「悲しみ−論文ではなく詩として」

何ゆえ悲しいのか
何ゆえ悲しいと思うのか
何ゆえ悲しんでいる我があると思うのか
そもそも存在とはどのように証明されるのか
存在論的には有と無は相互排他的に対応している。
しかしここで前提とされる境界こそが
そもそもの虚構であるとするならば
この二元論的分別に収まりきらない概念もあろう。
この矛盾する理念に対して
現象学を持ち出すのならば
超越論的環元のために主体の実在性について
「判断中止」をせねばならぬはずであり、
「私が悲しんでいる」現象そのものの
本質を直観する必要がある。
ここに悲しむ主体としての自分が存在するという認識は
エミリオ・スコットによれば
(「現象学的見地からの存在論への試行」1972)
それこそが存在の虚構性を意味付けるものであり
悲しむという「意識」の上に初めて存在しうる
その存在論的な剰余性を補強しているのだという。
それは「存在」でもなく「非存在」でも無い。
その判断を下すべき対象ですらない。
しかしこれらの事象「記述」が、
それ以前に直観している主体が、
そもそも言語という主観の上に成り立っている以上
これらの虚構性は矛盾した概念上にしか存在しない。
その上で我らは何に問えばよいのか
何ゆえ悲しいのか
何ゆえ悲しいと思うのか
何ゆえ悲しんでいる我があると思うのか

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