第十一章 姫君と勇者


 デケ・ファビアスは生国であるエデンバルに帰ると彼の父である高峰の支配者ダビデに会い、王自らの手によってその忠実な後継ぎとして認められる。かつて確執の挙げ句彼の兄であったメルキオルを手にかけ、後に享楽の都チェスターに長く出奔していた残酷な王の息子はまるで人が変わったかのように父王のよき後継者となった。ファビアスは老齢の王に替わる新しき支配者として、その名を継ぐとダビデ・ファビアスと称して載冠の準備を行っている。
 ハイランドの山麓にあるエデンバルの王都には高札が立てられると、人民も兵士も王の周辺にある貴族たちも、世の高みから全てを統べる新しき支配者を讃える用意を進めていた。人間のあらゆる徳性に恵まれぬというエデンバルの王はその強大な権限と実力によって彼の臣民を従えており、エデンバルの者はただ盲目的に王に従って安寧に生きることのみを許されていたのである。

 ブリタンニアの北方にある、ハイランドの高峰を背に広がっているエデンバルは大陸のゴール人や古い遊牧民であるケルトにその系譜が連なると言われている王国であり、山と風の国の異称に相応しい寒冷な風が東から西へと吹き抜けては人々の肌に厳しく差し込んでいる。北辺を囲う広大なハイランドの峰、風を受けて陽光を照り返す山々に対する信仰心は強大な王の権威と結びついて彼に「高峰の支配者」の名を与えていた。古来、ローマ帝国の時代から存在した長城の南方にあるブリタンニアの文化からは隔絶されて久しく、かつて強大であった石造りの帝国の影響を大きく受けながらも自然崇拝の傾向が強い独自の文化を伝えている。高峰の支配者はそのエデンバルの国と文化を治める者であり、民を睥睨する石造りの城は壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りが随所に配されていて、古のローマからもたらされた様式がエデンバルでは強さと冷たさとを感じさせていた。

「余はエデンバルの王、高峰の支配者の座を継ぐに当たって我が父王ダビデの忠実な継承者であることをここに告げるものである。偉大なるダビデの下で王を助けた者たちよ、汝らは自らの国に誇りを持つことはあっても悩みも恐れも抱く必要はないのだ。汝らは皆ダビデにとって良い臣下であり臣民であったが、余にとってもまた優れた臣下であり臣民であるのだから」

 力強く述べる王の前で、貴族や近衛の兵たちを中心にした彼の臣民たちが一斉に頭を垂れている。エデンバルの王城にある謁見の間、階にある高峰の支配者の玉座に腰を下ろしているダビデ・ファビアスは王の紋章を背に、父王の青年時を思わせる若々しい肉体に清新な王衣をまとい、頭上には祭事を司る樫の葉の冠を載せて手には王の象徴である錫を手にしていた。冠と王錫は国の祭事を統べる者の権威であり、左右に灯されている燭台の炎は尽きることがない王の叡智を示している。新王がダビデ・ファビアスの名に違わぬ、老王ダビデの忠実な継承者でありダビデそのものであることを知る者は世を統べる高峰の支配者、マスターを除けば誰もいない。それこそがエデンバルの秘術の真髄であり、王が自らをただ一人に継がせるための錬金の技であった。
 人の肉体に種を宿し、エデンバルに伝わる薬や技を種に施すことによって耐えることのできぬ快楽や苦痛、そして人を越えた優れた力までを自在に与えることができる、それが秘術の正体である。王が率いる不死歩兵団、殺されてもしばらくは死なないと言われる無敵の兵士たちも秘術の産物だが、エデンバルの秘術の目的は王が選んだ後継者に自らの魂を伝える技、優れた肉体に王自身を伝える儀式にあった。メルキオルであれ獅子王バルタザルであれ、兄殺しのファビアスであれ王が自らの後継者と目した者たちに人の徳性を問うことがなく、野卑であっても頑健な偉丈夫を選んでいたことには理由がある。器さえ頑丈で優れた逸品であれば、そそぎ込む酒は王自身なのだ。

