東方新地(2001年2月)

死好運   任賢齊 (珍心話) 】  
◆◆ 幸運

「心太軟」こそが幸運をもたらした。

ある日、中国で商売をしている友人から一本の電話があった。

「おまえの歌がすごい人気だよ。」

台湾には齊秦や趙伝や周華健などのように大陸でも人気のある歌手が
大勢いる。リッチーにはそれは彼らのことだとしか思えなかった。

「違うって。モンゴルや新彊くんだりまで、いたるところでおまえの歌がかかってるんだ。」

それから湖北にいるおばさんからも電話があった。「あんた、大人気だねぇ!」
台湾では、しがない司会者、売れない歌手でしかない彼にとって、「え? ほんとに人気あるの?」と何度も尋ねてしまうのも無理はなかった。

父と一緒に湖北の実家に里帰りするまで、「心太軟」はあらゆる街路でどれほど放送されていただろうか。周囲は彼のポスターだらけだが、それまでプロモーションで訪れたこともないので、歌手本人が現れても誰も彼だとはわからない。リッチーがゆっくりと街を歩くにつれ、ポスターと彼の顔を見比べた人が驚いて

「なんてこった。信じられない。どうやってここに来たんだ?」

にわかに大騒ぎになり、リッチーはぐるりと取り囲まれてしまった。
「なんて嬉しいんだ。町中に僕の歌が流れて、写真が張ってある!」と彼は心の中で大喜びするばかりだった。
その後、リッチーと小蟲(※「心太軟」の作詞・作曲をした人)はプロモーションで北京を訪れた。そこでは大人から子供までみんな「心太軟」を歌うことができた。彼ら二人は、ついに声を揃えて言った「僕たちの歌は、本当に人気があるんだ!」と。

しかし、皮肉なことに人口11億人の中国の他、香港、マレーシアやその他のアジア地域で同様にその人気が認められたにもかかわらず、台湾人は「まあまあだね。任賢齊は運がよかったんだろ。」という反応をかえすだけだった。
 
◆◆ 王菲に感謝する
 
任賢齊には感謝したい人がいる。それは王菲。
 
「彼女が台湾でインタビューを受けたとき、司会者が北京で今一番人気の歌は何かと聞いたら、彼女は「心太軟」と答えたんです。彼女のような大物が言う話ということでみんな遂に信じてくれました。中国でブレイクしていたとき、僕は台湾ではまだ人気がありませんでした。僕は不思議に思いましたが、きっと努力がまだ足りなかったのでしょう。その後「很受傷」を出しました。プレッシャーはすごく大きかったですね。
 
台湾のおおかたの音楽関係者はみんな冷たい目で見てました。”こいつは見かけもぱっとしないし、歌のテクニックだってたいしたことがない、どうして「心太軟」はあんなにヒットしたんだ。”みんな僕のことを「一発屋」だと思っていました。
”次の歌はどんな歌だって?せっかく得たチャンスを上手に生かさなければ、あっというまに消えていくさ。一曲だけヒットした歌が行きつく所におさまるだけだろう。”ってね。だから僕は順調に進めるには何をすればよいか、とても注意していました。
 
「很受傷」は多くの人が「心太軟」によく似てると言いましたが、この評判はすごいプレッシャーで、僕はただ自分は運がよかっただけの人間じゃないということを証明したいと思うばかりでした。」
 
このとき楊佩佩は彼に楊過(※テレビドラマ『神[周鳥]侠侶』(時代劇)の主役)の役をオファーした。初めて脇役から抜け出すチャンス。主役を試み、ドラマの視聴率は好調。「任逍遥」と「傷心太平洋」(※どちらもドラマに使われた歌)は人々の注目を集めた。続いては携帯電話のCM「イージートーク」。台湾のネット上でもそのテーマ曲「我是一隻魚」は論議を呼んだ。その結果、(※アルバム「愛像太平洋」の)売上枚数は130万枚にのぼった。

