明日報 2000年8月1日

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【任賢齊:僕の2000年の半分はコンサートツアーにささげた。】  
 
  

(2000年のコンサートツアー中のインタビュー記事)

忙しい!忙しい!任賢齊はコンサートツアーのために、もう2ヵ月も
家に戻っていません。忙しさのあまり、家の電話線を切られたことや
台北市が実施し始めた新しいゴミ分別のしかたさえよくわからない始末。

あまりにも多忙な任賢齊は、1日午後、つかのまの午後のお茶の
時間を利用して各マスコミの記者たちと話をし、2日、彼は終日MVの撮影、
3日朝8時にはまたマレーシアに飛びます。
マスコミが小齊とのアポイントをとりたくても、どんどん難しくなって、
その難易度は、ハリウッドの芸能人のインタビューにまさるとも
劣らないほどではありますが、彼の上品で礼儀正しい優しい態度が
あいかわらずであることに、安堵するのでした。
  
Q:今回の(中国)大陸でのツアーはそろそろ2ヵ月になりますが、なにか
目新しいことはありましたか?


A:総統就任のことがあって、本来なら台湾歌手が大陸へ行くことは
普通のことなのに、今は大変敏感になってきたようです。僕たちは
どこへ行っても、「張恵妹が(台湾の)国歌を歌った」ことについて
質問されました。(訳者注:当時、大陸でも活躍していた張恵妹(台湾の
歌手)が台湾国歌を歌ったというだけで、彼女の大陸でのコンサートが
キャンセルになるという事件があった。)
主催者側が中国の役人から事前に会議を開くように言われて
(コンサートの)活動主旨などを説明してはっきりさせて、やっと
許してもらうなどということもありました。でも、コンサートツアーは
文化交流ですから、全てのプロセスはかなり順調にすすんだほうだと
思います。
 
Q:中国のファンはとても情熱的だそうですが、困ったことはありま
せんでしたか?


A:困るくらいがいいんですけどね。コンサートがないときに
僕はほとんど一日中ホテルの部屋にいて、壁をみつめてぼーっと
してました。あるときどうしても外出しなければならなくて、
帽子をまぶかにかぶって、二人のボディーガードに僕と同じような
格好をしてもらって、人の目を欺いたこともありました。

最初は、二人のボディーガードが僕の左右の部屋で寝ていたんですが
後からホテルの部屋がすごく広いので、そこに1人でいるよりも
いっそのこと一緒に泊まろうということになって、誰か来ても
僕のかわりに応対してもらえるようになりました。

実際、熱心なファンたちは、僕がホテルの何階に泊まってるのか
聞いて来て、僕の部屋を包囲するんで、出入がすごく大変でした。
みんなで食事しに外出するときも、僕はスタッフと一緒に行け
ないんですよ。レストランで人目をひいてしまったら、彼らも
食べられなくなりますからね。

だからいつも、テイクアウトの料理をホテルで食べていました。
地方の名産では、天津の狗不理包子がとても有名ですが、
僕も食べましたよ。すごく美味しかった。でも、テイクアウトだから、
残念ながら食べるときにはもう冷めちゃってたんですけどね。
 
Q:今年の初めに映画撮影をはじめて、それからすぐ大陸で6回の
コンサートを開き、長いこと台湾に戻っていませんよね。


A:今回大陸に来てからほぼ2ヵ月になります。帰ったときに
電話線が切られたことに気がついたんです。台北で始まった新しい
ゴミ収集についてもよくわかりません。だんだん家が遠くなる感じですね。
彰化の実家にはもう2年も帰ってません。このあいだは、車を運転して
道に迷ったんですよ。たくさんの新しい道路や建物があとから作られて
頭がくらくらして方向を見失ってしまいました。
 
Q:今回、阿牛、光良と「流浪漢」合同アルバムを作りましたが
流浪漢を結成した理由を教えてください。


A:みんな「流浪漢」の顔がわからないと思いますが、
(訳者注:宣伝用の写真では、流・浪・漢のそれぞれの文字を
一文字ずつ書いたボードを持って3人がそれぞれ顔を隠している)
実際は宣伝写真の偶然の発想なんですよ。僕たち3人は
映画「夏日的麼麼茶」で一緒になって、「浪花一朶朶」を作りました。
会社が撮影中の空き時間に宣伝写真を撮るというので、僕はサーフィンを
したいと言ってたのに、あんなふうに阿牛と光良を水につけちゃ
ったんです。

ビーチで撮影していたとき、日差しがきつかったので、3人は
顔をさえぎるのに不自由していたところ、会社のほうが「わたしは
誰でしょう」の企画をひらめいたんです。「流浪漢」の名前がつく
前に、「浪花三兄弟」の類の選択もあったんです。でも
ぼくたちは住所不定の「流浪漢」のほうが自分たちの実際の生活に似てると
思ったんですよ。
  