「王の子であり兄であったメルキオルも、獅子王バルタザルも既におらずファビアスは余の忠実な世継ぎとなった。だがブリタンニアにはあと一人、余を除けばエデンバルの秘術と種の存在を知る者が残されている。バルタザルを倒したタムシン、あの娘はやはりこの世にいてはならない」

 王の声に応えるように、左右の燭台に灯されている炎が揺らめいたように見える。幾代の時を経ても王のものであり続ける、エデンバルの玉座に腰を下ろしながらダビデ・ファビアスは世を統べるマスターとしての思索に耽っていた。ダビデの孫でありファビアスの姪であるタムシン、血に抗い王に従わぬ娘はエデンバルの秘術の一端を知る者であり、その技で獅子王バルタザルすらも打ち倒した娘であった。そしてタムシンは彼女の身に秘術の種を宿してはおらず、それはダビデ・ファビアスや不死歩兵団には効果を及ぼすエデンバルの秘術が彼女には効かぬことを意味している。人を越える優れた力だけではなく、耐えることのできぬ快楽や苦痛さえも与える秘術の力を。
 ダビデ・ファビアスは頑健な巨躯を深く玉座に預けながら、世を統べる者の顔で唇の端を持ち上げた。タムシンの知識と技は王や不死歩兵団に抗するだけの力を持っているが、それで彼女が王を倒すことができる訳ではない。高峰の支配者ダビデ・ファビアスはタムシン以上に、エデンバルの秘術に通じているのだから。

「秘術を知る者はただ高峰の支配者のみである。余が一人、マスターであるためには水の中の岩とて存在してはならぬのだ」

 深く頷く、ダビデの顎にはかつて伸ばされていた長髭はなく、今は精悍なファビアスの濃く茶色い髭に覆われている。王の背には秘術を伝えてきた幾代もの王たちの歴史が織り込まれたタペストリが飾られており、いずれ偉大なる前王ダビデの姿も加えられることになるだろう。そして新しき王ダビデ・ファビアスはダビデの名とエデンバルの系譜に恥じぬ統治を磐石のものとするために、彼と同じ血を持つ娘を生かしてはおけないのだ。

‡ ‡ ‡


 ハイランドの山麓を抜ける、冷たい風が旅人たちの髪を緩やかに泳がせていた。二人の娘と二人の壮年の組み合わせは享楽の都チェスターを出奔すると、四百年ほど昔に皇帝ハドリアヌスが建てた高名な長城を抜けてブリタンニアの風に身を任せている。ブリタンニアの西部、暖流に面した穏やかなチェスターを出て冷たく厳しい東方のエデンバルへと向かう彼らの境遇を、山麓の平原を舐める風すらも現しているかのようであった。
 長城の北は古代ローマの時代にあっても文明の浸透が完全には進められておらず、石を敷き詰めた平坦な街道は舗装も不充分であり、その後帝国の撤退により踏み固められた砂利道の上に時節を経た砂と土が覆い被さっているだけの場所も珍しくはない。方々では短い下草が根を伸ばしていて、街道の敷設も整備も長い間途絶していることを示していた。もとより国交の絶えているチェスターとエデンバルを繋ぐ街道には往来する旅人の姿も商隊の轍も見ることができず、数日の間に二、三人の旅人や近隣に暮らす住人の姿を見かけたきりである。