台湾でも100万枚の記録を持つのはたった3人である。
リッチーはその中の1人だ。
「對面的女孩看過来」でリッチーはしっかりとタイミングを掴み、とうとう強固な基礎を築くことができたのだ。

「歌と演技で僕はずっと努力してきました。でも運が向いてきたのは最近のことで、今振り返ってみても、それぞれのステップは悪くなかったと思います。僕は仕事を選んでいたので、お涙頂戴かコメディの役をオファーされたけれど、みんな断りました。人気はないし、金もない。でも、じっと我慢していれば、良いドラマや歌に出会えると思っていました。
 
香港は台湾に比べて新しい物事や音楽を受け入れ易いんです。絶え間なく進歩していさえすれば、香港音楽界は応援してくれます。競争が激しいから気をつけていないと、あっというまに淘汰されてしまいます。 香港の芸能界の流行の指標には独特の評価基準があるんです。僕は人と話をするのが好きで、意見を聞いて、異なる意見をうけいれることができます。
 
ドラマを撮っていた初めの頃は、ネット上である人は僕のことを醜いと言ったんです。僕は既にもうこんなに苦労しているのに、なんでこんな言われかたしなきゃならないって思いましたよ。その後、全ての人が僕のことを好きであるというわけにはいかないということがわかりました。できるだけ真面目に、しっかりやって、自分とファンの期待に背かないようにすれば、結局は僕はすごくラッキーだったのだけれど、努力する人間には、神様が幸運という贈り物をしてくれるものなのです。」
 
◆◆ 兵役のつらさ
 
神様からの贈り物を受け取る以前は、リッチーは辛い日々を送っていた。
 
小規模なレコード会社に歌手として契約していたものの、除隊して戻ってみると会社は倒産。誰も彼にこれから行く末をはっきり示してくれる人はいなかった。ただ自分の契約が滾石レコードに売り渡されたということがわかっただけだった。時間がたってからも、彼自身、自分には二度とチャンスがなくなってしまったとばかり思っていた。
 
「兵役の2年間はとても惨めでした。給料は香港ドルでやっと800ドル。
お金がなかったから、帰ってから、たった一台の車すら売り払ってしまいました。台湾では健康な男子はみんな兵役に就きます。でも、体重が100キロを超えている場合は、兵役を免除されるという条件がありました。
 
大学は体育学部だったので、学部の同級生はみな頑健なんです。みんな兵役には就きたくないから、一生懸命食べました。もしも誰かが「デブ」と呼んだらクラスの半分は振り向いたでしょう。
 
当時僕はとても痩せていて、彼らと一緒に大食いしたこともあるけれど、80キロを過ぎたとき、階段を上るのも苦しくなって食べつづけるのはやめました。苦しかったですよ。まあ兵役は兵役、それも運命でしょう。仕送りですか? 全くお金は持って帰りませんでしたね。両親は僕がお金がないことを心配して電話をしてきましたが、僕は、貧乏なのは可哀相なことではない、食事も問題ないと答えるだけでした。
 
きれいな洋服を買おうと思っても、買えないんですよ。当時僕は既に歌手としてデビューしていたから、身なりを清潔にきちんとしていることは、これは基本的な態度ですし礼儀でしょう。だから僕は安物を着ていたけれど、それはたいしたことではないと思っていました。気持ちの中では、希望を持ちつづけていたし、毎回、仕事をもらうと、いつも一生懸命やってました。
 
幸いなことに、家については全く負担はありませんでした。両親は田舎に住んでいて僕には(金銭的な)プレッシャーはなかったんです。父は教師で、母は専業主婦でした。
 
姉と妹がいます。だから僕は子供の頃、男1人だったんで、つまらなかった。
姉妹たちとは遊ばずに、毎日泳いだり、木登りしたり、村の男の子たちに混じって遊んでいました。父は一人息子だからといって特別可愛がるということはなく、かえって厳しかったですね。

