしれないが、それが悪口になることが事態の深刻さを物語っていることをアニータは理解していたから、もしも無責任な話題がそれ以上続くことがなければ彼女は穏当なまま旅篭を後にすることができたであろう。赤毛の令嬢に対する噂が彼女と旅を伴にするジプシーの女や、ハイランドの遊牧民の娘にまで及ぶと、一人の男が酒の勢いのままに放言したのである。
「あばずれ娘が下品な同類を見つけたのだろうさ!」
笑い声が上がる前に、怒りの塊と化して木椅子を蹴り倒して立ち上がったのはアニータだけではない。タムシンもまた、友人に対するそれ以上の侮蔑を聞き逃すことができなくなっていたのだ。分厚い木製のテーブルを打ち壊すのではないかというほどの勢いで、二つの掌が叩きつけられるとどちらともない声が上がる。
「もう一度言ってみなさい!貴方の言う下品な娘とやらがその無礼な口を引き裂いてやるわ!」
娘たちの勇気はまったく貴重で代え難いものだ、フランコは半ば絶望的な気持ちになりながらすばやく周囲に目を向ける。プリシウス家の令嬢だ、という声が周囲で上がり驚きに満ちた静寂は一瞬後により激しい怒号に変わった。その中にはわずかの殺気も含まれており、忠実な従者はこの場所から彼一人で二人の娘を連れ出すことができるかどうか考えを巡らせている。
喧噪はアニータが突きだした拳が男の鼻面に吸い込まれたことによってすぐに乱闘に発展した。赤毛の娘は平手でもなければ爪を立てるでもなく、ごく当然のように握った拳を振り上げて足を蹴り上げる。これは確かにプリシウス家の令嬢としては相応しくない、とどこか他人事のようにフランコは思いながらもその場でアニータを抑えようとはしなかった。ことこの事態に到って、逃げるのであれば混乱に乗じるしかなくいっそ騒ぎは大きくすべきであったし、つまるところフランコ自身もアニータやタムシンに対する侮辱を腹に据えかねていたのである。
「プリシウス家の令嬢だ!こんな所に・・・」
「この娘だ!貴様さえいなければチェスターに戦争は起こらないというのに!」
一瞬、アニータの顔色が変わる。倒れる男を脇にのけるように、声を荒げた別の男が前に出るが、今度は剽悍なタムシンが獣の素早さで飛びかかる。襟首を掴むと強く引いて横面に肘を叩き込む、その動きがフランコの目には、元来この娘もアニータ以上にお転婆な娘であるだろう事実を窺わせた。ハイランドの山中で狩猟と採集に勤しんでいただけの娘であれば、これほど人を殴り倒すことに手慣れている筈もないではないか。
口の中で小さく何かを呟いている壮年の従者の様子を気にしたふうもなく、タムシンがよろめいた男の腹を蹴り上げると、瞬く間に二人の娘は二人の男を伸してしまった。周囲の男たちが怯む色を見せる、胸中の不満は別にして逃げるのであれば今しかない。
「お嬢様!」
意を決したフランコがアニータの腕を引くと、同時に誰かがタムシンの腕を引いた。驚いたフランコはその男に目を向けてもう一度驚くが、わずかの時をすら無駄にすることはなく二人の娘を厄介な荷物であるかのように抱えながら人の壁を押しのける。怒号に包まれている人々から容赦のない手や足が突き出されて忠実な従者は顎やすね、肩のあちこちにあざを作る羽目になったが、後々まで考えてもよくも自分にあれだけの力が出せたものだと思う。
物が飛び交い、険悪な人々の波が押し寄せる海から娘たちの身体を強引に外に連れ出すと、荷車に押し込めてすぐに出発させた。しごくありきたりな幌に覆われている商人の荷車の中で、上げられた声がようやく二人の娘を正気に返す。
「あなたたち、いったい何をしているんですか!?」
フランコと二人で娘たちを連れ出した、見知ったトンマーゾの顔がそこにある。恰幅のよい、陽気な中年男の顔には驚き以上に呆れの表情が多く浮かび上がっていた。左の頬骨と右目の周りにあざをこしらえた商人は、お転婆な娘たちをたしなめるよりも怒鳴りつけたい気分であったかもしれない。
「とにかくここを離れることです。酒の場所での騒動ですから、半分の連中は寝れば忘れてしまうでしょう。私のあざの理由はその後で聞くことにしますよ」
「トンマーゾさん・・・あの・・・」