Q:「夏日的麼麼茶」を撮影したとき、鄭秀文はあなたのことを誉めて
いましたね。


A:(おじぎの動作をして)とんでもございません。仕事に対して
いつもと同じに真面目にとりくんでさえいれば、芸能人は心から
お互いを尊重すると思います。大物であることをひけらかす俳優とは、
互いに本当に共鳴しあうことはできません。サミーのような敬意をもち、
思いやりのある仲間に遭遇するのは、嬉しいものです。
どう言ったらいいかな。この感覚を形容するのはすごく難しいのだけど
僕はすごく幸運だと思います。本当に。
  
Q:北京のコンサートでの莫文蔚との親密なパフォーマンスがあって
結婚式のような一幕の演出もありましたよね。あれは彼女のペースに
ひっぱられたのですか?


A:一緒のステージに立っているとき、同じある種の感情を共有する
ことがあるんです。客席の熱狂する観客たちや、ステージの歌手が
抱き合ったり、元気付けたりするのは普通のことで、抱き合うことは
別に変じゃないですよ。コンサートのとき昇哥(ボビー・チェン)と
よく抱き合うでしょ!あれは自然な動作ですよ。

莫文蔚は同じ会社で、よく縁があるんです。年末の彼女のコンサートには
伍佰たちもきっと参加すると思うんですが、もし僕も時間があったら
応援に行きたいですね。(しかし滾石のスタッフによれば、その頃は
小齊は録音やシンガポール方面のコンサートで、それは難しいとのこと)
  
Q:今回大陸のマスコミと頻繁に接触していたようですが、彼らについて
どう思われますか?


A:大陸の記者のインタビューは、一定の順序に従っています。つまり
事前に計画があって、それに沿ってひとつひとつやっていくという。
聞きたいことを聞いてしまうと彼らは満足して帰っていきます。
実際、彼らの競争は激しいんですが、それは文章の善し悪しというより
自分自身に対する、どこに位置づけられるかという事に対する
一種の競争のような気がします。
  
Q:今回のツアーで最も忘れがたかったのは天津のコンサート
だったそうですね。


A:6回の公演それぞれ、観客のみなさんはとてもすばらしかったです。
でも、天津のステージでは、大雨にみまわれて、本当に台湾のここ
数日の天気と同じくらいでした。3万人あまりの観客はみんな帰ら
ないんです。警備の人たちもみなさん雨具すら使わずに、現場の
秩序維持をしてくれました。

あの時は、久々の雨で、乾ききった地下や地上にあっというまに
1センチくらいの水がたまりました。外の車はエンコしちゃうし
ステージのたくさんの器材は動かなかったり水に浸かって壊れそう
でした。この時の経験はすごく印象が深いですね。それから観客と
いうのは、本当にすごく熱心だということがわかりました。
彼らはいつもサインをほしがるものですが、結局は僕の服が
全部彼らのサインで埋め尽くされるんです。彼らは自分でペンを
執って、僕のそばにつめかけては、僕の服に痕跡を残そうとして
サインをするんですよ。(訳者注:さすが大陸。。。やることが
一味違う〜。歌手にサインをもらうんじゃなくて、自分のサインを
歌手の服にする。。。発想がスゴイ!)
  
Q:ほぼ半年ほど、ずっと忙しかったわけですが、長い休暇は
欲しくないですか?もし休暇がとれたら、何がしたいですか?


A:休暇については、できるだけ考えないようにしてるんですよ。
もし休めたら、サーフィンをしたいですね。台湾だったら、宜蘭海岸
とか、巴里島に船をチャーターしてサーフィンに行きたい。
この種のスポーツは健康的ですし、大自然に近づけるでしょう。
以前やってたバイクみたいに騒音がないし、海と一体化するみたいな
感じがするんです。

なぜかわかりませんが、サーフィンは一種の哲学的な感覚を感じます。
サーフィンでは沢山の友達がいます。72歳や65歳でサーフィンを
始めたばかりのお年寄りが、40代の息子をつれてビーチに練習に
来ています。彼らはとっても上手で感動的ですよ。
  
Q:次のアルバムの計画はツアーの後になりますか?

A:今のところ、録音の段階です。でも、8月9月に香港と広州で
ツアーがあって、11月はオーストラリアとシンガポールです。
順調に行けば11月にはニューアルバムが出せるでしょう。
今本当にだんだん分かってきたのですが、事業というのは
僕一人のものでなく、みんなのチームワークでできるものなんですよね。
僕一人が停滞するとみんなに影響して、背負っている使命感が
だんだん重くなってきました。

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#2000年7月時点でのスケジュールです。↑実際のところ当初の計画とは随分異なりますね。