享楽の都チェスターを出て、ブリタンニアを抜ける風に身をさらしていたアニータは頭に巻いていた布を外すと、彼女の赤毛を冷たい風に揺らしている。旅の下で随分伸びたように見えるアニータの髪は、これだけは彼女が貴族の令嬢であることを主張するかのように人の目に映えるものであった。
アニータの父であるプリシウス卿がかつて慨嘆したように、女性らしさなど気にも留めぬ赤毛の娘はそれでも厳格な躾を受けていなかった訳ではなく、相応の礼節も備えていれば身なりに気を使わない訳でもない。伸びた赤毛をアニータが面倒に思った理由は彼女が多少でも身支度や容姿を整えることを怠らないからであったろうし、一方で伸びた髪が旅空を歩き回るには邪魔であるからにも違いなかった。
北に向かいハドリアヌスの古い長城を抜けて、街道沿いにある小さな町に入るとアニータは彼女の友人であるタムシンを連れて宿に入る。アニータとプリシウスの家に仕えているフランコが、当座の旅に入用な品々を揃えている間に、部屋に敷き布を広げた娘たちは鋏を手に娘らしい会話を交わしながら、互いの髪を切り揃えると肩のあたりで整えていた。
「少し短かったかしら?」
「大丈夫よ、この方が動き易いもの」
目を交わして笑みを浮かべる、他愛ない言葉と視線のやり取りがどれほど娘たちにとって貴重なものであったろうか。高峰の支配者ダビデと彼の息子である兄殺しのファビアスらによって、大切な幾人かを永久に失うことになった娘たちは貴重なものの存在と、それを奪うことに痛痒を感じぬ者の存在とを知っていた。
エデンバルを治める高峰の支配者ダビデのもとを逃げ出してより、一度はアニータの故郷であるチェスターに帰っていた娘たちは両国の関係が急速に険悪になったことによって今はそのチェスターを後にしていた。
エデンバルの王が、暴虐の名も高い彼の息子である兄殺しのファビアスを亡命の地であるチェスターから呼び戻してファビアスがそれに応えたことによって、チェスターの議会は紛糾して人々は騒乱の黒雲が広がる様子に不安を募らせている。かつてファビアスと悶着を起こしていたアニータが、混乱の渦中にある故郷を追い出されたのも故ないことではなかったろう。たとえ赤毛の娘の言行にただの一つも後ろ暗いところがなかったとしても、不安と混乱は他者を見る人の目を曇らせずにはおかない。
「戦争は避けねばならぬ。ファビアス卿の所行を追求せぬことは正義に反するが、それは卿の問題であってダビデ王は彼を請うただけであり必ずしもチェスターを害する意図があったとは限らない。まずはエデンバルにファビアス卿の所行を訴え、その主張を得るべきではなかろうか」
アニータの父であるプリシウス卿はチェスターの議会の席で、ファビアスに非難の言を表明しながらも最悪の事態を回避すべく努めている。恐らくは時間を稼ぐことしかできぬであろうとは、卿自身も考えていたがこれ以上ダビデとファビアスにチェスターを混乱させる訳にはいかぬし、プリシウス卿の人柄は彼の言葉に耳を傾けざるを得ないだけの影響力を伴ってもいた。
アニータが起こした騒動は少なからぬ面当てとなって卿を刺してはいたが、幸いというべきであったろうか、議会に生きる人間にとって多少の面当ては日常事でもあるしプリシウス卿は彼の娘とは異なりそれで激発するような人物ではない。
亡命貴族のファビアスを匿い、エデンバルに対するカードとすることがかつてはチェスターの方針であったが、今やそれは崩壊している。新たな方針を描くために議会は紛糾するが、いずれにせよすぐに結論の出る問題ではなく時間がかかるであろうと思われた。
だが、その方が良いとプリシウス卿は考えている。世の中には早期に決した方が有益な事柄や事情が多くあることは確かだが、今は人が平静を取り戻すための時間こそが何よりも必要であった。娘が帰るチェスターの都を混迷に陥れぬべく奔走しながら、卿は彼が誇りと思う娘のことを一時でも忘れたことはない。石枠の外に見えるブリタンニアの空を、卿と同じように娘たちも見ている筈であった。
アニータが旅に出てからも、その以前からも娘たちに従っているフランコは解放奴隷出身の壮年の男であり、中背だが日に焼けた肩も腕も頑健で力強く、後ろに撫でつけた灰銀色の髪と同色の髭が頬から顎にかけて短く刈り込まれている。礼節を重んじ、忠義には疑うところがなく、主人を守る腕にも技にも事欠かないが剣を振るうよりも知恵を用いることを考える、プリシウス卿が娘を任せるに足る偉丈夫であった。