僕はいつも野球とかで遊ぶのが大好きで、怪我をすると父はすごく心配してくれました。一人息子だからでしょうか。自分が好きなことで健康的なことであればなんでもしていいが、必ず気をつけてと言ってくれました。
今でもカーレースやサーフィンへ行くときに、必ず「安全なのか?」と聞くみたいにね。」
 
◆◆ 勉強は嫌い
 
大学時代、リッチーは照明技師の仕事で稼いでいた。友人とバンドを組んでいたが、みんな楽器を買う金がなかったので、その会社では彼らに仕事を与えて給料から(楽器代金を)差し引いていた。音響の仕事をしたりステージで演奏もした。
 
「当時、台湾では大学でクリスマスパーティーを開くのが流行っていて僕はDJをしたり、ハードロックやヘビメタ、ラップもやってました。髪は長く伸ばして、その頃の僕はとても生意気で、大衆向けの歌しかない中国語の歌なんてだめで、バンドを組むなら、洋楽を歌うべき、もっと国際化しなければ、と思ってました。当時、庚澄慶に人気があって、彼の音楽にはR&Bやレゲエの要素が多くあって、若者たちの考え方に影響を与えていました。
 
体育学部で学んでいたとき、初めの頃は教師になりたいと思っていました。
でも考えてみると僕はよい教師にはなれないんです。きっと子供に悪いことを教えてしまうでしょう。ただ彼らと一緒に遊びに行くだけだろうな。それにストレスも大きいだろうし。スポーツ記者になるほうがいいです。ジャーナリストの学部で勉強もしたかったけれど残念ながら僕は勉強があまり好きじゃなくて、やはり音楽が面白いですよね。」
 
「人生は短く苦しいものですから、好きなことはなんでもするといいんです。
スポーツでも音楽でもなんでもいい。僕は子供の頃からやんちゃで球技ならなんでも好きでした。それほど一つのことにのめり込むタイプじゃないんです。だから一位にしようとして、僕に厳しい特訓を強制しようとしてもだめですよ。僕はそれぞれの成績はそれほどよくはありません。でも全部足すと一位になるんです。今の僕の演技や歌はそれぞれ”最高”じゃないけれど、綜合成績はいいでしょう?」
 
最近2年間で任賢齊はオフロードバイクレースに出場し、実戦経験を積んだ。
プレッシャーはあるけれども、アマチュア選手としてはなかなかの成績をおさめた。

「僕はバイクレースが好きですね。自動車は車体の改造とかあって、面倒じゃないですか。時間がないし、仕事の関係で怪我はできないので気をつけてやってます。4日間のレースがあって、日本や韓国、タイやマレーシアから来た選手たちは僕が芸能人だということを知っていました。僕は初日に一位だったんです。二日目はみんな見る目が違ってましたね。
 
それから選手が転倒して何度か怪我をしたのを見かけて、ゆっくり行こうと自分にいいきかせました。タイやマレーシアでのアジア大会は面白いのですが、ものすごく辛いです。前回、マレーシアの3日間で2000キロあまりを走破するというレースは、朝は太陽が輝いていても、昼には大雨が降るという状態で、これは大きなチャレンジでした。ラリーは人間の意志や忍耐力の訓練になりますよ。」
 
◆◆ 転倒
 
最も辛いことは、リッチーは忙しすぎて練習する時間がないことだった。
過去二年間でバイクに乗る唯一の機会は、競技の時期だけだった。ある人はこんなに勇気があるのに、なぜグランプリに参加しないのかと尋ねた。

「今の仕事の状況からいって、指定されたコースを、全員が戦闘的になって一分一秒を争って走るという、その種のストレスは受けいれられないんです。
ラリーはゆっくり地図を見ることができます。前方に何があるかもわからないし、速く運転しても、道に迷いやすいし、怪我をするので、僕は良く見てゆっくり走ります。これは速さを競うばかりでなく、知力も競うものなのです。
 
川を渡るときは、まず深さを測り、問題ないとなって初めて渡るようにして、間違いを犯さないことを保証しているんです。これは当然人の性格を反映します。
前に何があるかわからないところに挑むのは好きです。以前はグランプリにも参加したことはありますが今は許されません。いつかマカオのレースにも参加したいです。
  
