第十章 エデンバルの秘術


 享楽の都チェスターを出て、ブリタンニアを抜ける風に身をさらしていたアニータは頭に巻いていた布を外すと、彼女の赤毛を冷たい風に揺らしている。旅の下で随分伸びたように見えるアニータの髪は、これだけは彼女が貴族の令嬢であることを主張するかのように人の目に映えるものであった。
 アニータの父であるプリシウス卿がかつて慨嘆したように、女性らしさなど気にも留めぬ赤毛の娘はそれでも厳格な躾を受けていなかった訳ではなく、相応の礼節も備えていれば身なりに気を使わない訳でもない。伸びた赤毛をアニータが面倒に思った理由は彼女が多少でも身支度や容姿を整えることを怠らないからであったろうし、一方で伸びた髪が旅空を歩き回るには邪魔であるからにも違いなかった。

 北に向かいハドリアヌスの古い長城を抜けて、街道沿いにある小さな町に入るとアニータは彼女の友人であるタムシンを連れて宿に入る。アニータとプリシウスの家に仕えているフランコが、当座の旅に入用な品々を揃えている間に、部屋に敷き布を広げた娘たちは鋏を手に娘らしい会話を交わしながら、互いの髪を切り揃えると肩のあたりで整えていた。

「少し短かったかしら?」
「大丈夫よ、この方が動き易いもの」

 目を交わして笑みを浮かべる、他愛ない言葉と視線のやり取りがどれほど娘たちにとって貴重なものであったろうか。高峰の支配者ダビデと彼の息子である兄殺しのファビアスらによって、大切な幾人かを永久に失うことになった娘たちは貴重なものの存在と、それを奪うことに痛痒を感じぬ者の存在とを知っていた。
 エデンバルを治める高峰の支配者ダビデのもとを逃げ出してより、一度はアニータの故郷であるチェスターに帰っていた娘たちは両国の関係が急速に険悪になったことによって今はそのチェスターを後にしていた。

 エデンバルの王が、暴虐の名も高い彼の息子である兄殺しのファビアスを亡命の地であるチェスターから呼び戻してファビアスがそれに応えたことによって、チェスターの議会は紛糾して人々は騒乱の黒雲が広がる様子に不安を募らせている。かつてファビアスと悶着を起こしていたアニータが、混乱の渦中にある故郷を追い出されたのも故ないことではなかったろう。たとえ赤毛の娘の言行にただの一つも後ろ暗いところがなかったとしても、不安と混乱は他者を見る人の目を曇らせずにはおかない。

「戦争は避けねばならぬ。ファビアス卿の所行を追求せぬことは正義に反するが、それは卿の問題であってダビデ王は彼を請うただけであり必ずしもチェスターを害する意図があったとは限らない。まずはエデンバルにファビアス卿の所行を訴え、その主張を得るべきではなかろうか」

 アニータの父であるプリシウス卿はチェスターの議会の席で、ファビアスに非難の言を表明しながらも最悪の事態を回避すべく努めている。恐らくは時間を稼ぐことしかできぬであろうとは、卿自身も考えていたがこれ以上ダビデとファビアスにチェスターを混乱させる訳にはいかぬし、プリシウス卿の人柄は彼の言葉に耳を傾けざるを得ないだけの影響力を伴ってもいた。
 アニータが起こした騒動は少なからぬ面当てとなって卿を刺してはいたが、幸いというべきであったろうか、議会に生きる人間にとって多少の面当ては日常事でもあるしプリシウス卿は彼の娘とは異なりそれで激発するような人物ではない。

 亡命貴族のファビアスを匿い、エデンバルに対するカードとすることがかつてはチェスターの方針であったが、今やそれは崩壊している。新たな方針を描くために議会は紛糾するが、いずれにせよすぐに結論の出る問題ではなく時間がかかるであろうと思われた。
 だが、その方が良いとプリシウス卿は考えている。世の中には早期に決した方が有益な事柄や事情が多くあることは確かだが、今は人が平静を取り戻すための時間こそが何よりも必要であった。娘が帰るチェスターの都を混迷に陥れぬべく奔走しながら、卿は彼が誇りと思う娘のことを一時でも忘れたことはない。石枠の外に見えるブリタンニアの空を、卿と同じように娘たちも見ている筈であった。