忠実な従者は彼の主人がそうであると思っていたとおり、当座の旅に入用な品を揃えるために今は町の方々に足を運んでいる。チェスターからの出奔はあわただしく、その以前はハイランドの山中で多く時を過ごしていたのであるから、必要な物は得られるときに探しておかねばらならないだろう。アニータがタムシンと二人で髪結いの真似事をして楽しんでいるのも、チェスターでできずにいたことをこの際に済ませておくためであったのだから。
だがフランコには、このような折りにこそ娘たちが知る必要のない事柄を済ませておく必要がある。これまでも度々行っていたことではあるが、町々にある職工の組合や集まりに顔を出しては可能な限りその地の有力者に顔を繋ぐことと、でなければ周囲の情勢を伝え聞いておくことであった。
幸い、いざとなればフランコにはプリシウス家の後援があり、貴族の一行に迂闊な手を出す輩は少ない。もっとも、事実が要らぬ危地を招く例もあるから、平穏な薮に敢えて立ち入り蛇を騒がせる愚は避けなければならなかった。とはいえ顔繋ぎといっても大抵は金貨の一枚や酒の数杯で足りることであり、それでいてこのような者たちが当然に心得ている、思わぬ事実を知ることもある。チェスターを出たプリシウス家の令嬢らを探している男がいることと、その者がこの町にいることを知ったフランコがその人物をアニータとタムシンの前に引き立てることになったのは日も暮れかけた夕の中頃である。
「あなたは・・・」
赤毛の娘も、水鳥を思わせる不思議な髪の色をした娘も驚きの声から後が続かない。傾く陽光を反射するような赤い鎧に身を固め、浅黒い肌に口髭をたくわえている男はエデンバルの赤き鎧の騎士レイモンドであった。高峰の支配者から娘たちが逃れる際の手助けをした男であり、かつて王ダビデの娘であり、タムシンの母でもある人物を手にかけた者である。
王の孫娘たちを牢から解き放ってより、エデンバルに残ることもできずレイモンドはただ逃げるしかなかった。彼は自分が卑劣な王の命に従う卑劣漢であったことを知っているが、その主君ダビデのもとを離れてよりレイモンドにはよるべき柱が失われてしまった。宛てもないままに生国を出奔していた赤き鎧の騎士は、タムシンを追ってダビデが送り出した獅子王バルタザルが彼女の手によって討たれたことを知る。
驚くべきことではあったが、レイモンド自身はそれを期待していたかもしれない。高峰の支配者ダビデがタムシンを追うだろうことを彼は疑ってはいなかったし、それが恐るべき獅子王バルタザルになることも承知していたのだから。だが娘たちと、その従者があの獅子王にどうして抗することができるだろうとは考えていたのだ。
「ご承知のとおり、獅子王バルタザルが討たれて王は兄殺しのファビアスを世継ぎに迎えると申しております。有り得る話ではありません。エデンバルは大義を失っている、だがタムシン様、貴女にはそれがございます」
その言葉に、アニータやタムシンたちがどのような思いをしているかをレイモンドは考えてもいない。赤き鎧の騎士は自分がタムシンの両親を手にかけたことを卑劣な行いだと信じているし、自分が救われぬ愚か者であると考えてもいる。だが、それは信じていて考えているというだけで知っている訳ではないのだ。
エデンバルを出てよりアニータやタムシンにつき従わず、獅子王が討たれた今になって大義を理由にその恩恵に授かろうとする、それがどれほど卑劣な行いであるかにレイモンドは気付いていない。赤き鎧の騎士はかつて高峰の支配者ダビデの名によって悪徳を行ったが、心を改めたレイモンドは王の正当な血縁であるタムシンの名によって善行をなそうというのである。なんと都合の良い話であろうか。
他人の顔を見ることもできぬ臆病な戦士は、アニータやタムシンの表情にも娘たちが抱いている嫌悪感にも気付くことはない。だがアニータたちは忠実な従者である筈のフランコが何故、このような男を自分たちの前に連れてきたかを測りかねていた。本当であればもう、こんな者たちと関わりたくはないというのに。
「貴方は・・・」