「まっすぐ向かえば、エデンバルまで五日もかからないとは思うけど」

 誰ともなく、尋ねるように赤毛の娘が呟く。長城を抜ければエデンバルまでの道は近く、街道には里程標の跡もあって道程を急げば五日どころか三日とかからない距離だろう。アニータ・プリシウスはチェスターの傍流貴族の娘であるが、開明的な父の影響かあるいは彼女本来の資質であったか、遊猟や乗馬すらもこなす娘でいわゆる深窓の姫君という印象からはほど遠い。友人に切り揃えてもらって、少しく短くなった髪が律動的な歩調に合わせて軽快に揺れている。
 アニータたちは友人でありダビデの孫娘であるタムシンのために、彼女と伴にエデンバルへと続く街道に歩みを進めていた。その赤毛の娘たちがチェスターを出て最初に出会ったのは、都から三日と行かぬ街道の先にあった争いの痕跡である。亡命貴族のデケ・ファビアスがダビデに請われてチェスターを出奔する際に、引き留めようと後を追った使節やその取り巻きたちを野蛮な剣と棍棒で殺めた、その蛮行の跡である。無論、遺体はとうに片付けられているが足下に敷かれた石面を汚す黒い染みが、半月もせず容易に消えるものではない。

「エデンバルの王は人のあらゆる徳性に恵まれぬ者。そしてその世継ぎもまた、王と変わらぬ高峰の支配者であることしか求められてはいないのよ」

 水鳥の羽を思わせる、不思議な色をした髪を揺らせながらタムシンが呟いた述懐には、彼女を知る者にしか分からぬ心情が込められている。エデンバルの王たちはタムシンの父と母を殺し、幼い彼女が育ったキャラバンとシンシアに手をかけ、彼女を助けたマリレーナを殺めた一族である。王が求めるエデンバルの秘術、その一端をタムシンが知っているというそれだけの理由で残虐を行い平然とする者たちであった。
 タムシンは自分の身体に王と同じ血が流れていることを今更気にはしていない。だが、タムシンは彼女の家族や姉以上の人々を奪い去った者たちを許しておく訳にはいかなかったし、そして彼女を追う王から逃げるつもりもなかった。それがどれほど大それた考えであろうとも、タムシンは一国の王を討つためにハイランドを吹く寒風に抗い立っているのだ。

 徒歩の旅を進めるアニータやタムシンはチェスターから月の半巡りほどを経て、街道を少し離れたところにある寂れた宿駅に一夜の身を落ちつける。古代ローマの時代より、街道の各所には旅人のための施設が設けられていてかつては帝国から遣わされた人々が馬の用意や商いを営んでいたというが、今は使われなくなって百年以上が過ぎていた。それでもこうした宿駅の周辺には今でも小さな寒村が残されており、まれに訪れる旅人や商隊のために粗末な品を扱っている。身を落ちつけるやアニータの忠実な従者であるフランコと、王に捕らわれたタムシンらを助けた赤き鎧の騎士レイモンドが、荷材の整理や必要なものの調達に向かっていた。
 小さな宿駅は石造りで古くからある帝国の建物であり、木製の梁がところどころ折れている箇所もあるが、中庭に開けた天井や開いている窓が傾いた陽光と吹き抜ける風を招き入れて存外に過ごしやすい。家具も調度も殆ど残されていないが、今でも訪れる人が用いるための固い寝台や椅子が控えめに置かれていた。あるいはもとからこの程度の調度しか置かれていなかったのかもしれないとアニータは思う。壁のモザイクもところどころ色あせてはいるが、さほど剥げ落ちてもいなかった。
 一夜であれ厳しいハイランドの風から身を守るためであればこの程度で充分であるし、貴族の令嬢であるにも関わらずアニータは屋根と壁のある生活に執着してはいなかった。いずれエデンバルに足を踏み入れれば、彼女たちには身を休める場所も機会もなくなるのであろう。冷ややかな石の寝台に大布を敷いて腰を下ろすと、フランコやレイモンドが帰ってくるまでの間赤毛の娘は何やら荷物の整理に没頭する。