 アニータが旅に出てからも、その以前からも娘たちに従っているフランコは解放奴隷出身の壮年の男であり、中背だが日に焼けた肩も腕も頑健で力強く、後ろに撫でつけた灰銀色の髪と同色の髭が頬から顎にかけて短く刈り込まれている。礼節を重んじ、忠義には疑うところがなく、主人を守る腕にも技にも事欠かないが剣を振るうよりも知恵を用いることを考える、プリシウス卿が娘を任せるに足る偉丈夫であった。
 忠実な従者は彼の主人がそうであると思っていたとおり、当座の旅に入用な品を揃えるために今は町の方々に足を運んでいる。チェスターからの出奔はあわただしく、その以前はハイランドの山中で多く時を過ごしていたのであるから、必要な物は得られるときに探しておかねばらならないだろう。アニータがタムシンと二人で髪結いの真似事をして楽しんでいるのも、チェスターでできずにいたことをこの際に済ませておくためであったのだから。

 だがフランコには、このような折りにこそ娘たちが知る必要のない事柄を済ませておく必要がある。これまでも度々行っていたことではあるが、町々にある職工の組合や集まりに顔を出しては可能な限りその地の有力者に顔を繋ぐことと、でなければ周囲の情勢を伝え聞いておくことであった。
 幸い、いざとなればフランコにはプリシウス家の後援があり、貴族の一行に迂闊な手を出す輩は少ない。もっとも、事実が要らぬ危地を招く例もあるから、平穏な薮に敢えて立ち入り蛇を騒がせる愚は避けなければならなかった。とはいえ顔繋ぎといっても大抵は金貨の一枚や酒の数杯で足りることであり、それでいてこのような者たちが当然に心得ている、思わぬ事実を知ることもある。チェスターを出たプリシウス家の令嬢らを探している男がいることと、その者がこの町にいることを知ったフランコがその人物をアニータとタムシンの前に引き立てることになったのは日も暮れかけた夕の中頃である。

「あなたは・・・」

 赤毛の娘も、水鳥を思わせる不思議な髪の色をした娘も驚きの声から後が続かない。傾く陽光を反射するような赤い鎧に身を固め、浅黒い肌に口髭をたくわえている男はエデンバルの赤き鎧の騎士レイモンドであった。高峰の支配者から娘たちが逃れる際の手助けをした男であり、かつて王ダビデの娘であり、タムシンの母でもある人物を手にかけた者である。

 王の孫娘たちを牢から解き放ってより、エデンバルに残ることもできずレイモンドはただ逃げるしかなかった。彼は自分が卑劣な王の命に従う卑劣漢であったことを知っているが、その主君ダビデのもとを離れてよりレイモンドにはよるべき柱が失われてしまった。宛てもないままに生国を出奔していた赤き鎧の騎士は、タムシンを追ってダビデが送り出した獅子王バルタザルが彼女の手によって討たれたことを知る。
 驚くべきことではあったが、レイモンド自身はそれを期待していたかもしれない。高峰の支配者ダビデがタムシンを追うだろうことを彼は疑ってはいなかったし、それが恐るべき獅子王バルタザルになることも承知していたのだから。だが娘たちと、その従者があの獅子王にどうして抗することができるだろうとは考えていたのだ。

「ご承知のとおり、獅子王バルタザルが討たれて王は兄殺しのファビアスを世継ぎに迎えると申しております。有り得る話ではありません。エデンバルは大義を失っている、だがタムシン様、貴女にはそれがございます」

 その言葉に、アニータやタムシンたちがどのような思いをしているかをレイモンドは考えてもいない。赤き鎧の騎士は自分がタムシンの両親を手にかけたことを卑劣な行いだと信じているし、自分が救われぬ愚か者であると考えてもいる。だが、それは信じていて考えているというだけで知っている訳ではないのだ。
 エデンバルを出てよりアニータやタムシンにつき従わず、獅子王が討たれた今になって大義を理由にその恩恵に授かろうとする、それがどれほど卑劣な行いであるかにレイモンドは気付いていない。赤き鎧の騎士はかつて高峰の支配者ダビデの名によって悪徳を行ったが、心を改めたレイモンドは王の正当な血縁であるタムシンの名によって善行をなそうというのである。なんと都合の良い話であろうか。

