B international (2001.2.)

"King of Heart" 心動天王】  
  

いまや名声と成功の女神は、任賢齊の前にひれ伏し、
次世代の王を香港、台湾、中国に迎えんとす
 

翻訳:さゆりさん    資料:順子さん
 

歌手リッチー・レンは、「いい人」と思われがちだ。アメリカで言うなら、「寛容な母親が、娘がいっしょに外出する相手として、安心して見送れるような、隣の男の子」の台湾ヴァージョンと言ったところか。

しかし、32歳(原文のまま)の彼は、こちらの目を見据え、自分について、より多くを語ってくれた。

歌手でもあり、役者でもある彼は、笑いながら言う。「僕は、みんなに思われているような、「いい人」と言った人間ではないんです。」

「実は、多少、やんちゃなんです。もし、『傷心太平洋』のような、いくつかのMTVを見たら、きっと、わかるはずですよ。」

「いろいろなことを試したり、挑戦したりするのが大好きなんです。けっこう、活動的な人間で、優等生然とした見かけとは違うんですよ。」 

これは、あながち嘘ではない。

中国、東南アジアのファンの大方は、ロマンチックな歌から、又は映画での守ってあげたいような役から、リッチーを知っただろうが、実は、彼は、台北文化大学体育学部を卒業してもいる。 

学生の頃、彼は創造的な芸術と厳格な訓練の相反する魅力に惹かれ、自由時間は、バンド演奏、校内DJといった、より芸術的な研究に使い、同時に専攻の体育を勉強することで、両方の良い所を選びとっていった。 

リッチーは当時を振り返り「3年生の時まで、バンドでプレイしてました。スポーツの訓練がきつく、ストレスが多くて、音楽はリラックス出来る手段でしたね。」
   

彼が人より抜きんでいたのは、大学卒業前にもかかわらず、レコード会社新格からスカウトされたことでも、明らかかである。

1990年に、ファーストアルバム『再問一次』を出すまで長くはかからず、続けて、『飛向自己的天空』」『冷漠與温柔』を発表し、翌年には、テレビドラマ『意難忘』に出演した。彼のキャリアは、まだ、やっと始ったばかりで、既にゴールデンタイムで成功したと言われていたにもかかわらず、そのまま、2年間の兵役へと突入した。 

2年が過ぎた頃には、状況は一変していた。彼のレコード会社は、兵役中に倒産し、彼の契約はどっちずかずの状態に置かれる。ロックレコードと1996年に契約するまで、アルバムのレコーディングも出来ない有様だった。そして、その間は、テレビ番組やバラエティショーのホストとして、どうにか生き残っていた。
 

「最初の6年間は、一生懸命働いているのに、まったく、うまく行きませんでした。でも、そんな絶えがたい状況下でも、どうにか持ちこたえて、事態が好転することを期待してたんです。そして、成功するために、懸命に働きました。もう、以前のような人気者にはなれないかもしれない、たぶん、時期がわるかったんでしょう。でも、まだ、テレビドラマと何本かの映画の仕事があったので、どうにかやっていけました」 

彼は、(移籍後)2枚目のアルバム『心太軟』」をして、初期の人気が一時的なものではなかった事を知らしめた。アルバムのタイトル曲は中国全土を席捲し、彼の望みは、ようやく叶えられるにいたる。この成功は、台湾において、単独ミリオンセラーの記録を樹立した『傷心太平洋』(1998)の布石ともなり、このCDからは、マーレーシアのシンガーソングライター、阿牛の歌をカバーした『対面女孩看過来』がヒットしている。
 

彼の魅力は、セシリア・チャンと共演した、涙腺刺激映画『星願』と、広東語人気歌手サミー・チェンと共演のラブロマンス『夏目的縻縻茶』で確固としたものになり、テレビドラマ『神鵬侠侶』『笑傲江湖』で演じた役は、誰にも危害を与えないというものであった。 

少女達は、確かに、このところの彼の動向に注目している。最近行なわれた、中国大陸でのコンサートツアーでは、彼はボディガードといっしょに寝なければならなかった。もし、変装しなければ、群がる群衆のため、ホテルから外出もできず、時たま、変装も無意味でさえあった。 

成功するにつれ、彼の優先事項も、わずかに変化した。このところは、250ccのバイクを繰って、モトクロスレ−スにいそしむか、バリか台湾の浜辺で波を攻めるのが、現在のリラックス法である。
   