消沈した声に小さな謝罪の言葉を続ける、アニータの様子を陽気な商人は意外なふうに感じた。理不尽さに怒るのであっても、無力さに泣くときであっても、奔放に笑うときであっても赤毛の娘は力強く怒り、泣き、笑う娘である筈だ。騒動の場を抜け出して気が緩んだことや、思わぬ旧知の顔に気が抜けたことはあるかもしれない、だがアニータの様子は彼女にそんなことがあり得るのであれば、意気消沈して落ち込む娘のそれにしか見えなかった。
常にないアニータの様子に、タムシンもそれまでの怒りも現状の困難もすべてどこかへ吹き飛んでしまい、不安げに友人の肩を抱く。確かに大変なことにはなったが、そこまで心配せずとも事態がすぐに悪くなるものではないだろう。
「そうじゃない!そうじゃないの、ただ・・・」
荷車の中で、耐えられずに両膝を抱えた赤毛の娘が震えていることをタムシンは感じた。そして理解した。アニータは生まれてはじめて、自分をこれほどにも否定する感情を向けられたのだ。大抵の人が覚えることすらないであろう、存在すら否定されるほどの激しい感情を。
あれほど力強く、生命力に満ちているアニータが今は赤子よりも頼りなく見える。一時のことであろう、だがタムシンはそのようなアニータに愛しさを覚えると柔らかい動きで彼女を抱く肩に力を込めた。あの時、タムシンがすべてを話そうとしたときにアニータは何と言ってくれたであろうか。タムシンはその言葉を思い出していた。
「誰がどう思ってもいいよ、私にとってアニータはアニータだもの。でもね、言ってくれたでしょ?耐えられないなら耐えることなんてないのよ」
「・・・そうだね。ありがとう、タムシン」
アニータは頷くと、タムシンの胸に顔を埋めるようにして小さな嗚咽の声を漏らす。はげしく泣きじゃくるのではない、むしろそんな小さな涙をこれまでアニータは人前で流したことがなかったのだろう。赤毛の頭を優しく腕に抱えながら、タムシンは幌のすき間から差し込んでくる日差しに目を細めていた。
それが長い時間であったのか、思いのほか短い時間であったのかは分からない。アニータはいつもの様子に戻っておりトンマーゾに改めて礼を述べると、今はくどくどとフランコの小言を聞かされていた。そのくらいにしてあげましょうよと、たしなめているトンマーゾはフランコと二人顔にあざを作っていたが、タムシンが器用に貼り付けた薬布のおかげで腫れは引いている。
これぞエデンバルの英知、とはまさかタムシンから聞くとは思わなかった冗談である。トンマーゾが驚いたことに、水鳥の羽根を思わせる不思議な髪の色をした娘は、年相応に明るく振舞う少女となっていた。彼が「海のよろこび」号に乗せた頃の、絶望した老人のような陰気さはどこにもただよっておらず今は赤毛の娘に劣らぬ快活な魅力と生命力に満ちている。
アニータは混乱するチェスターの街路をトンマーゾの荷車に揺られながら、人目を避けてプリシウスの家に戻っていた。自分の家に帰るために人目を避けることは不快な体験だが、今のチェスターの様子は尋常なものではない。夕空を舞う虫の一匹に怯えて首をすくめる様子には、享楽の都としての陽気さはどこにもなかった。
「ただいま、帰りました・・・お父様」
結局、悩みながらもアニータはプリシウス家に帰らぬ訳にはいかなかった。どのような事情があれ、アニータは家を出たのであって逃げたのではないと考えていたし、父と会うべき事情が他人に左右されてはならない。気後れがするのはアニータ自身の問題であって、チェスターの人々や忌まわしきファビアスのためではないのである。
数ヶ月ぶりに会うアニータの父、プリシウス卿はいかにも紳士然とした姿に隠しようのない疲労の濃い影が見える。卿はすでにすべての事情を知っているらしく、だが娘を見る父の姿にはアニータが家を出る以前の平静さを失った素振りも見えず、娘の声によく帰ったねと言って頷くと優しげにも見えるゆっくりとした、荘重さと品位を失わぬ様子で言葉を繋ぐ。
「そちらはタムシンさんだね。話には聞いている、アニータと仲良くして下さっていることに礼を言わせてください」