「アニータ?何をしているの」
「ええ、ちょっとね」

 どうやら彼女たちがこれから行おうとしていることのために、要りような品を確認しているらしい。タムシンの問いに曖昧な声を返したアニータは彼女を知る者がまず語る、印象的な赤毛を顔の前に垂らしながら手元の短剣を弄んでいた。赤毛の娘が手にしているのはマリレーナの遺品である二本の短剣のうちの片方であり、アニータとタムシンはその一本ずつを受け取っている。肘から手首くらいまでの長さはあるだろうか、それはどこにでもある短剣であり、アニータが初めてマリレーナと出会ったエアの港町で、彼女に絡んできた人買いの男たちから巻き上げた安物の品であった。
 掠め取った短剣を戦利品だという、マリレーナの物言いがことのほか気に入ったアニータはそれ以来この短剣を大事にしてきたし、彼女を失った今はいっそう貴重な品となっている。アニータは手にした布切れでマリレーナの短剣をその刃や柄、鞘までを丁寧に磨いていた。天空に伝わる勇者の剣ではない、ただの短剣を磨くアニータの姿が愛用の武具を磨き上げる戦士の精悍さを感じさせる。タムシンは彼女が心から信頼する戦士がゆっくりと顔を上げるのを待ってから、今更のように彼女の境遇と心情とを語った。

「大それたことをしようとしているとは思う。でも王は私が秘術を知っていることを理解しているし、どこにいたとしても必ず私を探し出して殺そうとするでしょうね」

 仮に逃げたところで、執拗な王の追跡をいつまでもかわすことができるとは考えていない。デケ・ファビアスは十年以上を経てタムシンが育ったキャラバンを襲い、高峰の支配者ダビデは国に戻るタムシンを捕らえて、逃げ出した時に獅子王バルタザルを送っているのだ。
 もしもタムシンがアニータと出会うことがなければ、彼女は自らの境遇に立ち向かうどころか耐えることもできなかったであろう。だが蟷螂の斧しか持たぬ赤毛の娘が、巨牛を前に平然として背を見せることがない。そのアニータの無謀なまでの勇敢さが、タムシンに幽閉の塔を抜け出す勇気を与えている。その崇敬の視線に気が付いてはいないのであろう、いつもの屈託のない視線をアニータは彼女の友人に向けていた。

「ねえタムシン。タムシンの知っている秘術だけど、それを使えば不死歩兵団や秘術を施された者たちを自由に操ることができるのよね?」
「ええ。秘術は秘術を施した者に力を与えるだけではなく、害を与えることもできる。だからこそエデンバルの秘術は門外不出とされているのだと思う」

 かつてタムシンが語ってくれたエデンバルの秘術の正体を聞いた時、人の営みを嘲る術にアニータは嫌悪感を隠すことができなかった。だが、長い年月をかけて編み出されたその方法は彼らにとって弱点にもなっている。タムシンが言うように秘術の技はそれを施した者に害を与えることができるし、あるいは彼女が倒した獅子王バルタザルのように肉体が耐えられぬほどの力で自らを壊す危険も存在した。無論それは高峰の支配者ダビデも心得ているであろうが、少なくとも王であれ不死歩兵団であれ無敵でもなければ不死身でもないのだ。何らの策もなくエデンバルに向かったところで、それは食われるために獣の顎に手を差し出すようなものであろうが、食わせると思わせておいて棘の生えた餌を差し出すこともできるかもしれない。できることは全て試みておくべきであった。
 季節は巡り、ブリタンニアの日は短くアニータの肩越しに中庭に差し掛かっていた日差しは傾いて遠くには安息の闇が帳を下ろしつつある。享楽の都に生まれたアニータにとって夜は克服できる暗闇であり、キャラバンに育ったタムシンには獣の世界と人の領域が厳然として分けられる時間であった。どれほど暗く長い闇であっても人の全てを支配することはできない、やがてフランコやレイモンドが宿駅に戻ると娘たちは自分たちの手を休める。