頭を下げているレイモンドに向かって、タムシンは即答できずにいる。赤き鎧の騎士の言葉は、単に彼女を高峰の支配者に抗する御輿として担ぎ上げようとしているだけにすぎない。それは国のためではなく、彼女のためでもなく、ただレイモンドが頼るべき者を欲しているという理由によるのだ。そのことにタムシンだけではなくアニータも気が付いていた。
だが、娘たちは彼女たちを追っている者から逃げられないことを知っていたし彼女たちの境遇から逃げようとも思っていない。自ら天空の主たるを任じて、人々の心から営みまでを支配できると信じている高峰の支配者、マスターを退けるべく彼女たちはもう一度エデンバルに戻らねばならないのだ。そのためにはレイモンドのような男の助けは必要なのである。
「分かりました。私には・・・私たちには貴方の助けがいります。ですが、貴方の望みを叶えることはできません。いえ、私は貴方の望みなど叶えたくもないのです」
数拍以上の時を置いてから、意を決して顔を上げるとタムシンは答える。その辛辣な言葉よりも、毅然としたタムシンの声に感じるものがあったのであろうか。
レイモンドはこの時初めてタムシンの言葉の意味を理解したが、それは赤き鎧の騎士がタムシンにとって頼るに値せぬ存在であると告げられたも同じであった。それでも、よるべき場所のない赤き鎧の騎士がすべきことは喜んで娘たちに手を貸すことしかないのである。彼が卑劣と信じている、許されぬ罪を償うために。
「分かりました。このレイモンド、たとえ叶わぬ望みのためであったとしても、タムシン様のお役に立たせて頂きます」
頭を垂れるレイモンドに軽く頷いただけで視線を外してしまうと、タムシンは彼女にとって何よりも重要なことを決めるために赤毛の友人に目を向ける。タムシンはエデンバルの高峰の支配者ダビデの孫娘として、王が伝えるエデンバルの秘術の一端を知る者として、年老いた王と戦わねばならない。
もしも彼女に王と戦うつもりがなかったとしても、高峰の支配者ダビデはタムシンを決して殺さずにはいられないであろう。それは十数年の時を経てもなお兄殺しのファビアスがタムシンのキャラバンとシンシアを襲ったように、或いはエデンバルを辞した彼女たちやマリレーナを獅子王バルタザルが追ったように。不愉快な人々の姿を脳裏から追い払うと、タムシンはかけがえのない赤毛の友人の真摯な瞳を見る。
「アニータ。本当のことをいえば、私は貴女に来て欲しくない。シンシア姉様を、マリレーナ姉様を失ったように貴女を失いたくはないもの。私は国の王を討とうとしているけど、私はあの男の孫でもある。でも貴女はそうではない、私が倒れたところで誰も困ることはないけれど、貴女には帰る家だって家族だってあるんだから」
そう言ったタムシンはアニータが火のように怒るであろうことを知っていた。知っていて、言わずにはいられなかった。タムシンがすべて言い終わる前にすでに彼女に掴みかかっていた赤毛の娘は、その髪に勝る激情の色を全身からみなぎらせて叫ぶ。
「タムシン!今度そんなことを言ったら許さないわよ!あなたに何かあったら、私は死ぬまで泣いてやるんだから!」
予想していたその言葉に、アニータのほとばしる感情を受け止めたタムシンの心の底から止まらない涙があふれでると、彼女の空色の瞳から頬へと流れ落ちる。タムシンが初めてアニータと会った、あの頃から赤毛の娘は変わらない。身も知らぬ船乗りを救うために怒りの声を上げた、タムシンはあの言葉を聞いていたのだ。
それ以来、タムシンは幾度思ったことであろうか。アニータのようになりたい、彼女のように自然に笑って、自然に怒れる人になりたいと。だからこそ、水鳥の髪をした娘は彼女の心からの言葉を赤毛の友人に告げた。アニータが心から怒るだろうと思ってもそれはタムシンの本心であったから、だが、タムシンにはもう一つの偽らぬ思いもある。
タムシンは今も涙に濡れたままの顔をしているが、彼女は泣いてもいなければ怒ってもいない。それは力強い喜びの思いであり、彼女が持っている貴重なもののために、そして今度こそそれを失わないために戦おうとする者の勇気であり決意であったのだから。
「有り難う・・・アニータ。一緒に、戦いましょう」
傾く日が長い影を伸ばしている、タムシンの言葉にアニータは無言で頷くと腰に下げていた二本の短剣、マリレーナの短剣の一本を外してゆっくりと友人に手渡す。娘たちの手が軽く触れ合う、誓約は神聖なものであってそれは赤く照らされる刃によって示されていた。