軽く顔をほころばせて、重々しさのない丁寧な様子で頭を下げるとプリシウス卿は更にトンマーゾを迎える言葉を伝え、忠実なフランコを労う言葉をかける。客人に対する礼節は常に優先すべきであり、それは娘に対する愛情とは分けて考えられるべきものだ。だが、その言葉の後で卿は軽く息をつくと小さく首を振ってから赤毛の娘に顔を向けた。
「アニータ。事情は聞いている、大変なことになったね」
「ごめんなさい、お父様にはご迷惑を・・・」
答えようとする娘の言葉を軽く遮ると、プリシウス卿は表情を和らげた。
「そうではない。お前がこれからどうすべきか、お前はすでに知っているね?まさかお前にはタムシンさんを連れて、人目につかぬようにこの邸に住み続けるつもりはあるまい。そのような生き方をアニータ、お前は望むまい」
「お父様・・・?」
顔を上げる、アニータには父の言葉がすぐに理解できた。父がただ穏当なだけの人物ではないことを、娘は知っている。
「だがお前は家に帰ってきてくれた。再び発つ前に、多くの葛藤もあったろうにな。お前は本当に良い娘だよ、そのお前をかつてこの家から送り出したとき、私はいたく後悔していたのだ。私は自分にできないことを、娘のお前にさせようとしている。そして今度もまた、同じことをさせようとしている。だがお前はこれまでの旅で良い友人を見付けてきたようだし、その友人のためにお前は旅立つのであろう。私は父親失格かもしれないが、お前の歩んだ道を私は誇りに思っているのだよ」
父は娘に戦えと言っているのだ、タムシンのために。アニータが正しいと思うことのために。そしてプリシウス卿は、彼が迎えた娘とその友人たちを満足にもてなすこともできず、すぐに送り出さねばならぬことに対する非礼を詫びているのである。貴族として娘の友人に対する礼を欠くことは、卿にとっては申し訳も立たぬ思いであった。
是非、また娘と一緒にお越しいただきたいという言葉に続いて下げられる頭に、タムシンたちは卿が確かにアニータ・プリシウスの父であることを知ったのである。プリシウス家の滞在はごく短い時間のものであり、娘たちはあわただしく発たねばならなかったが、アニータの生家を訪れたことをタムシンは決して忘れないし、次に来るときも赤毛の友人と一緒に、今度は正式に卿の招待と供応を受けるためになるだろう。邸を出て、まっすぐに伸びるチェスターの街路に目を向けると冗談めかしてタムシンが言った。
「アニータ。今度来るときはきちんとした作法を覚えておかないといけないわね」
すでに傾いた日は落ちて周囲は享楽の都なりの静穏に包まれようとしている。幸いなことに、先の騒動は思ったほど深刻な広がりを見せてはいないようだが、プリシウス家の令嬢がチェスターに戻ったことはそこらで噂になっているだろう。議会にも話が出るだろうことは疑いなく、プリシウス卿には重ねて苦労をかけることになる。
「いずれにせよ早々にチェスターを出たほうがいいでしょう。私もしばらく南に逃げるつもりでいますよ」
そう言いながらも、陽気な商人の言葉はアニータやタムシンたちに一緒に逃げるつもりがあるか、問いかけているのだということを暗に伝えている。恰幅のよい商人が、抜け目のない人物と思われていることは事実に基づいた評価ではあったが、彼が思いのほか人に慕われていることにも充分な理由がある。皮肉な冗談を装いながら、トンマーゾは彼が客人として迎えたことのある娘たちに彼らしい気遣いを見せていた。
「私が仮にあなたたちをチェスターやエデンバルなりに突き出したところで大した儲けにはなりません。だから私は騒動に巻き込まれた見も知らぬ娘さんたちを助けはしましたが、その正体に気づかないことはいくらでもできます。見返りは小さく、危険も小さくが私のモットーで本当に良かったですね?」
トンマーゾの提案はアニータたちにとって最上のものであったが、彼としてもそれを強要している訳ではない。陽気な商人は思い出したような顔になると、荷篭を開いてハイランド地方の大布を広げてみせる。それが「海のよろこび」号から別れる折りに、自分が欲しがっていた品であることをアニータは覚えていた。