 他人の顔を見ることもできぬ臆病な戦士は、アニータやタムシンの表情にも娘たちが抱いている嫌悪感にも気付くことはない。だがアニータたちは忠実な従者である筈のフランコが何故、このような男を自分たちの前に連れてきたかを測りかねていた。本当であればもう、こんな者たちと関わりたくはないというのに。

「貴方は・・・」

 頭を下げているレイモンドに向かって、タムシンは即答できずにいる。赤き鎧の騎士の言葉は、単に彼女を高峰の支配者に抗する御輿として担ぎ上げようとしているだけにすぎない。それは国のためではなく、彼女のためでもなく、ただレイモンドが頼るべき者を欲しているという理由によるのだ。そのことにタムシンだけではなくアニータも気が付いていた。
 だが、娘たちは彼女たちを追っている者から逃げられないことを知っていたし彼女たちの境遇から逃げようとも思っていない。自ら天空の主たるを任じて、人々の心から営みまでを支配できると信じている高峰の支配者、マスターを退けるべく彼女たちはもう一度エデンバルに戻らねばならないのだ。そのためにはレイモンドのような男の助けは必要なのである。

「分かりました。私には・・・私たちには貴方の助けがいります。ですが、貴方の望みを叶えることはできません。いえ、私は貴方の望みなど叶えたくもないのです」

 数拍以上の時を置いてから、意を決して顔を上げるとタムシンは答える。その辛辣な言葉よりも、毅然としたタムシンの声に感じるものがあったのであろうか。
 レイモンドはこの時初めてタムシンの言葉の意味を理解したが、それは赤き鎧の騎士がタムシンにとって頼るに値せぬ存在であると告げられたも同じであった。それでも、よるべき場所のない赤き鎧の騎士がすべきことは喜んで娘たちに手を貸すことしかないのである。彼が卑劣と信じている、許されぬ罪を償うために。

「分かりました。このレイモンド、たとえ叶わぬ望みのためであったとしても、タムシン様のお役に立たせて頂きます」

 頭を垂れるレイモンドに軽く頷いただけで視線を外してしまうと、タムシンは彼女にとって何よりも重要なことを決めるために赤毛の友人に目を向ける。タムシンはエデンバルの高峰の支配者ダビデの孫娘として、王が伝えるエデンバルの秘術の一端を知る者として、年老いた王と戦わねばならない。
 もしも彼女に王と戦うつもりがなかったとしても、高峰の支配者ダビデはタムシンを決して殺さずにはいられないであろう。それは十数年の時を経てもなお兄殺しのファビアスがタムシンのキャラバンとシンシアを襲ったように、或いはエデンバルを辞した彼女たちやマリレーナを獅子王バルタザルが追ったように。不愉快な人々の姿を脳裏から追い払うと、タムシンはかけがえのない赤毛の友人の真摯な瞳を見る。

「アニータ。本当のことをいえば、私は貴女に来て欲しくない。シンシア姉様を、マリレーナ姉様を失ったように貴女を失いたくはないもの。私は国の王を討とうとしているけど、私はあの男の孫でもある。でも貴女はそうではない、私が倒れたところで誰も困ることはないけれど、貴女には帰る家だって家族だってあるんだから」

 そう言ったタムシンはアニータが火のように怒るであろうことを知っていた。知っていて、言わずにはいられなかった。タムシンがすべて言い終わる前にすでに彼女に掴みかかっていた赤毛の娘は、その髪に勝る激情の色を全身からみなぎらせて叫ぶ。