「学校では、野球が一番得意だったけれど、その他の種目にも興味がありました。でも、(学校では)オリンピック種目だけ、集中して教えるんです。今は、Xーゲームが好きなので、サーフィンにも行くし、バンジージャンプやモトクロスレースをやったりしてます。」 

「サーフィンは、自然に近づけるから大好きです。海の真中では、何にも煩わされずにすむし、波と戦えて、バランス感覚を養えるので。」 

彼のスポーツにかける情熱から言えば、いままで、アクションにおいて、重要な役を演じたことがないのは驚きだ。ジャキー・チェンのロマンチック・コメディ『ゴージャス』においてさえ、スー・チー演じる、行方知れずのガールフレンドを探すため、香港にやって来る傷心の田舎者を演じている。
 

「実際、過去には、いくつかのアクションも演じています。ただ、それほど知られていなかったので、みんな気づかなかったでしょうが。『神鵬侠侶』と『笑傲江湖』では、いまだに戦ってますよ。」 

「でも、アクション映画は大好きで、特にジャッキー・チェンの映画が好きです。ずっと、アクションをする話を持ちかけているのに、いいタイミングが無くて。いつも、アルバムか、コンサートか、他の映画で忙しいし。けれど、いずれにせよ、恋愛ドラマも同様に楽しいので。一番いいのは、両方ともやれる事ですけどね。」 

ちょうど今は、12月に発表されたばかりのニューアルバム、『天使兄弟小白臉』のプロモーションで忙しい。広東語、北京語流行歌手としては珍しく、前のアルバムから、ほぼ一年が経過している。

「理想は、9ヶ月毎にアルバムをリリースする事。なぜなら、人が新しいアルバムを待ち望む時間が、そのくらいだから。それに合わせてアルバム製作とパッケージをして、あとはプロモーションですね。」 

「現在、台湾で、かなり多くのケーブルテレビを使ってプロモーション活動をすると、2ヶ月以上はかかります。あとは、考えるに、コサートツアーですね。」 

アルバム発売まで、一年近くかかった理由のひとつは、『夏目的縻縻茶』の撮影と中国、香港、北米でのコンサートツアーに、6ヶ月を要したためである。露出の少ない時期ではあったが、彼は『天使兄弟小白臉』の新しいイメージが、ファンに受け入れられるよう願っていた。
   

新たなイメージのため、彼は、俳優サイモン・ヤムとその妻、モデルのキキを、ニューアルバムのジャケットとMTVの、カメラマンと美術監督として招いている。 

「彼らとはスイスで、オメガ ゴルフトーナメント期間中に会い、サイモンに自分がいかに彼の写真を気に入っているか伝えたんです。もし、興味があるのなら、アルバムジャケットを手伝ってくれないかと頼みました。彼らは、われわれが撮影のため、香港、マカオ、アメリカへ行く以前に、多くのリサーチをしてくれました。」とリッチーは言う。「出来映えにはとても満足しています。写真、イメージともに、以前の自分がもっていたのとは違うものでした。」 

現在の人気にかかわらず、リッチーは、芸能界がいかに変わりやすいかを知っている。第ニの人生設計に入る前に、その時は訪れるかもしれないが、彼は、すでに、しっかりと、映画監督か音楽プロデューサーになることを射程距離においている。

「歌手生命は決して長くありません。中国ミュージックシーンにおいては、50代でも、人気を維持している人物を見つけるのは、難しいでしょう。人気を維持するのは、容易なことではないのです。西洋ミュージックシーンにおいてさえ、多くの例を見つけられないはずです。」
   

「僕は、自分のMTVのいくつかを監督することで、訓練をつんできました。また、『星願』『夏目的縻縻茶』で仕事をしたジングル・マー監督からは、映画の裏方について多くを学びました。彼の影響は多大です。」
  
湖北人は、来るべき人気の衰える時期を恐れはしないと言う。「その頃、僕は、良い俳優か良い監督になっているでしょうから。人は、人生のあらゆる局面において、軌道修正をしていかねばなりません。いかなる時代も、新しい血へと引き継がれるのです。四大天王以前には、レスリー・チャンとアラン・タムがいたように、そして、その前には、サミュエル・ホイがいたように。」
 
  「四大天王から、新しいスターへと引き継がれるその時、人々が僕を、ずっと質の高い仕事をしてきた人物と見てくれるのを願うだけです。」 ***