感謝の言葉とともに赤毛の娘がタムシンと揃いの恰好になると、トンマーゾは偶然にも持ち合わせていた衣装や染め粉を用意してアニータたちの身なりを替えさせてから、一揃えの旅の品々を並べる。町を出る前に荷を捌いておくのは商人の原則であるし、アニータは身元が判然としているので払いは後で構わない。いざとなればプリシウス卿に請求するから、父上に叱られたくなければきちんと払ってくださいよとはトンマーゾの言葉である。
「ありがとうございます、トンマーゾさん」
「なに、礼はお代をいただくときで構いませんよ。それよりも大丈夫ですか。どこに行くにしろ、チェスターを出るまであまり目立つことはしない方がいいと思いますけどね」
心配するトンマーゾの言葉に、赤毛の娘は悪戯な笑みを返す。アニータがチェスターに帰った、それを知る者は町行く娘にプリシウス家の令嬢の姿を重ねることもあるだろう。余計な興味が余計な騒動に育つことは避けたいところだし、行き過ぎた心配かもしれないが不安が消えないのは事実だ。だが、アニータの顔にはいつもの自信に満ちた力強い笑みがあった。
「ここは享楽の都チェスター。この町は、私が生まれて育った町なのよ」
兄殺しのファビアスが出奔して、エデンバルとの対立が激化しつつあるチェスターは今は表面上の平穏に満たされているが、波の下では重苦しい水流が渦巻いている。衛視やチェスターの議員までもが害されたこともあって、議会では傭兵を雇ってでも軍団を起こすことを辞さない意見すら生まれている。プリシウス卿をはじめとする、穏健派の人々が辛うじて取りなしているがそれで人々の動揺が収まった訳ではない。チェスターが兵を起こしたところでエデンバルにかなう筈もないという識見と、亡命者のファビアスに長く都を荒らされた上の所行を捨て置く訳にはいかぬという面子が衝突して一向に結論は出なかった。
そのように紛糾するチェスターで、トンマーゾの好意を丁重に謝してから荷車と別れたアニータが案内する町の裏道は驚くべきものであった。壁と壁のすき間が、壊れた格子の傍らが、植えられた樹木の間が、すべて彼女にとっては開かれた通路なのだ。幼い頃より、彼女がたびたびフランコや人の目を避けて姿を消しては狩りや乗馬に興じていた、その原因が現在の助けとなっている事実にフランコは誰ともなくため息をつかざるを得ない。確かにこれなら、トンマーゾの荷車に敢えて乗る必要はないであろう。
「お父上にはとても言えませぬな」
「本当はフランコにも教えたくなかったのよ!」
ハイランドの遊牧民によって織られた大布を身に巻き付け、肩のあたりをタムシンに借りたブローチで留めているアニータはその軽快な動きもあって生まれつきの遊牧民の娘にも見える。それは忠実な壮年の従者にとって喜ぶべきことではない筈だが、タムシンと二人姉妹のようにも見える姿は微笑ましいといえなくもない。呑気な感慨に頬を弛めながらも、周囲に気を配っていたフランコは彼の心配が無用なまま誰に見とがめられることもなく自分たちがチェスターの門にたどり着いたことを知った。
彼が仕える赤毛の娘の恐るべきこと、まさに恐るべきである。いかに日が落ちた後とはいえ、単に道が開いているというだけではなく彼女を知る者の目や周囲を通りがかる人の姿もある中で、娘二人と壮年の男一人が不審に思われることもなく町を抜けようとしているのだ。西門の衛視はたいてい新米が立たされるので、自分たちのことには気づく筈がないと断言するアニータのなんと頼もしいことか。
「行きましょう。フランコ、タムシン」
チェスターを出てもう一度、星降る旅の空の下に身を躍らせた赤毛の娘が後ろ髪を引かれる思いを残したことは二つある。一つは己の所行を父に詫びる思いであり、もう一つはエアの港町や「海のよろこび」号でアニータの噂話が広まっていた、あの旅篭にトンマーゾがいたことや父があまりにも自分の旅の事情を知っていた理由を陽気な商人に聞きそびれた、という思いである。にくめない商人の陽気な笑顔を思い返し、赤毛の娘は彼女の力強い笑みを浮かべると再び故郷の都を後にしていた。
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