「タムシン!今度そんなことを言ったら許さないわよ!あなたに何かあったら、私は死ぬまで泣いてやるんだから!」

 予想していたその言葉に、アニータのほとばしる感情を受け止めたタムシンの心の底から止まらない涙があふれでると、彼女の空色の瞳から頬へと流れ落ちる。タムシンが初めてアニータと会った、あの頃から赤毛の娘は変わらない。身も知らぬ船乗りを救うために怒りの声を上げた、タムシンはあの言葉を聞いていたのだ。
 それ以来、タムシンは幾度思ったことであろうか。アニータのようになりたい、彼女のように自然に笑って、自然に怒れる人になりたいと。だからこそ、水鳥の髪をした娘は彼女の心からの言葉を赤毛の友人に告げた。アニータが心から怒るだろうと思ってもそれはタムシンの本心であったから、だが、タムシンにはもう一つの偽らぬ思いもある。

 タムシンは今も涙に濡れたままの顔をしているが、彼女は泣いてもいなければ怒ってもいない。それは力強い喜びの思いであり、彼女が持っている貴重なもののために、そして今度こそそれを失わないために戦おうとする者の勇気であり決意であったのだから。

「有り難う・・・アニータ。一緒に、戦いましょう」

 傾く日が長い影を伸ばしている、タムシンの言葉にアニータは無言で頷くと腰に下げていた二本の短剣、マリレーナの短剣の一本を外してゆっくりと友人に手渡す。娘たちの手が軽く触れ合う、誓約は神聖なものであってそれは赤く照らされる刃によって示されていた。

‡ ‡ ‡


 エデンバルに帰還すべく、チェスターを出奔した兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスは彼を取り巻く無頼の兵士たちや、反動派の貴族たちを伴って彼の生国に足を向けている。嗜虐的な表情とそれに相応しい性格は、それがファビアスの生来のものでなかったとしても今はそうではない。
 エデンバルの王である高峰の支配者ダビデは、彼自身も含めて彼の後継者たる者たちにも人間の特性を求めずに人を従えるだけの力があれば良いとだけ考えていた。支配の論理は力であり、その力を持ちうる者の叡智は王が伝えるエデンバルの秘術によって与えることができる。ファビアスはそれを譲り受けるためにエデンバルに帰還するのだ。

「高峰の玉座は老人が腰を下ろすことに飽きている!新しい支配者に従う者は、今のうちに凱旋の列に加わるが良かろう」

 豪語するファビアスの言葉に、野卑な嬌声が上がる。ハイランドの峰を舐めるようにして、ブリタンニアを東から西に抜けるエデンバルからの風はもうすぐ彼のものになろうとしており、新しく高峰の支配者が登ればかつて彼を追放したダビデにもはや用はないのだ。
 齢六十に届くという老人が年老いてやがて消えるのであれば、今すぐに消えてもファビアスにとっては同じことである。是非にと請われたから行く、それを機にファビアスは王に替わるつもりであった。

 チェスターから北に街道を進みハドリアヌスの長城を抜ける、かつてローマが敷設した石造りの道も蛮族に抗する壁の北方にあるそれは完全なものではなかったが、その中でも長城からエデンバルに到る道は軍団が通る道として多少は整えられており路面は平坦で見晴らしは良く、新しい支配者の帰還を妨げるものは何もない。
 傍若無人にエデンバルの境界を越えるファビアスと連れの者たちを、数騎の馬を従えた巡視の男たちが丁重に出迎える。深く礼をすると先導を申し出る、その巡視が新しい王を迎えるに土産の一つも用意せぬことにファビアスは呆れ、この場で血肉の饗宴を催すことも考えたが楽しみが先にあるならば道を急ぐこともまた正しかろう。十数年ぶりの帰還の途を傲然と進むファビアスは、やがて視界に懐かしいエデンバル、彼のものとなる城塞の威容を認めると馬の足を急がせた。