 フランコは彼が仕える赤毛の娘と旅をする常のように、周辺にある寒村や集落に顔を繋いでいたのであろう。ここはすでにチェスターの領域ではなくアニータの生家であるプリシウス家の後援は得られないが、エデンバルの王都で老王ダビデが息子のファビアスに名を譲り、ダビデ・ファビアスとして高峰の支配者の座を譲ることがこの小さな村にも伝えられていた。アニータはエミリウス円形劇場でファビアスが浮かべていた粗野で嗜虐的な笑みを思い浮かべ、タムシンはエデンバルの王城でダビデが見せた傲慢な顔を思い返している。あの息子があの王に、あの王があの息子に支配者の座を譲るという事実に娘たちは嫌悪感を感じずにはいられない。
 フランコとは別にどこからか戻っていたレイモンドは、些か大仰な荷を広げると旅装束の下に忍ばせることのできる帷子や、石弓といった道具をタムシンやアニータの前に並べ立てた。かつてエデンバルの騎士であったレイモンドには相応の人脈が今でもあるのだろう、こうした品々を手に入れることと巡視を避けてエデンバルの王都に入るまでの手段は確約できると言う。その言葉を全面的に信頼することはできぬとしても、彼の誇りや忠誠心ではなく彼の羞恥心が及ぶ限りにおいては、赤き鎧の騎士が娘たちを裏切ることはないであろう。かつてタムシンの両親を手にかけた、その恥に心を苛まれている小心の騎士であれば。

「数は多くありませぬが、エデンバルにも新しき王を恐れる者はおります。彼らを説くことはできましょうし、タムシン様にその気さえおありなら・・・いえ、失礼いたします」

 エデンバルの高峰の支配者の座を王ダビデが兄殺しのファビアスに継がせることを知り、レイモンドはタムシンこそ王の後継に相応しいと考えている。無論、彼は気が付いてはいない。その心情こそレイモンドが自ら罪の意識から逃れるために考えている卑劣さでしかなく、王の命令で自分が殺した人の娘が王位に就いたところで誰に許される筈もないことを。何より、タムシンが人を傷つける権威と権力の存在を誰よりも許しがたく考えているのだということを。
 彼が仕えることを望む娘の目すらまともに見ることができぬレイモンドは、早々に部屋を辞すと宿駅の入り口に近い場所に身を休める。寂れた街道の周辺は決して安全とはいえず、見張りは必要だしレイモンドの腕は確かであった。タムシンの父と母を手にかけた卑劣さを拭えずにいる壮年の騎士の臆病さに、アニータでさえ不満げな思いはあっても何も言おうとはしない。彼を許すことができないタムシンの思いも、彼が償うことのできぬ罪に苛まれている思いもともに真実であったから。

 彼を信頼するかどうかはともかく、彼を疑っても仕方がないことはアニータもタムシンも知っている。剣の扱いや兵の扱いに長けているだけではなく、エデンバルの事情や人脈に通じているレイモンドの存在は娘たちが生き残るために必要であり、彼が揃えた帷子や武器の類も役に立つであろう。弓はアニータも幼い頃からその扱いには慣れていたし、狙って放てばたいていの的に当てることもできた。
 だが娘たちの武器が王や不死歩兵団に対する蟷螂の斧になったとして、レイモンドの手引きでエデンバルの王都を訪れることができたとして、果たして旅の娘たちが彼女を追っている王に害されず無事に会うことができるであろうか。そして、会えたとして無事に彼女たちの望みを果たすことができるであろうか。

「王は私を見つけ次第早々に殺してしまいたいでしょうが、私の存在はエデンバルの民も忘れている訳ではありません。新王ファビアスが登極してすぐにその姪が殺される、そのような凶事が人に知られることをおそらく彼らは望まないでしょう」
「このような言い方は心苦しいが、利用できるお立場は上手く利用するがよろしいかと存じます。レイモンド殿もそこは心得ておりましょうぞ」