いつも注意深くしているので、競技第一にしてみたいけれど、こんなわけでチャンスを失うことが多いんです。ラリーは一日中かかりますが、ゆっくり走れるし、行きたいルートを好きなように走れますからね。」
 
リッチーは、レースに参加することは、精神的に休まる一つの休暇とみなしている。
 
「僕の仕事はストレスが大きいし、競争も激しいので、別な世界で一つのことに打込んでみるのです。さもなければ、僕は混乱してしまうだろうし、ときどき自分に注意を促さなければならないのです。」
 
このあいだのマレーシアの山岳地でのレースは、霧がひどく、視界が悪かったので、木材運搬のトラックにどしんとぶつかり、転倒してしまった。
 
「その時は死ぬほど痛くて、すぐに身体と頭をさぐってみたけれど幸いにも骨折はしていなかったんです。全身が痛みましたが、レースは続けました。でもとてもゆっくり走りました。
 
深夜、200キロあまりの山道を走るのは確かに容易ではありません。
そのとき、ある日本の選手は二日間も行方不明になりました。
ヘリコプターが出動して、やっと路肩に停めてある車を発見したんですが、彼は木の上にいました。彼は地図を見誤って、しかも虎に遭遇したのだそうです。恐いですよね。ジャングルではなんでもありです。
 
あるときは大蛇が目の前を横切っているのを見て、びっくりしたこともありますよ。こんな事もありますが、もう少し細心に、大胆にも注意深くも対処することができるのです。競技がいつあるかがわかったら僕はまずマネージャーに休暇の時期を知らせるだけです。
 
台湾では何度もレースに出場したことがあります。国際大会はマレーシアとタイで参加しました。子供の頃からレースに参加しはじめましたが経験を沢山積んでから国際大会に臨みました。準備が不足していたらプレッシャーも大きいですから。」
 
『星願』は韓国でも上映され、ヒットした。任賢齊は韓国でも人気があって多くの芸能人が彼のことを知っている。去年のタイの大会では、ある韓国の芸能人はリッチーと腕比べしたいと言ったそうだ。
◆◆ 一生の大事
 
今、任賢齊がもっとも参加したいと思っているのが、一万キロ以上を一ヶ月かけて走破するパリ・ダカールラリーだという。
 
「でも、僕はバイクの修理ができないから、途中で故障したら、天を仰いでもどうしようもないでしょう。修理をマスターしたくても時間がありません。
協賛企業をつのってもアジア地区ではなかなか難しいのです。
実際に経済的メリットがあるマカオグランプリとは違いますからね。」

長年つきあっている女性との愛情のゴールは、もう一つの難しい願いである。
なぜなら彼はあまりにも忙しすぎるのだ。

「家に帰って両親に会う時間さえないんです。遅くても人生の一大事は真面目に考えなければなりません。僕と彼女は自然に今日までやってきました。お互いに大切に思っています。今後の人生がどんなふうになっていくかそれはわかりません。だから安定した感情は自然に注意深くつないでいきたいです。

僕は仕事の為に家庭をかえりみる時間がないというのは嫌です。
数年前北京で撮影をしていたときは、半年も家に帰ることができませんでした。部屋に帰ってみると、盆栽が枯れていて、ベッドは出かけたときのままでした。彼女はバイヤーをしていて、イタリアのミラノを行ったり来たりしています。みんな忙しくて、どうやって一緒になれるというんです?
 
考えるだに恐ろしいことですね。僕は自分の子供の成長過程を見逃したくありません。だから結婚の条件は仕事が安定して、奔走する必要がなくなることです。今年33歳(原文まま)ですが、まだ考える時間があります。
体力があるうちに子供と一緒にサーフィンをしたりバイクに乗りたいですね。そうじゃないと50歳の頃には動けなくて、そうなったらすごく残念ですよ。」

資料提供:さゆりさん