書架からぽとり

 

1999年4月頃抜き出したもの


『恋愛なんかやめておけ』 松田道雄 朝日文庫 515円 1995/12

恋愛なんかやめておけこの本の初版は1970年に「ちくま少年図書館」の1冊として筑摩書房から出ました。中学生、高校生くらいの若い人を対象に書かれた本です。

その年代の人に向かって、今、恋愛をしていなくても全然焦る必要がないことを教えてくれています。みんながみんな、小説や映画に出てくるヒーロー、ヒロインのようにならなくてもよいのです。

この本は約30年前に書かれたのですが、当時以上に、今の若い人、いえ、今なら中学生、高校生より、むしろ20代30代あたりの人が読んだほうがよい本かもしれません。

著者は、世間で行われている「恋愛ごっこ」が日常の寂しさを紛らわせる単なる性の遊びにすぎないことを明言しています。もうひとつは、本気の恋愛に陥るということがどれほど大変で、やっかいなことか、北村透谷の詩、近松門左衛門の戯曲などを紹介して教えてくれています。

最近の日本は景気は相変わらず「氷河期」ですが、人は「一億総発情期」とでもいった状態になっています。中学生、高校生のころは仕方がないとしても、20代、30代、40代、最近では50代、60代でも「発情」しています。 日本人は、一体いつからこんな「発情民族」になったのでしょう。

ここ20年くらい前からでしょうか、夜の9時、10時頃、「トレンディドラマ」と称するものが流行り始めました。私は仕事柄、この時間帯のテレビをほとんど見られないのですが、どうもこの種のドラマが流行り始めた頃から、誰でもヒーロー、ヒロインになれると思い始めたようです。以前は小説を読んだり、映画を観ても、それは別世界の出来事であり、あくまでイマジネーションの世界として楽しんでいたはずです。それがトレンディドラマブーム以降、ドラマの中に出てくるような会話や生き方が「トレンディ」で「かっこよく」、みんながあのようなことに憧れ、実践し出したのでしょうか。

日本人は、高校進学でも、自動車やテレビ、冷蔵庫、ファミコンでも、世間の3割がそれを持つと自分も持たずにはいられなくなるそうです。3割を越えると、あっという間に8割、9割の人がそれを持つようになります。自分だけが持てないと焦ります。「恋愛」も同じなのでしょうか。「恋愛」していないと不安で仕方がなく、寂しさを紛らわせてくれる大人のおもちゃ代わりの相手がいっときでもいないと、落ちこぼれているとでも思うのでしょうか。それとも体だけが暴走してしまうのでしょうか。

言葉は厄介なものです。「恋愛」という言葉も、これから受け取るイメージは人により一様ではありません。著者から「恋愛なんかやめておけ」と言われても、誰かを好きになるというのはそう理屈だけで割り切れるものでないことはわかっています。人間の生理とも関係していることですから、あるとき突然誰かを好きになってしまい、歯止めが利かなくなることもあります。しかし、それは所詮いっときの熱病のようなものであることを自分でわかっておくことは無駄ではありません。熱病は永遠に続くものではありません。


『五体不満足』 乙武洋匡 講談社 1,600円 1998/10

五体不満足この本が書店に並んだのは昨年の秋頃です。平積みしてあるこの本の表紙を見たとき、私はてっきりマジックの本かと思いました。「ジグザグ・ガール」の新ネタかと思ったのです。「ジグザグ・ガール」というのは、人間がやっと一人入れるくらいの細長い箱に入り、何カ所か切断して、箱をずらせてみせるマジックです。舞台でよくマジシャンがやっているので、大抵の人は一度や二度、見たことがあると思います。

表紙に写っている著者の写真をしばらく眺めて、何で胴体が見えないのだろう....?車に鏡でも貼り付けてあって、向こうが透けて見えるのかと思いました。タイトルを見ると『五体不満足』....。これで鈍感な私でも、さすがに意味がわかりました。あわててその場から立ち去りました。実際に購入したのはつい最近のことです。