 魚油の頼りない灯りが頭上で揺れている下で、タムシンの言葉に灰銀色の顎髭を手でこすりながら同意したのはフランコである。壮年の従者は代々プリシウスの家に仕えてきた者であり、アニータが生まれてより彼女のお目付役であって護衛役としての日々を長く過ごしてきた。中背だが頑丈そうな体躯に後ろに撫でつけた灰銀色の髪と同色の髭が些か厳めしい印象を与える人物であり、堅苦しく見える一方で奔放なアニータに彼が大いに影響を与えていたことも否定はできず、エデンバルへの無謀な旅でも当然のように主人の傍らに控えている。
 従者としてアニータを守ることと、そのかけがえのない友人であるタムシンを助けること。それがフランコの望みである。本来、荒事を好まずとも背を向ける性質ではない壮年の従者は避けられぬ危難であれば、立ち向かうためにあらゆる手は尽くすべきであり若い娘たちが思いもつかぬ事物を扱うことは彼の役割である。年長者が棘の枝を払うことによって、アニータやタムシンは道なき道を歩むことができるのだ。

「以前のようにお城に近付いた途端に牢屋に押し込められたら困るってことよね。フランコには何か考えがあるの?」

 フランコの感慨を振り払うように、アニータの声が耳朶に届く。ダビデの孫娘であるタムシンを高峰の支配者は葬りたいところであろうが、ダビデの血を引く娘を公然と害する訳にはいかない。そしてチェスターで因縁のあるファビアスにプリシウス家の娘が会うとなれば、亡命先を出奔する際に剣と棍棒を血で汚していたファビアスはこれを迎えざるを得ないだろう。そして、アニータとタムシンが伴に旅をしていることも高峰の支配者は知っているのだ。

 老王ダビデの治めるエデンバルとチェスターは確かに対立していたがそれは表面的なものであり、兄殺しのファビアスの亡命をチェスターが受け入れていたことが理由にある。今は逆であって、チェスターの使節を害したファビアスがエデンバルを継いでいるのだから、彼の蛮行の犠牲になった者たちの責任を問うことがチェスターにはできる筈であった。友人であった青年貴族クリストフォロをはじめとして、幾人かの顔をアニータは思い返す。
 亡命先のチェスターを出奔した兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスは彼の生国であるエデンバルに戻ると高峰の支配者ダビデの後を継いでいた。ことは国同士の問題であり、亡命中の貴族を利用しようとしたチェスターであれば強い態度に出ることはできずとも、その者が王として、高峰の支配者としてエデンバルを継いだとあれば話は別であろう。フランコの手が短く刈り込まれた髭から離れる。

「エミリウス円形劇場で出会ったプリシウス家の名代が、エデンバルの新王ファビアスに祝辞を申すことに致しましょう。こちらの目的は先方に知れていますが、チェスターの使節を殺めたばかりの王は少なくとも公式には我々を迎え入れざるを得ません。王に会うまたとない機会となるでしょう」
「王はタムシンを探しているのだから、私の名を使ってそれに乗せられてあげようということね?タムシンが一緒にいることは知っているから、王は喜んで私たちを、というよりタムシンを自分の前に招き入れる筈だと」
「左様です。王と直接対峙しようというのであればこれ以外の手は少ないでしょう。ですが難があるとすれば・・・」

 アニータの言葉に頷いたフランコは、やや声を低くすると考え込むように視線を外す。その様子に不安げに身を乗り出した娘たちに向けて、厳めしい壮年の男は片目を閉じてみせるとこの男には珍しい冗談めいた顔を見せた。

「チェスターの評議会に気付かれる前に、ことを済ませねばなりませんな。我らはチェスターとエデンバル両国の外交も対面もまるで無視した暴挙をしようとしているのですから、プリシウス卿も相当に面目を潰すことになります。ですからお父上には一緒に頭を下げに参りましょう。このフランコ、お嬢様だけをお父上の怒りに晒したりは致しませぬぞ」

