「赤い月」

横断歩道のところに
赤い月が落ちていたものだから
思わずブレーキを踏んだんだが
間に合わずに僕は
月の左下に突っ込んだ

月は思いのほか柔らかく
泡のように僕を包み込む
その瞬間僕の世界は
柔らかなオレンジ色に染まり

暖かいその場所は
なぜかとても居心地が良くて
ブレーキをきしませた直前の恐怖も
すぐに眠気に変わってしまった

初めて知ったのは
月が呼吸をしていること
水の中の息音のように
ゆっくりと そして低く
月の中に響き渡っていた

月の中は明るすぎず暗すぎず
とても穏やかな場所で
時間の経過がわからないから
どのくらいここに居るのかも
知りようがないのだが
もしかするとずいぶん長い間
ここで過ごしてしまったかもしれない

SFの世界のように
月の表面に住む想像は
少年時代に何度かしたこともあったが
こんな風に月の中で暮らすとは
思ってもいなかった

帰らなければいけないのだろうか
そもそも帰れるのだろうか
ここから外は良く見えないから
僕はまだ躊躇をしている

月がまだ横断歩道にあるのなら
ここを出れば家まではすぐで
でも月はめぐるものだから
今は地球の反対側かもしれない

あなたのところから
もし
赤い月を見ることがあったら
僕がその中にいるのが
もし
あなたに見えたなら
なによりも
もし
僕がそこに帰って良いのなら
赤い月の中の僕の
名前を呼んでおくれ

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