〜1 那須資親の遺言〜

 時は室町時代。将軍足利義稙の時代である。北条早雲が大森氏を討ち、小田原城を我が物としたように、各地の土豪・国人が力を増した時代である。
 ここ下野国那須の地も同様であった。西南は宇都宮氏、東は佐竹氏、北は岩城氏、白河結城氏、芦名氏がおり、先祖伝来の土地を守るにも必死であった。那須 家は前9年・後3年の役の残党と言われる岩獄丸(いわたけまる)を追討するために遣わされた藤原資家(貞信)を祖とする。
 藤原資家は、藤原道長の孫である通家の子である。その追討の恩賞として那須の守護として土着したのだ。那須の守護となった資家は、那須地方にいた那須国 造(なすのくにのみやっこ)という豪族と婚姻関係を築き、那須の藤原、すなわち須藤家として栄えた。須藤家は那須家と山内須藤(首藤)家に分かれ、那須家 は那須領主、山内須藤家は相模山内領主となった。
 山内須藤家は山内家となり、後に子孫は、相模に残った後に北条家に仕えた家系、尾張に行った後に織田信長ついで豊臣秀吉に仕えた家系(山内一豊)、備後 に行った後に毛利元就に仕えた家系(山内豊通)などに分かれた。

 時は流れ、源平の合戦の時には、那須与一宗隆が功績を挙げ、丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の荘園を賜わり、那須家の家督を継いだ。しかし、若くして死ん だ(一説では64歳まで生きた)ために、その異母弟が後を継いだのである。その異母弟は源頼朝より名の一字を与えられ、那須頼資と名乗った。
 室町時代には、千葉、小山、長沼、結城、佐竹、宇都宮、小田と並び「関東八屋形」と称され、関東の伝統的な豪族となっていった。それゆえ、各家の当主は 「お屋形様」と呼ばれるのであった。鎌倉沙汰所の任も経験した那須家であり、隆盛を極めた。
 18代那須資之の時には、弟の沢村資重と不和になり、兄弟で争った。資之の妻は上杉禅秀(前の関東管領)の娘であり、資重の妻は佐竹義盛(佐竹家12代 当主)の娘であったので、妻の父の争いに巻き込まれたとも言える。この時、那須家は福原城の上那須家(資之)と烏山城の下那須家(資重)に分かれてしま い、その後も何度か戦いがあった。これも、将軍と関東公方の不和が背景にはあったのである。
 そして、今、21代資親が那須家の当主であった。

 那須大膳大夫資親には男子が生まれず、娘が3人いた。そこで、白河結城義永(政朝)の子を養子に迎え、娘の一人と娶らせ、資永とした。また、資親の若く して亡くなった兄明資の3人の娘は、白河結城家、小峰家(白河結城家の一族)、那須資実(烏山城主で下那須の当主)に嫁ぎ、資親の娘の一人は下那須一族の 沢村三郎に嫁がせ、娘の一人は宇都宮成綱に嫁がせ、近隣諸国の武将との婚姻関係により那須家の安泰を謀った。
 ところが、運命は皮肉なものである。晩年になり、待ちわびていた男子が資親に生まれるのである。資親はその子供が3歳の時に資久と名付け山田城を与え た。そして、大関宗増、金丸肥前守義政、大田原美作守胤清に養育係を命じた。

 那須資永にしてみても、資久は不安要素であった。
「まさか私を誅殺して、資久を当主とするのでは・・・。」
 資永の父は白河結城義永(政朝)で、母は那須氏資の娘(つまりは資親の妹)である。資親からみても甥にあたるわけである。しかし、資永の不安は的中する ことになる。

 資久誕生の6年後の永正13年(1516年)、那須資親が重病に伏した。そして、資親は信頼している重臣大田原胤清・貴清父子を呼んだ。資親は臨終にあ たり、思いを大田原父子に告げたのである。
「わしはもう長くはない。今日・明日をも知れぬ命じゃ・・・。」
「お屋形様!何をおっしゃいます。まだまだ殿には長生きして頂かなくては困ります!」
 大田原胤清は声を荒げたが、資親は己の寿命を悟っているようであった。
「胤清。わしには分かっておるのじゃ。気休めは無用じゃ。それよりも、わしの気掛かりは資久のことじゃ。ずっと資永へ家督を譲るつもりでおったが、このよ うな臨終の折、やはり、実の子である資久に家督を譲りたいと思うようになってしまった。そこで、わしの遺言として聞いて欲しい。」
「資久様に家督を継がせればよろしいのですね。」
 それまで黙っていた大田原貴清が口を開いた。
「うむ、そうじゃ。資永には悪いがのう・・・。胤清、貴清・・・どうじゃ。出来そうか?」
 大田原胤清は一瞬考えたが、すぐに返事をした。
「お屋形様の遺言として、必ずや成就いたしましょう。遺言となれば、大関殿、伊王野殿、他の那須の将達も納得して下さりましょう。」
「そうか・・・。それを聞いて安堵した。頼むぞ・・・、くれぐれも頼む・・・・。」
 資親は大田原父子が約束してくれたことに安心して息を引き取った。

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