 新王の帰還に開かれている門はその両脇がエデンバルの城塞都市を抜けて王城に到るまで、敬虔にこれを出迎える兵士と人民の列に飾られておりファビアスは些か機嫌を直すと馬を下りる。エデンバルにはエデンバルの礼があり、金品や酒宴でなくとも高貴なる者を迎える方法はあった。そして何より、高峰の支配者ダビデの息子であるファビアスは俗物的な快楽よりも本来、血生臭いほどの力と戦いを好む者である。
 彼自らが殺した兄メルキオルが王の世継ぎとして期待されていた頃、若年の折りにファビアスは放蕩な暮らしを営み酒場や淫蕩な店に出入りを繰り返していたこともあるが、エデンバルの王は不死歩兵団とも呼ばれるブリタンニア最強の兵を率いる主なのだ。兄に奪われていた剣の悦楽が得られぬからこそ、弟は下世話な快楽で忍従せねばならなかったのである。

 彼らが乗ってきた馬を巡視に引き渡すと王城への歩みを進めたファビアスらは堅牢な門を潜り、彼が長く望みながらも入ることを許されずにいた謁見の間の奥、世を治める玉座に座す老人の姿を目に留める。そこには彼と同じ血を持つ王、高峰の支配者ダビデが座している。頑丈で丈高い体躯に王衣をまとい、頭上には祭事を司る樫の葉の冠を載せて手には王の象徴である錫を手にしていた。
 己が手に入れるべきすべてのものを前にして、デケ・ファビアスは剣も棍棒も帯びたまま彼の取り巻きを従えて王の前に進む。彼らには積もる話があったが、ダビデは彼が招いた実の息子に跪くことを求めようとはせず、ファビアスにもそのつもりはなく傲然と立つままであった。階に据えられた玉座の左右には耐えることのない火が灯って青い煙が筋を立てており、王の下に導く絨毯が一本、敷かれている広間の周囲は彫刻の施された柱に飾られている。十数年来の父と子の対面は、父の些か唐突な言葉によって始まった。

「お前は我が秘術の存在を知っていような?」

 何らの礼もなく問いかけるダビデの言葉に、デケ・ファビアスもまた傲然と胸を反らせ頭を上げる。その口調こそ丁寧だが、荒々しい声音は野卑なままであって敬愛の様子も気品の欠片すらも認めることはできない。

「無論ですとも。ハイランドの山中で貴方の孫娘を襲って手に入れた、人の力を増す錬金の業の数々。そのおかげで私は無敵の戦士でいられる」
「その通りだ。薬草や鉱石、その他にも人を獣に変える方法が幾つもある」

 その業と知識の記録を称してエデンバルでは秘術と呼ぶ。秘術は三つの章に分かれ、一つは知識の章と呼ばれてブリタンニアとエデンバルに伝わる長い歴史や、国を治める者が知るべき様々な事件や物語の記録が年代記として綴られている。二つは肉体の章と呼ばれており、俊敏な動きと人に勝る大力を得る方法や、傷や病を癒す薬草や鉱石の扱い方が記されていた。そしてダビデが持つ最後の一つは精神の章と呼ばれ、王が自らの後継者にエデンバルの秘術の真髄を伝える、その方法が記されているのだ。

「だが秘術に耐えるには相応の肉体が必要であり、その方法も秘術には記されている。お前はタムシンから奪い取ってそれを手に入れたな」
「そうです。私は王の秘術が欲しかったし、あの娘もいない方が都合が良かったのですから」

 ダビデの言葉にデケ・ファビアスは頷きながら片頬を持ち上げると、舞台からの退場を間近に控えた老人に向けて言葉を続ける。

「殺したと思っていた娘が人違いだったとは間の抜けた失敗ですが、メルキオルが貴方に秘術を教わっていた様に私はいつも嫉妬していたのですよ。それこそ彼が王の世継ぎである証明ですし、そのメルキオルが死んだ後で、貴方ときたら今度はそれをあんな小娘に伝えようというのですからな。秘術の書が孫娘の手にあることを知って、貴方はそれを取り戻すことができなかった。おかげで私はそれを手に入れることができた。そして今はすべてを手に入れようとしている、些か時間はかかりましたがな」
「全くその通りだ。余はもう少しお前を頼るべきであったな」

