二度と起こしてはならない
 私の戦争体験ーインパール作戦
                   舎人5丁目ー宮田勝喜

昭和16年12月真珠湾攻撃のあと19才のとき志願兵で入隊し広島からクアラルンプ―ルへ

移動し一年間下士官候補として学校で訓練を受けた。きつかったのは小銃をもって横に延ば

して立たされる事だった。整列しているときサソリがはいよっくるのもまいった。

一年のうちに食中毒が三度あった。だいぶ死んでしまった。腹が減るからだされたものはすべて

食べた下痢がひどかった。銃剣術は二段だった。 所詮、この戦争では死ぬのだろうと思っていた。

 朝から晩まで殺すか殺されるかというぎリぎりの緊強が強いられていた。

 今でも、街角のむこうに人影が見えると自分をねらっている敵兵だと恐怖に取り込まれるのです。 

ラングーンからマンタレ―、さらにインドに近いアキャブヘ進んだ。インドからビルマやさらには中国

への英軍の進軍をくい止めるためだった。 ここでは、飛行機と砲撃で徹底的にたたかれ半数が死んだ。

 今日死ぬか、明日死ぬかという日々だった.死んだ戦友の右腕を切断する。持ち帰って、

火葬にし国へ遺骨を送るためだ。多いときには十二本背負ったことがある。食料は現地調達、

草、カエルを食べることが多かった。水も困った。コレラがはやった。戦友がコレラにかかりみるみる

痩せていった。四日間担いで歩いたが死んでいった。

 軍隊で時折、芸能大会があったが、そこでは反戦の歌が公然と歌われた。「人の嫌がる軍隊へ

志願で出てくるバカもある。」 戦争はいやだとみんな考えていた。(後ろから銃弾が飛んでくる)

などの雰囲気もあってか上官も気を使っていた。日本の本土にあった軍隊とは全然違う。

 撃ち合いがはじまる時の緊張と不安は大変な重圧だった。気が狂って壕の上に飛び出し仁王立ち

になって、蜂の巣のように死んだ兵もいた。突撃前の30分は何年ものような長い時間だった。

 わたしの戦傷は二度ある。右上腕の裏から銃弾が貫通、骨折した。止血は自分でた。

キズにはウジかわいた。それを取るのが大変。土の中からミミズを引き抜くようにもぐりこんでいる

ウジをほじくりだすのだが食いついていてはがれない。「ちかちか」とウジにかじられしていつも痛んだ。

しかし、ウジが膿を食べて傷口をきれいにしてくれていたのだ。そんな負傷でわたしは、引き金を

引けなくなって、左手で手榴弾を投げるようになった。幸い歩行だけは出来たので助かった。

 食料や水の補給はなく、マラリヤやコレラ、赤痢で歩くのがやっとの状態だった。 一つの山系を

超えるのに二十日位はかかる。チークの大きな木のまわりに飢えた負傷兵がどういうわけか

フラフラ寄っていく。 そしてうじのわいた死体が折り重なる。生き残った兵は死者の背嚢を斬り、

靴をはぎとるのだ。それをしなければ、自分の死があるからとはいえ悲惨な光景だ。

 自決命令・射殺ー収容班が執行

二週間ほどすぎた頃上部から一人で行動できないもの(担架の隊員、松葉杖をつく兵にも)自決命令

が出た。撤退が手間取るためと戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」のためだ。「自決しろ」と言われ

鉄砲を取り上げられ手榴弾を手渡される。
「いやだまだ動ける、動けるまで動く」という兵は「収容班」が陰から撃ち殺す。古年兵で「収容班」が

編成された。新兵だと敵であっても人がなかなか殺せないからだ。近い距離から射殺すると、ボンと銃声

がこもった音がする。また誰か殺されたとわかる。病気、怪我した兵のほとんどは二つの山脈で殺され、

死体は、谷底へと落とされた。イギリス軍に殺された兵士より餓死したり、自決させられ兵士の方が

多かったと戦記は述べている。メイクテーラの野戦病院では患者が互いに殺し合った。軍医が注射で

薬殺もしたと聞いた。わたしの同年兵は三六名いたが三名しか生き残れなかった。

 生き残ったのはたったの三名ー

戦友とは会わない戦後、戦友とは会う気がしない。担架に乗せられ助けてくれと叫んでいた友人を

置いて撤退した.白兵戦の直前「おふくろさんが来ている」と怒鳴りながら飛び出して蜂の巣になって

死んだ旅館のせがれ、山砲をばらして背負って山越えするとき、深い崖へ滑落していった幾人もの兵士

たちなど置き去りにしてきたことがいまも重くわたしのこころにのしかかっている。

 だが、戦友が顔を会わせれぼ手柄話になってしまう。だから、わたしは戦友とは会わない。

 

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