 その言葉に、アニータだけではなくタムシンも笑う。一国の王を討とうとする娘たちの姿に悲壮感はなく、世を統べる高峰の支配者を打倒するならば彼女たちらしく、陽気に勇敢にこれを打ち倒すべきなのだ。彼女たちにとって姉にも等しい存在であったマリレーナ、あらゆる男の悦びとあらゆる女の悦びを知ると称されたジプシーの女占い師であれば、どれほどの苦境にあっても彼女の陽気さを捨てることはないであろう。そしてタムシンが愛するアニータであれば、他人のために怒ることのできる赤毛の娘であれば、どのような境遇を目の当たりにしても彼女の勇敢さを捨てることはないであろうから。
 若々しい希望と生命力に満ちた、赤毛の娘は頭上に揺れる灯りと窓外に見えるまたたきに照らされながら貴重な友人と忠実な従者に顔を向けている。ブリタンニアの日は落ちて小さな建物は暗闇に包まれていたが、アニータの周りだけは今も明るく暖かい。どこにも逃げる道がない、危難の道を友人と歩むアニータの心がどのようなものであったかは当の本人にも不分明であった。ただアニータは彼女に分かっていることを、自分は何があろうと友人と伴にありたいことだけを望んでいて、それを行っているだけなのだ。高貴なほどに優しい心を持つ水鳥の髪をしたタムシン、アニータは赤毛をひと振りして彼女の友人に顔を向けると少しだけ表情を改める。

「でも本当にいいの?タムシン」

 曖昧な質問は問う方も問われた方も、既にその答えを知っているからであった。それはこれまでにも幾度か繰り返されてきた問いかけであり、苦難に立ち向かおうとする娘たちが自分たちの決意を確認する儀式でしかない。ただ、その日は頼りない灯火と幻想的な星明かりに照らされるアニータの姿がタムシンにいつも以上の決意を思わせていた。彼女の心を少しでも多く、彼女のアニータに伝えたいと思うタムシンの言葉は夜を包む安息の暗闇のように穏やかで侵しがたい。

「私はもう隠れるのも、逃げるのも、何より絶望するのもたくさん。だって、私はアニータが教えてくれた貴女の勇気を知っているんだもの」
「私、の?」

 不思議そうな顔をするアニータに、タムシンは愛しげな様子で彼女の空色の瞳を向ける。アニータは理解していないであろう、貴族のお転婆な令嬢でしかないアニータ・プリシウスに勇気があるというならば、エデンバルの高峰の支配者の孫娘でありながら理不尽な境遇に抗おうとしているタムシンの方が余程勇敢な娘ではないか。アニータにはタムシンのような身のこなしも剣の技もなく、誰より足手まといになることを恐れているほどだというのに。
 だがタムシンはそのアニータが、単に貴族のお転婆な令嬢でしかない赤毛の娘がただ友人のために心から怒り、泣くことができる勇気を眩しいほどに愛しく感じている。天空を貫く剣もなければ邪な軍勢を跳ね返す鎧もない、失われた禁忌の秘術すら否定する娘が、友人のためだけにエデンバルの王と不死歩兵団を打倒しようというのだ。そのアニータの笑顔を見るためならば、タムシンにできないことなど何一つありはしない。

「私は、貴女が本当にうらやましいと思うの。キャラバンで暮らしていた子供の頃、おとぎ話で聞いた英雄の姿よりも貴女こそが、アニータ・プリシウスこそが私にとっての勇者様なんだから」

 タムシンの言葉は友人に対する誇らしさを感じさせる。あまりに直情的で、他人のために怒り、笑い、そして泣くことができる勇敢なアニータがどれほどタムシンの心を奮い立たせるであろう。妙なことを言わないでよ、と居心地悪そうに言う勇敢な赤毛の娘のために、自らの心に誓いを立てる高貴な娘は己の身を焼いて悔いることすらない。
 だが下手な詩人の世迷い言のように、この夜を今生の別れの晩にするような結末を娘たちは望んでいなかった。非力な娘が一国の王を打倒する、愚者の夢にしか思えぬ水鳥の姫君の望みを叶え、彼女の鎖を断ち切るために。そして、勇敢な赤毛の友人の心からの笑顔を見るために。彼女たちがしようとしていることは大それたことではあるが、その前を阻むものはささやかな障害でしかなかった。
 人を省みぬ王が人の思いを阻むことはできぬ、そのことを水鳥の姫君と赤毛の勇者は知っていたのだから。


第十二章を読む
の最初に戻る