この本が出てからもう半年ほど経ちますが、今でも、どこの書店に行ってもこの本は平積みされています。近年希なくらいのベストセラーになっているようです。

今回、この本を読んでみようと思ったのは、テレビで著者の肉声を聞き、彼の存在そのものに感動したからです。読むと、テレビで見たときの印象と同じで、大変明るく、ハンディキャップがあることを大変明るく、おもしろおかしく語ってくれています。もう少し泣きたいと思っていた人にとっては拍子抜けするほど明るく、逆に戸惑うかも知れません。これが彼の気質であり、ダンディズムなのでしょう。

この本に対する評価は人によるでしょうが、多くの人に勇気を与えてくれるという意味では、まさに名著です。あの表紙の写真と彼の生きる姿も含めて、「名著」です。

私たちはいつも自分と誰かと比べて、自分の劣っているところに不平、不満をもらしています。「もしうちの親がもっと金持ちだったら」、「もう少し背が高かったら」、「もうちょっと頭が良かったら」、「もっと美人だったら」と、切りがありません。

「重要なことは、人が何を持って産まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである」(アドラー)

今回ほど、このアドラーの言葉を実感できたことはありません。

この世の中には、自分の力ではどうしようもないことが山ほどあります。それに対して不満を言うより、今、自分の持っているものを十分活用することを心がければ、道はいくらでも開けてきます。著者は生まれたときから両手両足がなかった人です。母親でさえ、出産一ヶ月後にして、はじめて自分の産んだ子と対面できたのです。母親のお腹から出ても、ひと月かかってやっと世間に認められ、「誕生」できたのです。

どのようなハンディキャップがあっても、自分を取り巻いている一連のできごとをどう解釈するかで、人は自分の一生をどうにでもコントロールできるのでしょう。


『魂を考える』 池田晶子 法藏館 1,900円 1999/4

魂を考える「魂」という厄介なものに対する「論考」です。

私が高校生の頃、英文解釈用の文を読んでいたとき、body,mind,spiritという単語が出てきました。このとき、mindとspiritがどう違うのか、さっぱりわからなかったのです。一般にはマインドは「精神」、スピリットは「魂」と訳されますが、これがわかったようで実際には全然釈然としません。それ以来、ずっと腑に落ちないまま、いつも頭のどこかに引っかかっていました。それがあるとき、「精神=意識」と、「魂=生命エネルギー」とでも呼ぶよりしかたがないものがあることに気がつきました。私が私であると言えるその根本の「それ」。「それ」が「魂」と呼ばれているものであると納得できれば、後はそれまであやふやで曖昧模糊としていたものがいっぺんにすっきりしてきました。

「魂」という言葉は、世間一般では「霊魂」を連想しますから、どうしても死んだ後の話と関係がありそうに思われます。しかし、実際はそうではなく、生そのものです。生きているものが共通してもっている生命のエネルギーのと言ってもよいでしょう。

とは言え、扱うものが形もなく、手にとって見ることもできないばかりか、bodyやmindをも動かしている「元の元」だけに厄介であることには代わりありません。この厄介なものを自分で「わかる」ためには、理屈だけでは無理です。どうしても「お悟」の瞬間に似た体験が不可欠かも知れませんが、それを目一杯、様々な角度から現象を観察することで、わからせてくれようとしている本です。

話は全然変わって、昨日、梅田の旭屋書店で池田晶子さんのサイン会がありました。池田晶子フリークの私としては、午後3時から始まるサイン会に並んで、ばっちり為書き入りのサインをもらってきました。(汗)サインをもらうために並んだのは、小学生の頃、タイガースのピッチャー、村山実のサインをもらうために並んで以来、数十年ぶりのことです(笑)。

3時少し前に着いたので、4、5番目にサインをもらえましたが、3時には30名くらい並んでいました。本物の池田さんに会うのも、池田さんの直筆を見るのもはじめてでした。村山実にサインをもらえたとき以上にうれしかったですね。(汗)ただ、池田さんの字は全然上手くなくて、まるで私の字のようです。実際、家人にサインを見せると、それは私が自分で書いたのだろうと言われ、全然信用してもらえなかったくらいです。


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