 殊勝な言葉だが、最初からデケ・ファビアスにはダビデに頼られるつもりなどない。彼は彼が望むものを自らの剣と棍棒によって手に入れるのだ。
 老齢の王は息子の思惑に気が付かずにいるのか、至極泰然とした態度を崩さずにいるがその表情が奇妙な様子をしていることに息子は違和感を感じている。王は灰褐色から白くなりかけた長髭をゆっくりと手でしごくと、外見に相応しく重々しい声を発した。

「だが、お前は秘術を用いながらもその本当の姿は知るまい。余はそれを教えてやろうというのだ」

 玉座にある王と、周囲のただならぬ様子にデケ・ファビアスは首を巡らせる。謁見の間を囲っている彫刻が施された柱の影には王の近衛たちが身を潜めていた。無論、その可能性を考えていたファビアスは自らにも取り巻きの者たちにも一時さえ武器を手放させることはなかった。だが彼に従う者たちは所詮は無頼の兵や反動派の貴族たちであって、エデンバルが誇る不死歩兵団の戦士ではない。
 ダビデが従える近衛の兵たちは音も立てずに動き、ファビアスの取り巻きに一度に襲いかかると相打ちすら恐れぬ動きで剣を突き立てた。無頼の傭兵も貴族たちも応戦し、ファビアスの秘術によって力と技を増した刃が抜き放たれるが、エデンバルの誇る不死歩兵団はたとえ殺されてもしばらくは死なない。肺を貫かれて、首を半分ほど切り飛ばされても目の前の相手を殺してからもう一人と戦うことすらやってのける。

「小賢しいわ!」

 危地を悟ったデケ・ファビアスは左手に剣を、右手に棍棒を抜くと不死歩兵団の戦士たちを叩き潰す。いかに死なぬとはいえ肩を潰せば剣を振るう腕は落ち、膝を砕けば立ち上がることもできない。一度の殴打で一人を、二度の斬撃で二人を潰したファビアスは王に向き直ると、ひととびに彼の栄光を手に入れるべく躍りかかろうとした。

 だが階を登り玉座に座す老人の前に立ったと思ったデケ・ファビアスは奇妙なことに、自分の目の前にいる人間が高峰の支配者ダビデではないことに気が付く。彼の目の前で右手に棍棒を、左手に剣を持って傲然と立っているのは紛れもないデケ・ファビアス、彼自身であった。
 長身巨躯のファビアスはゆっくりと片頬を持ち上げて唇を動かすが、そこから漏れ出る言葉は彼のものではない。その言葉は彼のもう一つの目の前にいる玉座の老人と重なっている。では、彼はいったいどこにいるのか。混乱と恐慌に捕らわれる彼に構うことなく、目の前のファビアスは高峰の支配者に相応しく、人の所行や世界のあり方さえも定める者としての言葉を紡いだ。

「肉体だけではない。人の生命も、魂までも操るのが秘術の力だ。エデンバルの秘術とは王が自分自身を後継者に与える、知識と肉体、そして精神と魂をも伝える錬金の業である」

 玉座の左右から立ち上る煙は更に濃く色を増すと、ダビデとファビアスがある謁見の間に立ちこめる。既に彼の取り巻きも不死歩兵団の戦士たちも全員が倒れて指の一本すら動かず、血と煙の臭気に囲われているのは王とその息子だけであった。だが、聞こえる声はそれがダビデのものであれファビアスのものであれ、ただ一人のマスターの言葉でしかない。

「秘術の本当の力は秘術を用いた者にしか通じぬことにある。メルキオルが死んだ後、幼かったタムシンにはまだ秘術を用いることができなんだし、あの娘はその後も秘術の技と知識を知ってはいても自らに秘術を施してはおらぬであろう。だがお前は違う、お前がそれを用いているというのは実に都合がよい」

 ダビデとファビアスが同じ顔で、同時に笑う様に彼は恐怖の声を上げるがその声はどこに響くこともない。謁見の間にあるのはただダビデとファビアスのみであって、すでに消えようとしている彼の意識が帰るべき場所はなかった。エデンバルの秘術の真実の姿、精神の章の姿を知る者はただ一人、高峰の支配者だけなのである。

「孫娘には逃げられたが、お前は私が頂こう。お前はダビデ・ファビアス、余こそが我が世継ぎなのだ」


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